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ジョセフ・ヒース「少年とセックスと本とビデオゲーム」(2017年8月2日)

Boys, sex, books, video games
Posted by Joseph Heath on August 23, 2017 | gender

教育者のほとんどが気づいていることがある。それは我々の社会において男の子が本を読まなくなっていることだ。「文学の危機」とまで呼んでしまうのは少し大げさかもしれない。それでも、男の子が本を読まなくなっている現象は現在進行であり、問題でもある。私には12歳の男の子と13歳の女の子がいるので、親としてここ数年にかけて、この現象を注視してきた。おかげで文学の中でもYA(ヤングアダルト:若年層向け)文学分野で何か起こっているのかを、私の同世代の誰よりも精通することにもなったのである。よって以下、この分野におけるいくつかの観察事例だ。

女性は小説一般において読者層の多数派を占めているわけだが、YA文学分野では、(成功した)作家の多数派も女性になっている。多量のYA小説が女性によって書かれており、主人公が女性であることを特徴にしているが、それだけでなく「女性的感性」と称されるものも多く反映されることになっている。結果、年若い男の子の心を捉える作品を見つけるのが困難になってしまっているのだ。(「困難」と言ってしまったが、男の子向けの本を見つけるのが不可能にまでは至ってはいない。ただYA文学分野では、作品数があまりに爆発的に急増していて、物理的な書籍量や巻数が莫大になりすぎている。なので簡単な一般把握が困難になっているのである。)

「女性的感性」が反映された作品、『ハンガー・ゲーム』と『トワイライト』を主な代表例に挙げられる。この2作品共に女性が主人公なだけでなく、1人称視点で書かれていることが特徴になっている。このことは、男の子にとってとっつき悪くまではなっていないが、感情移入の障壁にはなってしまっている。(ブランドン・サンダースンの『ミストボーン』シリーズや、フィリップ・プルマンの『ライラの冒険』シリーズは、この男女の感情移入問題では、非常に巧い技法が採用されている。男女の主人公が交互に交代するといった技法だ。) 「感情移入の障壁」に追加して、『ハンガー・ゲーム』と『トワイライト』は共に、極端なまでの反動的で、性的ステロタイプを強化するような「女性的感性」に支配されているのだ。こういった特徴によって、よしんば男の子が、女性の語り手に同一化する困難を乗り越えられたとしても、その読書中の本は、男の子から見れば女性に関する非常に不快で退屈な多くの生活習慣を褒め称え(時には耽溺)を始めるのである。

ハリー・ポッター』シリーズは、一見この特徴から外れているように見えるが、同じ問題点を大量に抱え込んでいる。ハリポタ、売上数を考えてみれば、シリーズを好きな男の子が沢山いるはずなのだ。なのに個人的には、シリーズを好きな男の子の読者には出会ったことがない。(確実に言えるのは、息子や息子の友人達は誰も好きではない。)息子は本を沢山読むのだが、シリーズの3冊目あたりで読み進めるのを止めることになった。息子がハリポタに興味を失った理由はいろいろあるのだが、理由の一つに、男性主人公ハリーが存在するにもかかわらず、ハリーは負け犬であることを最初の方で悟ってしまったことがある。ハリーは「選ばれし者」であるにもかかわらずだ。ハリーは賢明な行為を決して行わず、何かを学んでいるようにも決して見えず、作中のほとんどの場面で困惑して右往左往しているだけなのである。どう見てもヒロインが主役だ。(ハリー・ポッターシリーズでハリーを好きなキャラクターとして挙げることは、『となりのサインフェルド』でジェリーを好きなキャラクターとして挙げるのと同じことなのだろう。)ハリポタ、『紙ぶくろの王女さま』でのジェンダーロールの逆転のような、シリーズ全編を通じての非常に長い伏線と繊細な仕掛けが張り巡らされている。この手の仕掛、ほとんどの女の子にとっては際立って洗練され素晴らしいものなのだが、男の子にとっては野菜を食べるかのような味気無い要素なのだ。シリーズの最後の謎解きには、ハリーの先生とハリーの母親との悲劇的な恋路などが含まれていたわけだが、この謎解き、私の知り合いの男の子達は誰一人として何の関心も示さなかった。まあ無理もないが…。

のめり込んで本を読んでいる私の息子を見た他の親に、「自分の息子にはどんな本を読ませれば良いのだろう」と尋ねられると、私はよく古い本を推薦して収拾を図ることになる。(参考までに、学校で読むように与えられる英語の本、それらもやはりほとんどの要素で極端な女性的感性に依った本になっている。ファーレイ・モウワットの『ジャミーとアワジンのバレンランド脱出作戦』(“Lost in the Barrens”)だけは例外的に全ての男の子に愛される作品だ。)古書店にいる時、私には若い頃に呼んだ古典を物色する習慣がある。そこで入手する本のジャンルは、ほとんどファンタジーだ。ロジャー・ゼラズニイの『アンバーの九王子』なんかは息子には好評だった。センチメンタルな気分に突き動かされて、『英雄コナン』シリーズ(特にフランク・フラゼッタ表紙版)も何冊か購入してみた。これらの本のほぼ全ては、事前に中身を確認することなく息子にはそのまま手渡している。まあ結局のところ、これらは私が息子と同い年前後に読んだ本なので、なんらかの不適切な内容はなかったように記憶しているからだ。ある晩だが、少し退屈を持て余したので、『コナンと毒蛇の王冠』を取り出して読み始めてみた。書き出しはこんな感じだ。

真夜中まであと2時間、チャベラ姫は目を覚ました。ジンガラ国王フェルドゥルゴの快活な娘は、裸体に薄布のベッドカバーを纏うと、恐れに慄き、動悸に震えた。氷のようなおぞましさが送り込まれたことを、姫は自身の胎動する内面を通じて予兆として感じ、闇を凝視した。

わぉ! コナン・シリーズにこんな場面あったっけ? このページを読み進めると、悪夢から目覚めたプリンセスが、祈って決意を捧げている。

偉大なる神の導きを求める衝動は、姫を敷き詰めた床石の上に震え立たせた。薄布のベッドカバーをオリーブ色の豊満な体に纏って、姫は神像前でひざまずくために、寝室を横切った。濡れたような漆黒の髪は、ざわつく深い夜の流動のように背中に流れた。(中略)恐怖が彼女を満たした。何者かからの憎悪に慄いたことは、丸みを帯びた肢体を震えさせた。姫のはち切れんばかり溌剌とした胸は、レースのベールに覆われており、その下にある淡黄色の堂々たる乳房が上下に揺れ動いた。姫が小さな祭壇の前に身を前かがみにして投げ出すと、黒髪は敷き詰めた床石の上の輝く螺旋模様に沿って滑り流れた。

ラヴクラフトの書いたヒステリックな〔まえがきの〕部分は脇に置くなら、本編はここまででたった2ページだ。なのに、悪の魔法使いトト・アモンがプリンセスに何か企んでいるんじゃないのか、とすっかり没入し初めてしまったことを私は認めざるをえない。この本の文学的価値はどうであれ、男の子にとっての参入障壁は非常に低いものであることは、どんな人でも賛成してくれると思う。『トワイライト』の冒頭文章と比較してみてほしい。

ママは車のウィンドウを全開にして、空港まで送ってくれた。アリゾナ州フェニックスは気温24度、雲ひとつない完璧な青空。私はお気に入りのシャツを着てみた。アイレットレースのノースリーブね。ママとのおわかれの記念に着てみたつもり。機内ではパーカーを羽織る予定。

この文でも女性の衣装について多く割かれているわけだが、上記指摘してきたの様に、男の子の心を捉えるような作品にはなっていないだろう。(繰り返しになるが、男の子が、「アイレットレース」のようなものに注意を払う人物に想像にふけて感情移入することや、TPOから自分の服装についてしょっしゅう考えている女性を受け入れることが、没入の妨げになっているわけではない。問題はこういった本を読むことが、男の子にとってはドリトスや野菜を食べるような無味乾燥なものになってしまっていることにあるのだ。)

数日前、ダニエル・ハンドラー(別名レモニー・ソニケット)1 によって書かれたコラムを偶然読んだ時も、この件を想起することになった。「十代の男の子に読書させたい? 答えは簡単。セックスに関する本を与えなさい」とコラムでは語られていた。私見だがこれは完全に正しい。最近のファンタジージャンルの作品を参照してみれば、例えばR.A.サルバトーレの長々とした小説は、ほとんど清教徒であるかのような慎み深い内容だ。ブランドン・サンダースンだと、彼は熱心なキリスト教徒の読書層を失いたくないかのように執筆している。サンダースンの作品の登場人物達は、十全なプライバシー開示を行う前には、体を寄せ合うのを超えた親密な関係には決して至らない。『キングキラー・クロニクル』だと、主人公は友人モードで文字通り1400ページ費やした後に、興奮のあまり突発的に(不自然な)猥褻行為に至るのだ。(フランス語圏の作品だと、私の息子は、Pierre-Olivier Lavoieの”Victor Pelham“シリーズが大好きだ。このシリーズには「ソファーで寝て大丈夫か?」描写がきちんと存在するからだ。)

このように書いてきたが、最近のYA文学にはセックスシーンがない、と言いたいわけではない。いやむしろそういった想定から実情はかけ離れている。女の子達が読んでいるもの――女性作家によって書かれ、女の子向けに市販されているもの――に目をやると、実情はいささかショッキングだ。最近のこのジャンルで大成功者を収めているSarah J. Maasについて検討してみよう。以下、彼女の小説”A Court of Mist and Fury(『霧と激情の宮廷』)”からの短い抜粋引用シーンである。これも女性の語り手による一人称視点だ

私は彼にしなだれて、唇を密着させる。彼は私に応じる。一緒に笑みを交わしながら、私はクスりと舌を深く侵入させていく。ベッドシーツの中で握りしめる彼の手、歯が擦れあう硬い音を聴きながら、彼の口の中で蠢く私の舌。彼のうめき声は、私を熱く滾らせる。一分間も彼が私のなすがままにされるなんて予想外。彼のいいよなんて待ってるより、すぐに飛びかかってしまえば良かったんだ。次の瞬間、彼は私の口の中にいて、私は彼の頭を吸い尽くすように舌を滑り込ませる。彼が私のウェストを強く触って、理性が飛んで興奮していた私は、うつぶせにひっくり返されてしまった。彼の膝が私の足を押しやって、私を抱きしめながら私を広げて、私の御尻を強く引っ張る。彼が私の中に入ってきてしまう。彼のグロリアスがゆっくり動いて、私の枕は濡れて喘ぐ。シーツを掴む私の指、上下に揺れる私の前腕。リースは引き抜いてまた入れて、私の永遠は高鳴っていく。私は思い知らされる。彼に満足できるこの距離から離れてしまえば、私はもう我慢できないだろう、と。

何ページにも渡ってこのような描写が続いている。十代向けの市販小説でこんなレベルのどぎついセックスシーンに出くわしてしまったことに、驚いたことは認めざるをえない。(実のところ、こんなどぎつい小説、大人向けの小説でもいったいいつ以来なのか思い出すのが困難だ。まあ、私の趣味嗜好はあまりに高尚すぎるかもしれないが…。)ともかく、若い読者(ないし少なくとも若い女性)を対象にした小説で、受け入れ可能と想定されている性的描写、現行社会においてなんらかの変化が進行しているのは明白だ。

別の重要観点もある。”A Court of Mist and Fury(『霧と激情の宮廷』)”でのセックス描写には、「ポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい)」な要素はまったく存在しないのだ。性的多様性やジェンダー規範の境界曖昧性で、啓発的教訓を伝えようとする試みは行われていない。上記のセックスシーン、退屈で古めかしい異性愛行為をヤってるだけである。推察するに、こういった描写が許容されているのは、まさに女性の一人称視点で語られていることにある。女性の一人称視点であることに、許容されている全理由があると思うが、逆に主流のYA文学内で、異性愛者の男性の一人称視点で書かれた似たようなどぎついセックス描写を見つけ出せると想定してみるのは困難だろう。男の子を対象にした最近の作品に限定するなら、そこでの性描写は、いかなるセックスであれ政治的に正しいセックスだ。(奇妙な逆転現象が生じている。同性愛の公然とした描写は、比較的受け入れられやすくなっているように思われるのだ。なんらかの背景事情を持つ同性愛者の登場人物は、寛容や自己受容を洗練させる存在として想定されているからだ。反対に異性愛者の男性の欲望は、皆を不快にさせるものとして機能している。)

この性描写の件に関してだと、ハンドラーもまた間違った認識を持っていると私は思う。ハンドラーはコラムで、若い頃にミラン・クンデラアナイス・ニンのような大人向けの文学作品を読んで、どうやって自分は性的関心を満足させたかの説明に着手している。結構なことで。30年前の男の子を対象にした大衆文学の多くでは、多量の性的内容を含んでいた事実をハンドラーは無視しているのだが、まあ置いておこう。なんにせよ、ハンドラーは、多量の性行為を含むYA小説を書いて、こういった〔男の子のエロ需要を担うYA小説が存在しない〕現状を正すつもりだ、と宣言している。彼は、「若い男の子の情熱的でヘテロフレキシブル2 なセックス・ライフ」を描いて特徴化すると宣言している。これまた結構なことだが、言っておくと、そういった作品もまた間違いなく男の子にとっては、「野菜を食べる」ように味気ないポリティカル・コレクトネス気味の要素を持ってしまうのだ。男の子の圧倒的多数は、エロの好みになれば、格別に柔軟性がない(いやおそらくまったくない)のだから。(「男の子が〔ポリコレ的に〕いかにあるべきか」との問題と「エロの好み」は別問題だと考えたとしても、それでも上から目線の論調がここにはある。)

この男の子のエロの好みを大局的に把握するには、YA小説は他ジャンルの娯楽とも競合せねばならないことを検討するのが必要になってくる。具体的に言うなら、YA小説は、ビデオゲームと競合せねばならない。ビデオゲーム競合下の男の子のエロの好みを想定した場合、プラグスーツ、アサリの科学者、とれかったボタン、ミニマリストキモノ3 …等々が、競合相手に並ぶのを参照する必要がある。

(ここまでの話について行けない人のために説明しておくと、上の画像、全てゲーム内の実画像であり、コンセプトアートでないことに着目されたし。)確認しておくと上で挙げたのゲームのいくつかは、М制限4 が課されたものが含まれており、若い男の子は技術的にプレイできないように制限さされている。例えば、私の息子はCiri5 に会うことは決してない。なぜなら、私は息子が『ウィッチャー』をプレイするのを禁じているからだ。なので息子は、公衆浴場シーンで「Xボタンを押して脱衣」することはないし、エルフの売春婦を買える状況に立ち会うこともない。ただ見聞きしている限り、私は息子のクラスでビデオゲームのプレイ禁止(もしくは、技術的な拒否権)を行使している唯一の保護者だ。ほとんどの保護者は、ビデオゲームを、「ジュブナイル(年少者)」向けと想定分類しているようなのだ。なので、保護者達は、ビデオゲームのジャンル全てを若年層向けカテゴリと想定して扱っている。保護者達は、上で挙げたゲームの内容の多くが成人向けに特化されており、しかも多くの気がかりな事例を含んでいるにもかかわらず、年齢制限を完全に無視しているのだ。(私が行っているプレイを禁止処置は、リアリスティックで度を超えた暴力的内容や反社会的言動に価値判断を置いており、性的なコンテンツは禁止していない。なので、私の子供達は『マスエフェクト』シリーズはプレイしているが、『コール・オブ・デューティー』や『グランド・セフト・オート』のようなゲームのプレイを禁じられている教室で唯一の児童のようだ。)

むろん、ビデオゲームにおけるジェンダー規範の動態と多様性に関しては、沢山の議論が最近行われている。 そういった議論と本稿はまったく別の話だ――ビデオゲームにおける固定的なジェンダー規範の変換の試みなら、本当に面白い事例(例えば『オーバーウォッチ』)もあるし、悪い事例(例えば、最近のバイオウェア社のゲーム)もある。本稿の重要ポイント、男の子が好きになるであろう本を描きたいなら、男の子が好きなものを知る必要があり、それを理解するもっとも簡単な方法は、ビデオゲームに目を向けることだ。そして、そこで発見したものを好きになろうと嫌いになろうと、〔子供向けの〕本に関しては、ゲームが競合相手であると認識することが重要なのだ。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

  1. 訳注:アメリカの児童文学作家。レモニー・ソニケットの筆名で著名なシリーズ『世にも不幸なできごと』を執筆している。作品は既存の倫理観に反するような内容が特徴的なものとなっている。 []
  2. 訳注:異性愛を主体としつつも、同性愛を柔軟に受け入れ、同性愛行為も許容する性癖 []
  3. 訳注:下記の画像、おそらく上から順番に「プラグスーツ」、「アサリの科学者」、「とれかったボタン」、「ミニマリストキモノ」の代表事例として掲載されていると思われる。「アサリ」はPC/Xbox/PS等マルチプラットフォームで展開されているRPG『マスエフェクト』に登場する雌雄未分化の架空の種族名。アサリの科学者Liara T’Soni がプレイヤーの人気を集めた。 []
  4. 訳注:Mは”mature”の略で、北米において17歳以上に購入が制限されているゲーム []
  5. 訳注:ポーランド製RPG『ウィッチャー』シリーズに登場する女性キャラクター []

Comments

  1. 北条響 says:

    非常に細かいですが、訳注ですが、「アサリ」はPC/Xbox/PSなどのRPG『マスエフェクト』に登場する雌雄未分化の架空の種族名。アサリの科学者Liara T’Soni がプレイヤーの人気を集めた

    が正解だと思います。

    • WARE_bluefield says:

      なるほど、わざわざありがとうございます。さっそく反映させました。
      また間違い等にお気づきの場合はご指摘していただけると幸いです。

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