ジョセフ・ヒース「哲学者がキャンセルカルチャーを懸念すべき理由」(2024年1月25日)

本エントリでは、現在哲学の分野で広く実践されていると同時に、公共の場での議論の構造的変化によって脅かされている学問的実践の一部に注意を向けたい。

この数年、哲学の同業者たちが、オンライン上での流行りに飛びついて、様々な事柄について自身の考えを述べた学者を罰したり、脅そうとしているのを見て、私は驚き、失望してきた。少し上から目線に聞こえるかもしれないが、哲学者がこうした行動をとっているのに驚いていることを認めざるを得ない。ソクラテスの裁判と死を描いたプラトンの対話篇を最初に読んだとき、私は自然と、アテネの市民裁判官たちではなく、ソクラテスの側に感情移入した。哲学研究者のほとんども同じように感じるか、似たような原体験を持っているものだと思い込んでいた。だから、同業者の多くが、自身の考えを語ったことで糾弾されている哲学者(当初は男性が多かったが、最近は女性もいる)の側ではなく、市民裁判官の方をこぞって真似ようとしているのを見て驚いたのだ。

こうした行動の多くは、所属機関からの解雇を要求するのではなく、その人の1日を台無しにしたいだけなら、オンライン上での集団いじめに飛びついても構わないという信念に基づいて行われているようだ。自分の政治的見解は大学において優勢な左翼のコンセンサスと完全に一致しているから、自分が叩かれることはないだろう、という感覚がこうした信念を助長していることが多い。結局のところ、出る杭が打たれているのであって、「政治的に正しくない」考えを持っていないならキャンセル・カルチャーについて心配する理由はないはずだ(そしてもちろん、政治的に正しくない見解を持っているなら、問題なのはそのような見解の「正しくなさ」であって、行き過ぎたキャンセル・カルチャーではないのだ)、というわけである。以前のエントリ〔邦訳はここで読める〕で、このように政治的観点からキャンセル・カルチャーを理解するのは誤りだと私は主張した。キャンセル・カルチャーは、公共の場での議論の構造とダイナミクスが変化したことで生じている。そのため、キャンセル・カルチャーの影響を全く受けないで済むような実質的な政治的立場はありえない。

この点を強調するため、本エントリでは、現在哲学の分野で広く実践されていると同時に、公共の場での議論の構造的変化によって脅かされている学問的実践の一部に注意を向けたい。私の印象では、今までのところ、大学内でイデオロギー的同調が高まる中、哲学科はドグマティズム(教条主義)から逃れた一種のオアシスであり続けてきている(私の同業者の多くは、この点で寝ぼけているように思われる。教育者があらゆる立場について賛成の議論も反対の議論も提示すべきだという考えは、哲学の教育実践にあまりにも深く埋め込まれているので、多くの哲学者は、事態がどれほど教条主義的になってしまっているのかを理解できていないか、それを認識することに困難を覚えているように見える)。そのため、このことを実感してもらうために、哲学という分野に広く見られる規範の中で、新しいコミュニケーション環境によって脅かされているものをいくつか挙げてみたい。

以下で述べるもののいくつかは、同業者の中で最も政治的に正しい部類の人すら、現在の事態が行き過ぎていることに同意するほど明白なものだ。例えば、子どもがJAQ off(just asking questions) [1]訳注:「just asking question」(単なる質問)と「jack … Continue reading と呼ぶような質問に関して、哲学では非常に高いレベルの寛容さが制度化されていることを、ほとんどの哲学者は認めている。そのため、こうした寛容さを排除しようとするオンライン文化での動きは、哲学という分野にとって直接的な脅威である。「ヴィーガンであると同時にプロチョイス(中絶権利擁護派)であることは、あなたの中でどう両立しているのですか?」といった質問は、オンライン上では荒らしに見えるだろうが、哲学においてこうした質問をすることは完璧に理に適っている。同様に、DEI(多様性、公平性、包摂)を掲げるプレゼンに出てくる主張に反論したくなる衝動を「ホワイト・フラジリティ」(白人の脆さ)の現れと見なそうとすることは、ほとんどの哲学者にとって度を越したものに映る。議論する権利は、あまりにも哲学という分野のDNAの一部となっているので、そうした行動を禁じたり、病的なものと見なしたり、罰したりしようとする人が出てくれば、ほとんどの哲学者はそれを自身の仕事への脅威と認識する。

ダンス議論できないなら、私はあなたたちの革命に加わりたくない – エマ・ゴールドマン

だが、文脈崩壊(context collapse)の現象 [2] … Continue reading によってもっと微妙なタイプの困難が生じている。哲学者は、哲学という分野内部の規範からすると全く問題ない発言が、外部の人々に晒されて敵対的な反応を受けることに、非常に脆弱である。哲学者の中では広く普及しているが、公共の場の議論では尊重されていない(それゆえ、哲学者をキャンセルのリスクに晒す)規範が、少なくとも3つあると私は考えている。

1. 道徳的・政治的問題の議論における感情的中立性(affective neutrality)。哲学者と一般の人の主たる違いの1つは、一般の人のほとんどにとって、議論の分かれる道徳的・政治的問題を取り乱さずに論じることが非常に難しいということだ。一方、哲学者は概して、なんらかの命題を心の中で思い浮かべることと、それを肯定することを区別している。そして、そうした命題を心に抱いた際に普通持つような感情的反応を引き起こさずに、仮説的な態度で様々な問題を論じることができるはずだ、と考えがちだ。そのため、哲学においては、道徳的に込み入った問題を論じる際に(不愉快な結論について考える際ですら)、感情的に中立なスタンスを維持するという伝統が存在する(道徳哲学や政治哲学の入門授業を教える際、教員がこのことを忘れて、様々な恐ろしいシナリオを愉快な調子で披露してしまうことがある。これによって、学生の多くは忌避感を抱く。学生は、その議論の〔楽しげな〕感情的トーンから、教員はその問題に真面目に向き合っていないと推察するからだ)。

こうした例はたくさんあるが、ここでは1つだけ取り上げたい。ロバート・ノージックが、後に有名になったシナリオを語る際の砕けた調子を見てみよう。

ある人が第三者を持ち上げて、深い井戸の底にいるあなたをめがけて投げ捨てたとする。この第三者は無実だが、同時にあなたにとっては脅威だ。第三者がそのままの軌道で落ちることを選べば、〔あなたにとっては〕攻撃者となる。第三者は、あなたの上に落ちてきても死ぬことはないとしよう。あなたは、その第三者が落ちてきて自分が殺されてしまう前に、第三者の身体を光線銃で分解してもよいだろうか?(1974, 34)

この例は実に陰惨だが、膨大な哲学研究を生み出してきた(もちろん、そうした研究の中には、この例をさらに奇抜にしたバージョンもある。例えば、「第三者の脚だけは銃で撃つことができ、それによって落下の衝撃が致死的なものにならないようにできる、としよう」とか)。しかしこの文章を読む哲学者のほとんどは、こうしたジャンルに慣れ親しんでおり、この例の暴力的な側面は単純に無視して、ノージックが指摘しようとした論点(自身に危害を加えようと意図しているわけではない人に対して、自衛のために致死的な暴力を加えることは許されるか)に注意を集中させる。ノージックがこのような、ちょっとありそうにないシナリオを考えなければならなかったのは、一般的ではない状況を扱おうとしていたからだ。だが、こうしたシナリオを提示することの目的は、認知的な判断を引き出すことであって、感情的な反応を引き出すことではない。

このような仮想的シナリオに基づいた(vignette-based)アプローチをとる道徳哲学は、不朽のものでも永遠のものでもなく、戦後のオックスフォード分析哲学の文脈において発展してきたものだ。この手の哲学は当初、大陸ヨーロッパの人々を不快にさせた(道徳的真剣さを欠いている、というのが主たる理由だった)。しかしそれ以来、分析哲学は、批判者もいるとはいえ、多かれ少なかれ世界を征服した。学生たちはますますある種の言葉に〔好ましくない感情を〕「トリガー」されやすくなっているため、教員たちは無闇に人を動揺させる例を用いることに慎重になってきている。それでも、感情的中立性というポイントは重要であり続けている。奇抜な例を全く持ち出さずに哲学を行うのは可能かもしれないが、議論の余地ある問題を感情的に中立的な仕方で論じられないなら、いったいどうやって哲学を行えるのか理解するのは難しい。

チャンドラン・クカサスの例を考えてみよう。クカサスは、ジェノサイドは通常思われているほど悪くはないという見解を提示した。ここでは、〔ノージックのような〕おかしな例は全く用いられていない。発言のトーンも厳格な道徳的真剣さを持っていた。同時にクカサスは、議論のどちらの側に対しても完全な感情的中立性を保っていた(例えば、「あなたの記述に沿うようなジェノサイドの例を挙げることはできますか」)。尋ねられれば、クカサスは哲学の規範を完璧に体現した人物だと私は答えるだろう。同時に、クカサスが擁護している立場は、カナダの公共的な議論の場においては非常にデリケートなもので、公開討論会でそのような発言をすれば容易にキャンセルされ得る。なぜか? 人々はジェノサイドが話題になるとひどく動揺してしまうので、クカサスのように、自分の立場を慎重に提示して、自分が何を主張しており、何を主張していないのかを明確に示しても、あまり意味がないからだ(誤解のないように言っておくが、このパラグラフの最初の文章ではクカサスの立場を戯画化している。クカサスが実際に問うているのは、ジェノサイドは殺人を超えた特別な害となるのか、ということだ)。

哲学を生業にしている人の多くは、時が経つごとにこうした感情的中立性を当然視するようになる(クカサスのインタビューが全く平凡なものに思えてしまうほどに)。こうして哲学者は、自分たちが論じている見解の多くが、一般大衆からするとどれほど掟破りなのか忘れてしまうのだ。例えば、表現の自由に関するジョン・スチュアート・ミルの議論について教えたことのある哲学者は、トム・フラナガンがキャンセルされた件で動揺したはずだ。フラナガンは、児童ポルノに関するかなり標準的な哲学的見解を表明しただけである。児童ポルノの法規制を支持する標準的な根拠は、児童ポルノの制作において生じる危害である。フラナガンが考察しているように、この根拠を採用すれば、現実の児童にいかなる危害も加えないポルノの制作を禁止することは正当化できない。この問題は、これまで以上に議論の余地あるものとなっている(個人で利用するために、AIの画像生成を用いて一時的に児童ポルノを制作し、その後画像を持ち続けるわけでもないという人に、私たちは何と言うべきだろうか?)。だが、録画されYouTubeに60秒の動画として公開されるという状況で、こうした問題について論じるのは難しい。

2. 他人の議論を再構成して提示すること。古き良き古代ギリシャの時代から、哲学者は「レトリック」よりも「論証」に関心を持つ者だと自任してきた。これは哲学の様々な学問的実践に反映されている(例えば、相手の立場の「藁人形」に対して見せかけの勝利を収めるのを避けるための入念な努力など)。それゆえ、哲学教育の最も基本的な構成要素の1つは、ある立場を批判する前に、自分がその見解を正しく理解していること、その見解が真剣な考慮に値することをどのように示すべきか、について学ぶことである。哲学の教員が学部生にレポートを書かせる際、論証についての自分の評価を書く前に、その論証の説明を長く行うよう指示するのはこのためだ。ほとんどの学生はこれを自然には受け入れられず、すぐに反論に入ろうとしてしまう。批判するのを我慢して、自分が同意しない見解を、完全かつ共感的な仕方で提示しなければならないという考えを受け入れるには、多大な自己規律が必要で、概して数年間の訓練を必要とする。

そのため、哲学者の間では、自分が実際には支持していない見解を「再構成」して提示するのにかなりの時間を費やすのが非常に一般的だ。実際、研究発表やカンファレンスの前半が再構成の作業に費やされるのもそう珍しいことではない。哲学者の多くは、かなりの熱意をもってこうした実践に取り組んでいる。再構成を行うに値するような立場は大抵、理に適ったものだ。そのため、再構成することでその議論の筋道を掴めば、その議論が導く結論を拒むのは難しくなり、その立場を支持しているように聞こえてしまいがちである。ある立場の内的整合性を認めて、そのことをオーディエンスに伝えながら、同時に自分は(最終的には)その議論を支持しない、というのはあり得ることだ。だが、これは一定のリスクを生み出す。文脈崩壊が生じている状況では、ネット上のオーディエンスが注意力を保てるスパンが短い(あるいは動画が好意的でない仕方で編集される)ことも相まって、自分が実際には受け入れていない立場を支持していることにされてしまうのだ。ダニエル・ウェインストックはまさにこうしてデプラットフォーミングされた〔すなわち、パブリック・フォーラムから追い出された〕。ダニエルはカンファレンスで、広範な議論において1つの立場を述べただけだったが、その発言が切り取られて、実際には支持していない見解を支持していることにされてしまった。これは間違いなく、どんな哲学研究者にも起こり得ることだ(ダニエルは批判に対してきちんと応戦できていたが、それはこの経験が非常に悩ましいものでなかったということを意味しない)。

3. 用語の規約的定義(Stipulative definition)。哲学は、その学問的営為の中核にある「論証」に対して、ちょっと偏執的なまでの関心を持っているため、用語を定義することにも重きを置いている。推論を辿るには、主張者がその主張を行う上で、何にコミットしていて何にコミットしていないか、をハッキリさせることが不可欠だ。そして、コミットメントを明確にするには、用語をどのように用いているかを明確にしなければならない。用語の明晰な使用の要求は、一定の責務(obligation)と資格(entitlement)を生み出す。私たち哲学者は責務の方に注意を向けがちだ。哲学は曖昧さや多義性に対して寛容ではないので、重要な用語の定義を示すよう、哲学者は常にプレッシャーをかけられている。だが哲学者には、用語の規約的定義を行う広範な資格が与えられているという点も重要だ。そのため、「X =def Y」〔XはYと定義する〕と言えば、続く論証においてXはYを意味するし、そこから導かれる推論にのみ主張者は責任を負う。とりわけ重要なのは、他の人がXという語をZという意味で用いているとしても、その事実は主張者の論証にとって関係ないものになることだ。

繰り返すが、哲学者はこうした学問実践にあまりにも慣れていて、それを当然視してしまっている。しかしこれは極めて不自然な実践でもある。実際、学部生のレポートで最もよく見られるミスの1つは、レポートで検討対象としている議論の書き手が、用語を非常に統制的・非標準的な仕方で用いているときに生じる(例えば、「欲求」を「世界から言語へ、という適合の方向を持った命題的態度」として定義している場合など)。学生は、書き手の行っているこうした定義を引用することもあるが、その定義を維持したまま議論を続けることができず、数ページ後には日常的用法でその語を使い始めてしまう。用語の奇妙な定義を受け入れ、推論の複雑な網の目を辿ってその〔論理的〕帰結を追うためには、非常に高度な「認知的デカップリング」が必要となる。その能力を獲得するには、数年間の訓練が必要である。

少し前まで、私はこれを哲学者の特殊技能とは考えていなかった。考えが変わったのは、数年前、ポール・ブルームの『反共感論』について、著者と批判者を交えてセッションを行ったときだった。私は最初の発表者だったので、まず「かっかする前に、ポールが『共感』という語を非常に特殊な意味で用いていることを認識しておくべきです」というようなことを言った。次に彼による「共感」の定義を示して、ちょっとした批判も行ったが、セッションの残りの部分は彼がどんな定義を行っているのかに関しての誤解なしに進んだ。しかしその後、ポール(彼は心理学者である)は私に、セッション全体が自分にとっていかに奇妙だったかをこぼしてきた。彼にとってこのセッションで最も異常だったのは、オーディエンス全体が彼の(やや直観に反する)「共感」の定義をそのまま受け入れて、それを基に彼の主張について議論を進めたことだった。ポールによると、心理学の場合、オーディエンスはセッション全体を通じて彼の「共感」の定義に異議を投げかけ、彼が共感というものを誤解しているという旨の主張を行うのだそうだ。ポールは、自身の「共感」の定義を静かに受け入れて、その定義から導かれる議論に関心を絞るようなオーディエンスに遭遇して、好ましく思うとともに奇妙に感じたのだ。

哲学者は用語の使用に関して、互いにかなりの柔軟さを許容しあっているが、言うまでもなく、一般の人々はこの態度を共有してない。このことが最もよく表れているのは、キャンセルの標的となった人の自己弁護に対する人々の反応である。キャンセルの標的となった発言者が、自身の発言の意図していた意味内容を明確にすることで自己弁護しようとする試みは、驚くほど上手くいっていないのだ。文脈崩壊は、他人の発言を悪意を持って解釈したがる人々が大騒ぎできる絶好の機会だが、発言の文脈を参照して自身の発言の意味を明晰化しても、大抵はネット上の暴徒たちをなだめられない。発言の危害は、発言者の意図ではなく、発言が他人にもたらす現実の影響によって特定されるべきだ、というのが〔広く受け入れられた〕公式見解である。しかしもっと具体的に見ると、キャンセル活動の支持者たちは「意味」〔命題的要素〕と「力」〔語用論的要素〕の区別を否定しがちで、ネガティブな連想関係を持つ語を用いた発言者の処罰を要求してきた。ジョナサン・アノマリーのキャンセルにおいてはこうしたメカニズムが働いていたように思われる。彼は学術誌の論文上で、「優生学」という語を独自の定義で用いた。だが彼の行った定義は、優生学という語が「ネガティブな歴史的結びつき」を持っているとの理由で無視された。繰り返すが、これはあらゆる哲学者が憂慮すべき事態である(ジョナサンに共感する傾向にない者も含めて)。この件が示しているのは、自身の主張を慎重かつ十全に明示化しても、悪意ある解釈に基づいた攻撃に対しては十分な防御にならないということだ。

結論:強調しておきたいが、私が本稿で行ったのは、哲学という分野における規範の記述である。こうした規範に違反したり、それを濫用したりする人々は存在する。なので、いかなる行動もこの哲学の規範を通じて正当化できる、と主張しているわけではない。このエントリで挙げたのは、哲学において広く普及している学問的規範に違反した行動を取っていないのに、キャンセルの標的となった研究者の例だ。もちろん、哲学においてもルールを厳しくして、これまでは許されていたような挑発的な議論の提示の仕方への寛容度を下げるべきだ、という主張もあり得る。私が懸念しているのはむしろ、この規範それ自体が脅威に晒されており、過去1世紀にわたって哲学研究が栄えるのを可能にした討議空間を保持することが、文脈崩壊によってますます困難になっていくのではないか、ということだ。

[Joseph Heath, Why philosophers should worry about cancel culture, In Due Course, 2024/1/5]

References

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1 訳注:「just asking question」(単なる質問)と「jack off」(マスターベーション)をかけたスラング。実際には政治的意図を持ちながら、中立的立場から興味本位で質問を発しているように見せかけることを指す。例えば、「本当に疑問なんだけど、どうして黒人の暮らす地域は貧しいんだろう? 遺伝かなんかのせい?」(redditに掲載されていた例)。
2 訳注:特定のオーディエンスに向けられた発言が、インターネットなどによって(その発言を好ましく思わないような)別のオーディエンスにも届いてしまう現象。
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