アンドルー・ポター「ノスタルジーは幼年期を殺すのか?」(2024年11月21日)

「子どもの民間伝承(childlore)」は、人類が継承してきた偉大な文化遺産のひとつであり、最も長く受け継がれてきた文化遺産でもある。しかし、それは生態系として脆弱で、アルゴリズムの前に生き残れるかどうか未知数だ。

一ヶ月ほど前、小学校三年生になる娘が放課後に私のところにやってきて、紙とペンを催促してきた。「何に使うの?」と私は尋ねた。「クールなものを見せてあげる」と娘は答えた。

なので、用具を持ってきて、娘に渡した。彼女はペンを取って、タブレットの上にかがんでスケッチを始めた。何秒かたって、次のようなものを描いた。

娘は顔を上げて、すごい秘密を打ち明けるかのように、はにかんだ笑顔を見せた。「クールでしょ?」

私はただうなずくしかなかった。プライド、ノスタルジー、後悔なんかが入り混じった奇妙な感情が渦巻いて、涙が出そうだったからだ。娘が描いていたのは、かつて友人が「メタルS」と呼んでいたものだったからだ。「メタルS」以外だと、「クールS」、「スーパーS」、「サーファーS」と呼ばれていた。私が小学6年か7年の頃には、教室の半分ほどの生徒が先生のいいつけを無視して、ワークブックやリュックやスニーカーやジーンズに、様々なバージョンの「クールS」を描きまくっていた時期があった。

「クールS」は、今年の秋、娘が学校から持ち帰ってきた絶え間ないミームの洪水の一つのすぎない。9月には短い間だったが、あやとりのブームがあった。数週間前の週末、娘といっしょに校庭で犬の散歩をしていたのだが、娘は新入生から教わった雲梯にぶら下がって後ろへのスライド移動を誇らしげに披露してくれた。先日、娘とその友達と一緒に公園に出かけた時には、彼女らは歩道のひび割れを踏まないことに執心していたので、到着まで普段の倍はかかった。

妻も私も、何も教えていない。大人は何もしていない。これらはすべて、「子供の民間伝承(childlore)」と呼ばれているものの一部だ。「子どもの民間伝承(childlore)」とは、子供らの間でだけで通じる言葉で作られたゲーム、歌、韻、いたずら、なぞなぞ、迷信、儀式、その他様々なものが綯い交ぜになったものだ。「子どもの民間伝承」が普通の民間伝承と違うのは、大人から子供に教えるものでもなければ、大人が媒体になっていないことだ。その代わり、年上から年下へ、高学年から低学年へ、ある学校の子供から別の学校の友人や親戚へと、子供らの間だけで受け継がれていく。この有機的なプロセス全体が自己完結しているため、大人は自分の目と鼻の先で行われているのに何も気づいていないことが多い。

「子どもの民間伝承」は摩訶不思議なことに、どんな大人でも見れば、それだと分かる。つまるところ、誰も、昔は子供だったからだ。「子どもの民間伝承」は探し方さえ知っていれば、どこでも見つけることができる。けんけん遊びや、縄跳びは、校庭という箱庭のルールに支配されている。鬼ごっこで鬼を選ぶ際の「イーニー・ミーニー〔どれにしようかな天の神様の言う通り〕」や、「とうりゃんせ、とうりゃんせ」もあるだろう。男の子だと、野球のバッターの順番を、バットを空中に投げて高いところで掴めた順で決める。あるいは、電卓を逆さまにしてエッチな言葉を表示して互いに見せつけ合ったり、ジーンズに「クールS」を何時間もかけて描いたりする。

子供は「子どもの民間伝承」に没頭し、突如として関心を失う傾向にある。中学生になり、思春期を迎えるころには、子供間での秘密の言葉を放棄して、より公的な思春・青年期のセマフォ化された世界へと移行していく。しかしそれでもなぜか、この「子どもの民間伝承」という文化全体は、大人からの干渉や監視をほとんど受けることなく、世代を超えて存在し、永続的に続いている。

むろん、「子どもの民間伝承」という子供の閉ざされた文化の存在は、公然の秘密だ。『ナルニア国物語』から、ロアルド・ダール、チャーリー・ブラウンまで、定番の児童文学は、この文化の奥底への探求である。「子どもの民間伝承」の最も驚くべき特徴の一つが、それが非常に保守的であることだ。アイオナ・オーピーとピーター・オーピーによる1959年に出版された画期的な著作『学童の伝承と言葉(The Lore and Language of Schoolchildren)』では、マスメディアの発達はこうした幼年期の伝統をむしばみ破壊する影響を与えかもしれないとの主張を熱心に考察している。マスメディアは、幼年期の自己完結的な性質を毀損し、子供から子供へと伝えられる伝承的経路を弱体化させるのではないかと懸念されていたのだ。

オーピー夫妻の研究で明らかになったのは、心配することはない、というものだった。「イーニー・ミーニー」は1800年代初頭からあり、けんけん遊びはさらに100年以上古い。子供達は「お前の正体を見抜いたぞ。俺の正体は何かわかるか?」でお互いをからかってきた。娘が描いた「クールS」は1970年代からある。特に、校庭での歌や韻の一部は、中世にまで遡ることができる。(「リング・アラウンド・ザ・ロージー」〔西洋における「かごめかごめ」〕は、ペストの流行時の詠唱だったと広く信じられているがおそらく間違えであり、ヨーロッパの多神教信仰に起源があるだろうとされてる)。オーピー夫妻が明らかにしたように、「子どもの民間伝承」は非常に頑健で可塑性を持っており、マス・コミュニケーション技術のユビキタス(偏在)化の進行に直面しても生き残っている。

しかし、差し迫る脅威は他にもある。そのひとつは、思春期前の文化を捨て去ろうとしない若者が増えていることだ。大人向けの塗り絵、大人になってもぬいぐるみと一緒に寝ることを正当化する人、30代になっても「大人になること」について話す有り様、「大人ディズニー」なる気持ち悪い現象…。作家のジェームズ・グレイグが最近、同世代について嘆いたように、「私達は、アダルト・ベイビー(大人の赤ちゃん)世代」である。

これは、ありふれたノスタルジーを超えたものだ。今や間違いなく、文化の大部分が露骨なまでのノスタルジーの饗宴となっている。中年になった往年のサブカルたちは、自身が10代や20代の頃の音楽やミームをスプーンで食べさせてもらっている。私も、誰にも負けらないくらいノスタルジーに浸っている(なのでこのブログを書いている)。しかし、ノスタルジーの理想には少なくとも、加齢を当たり前とすること、大人になることを受け入れること、人生には段階があること、始まり・中間・終わりを受け入れることが組み込まれている。幼年期を置き去りにすることさえ拒否する若者が増えているのは、それとまったく別の問題だ。

こうした、幼児に留まることを礼賛する文化と、不道徳さ100%の子供のインフルエンサー利用現象の台頭が組み合わさって、信じられないほど悪質なものが生み出されている。アルゴリズムによる幼年期そのものへの、マーケティング、ブランディング、商品化である。

こうした事態を前にして、永続・再生産される「子どもの民間伝承」の文化が、生き残れるかどうかわからない。ともあれ、なんらかの形で生き残れるのではないかと私は思っているが、予断を許さない。他の脆弱な生態系と同じように、私達は「子どもの民間伝承」の絶滅の危機に瀕している。絶滅危惧種や、危機に瀕しているものとして扱う必要があるかもしれない。そして、多分に、大人が十全に放置しておく方法を知っているかどうかにかかっている。

娘は最近覚えた手品を見せてくれるが、そこで最も難しいことのひとつは、「もう全部知ってるよ」とタネを明かしてしまわないことだ。

これはいつもうまくいくわけではない。つい先日、一緒に歩いていると、娘が手を使って何か複雑なことをしているのに気付いた。何をしてるのかを尋ねると、「これが古い教会、これが古い教会のトンガリ屋根」と見せてくれた。少し得意気になりたい誘惑にかられてしまって、「みんな見て!」みたいに一本指をジグザグに動かすんじゃなくて、タランティーノ映画のハンドジャスチャー「殺ってやるぜ」みたいに手を開いて平らにするんだよ、と応用技を見せた。娘は気に入って、友達にも見せているのではないかと思う。

見せびらかしたい衝動は自制すべきだった。勘違いした得意気でしかなかったのだ。私は、民俗学者ダグラス・ニュートンの言葉で自分を安心させようとしている。ニュートンは、「子どもの民間伝承」研究者間で非公式なモットーとなっているような言葉を残している。「世界中にある子供達の友愛関係は最も偉大な未開部族であり、絶滅の兆しを見せない唯一のものだ」。

そうあってほしい。

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ブログの更新を長期間休んでしまい、本当に申し訳ない。決して本意ではなかった。9月になって引き受けた新しい仕事に、想像以上に手間がかかってしまい、書き手としての関心をネットに寄せるのが難しくなってしまった。その仕事は終わりつつあり、今は通常業務に戻れそうだ。話したいことがたくさんある。

[Andrew Potter,“Is nostalgia killing childhood?” nevermind, Nov 21, 2024

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