ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日)

[Joseph Heath, “The problem with “critical” studies,” In Due Course, January 26, 2018]

学部生だった頃,こんな風に思っていた――《「客観的」「価値自由」なやり方で社会現象を研究する実証主義が社会科学で蔓延しているのは世界の災厄だ.そんなものは幻想だ,というか有害な幻想だ.だって,客観性をよそおいつつ,その裏には隠れた目標があるんだから.つまり,支配しようという利害関心をもってるんだ.人々を主体ではなく研究の対象として扱うなんて政治的に中立じゃない,だってそうやってうみだされる知識ってのは,どういうわけかうまいぐあいに,まさに人々を操作し管理するために必要とされるたぐいの知識になってるもの.つまり,「客観的な」社会科学はちっとも価値自由なんかじゃない,むしろ抑圧の道具になってるじゃないか.》

これに替わる選択肢としてあの頃熱心に推奨されていたものといえば,新しいかたちの社会科学だ.人間理性の「解放的な」関心によって明示的に導かれた社会科学が「客観的」社会科学にとってかわるべしと言われていた.のらりくらりとした価値中立性をめざすのではなくて,人間の条件を改善することに身を投じ,そして探求にあたってはそういう決意を明示する.そうすることで,活動全体が方法論的に透明になる.こういうのを,ぼくらは「批判理論」と呼んでいた.

というのは昔の話で,いまはまた話がちがう.「その間に,どんなことを学んできたの?」 主に,じぶんの望むものに注意しなきゃってことだ.なんでかっていうと,ほんとに望みどおりになってしまうことがあるんだよね.

2年前に,とある書籍賞の審査員をやってくれないかと頼まれた.とあるカナダの大学の出版局が社会科学分野で出したなかからいちばんいいのを選んでくれという.それからすぐに,段ボール満杯の本が玄関口にドサッと送られてきた.本の分野は多岐に渡っていた.腰を据えてじっくり読み始めてみたら,いろんなことにびっくりした.

なにより驚いたのは,受け取った16冊のうち,実証主義が考えるとおりの「社会科学」だと伝統的にみなされてきたものに該当しそうな本がたった4冊しかなかったことだ.つまり,4分の1しか,世界に関するあれこれの事実を打ち立てて読者に提示するのを主な目標にしていなかった.これと対照的に,他の本が主な目標にしていたのは,なんらかの規範的な行動指針を推し進めようという欲求だった――典型的には,なんらかのかたちの抑圧をしりぞけようという欲求だ.つまり,そうした本の原動力になっていたのは,人間理性の「解放的な」関心だったわけだ.

こういう本の大半は,広くあれこれの「批判的」研究に分類できる.(大学業界では,「批判的」という言葉をどこかの分野の記述にくっつけて,この手の規範的な問いの旗印にすることがよくある.とくに,あれこれのかたちの抑圧に関わる問いの旗印にされる.こうして,「批判的」法学だの,「批判的」人種研究だの,「批判的」アボリジニ研究だのが次々登場してる.) こういう本の大半は,とても見ていられないような本でもある.おだやかな言い方をすると,そういう本はろくでもない.とはいえ,しかたなしに1ダースも読んでみると,そのろくでもなさに一定のパターンがあることがだんだんわかってきた.

さっき言ったように,「批判的社会科学」の志は,たんに規範的な決意に導かれた社会科学をもたらすことだけではなくて,そういう規範的な決意を明示的にすることでもある.ぼくが読んだこの手の本でいちばん大きな問題なのは,ほぼ例外なく,この後半部分〔明示化〕で失敗している点だ.著者たちは――ほんのひとにぎりの法学教授たちをのぞいて――規範的な論証をどう展開すればいいのかまるでわかっていなかった.それどころか,じぶんたちが採用しようとしている規範的な基準がどういうものなのかをはっきり述べるのを信じられないくらい忌避していた.その結果どうなるかといえば,本まるまる一冊を費やして,「ネオリベラリズム」だなんだといったものへの抵抗をもっと強めようとする.ところが,その「ネオリベラリズム」がいったいどういうものなのかは一向に述べられない.まして,それのなにがいけないのかなんてまるで示されない.

ずいぶん前のことだけど,ハーバマースがフーコーを批判する論稿を書いた.そこでハーバマースはフーコーのことを「ゴニョゴニョ規範主義」だと言って非難していた.どういうところを非難しているのかと言うと,フーコーの著作は明らかにあれやこれやの道徳的な懸念・関心にかきたてられて生まれているのに,当人はそうして傾倒している道徳的な事柄がどういうものなのか頑としてはっきり述べようとしなかった.そのかわりに,とかく「権力」「体制」といった規範的な意味合いがにじむ語彙を修辞的な装置に使って,じぶんの規範的な判断を読者が共有するよう仕向けつつ,その一方で,公式にはじぶんはべつにそんなことをしちゃいないと否認していた.つまり,問題は,フーコーがじぶんの価値観をこっそり忍び込ませつつそんなまねはしてませんとうそぶいていたところだ.ハーバマースに言わせれば,まがいものでない批判理論にそんなごまかしは無用だ.規範的な原理原則を明示的に導入して,それを擁護する合理的な議論を提示すべきだとハーバマースは論じた.

積み上がった本を次々読み進めていくと,さすがに気づかずにはいられなかった――いま開いている本を完読したときに「これは完全な駄本だったな」となるかどうかを見分けるいちばん確かな指標は,フーコー(および/あるいはブルデュー)が論じられていたりことあるごとに引用されたりしているかどうかだ.そういうのがすっかり時代遅れになっている哲学業界に身をおく人間から見ると,大学教員がいまだにまじめにとりあっているさまを目の当たりにするとびっくりする.ともあれ,この手の80年代フランス思想で著者たちが主になにに魅力を覚えているかというと,このゴニョゴニョ規範主義だ.

たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.ざっくり言えば,「ネオリベラリズムはなにか市場原理主義に関連していて,マーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンにはじまって,それ以来,公共のすみずみにまで侵入しはじめた」と考えられている.それにとどまらず,「ネオリベラリズム」は実にいろんなものを意味して使われている.(一例:政府の社会プログラムで〔受給資格を満たしているかどうか確かめるために〕家計調査をするのは「ネオリベラル」だろうか? 「ネオリベラルだ」と考える著者たちもいるし,そう考えない著者たちもいる.どちらにしても,どうしてその結論になるのか説明する人はいない.どうやら,直感で判定しているらしい――「家計調査は給付を拒否する手段なんだ」と考えるか,それとも「家計調査をすることで社会プログラムは累進的になり格差是正がはかられるんだ」と考えるかでちがってくるわけだ.ともあれ,福祉給付の申し込みにあたって書類記入が必要になるという事実だけでも,批判的研究をやっている人たちは「従順な身体の(再)生産につながる」「ネオ植民地国家(だかなんだか)を正常化する目的を推し進めるねらいである」といって非難しがちだ.

段ボールいっぱいの本を読んでみてなによりびっくりしたのは,「ネオリベラル」という言葉を侮蔑的に使っていた10冊のうち,この言葉で意図される意味についてなにかしら説明している本が1冊しかなかったことだ(興味深いことに,その1冊は,マルクス主義の視座をとると明言して書かれていた唯一の本だった).おそらくいちばんわけがわからない本は,「新保守主義〔「ネオコン」〕」という用語も定義抜きで――しかも国際関係論の意味ではなく――使っていた1冊だった.議論を追いかけてみると,どうやら著者が新保守主義をとてつもなくわるいものだと考えているのはありありとわかるし,ネオリベラリズムとはどこかちがうものと考えているのもわかる.けれど,どこがどうちがうと考えているのかはまるっきり不明だった.

こうした本を読み進めていくうちに,たぶんそれまで存在にはぼんやり気づいてはいたけれどどれだけ重要か気づいていなかったゴニョゴニョ規範主義の用語を新たに一揃い発見した.「ネオ植民地的(ネオコロニアル)」や「人種化」(つねにわるいこと)みたいに,すぐわかるものもあるけれど,「スティグマ化」みたいな用語もある.どうやらスティグマ化というのはいつでもわるいことらしい.誰か他人をスティグマ化することはわるいことだ.ときには,個別状況の分析を道徳的に少しばかり複雑にするかもしれない実証研究は,抑圧された集団にとって「スティグマ化となるおそれあり」という理由で全部まとめて脇に押しやられてしまう場合もあった(規範に関するはなはだしい混乱ぶりを示している).

ともあれ,こうした本がどうしてこういう書きぶりになっている理由はかなりあからさまなようにぼくには思える.著者たちは社会改善に熱烈な道義的意欲を覚えている――この意欲あればこそ研究プロジェクトを立てているのだし本を書かずにいられない――けれど,そうした道義的意欲を知的に擁護する方法はさっぱりわかっていない.そして,彼らが大量に読んだかつて流行していた理論は,そういう道義的な意欲の基礎について本質的に懐疑的だ(i.e. フーコー,ブルデュー).その結果として,著者たちは基本的に道徳に関する非認知主義者になっている.ことによると,道徳懐疑論者になっているかもしれない.それで,道徳的な目標に関する合意を確かなものにする方法として,修辞や対人操作の技法(読み手を限定したり) を著者たちは使い始める.これは――きっと言うまでもないだろうけど――批判理論のあるべき姿とはちがう.

この点の具体例を挙げよう.いくらか関心をもって,クリス・アンダーセンの『メティ』(ブリティッシュコロンビア大学出版局)を読んだ.アンダーセンはアルバータ大学の「先住民研究(ネイティブスタディーズ)」学部教授だ.この本は,誰がメティで誰がメティでないのかという問いに答えることを主軸にした本だ.こう紹介すると,アイデンティティ政治でよくある種類の営みのように聞こえるかもしれない.だが,この問いでは,その答えしだいで深刻な案件が左右される.というのも,カナダにいるメティのいろんなグループが国のマイノリティ権利を要求していて,一部では認められているからだ.マイノリティ権利は伝統的に「インディアン」地位〔status Indians; カナダにおけるアボリジニの法的身元〕を認められた人たちに与えられてきた(e.g. 法的な狩猟期間外でも狩猟できる,など).

ところが,メティに該当するのはどういう人なのかという問いはちょっとばかりややこしい.カナダ植民地化の初期には,だいたい200年ほどにわたって,五大湖の西地域に入れるヨーロッパ人が男性だけだった時代がある(毛皮の運び屋や毛皮の貿易商など).湖と河川が内陸部への交通を提供していたことから,そうした男性たちのうち数百名は河川部や湖畔に定住し,インディアン女性と結婚し,混血児をつくった.このため,イギリス人たちがいまのマニトバ州を出発点に本気で五大湖西部の植民地化をはじめたときには,インディアン諸部族だけでなく,混血人種のメティたちの定住集落にも出くわすことになった(彼らは有名な一連の反乱で植民地化に抵抗した).

だが,このために,「メティ」という言葉にはあいまいなところがある.「ムラート」と同じように,混血の先祖(この場合はヨーロッパ人とインディアン)をもつ人を指してよく使われる.一方,政治的に(憲法上も)関連する語義では,「メティ」は国内のマイノリティ民族集団を指す――つまり,本人たちの意志によらずカナダ連邦に組み込まれレッドリバー渓谷周辺に居住する限定された集団を指す.この本でアンダーセンが主な目標にしているのは,「メティ」のかなり限定された定義にあたる後者を擁護することだ.これもかなり議論を呼ぶところだとみる人もまちがいなくいるだろうけれど,擁護する立場としては完璧に理にかなったものだという点はぜひとも留意しておきたい.

さて,それではアンダーセンはこの完璧に理にかなった主張をどう擁護しようというんだろう? 彼が採用できた論証戦略なら,すぐに思いつくものがいくつかある.たとえば,背理法で攻める手もあっただろう.法律や憲法の論議に「混血の先祖」定義を使うことのばかばかしさを指摘すればいい.フランス系カナダ人(「古株」(de souche))には定義により混血の先祖がいるにきまっているからだ.あるいは,正面切って規範的な論証を展開してもよかった.ウィル・キムリッカが提示して広く影響を及ぼしている国内マイノリティ権利の分析から説き起こして,それから「レッドリバー流域」のメティだけがどうして国内マイノリティ集団の資格をみたすのかを示してもよかった.

ざんねんながら,アンダーセンはどちらの手もとらなかった.かわりに,人種的な先祖に関心をしぼって「混血の先祖」定義がもっと広い「植民地主義の人種化論理」の一環をなしているとアンダーセンは論じる.彼の主張によれば,人種化は狡猾なイデオロギーだ(社会的世界に関する我々の理解に深くしみこみこれを強力に形づくっている「植民的な「ハビトゥス」の観点で筆者は人種化を位置づける」(22)).だから「混血の先祖」定義をとる人々は実のところ「移住者生権力」に関与しているばかりか,植民地主義の「暴力の統治論理」を再生産しているのだという.

ようするに,アンダーセンはふつうの論証で論敵を説得しようと試みるのではなく,基本的に論敵が思想犯罪を犯していると非難している.論敵はたんに擁護の最良の解釈について誤解しているのではなく,植民地化された主体の身体に対して象徴的な暴力を押しつけている,というわけだ.あるいは,もうちょっと散文的な言い方をすると,論敵は人種差別野郎どもだという話だ.(ではメティたちはどうなのかと言えば,「混血の先祖」の意味でこの言葉を使っているマリア・キャンベル〔メティの著作家〕のように,植民地主義の論理に「誘惑」されてしまっているのだという.この人たちは許されるのだというけれど,その理由は,「カナダ社会のほぼあらゆる部門における人種化された営為の深い関係性により,彼らは先住者の主体のあり方がどのように生産されるかだけでなく我々が自己と他者をどう知るにいたるのかを強力に形成している」からだそうだ (23).)

こういう論証のやり方のどこがおかしいか,たいていの人にはわかると思う.「じぶんは X を信じる,じぶんと見解が異なるのは誰だろうと人種差別野郎だ」と言ってみても,対話の糸口にはあまりなりそうにない.それどころか,そんなことを言い出せばどんなやりとりもダメになる.ところが,アンダーセンの著作ではこれが驚くほど無駄に人の気を害している.なんといっても,彼が擁護している立場は完璧に理にかなった立場なわけで,だったら,理屈の分かる他の人たちがじぶんとちがった見解をとることもあるだろうと認めたうえで,あれこれと長短を考慮しながら自説がすぐれていると論じるのがそんなに難しいものだろうか?

もしかすると,たくみな罵倒とやりすぎな修辞が意図しているのはアンダーセンがそれ以外のやり方を実は知らないのを隠すことなんじゃないかと,ぼくは疑っている.規範的な主張をどう擁護すればいいかわからないから,アンダーセンは異論の持ち主を中傷したり脅したりする手段に訴えているんじゃないだろうか.でも,そうやって主にどうなるかと言えば,ただ読者を限定するばかりだ.じぶんと見解のちがう相手は誰だろうと人種差別野郎だの洗脳されているだのと非難するのを基本的な論証戦略にしている人物とわざわざ議論する暇なんて,多くの人は持ち合わせていない.

アンダーセンの本には,古風な難解文もたっぷり含まれている.次の一文を考えて欲しい(そう,一文なんだよこれは!):

この社会=歴史的な文脈において,法廷を特定の準-自律的かつ生成的な形態の司法権力と私は考える:法廷は目下カナダ社会において特定の権力関係を保持しているとともに,同じく重要な点として,より大きな司法分野内部において他の制度に対して特定の権力関係を保持しているという点で特定であり,多様な社会・文化要因(たとえば人種化)によって形成されつつも,しかし他の社会領域の力学には還元不可能であるばかりかこれに抵抗を示す可能性もある論理の生産を法廷に固有な力学が形成しているという点で準-自律的であり,直接に社会関係を構成するのでも「大ヘゲモニー」を(再)生産するのでもなくこうした領域への首尾良い転換がその後に生じてのみはじめてその後の政治戦略と闘争が存続するパラメターを形成しうる社会問題と分類の描出と問題化を法廷争いのダイナミズムが生成するという点で生成的なのである (63).

そうですなぁご同輩…キミの言い分はともかく…ひとつだけ質問していいかな:いったい世の中でどんな出来事がおきたらこの主張に対してキミが自信をなくすか,ひとつでも思い当たるかな?

もちろん,なにが皮肉かといえば,やっている当人たちは規範的論証の立て方を知らないらしいからこそ,「批判的」研究は信じられないほど教条的になってしまっているという点だ.この手のやつを学ぶ学生たちは,こんな議論を前にしてきっとすっかりまごついてしまう.世の中について「批判的に考える」ことを教わるはずなのに,世の中について批判的に考えるようじぶんたちに教えるという趣旨の本で述べられていることについて批判的に考えることをこれでもかと押し殺されるんだから.

これは――繰り返すけど――批判理論のあるべき姿とはちがう.

Total
1
Shares

コメントを残す

Related Posts