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サイモン・レン=ルイス「ネオリベラリズムの致命的不整合」

[Simon Wren-Lewis, “The fatal inconsistency within neoliberalism,” Mainly Macro, January 25, 2018]

カリリオン〔イギリスの建設会社〕の破綻〔1月15日〕は,ここで論じたように公共部門アウトソーシングについていくつか重要な含意がある.ただ,真の教訓はべつのところにあるという Will Hutton に賛同したいところもある.彼によれば――

「なるほど公共部門がうまく運営されている場合もある.とくに NHS はさまざまな部分でうまくやっている.だが,全体のパターンを見ると,玉石混淆だ.だからこそ,何十年にもわたって政府は民間部門と契約して財とサービスを提供してきたのだ.高品質の民間部門パートナーが質を高めてくれるならこの原則をさらに敷衍するのもおかしなことではない:問題は,そうしたパートナーが不足していることだ.」

つまり,問題はアウトソーシングそのものというわけではないのだ.「民間こそ最善だし,役人は品質を効果的に管理するよい契約書を書ける」と自動的に考えない政府によって見識をもってなされるなら,わるくはない.それよりも,問題はイギリス資本主義の質がおそまつなことにある.もちろん,「腐ったみかん」はカリリオン1社ではない.これは,金融危機,とくに RBS の顛末から学ぶべきだった教訓だ.

とはいえ,市場によっていちばん効率的な企業しかぜったいに生き残れなくなっているとき,それはどんなものでありうるだろう? 「市場のもとではいちばん効率的な企業が栄える」という考えは,ネオリベラル・イデオロギーの中心をしめるメッセージだ.サッチャーとレーガンの時代からずっと,イギリスとアメリカの政府はこのイデオロギーの支配下にある.ところが,このイデオロギーには深くて大きな矛盾が含まれている.これは,とくにカリリオンのような大きな企業に当てはまる.どういう矛盾なのか理解するには,オルドリベラリズムとロナルド・コースについて話す必要がある.

オルドリベラリズムは,ドイツ版ネオリベラリズムとして広く知られている.オルドリベラリズムも,市場の利点を称えている.ネオリベラリズムと同じく,市場のさまざまな失敗を無視する.そうした失敗は,Colin Crouch がいきいきと描き出し,経済学者たちが多大な時間をそそいで研究にはげんでいる.他方で,ネオリベラリズムとちがって,オルドリベラリズムは,じぶんたちが思い描く市場の理想の潜在的な問題点をひとつたしかに認識している.それは,独占の問題だ.Crouch は,市場ネオリベラルと企業ネオリベラルについて語って同様の区別をしている.

この区別が重要な理由は,教科書に書かれている独占の問題点につきない:〔独占が生じた市場で〕価格があまりに高くなってしまうとか,産出があまりに低くなってしまうといったことを超える問題がそこにはある.その理由を知るには,ロナルド・コースに目を向ける必要がある.コースはイギリスの経済学者で,のちにシカゴで研究した.コースが最初に出した重要論文は1937年の「企業の性質」で,この論文は取引コストの概念を導入して企業の性質と限界を説明した.コースが言ったことでここでの議論に関連する大事なポイントはこういうことだ――理論上,企業がやっていることの多くは市場によってなされうる.経済学者以外の人たちの耳には,きっとこれは奇妙に聞こえることだろう.そこで,このアイディアを簡略に解説してみたい.

原理上は,どんな企業の活動だろうと,管理職も含めてその従業員全員が自営業でやってもそっくりそのままやれるだろう.企業につとめていた労働者が自営業者になって,同じく自営業の管理職と契約を結ぶわけだ.さらに,この自営業の管理職は,べつに自営業労働者の固定メンバーたちとはたらかなくてもいい.かわりに,タスクごとに,それを請け負う入札をした自営業者をつのる新たな市場をつくってもいい.

コースはこう問いを立てた――どうしてもっと市場に立脚した基盤ではなくて企業が存在しているんだろう? 企業に雇われている典型的な労働者は,どんなことだろうと(理性的な範囲で)管理職がやれと言ったことをなんでもやるしかない.これをやめて,その都度ごとの短期契約を大量に結ぶとなると,とても非効率になる.いちいち契約書を書いたり読んだりする時間がかかってしまうからだ(取引コスト).さらに,探索コストをはじめとする他のいろんなコストをここに加えてもいい.そうしたコストによって,自営業者による契約モデルはふつう非効率になる.

市場にゆだねる利点と企業に活動を内部化する利点のこういう緊張関係が,企業がその活動をアウトソーシングする際にそっくりそのまま生じるのがわかるだろう.だが,この緊張関係には暗黒面がある.いったいどのくらい企業が市場を内部化すると,顧客から搾取したり(伝統的な独占),労働者を搾取したり(多くの労働者にとって雇ってくれる相手が大きな企業ひとつしかない場合,つまり買い手独占),管理職が株主を搾取する装置になったりといったことが起こりうるのだろう?

いったんこうしたことを認識すれば,その先の道筋は2通りある.第一の道筋,よりオルドリベラル的な道筋は,どんなものだろうと独占に不信を抱き,大企業そのものも,合併によって大企業が新たに生じることにも大いに警戒する,というものだ.一方,第二の道筋ではこう想定する――「企業はいつでも正しい,大企業が存在するのもひとえに大企業にまとまっていた方がバラバラな場合よりも効率よく業務をこなせるからだ.」 大企業に対する警戒がとるべき正しい道筋だ.大企業が存在するのにはいつでももっともな理由があると決めてかかる第二の道筋はまったく理屈に合わない(どんな理由でもいいからとにかく大企業を擁護するのを目的にしているのでもなければ).こちらが,ネオリベラリズムのとる道筋だ.

Will Davies がすばらしい論文を書いている.そこで取り上げているのは,ロナルド・コースを筆頭とする人々の著作の影響下で競争の美点と独占打破の必要に関する思想が1930年代から1980年代にかけてシカゴ大学のなかでどう変化したのか,ということだ.この論文を読むと,この期間にいかに多くの主導者たちが第二の道筋を選んだのかがわかる.経済学は非常に豊かなので,その気になりさえすれば,「独占が効率的になりうる理由」を経済学者はいつでもつくりだせる.さらには,そうやって結構な対価を稼げたりもする.

出発点では市場の美点を讃えていたかもしれないにせよ,ネオリベラリズムはこうして「みずからが選んだ戦略を正当化するのに使えるややこしいモデルを企業が仕入れるのに利用するコンサル業者」になりはてる(カッコ内はもっと最近の Will Davies の言葉の引用).2016年に執筆したときに私が言わんとしていたのはこういうことだ.

「今日,ネオリベラリズムという用語を使う人々はぜひともこの矛盾を認識しなくてはならない.とはいえ,べつに,このネオリベラリズムという用語を使って例の支配的なイデオロギーを記述するのが間違っているというわけではない.ただ,このイデオロギーが奉仕している利害の当事者たちによってこれが形成/適用/歪曲されたのではないと想定するのは間違いだ.こうした変化をうけて,このイデオロギーは知的に弱くなると同時に,政治的には強力になったのだ」

この点がわからないでいるとネオリベラリズムに反対する人たちがおかしてしまう重大な過ちがいくつかある.対立する相手が好んでいるらしいことになんでも反対してしまうのもそうした過ちだ.たとえば,ネオリベラルが市場の美点を説教しつつ実際にはたいてい企業を優遇しているにすぎないからといって,いつでも市場に反対すべきだという話にはならない:市場賛成かつ反ネオリベラルにもなりうる.もっと一般的なことを言えば,経済学のいろんなアイディアを使ってネオリベラルが自説を主張しているからといって,経済学がなにかおかしいということにはならない(経済学者のなかにおかしいのがいるとしても).シカゴの Louis Zingales はこの2つの具体例をあげつつ市場優先と企業優先を公の場で堂々と区別してみせている

これはすべて,思想と利害の区別に関わっている.ある程度までは利害が思想にもとづいていることを認識するのは正しいものの,時間とともに利害を反映して思想が変わることもある点もぜひともわかっておかないといけない.薔薇色のメガネごしに市場をながめたイデオロギーが,縁故資本主義を正当化するイデオロギーに成り果てた経緯は,ネオリベラリズムの物語の少なくとも一部ではある.そうやって権力と妥協したことで,このイデオロギーは支配的なものとなった.とはいえ,それと同時に,EU離脱やトランプに代表されるさまざまな金権主義によってかんたんに蝕まれやすくもなった.


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