「ネオリベラリズムなんてとにかく打倒しなきゃダメだ」と単純に信じている左翼は,コリン・クラウチによる新著に当惑しそうだ.著者はまず,グレンフェル・タワー火災の話から説き起こす.多くの人たちと同じく,クラウチも,ネオリベラリズムがいくつも繰り返してきた失敗の典型があの悲劇だと見ている.だけど,その一方で彼によれば本書は「ネオリベラリズムを一方的に悪玉に仕立てておしまいにしようとするものではなく,もっと肯定否定が入り交じった解明を試みる一冊だ.そういうやり方でなくては,ネオリベラリズムがもつ改革の能力を評価できない.」
もちろん,知的な好奇心を理由にこうした試みを正当化することもできるだろうけれど,それだけでなく,著者はこのイデオロギーにいくらか肯定的な側面も見出している.クラウチは,そうしたよい部分をこうまとめている:
「価格と計算の規律[効率と機会費用の認識];民主的政府がもつ限界を認識しやすくする点;貿易を促進しその障壁を減らすこと;人々どうしのつながりをうながすこと[国民・国家の分断を減らすこと]」
それで,いったいネオリベラリズムとは正確に言ってどんなものなんだろうか? クラウチはこう定義する――
「経済学者が理想として描く自由市場にできるかぎり我々の生活を順応させようとする政治戦略」
この戦略の問題点と欠陥があらわになるのは,〔実際の〕自由市場が理想的なものとなるのに必要な条件が成り立っていないときだ.著者はこうした問題点をたっぷり紙幅を割いて述べていて,経済学の学部生にとって有益な議論になってくれるだろう.
理想的市場の条件の1つに,競争がある:社会的な観点から見て自由市場が理想的なものとなるのは,(他のいろんな条件と並んで)それぞれの財がものすごくたくさんの生産者たちによって生産されている場合だ.大半のネオリベラルが(おそらくオルド自由主義者とちがって)独占を打破し独占力を減らす必要があるところを避けてすませる傾向がある点を,当然の理由から,著者は認識している.その結果として,著者は市場ネオリベラルと企業ネオリベラルとを区別している.市場ネオリベラルは独占を問題にするかもしれない一方で,企業ネオリベラルは問題にしようとしない.クラウチは,過去の競争(独占に帰結したかもしれない競争)と現在の競争について語っている.Luigi Zangales がここでかなりうまく述べているように,企業は参入する前は競争的市場を好むけれど,ひとたびその市場で支配的な地位を占めると嬉々として障壁をつくりあげてさらなる競争を防ごうとする.
著者はさらに論を進めて,企業と市場ネオリベラリズムとの衝突や,その他の話題をたっぷり論じている.すばらしい本だと思う.他の著作でよく見られる不必要なジャーゴンは使っていない.本書をきっかけに,このあと書くようにネオリベラリズム概念をあらためて考えることができた.ネオリベラリズムがよいものであろうとなかろうと,ぜひ一読をおすすめしたい.もちろん,著者はネオリベラリズムがみずからを救えるかどうかについても論じている.著者が下した結論を知りたい人は,本書を手に取ってみてほしい.
さて,本書に触発された私なりの考えを書いておこう.まず,市場ネオリベラルと企業ネオリベラルの区別に話をもどす.イデオロギーを定義するのに自由市場を福音として掲げる点を入れておいて,そのあとで大半のネオリベラルがご都合主義的に自由市場の重要要素(競争)を排除していると言うのは,少しばかり奇妙に思える.ずっと昔にはじめてネオリベラリズムについて書いた人たちのなかには,著者がいう市場ネオリベラルに合致する人もいただろう(し,もしかしたらいまも1~2人はいるかもしれない).そこは私も受け入れる用意がある.ただ,以前に提案しておいたように,「ビッグマネー」つまり資本によって,ネオリベラリズムは資本の自己正当化の道具に進化させられてきた(なんなら「ゆがめられてきた」でもいい)と考えられる.
そのため,私としては,もう少しちがう定義を提案したい気持ちがある.そちらの方が今日ではかなりうまく機能しそうに思える.その定義では:
ネオリベラリズムとは,経済学者が語る自由市場の理想を利用して市場の活動を推進・拡大し,ビッグマネーの利益になるもの以外のあらゆる市場への「介入」をとりのぞこうとしてビッグマネーの利益をはかる政治戦略である.
この定義では,〔クラウチがいう〕理想を追求するものという定義(著者がいう市場ネオリベラル)の代わりに,みずからの利害にかなうかぎりで理想を追求する利害関心で,ネオリベラルを定義している.
この代替案の定義は,以前,もっと慣習的なアイディアに疑問を呈するのに使った2つの事例にうまく当てはまるように思える.大銀行は,国からの隠れた補助金で巨大な利益を得ている(事態がわるくなったときに救済してもらうかたちで).ところが,ネオリベラルはこうしたかたちの国家による市場への介入をあまり気にかけない(経済学者は気にかける).他方で,規制については不平を語る.これは,〔都合のいいものにしぼって〕ごく選択的に市場への介入を取り上げるやり方だ.
2つ目は,役員報酬だ.いつもネオリベラルは,役員報酬が自由市場で決定されるものだと言って正当化するけれど,もちろん実際にはぜんぜんちがう.ところが,ひとたび「重役やその報酬などなどは市場によって定まるものであって,企業の報酬委員会が〔お手盛りで〕決めているのではない」と信じているふりをしてしまえば,彼らの報酬を擁護することでよいネオリベラルになれる.この例のおもしろいところは,「ビッグマネー」に属す一方の人たち(CEO や金融業界の一部被用者)を擁護して他の人たち(株主たち)の利益を犠牲にしている点だ.だからこそ,私の定義案では資本の利害関心について語らないわけだ〔この箇所がよくわからない.資本イコール「ビッグマネー」と言ってたんじゃないの?〕.
「この代替案は,理想のもつ力をたんに否定して古き良き利害関心に戻っているだけじゃないか?」 ――ほんの一部はそうだ.利害関心が理想を利用するのは,その理想が強力な説得ツールだからだ.左翼にとって明白な教訓がここにはある.ネオリベラルが理想的な市場の概念を掲げるのは,それがじぶんたちにとって都合がいいときにかぎられる.だから,ネオリベラリズムに反対するからといって,べつに,理想的な市場の概念に反対することになるとはかぎらない.たとえば,左翼はまったく同じ概念を使って独占力に反対すべきだ.自由市場の理想は,反対陣営に回すにはあまりにも強力すぎる理想だ.