●Brett M. Rhyne, “The Disproportionate Death of Ukrainians in the Soviet Great Famine”(The Digest, No. 10, October 2021)
1933年にウクライナ国内で飢饉が原因で亡くなったウクライナ人のうちの92%が、ソビエト政府によるウクライナ人への敵意のある政策が原因で餓死に追いやられた可能性がある。
1930年代初頭にソ連邦を襲った大飢饉では、ウクライナ人の死亡率が(ソ連邦内で多数派を占めていた)ロシア人の死亡率よりもずっと高かった。それはなぜなのだろうか? アンドレイ・マルケヴィッチ(Andrei Markevich)&ナタリア・ナウメンコ(Natalya Naumenko)&ナンシー・チェン(Nancy Qian)の三人の共著論文――“The Political-Economic Causes of the Soviet Great Famine, 1932–33”(NBERワーキングペーパー No. 29089)――によると、ソビエト政府によるウクライナ人への敵意のある政策にその大きな原因があるとのことだ。
マルケヴィッチ&ナウメンコ&チェンの三人は、国勢調査をはじめとした公文書、各種計画文書、未分類の機密文書等をもとにして、1922年から1940年までのソ連邦の人口動態・政治・経済・歴史・地理・天候といった各方面にわたる包括的なデータベースの構築に臨んでいる。対象になっている地域は、ソ連邦内で人口数が上位三位に入っていた三つの共和国――ベラルーシ、ロシア、ウクライナ――に属する計19の州。ソ連邦全体の人口の84%がカバーされており、穀物生産地帯に暮らしていた人口の88%がカバーされている。マルケヴィッチ&ナウメンコ&チェンの三人は、自分たちでまとめ上げたデータベースとそれぞれの州の民族構成に関する詳細なデータを使って、飢饉およびソビエト政府による経済政策面での決定がウクライナ人をはじめとしたソ連邦内で暮らす人々に対してどのような効果を及ぼしたかを検証している。
1926年時点におけるソ連邦内の民族構成を振り返っておくと、ロシア人が全体の53%を占めており、少数派民族の中では一番数が多かったウクライナ人は全体の21%を占めていた。しかしながら、1932~33年の大飢饉で命を落とした1,080万人のうちの30~45%はウクライナ人だった。マルケヴィッチ&ナウメンコ&チェンの三人の検証結果によると、ウクライナ人の人口比率が高い州ほど、飢饉による死亡率も高い傾向にあり、ウクライナ人の人口比率が10%高まると、飢饉による死亡率が0.51%だけ高まる傾向にあることが見出されたという。
飢饉に見舞われていた最中においては、ウクライナ人の人口比率が高い州ほど、飢饉による死亡率も高い傾向にあったわけだが、その傾向は諸々の要因――天候、穀物の生産量、都市化の程度、強制移住(農業の集団化に抵抗する富農の追放)、飢饉が起こる数年前に家畜の数が減っていたか否か――をコントロールしても変わらないという。さらには、ウクライナ人の死亡率が上昇を見せたのは、飢饉の最中においてだけであったばかりか、ウクライナ人が多数派を占める地域においてだけであったという。
マルケヴィッチ&ナウメンコ&チェンの三人によると、飢饉の最中にウクライナ人の死亡率がとりわけ高かったのは、ボルシェヴィキによる経済政策(とりわけ、ウクライナ人の農民に対する敵意のある政策)に原因があるという。ウクライナ国内において飢饉が原因で亡くなったウクライナ人のうちの92%、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの三国において飢饉が原因で亡くなったウクライナ人のうちの77%が、ボルシェヴィキによる経済政策が原因で餓死に追いやられた可能性があるというのだ。
ボルシェヴィキがウクライナ人を抑圧したのは、穀物の生産を我が手でコントロール(支配)する必要があったからだった。ウクライナ人の農民は、ソ連邦内における穀物生産の中心的な役割を果たしていた――ウクライナ人の農民は、穀物の生産量が生存を維持するために必要な量を大きく上回る「豊穣」地帯において一番大きな勢力を誇る民族集団だった――。さらには、自民族への帰属意識も強くて、内戦中にボルシェヴィキに立ち向かった過去もあり、GDPの約半分を生み出す農業をボルシェヴィキが(農業の集団化を通じて)コントロール(支配)しようとするのに抵抗してもいた。ボルシェヴィキは、そんなウクライナ人の農民を抑圧するのと引き換えに、穀物の生産を我が手でコントロール(支配)しようとしたのだ。ボルシェヴィキはトラクターの没収などに乗り出したが、真っ先に標的になったのがウクライナ人が数多く暮らす地域の農家だった。そのせいで、大勢のウクライナ人が餓死することになったのだ。