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ノア・スミス 「【書評】アカロフ&シラー(著)『Phishing for Phools』」(2017年3月11日)

●Noah Smith, “Book review: Phishing for Phools”(Noahpinion, March 11, 2017)


phools

やっとだ。やっとのことでアカロフ&シラーの新著に最後まで目を通すことができた。二人の共著である『Phishing for Phools』を通読する時間がやっととれたのだ。アカロフは2011年にINET(新経済思想研究所)開催のカンファレンスで同名の講演を行っているが、本書はその講演のロングバージョンと言っていいだろう。

『Phishing for Phools』には一つの重要なアイデアが込められている。「騙し」(deception)は市場経済に付き纏(まと)う現象だ、というのがそれだ。「ある特定のモデル(理論)ではそういう結果が得られる」というわけでも「場合によってはそういう状況もある」というわけでもない。「騙し」は程度の差はあれ市場の中にいつでもどこにでも存在している、というのがアカロフ&シラーの主張だ。その理由はこうだ。企業は市井の人々を騙してお金を巻き上げるためのいい方法がないかと常に模索している。「情報の非対称性」や「限定合理性」、「人間の不合理性」、法の抜け穴等々に目をつけて市井の人々からお金を巻き上げようと必死に策略をめぐらしているというのだ。その結果としてどの市場にも程度の差はあれ「ペテン(騙し)」や「過ち」が必ず見つかるというわけだ。モニタリング(企業が「騙し」を行っていないかどうかを監視すること)にはコストがかかるためにそうなるわけだが(この点が本書の中でどこまで明示的に述べられていたかは覚えていないが)、アカロフ&シラーは市場が最終的に落ち着く状況(「ペテン」や「過ち」がそこここに見られる状況)を指して「フィッシング均衡」と呼んでいる。

アカロフ&シラーには「フィッシング均衡」というアイデアについてもっと深く踏み込んで論じてもらいたかったものだ。言うまでもないだろうが、ありとあらゆる経済活動に「ペテン」や「過ち」が付き纏っているわけではない(でしょ?)。最終的な均衡における「フィッシング」(詐欺行為、相手の弱味への付け込み)の量には市場ごとに違いが見られるわけだが、その違いを生み出している要因は一体何なのだろうか? 「フィッシング」の種類にも色々あるが(「情報の非対称性」に付け込んだフィッシング(”informational phishing”)、「人間の不合理性」に付け込んだフィッシング(”behavioral phishing”)などなど)、「フィッシング」の種類の違いを見分けるにはどうすればいいのだろうか? 市場での「フィッシング」をできるだけ抑えるための制度設計の指針とは? 「フィッシング」の量を実証的に(定量的に)測るにはどうすればいい? 「フィッシング」から身を守るために一人ひとりにできることは?

残念ながら本書では上に掲げたような質問はほとんどスルーされている。その代わり、著者たちの目に大量の「フィッシング」が絡んでいると映ったエピソードが次々と取り上げられている。2008年の金融危機にバイオックス(抗炎症剤)のリコール(自主回収)問題、政治の世界におけるロビー活動、商業広告などなどといったエピソードの紹介が本書のほぼ全編を占めているのだ。確かにどのエピソードもそれなりに興味深くはあるのだが、その多くはよく知られた話だ。さらには、本書で取り上げられているエピソード(ヘマの数々)で中心的な役割を果たしているのが「フィッシング」であることを示す学術的な研究がその都度引用されているかというと、必ずしもそういうわけでもない。

何とも残念な話だ。というのも、ちゃんと探せばそういう研究も見つかる場合が多いからだ(かく言う私もかつてそういう研究を紹介したことがある)。エピソードがすべてを物語っている。アカロフ&シラーはまるでそのように言わんとしているかのようなのだ。「このヘマを引き起こした原因は『フィッシング』しか考えられない。分別のある人ならエピソードの顛末を聞いただけですぐにそう気付くはずだ」。そのように言わんとしているかのようなのだ。アカロフ&シラーには有名なエピソードの焼き直しをもう少し控えてその代わりに自説を補強する(学術的な)証拠の提示にもう少し力を注いでもらいたかったものだ。

もう一つ気になったことがある。文章のトーン(語り口)だ。経済学の学術論文でよく見かける堅苦しいフレーズ(表現)があちこちに散りばめられているのだ。「我々は後続の章で~ということを示すつもりである」(”In the following chapter, we will show”)とかいうフレーズだ。その種の表現は(一般読者を対象にした)ポピュラー書には不向きだというのが私の考えだ。あまりに堅苦しい言葉遣いを目にすると一般読者は白けるだろうし、経済学を生業とする読者もやめてくれ(こんな堅苦しい言葉遣いを相手にするのは論文の中でだけで十分だ)と思うことだろう。この点に関して『Phishing for Phools』は『The Assumptions Economists Make』ほどにはひどくないが(言っちゃった。(((;゚Д゚)))ガクガクブルブル)、ともかくそれはそれとしてポピュラー書を執筆するつもりの経済学者に忠告しておきたいことがある。「我々は~ということを示すつもりだ」( “we will show”)だの「~ということが実証された」(”it has been demonstrated that”)だのいうフレーズなんか今すぐにドブにでも捨てちまえ。

ところで、「あなた達は”phools”です」と言い切ってしまえと入れ知恵したのは誰なんだろうか? ”f”(”f”ools)に替えて”ph”(”ph”ools)にしても誰も騙されやしないだろう(耳で聞く場合は(発音が同じなのだから)特にそうだ)。「あなた達は馬鹿です(fools or phools)」と言ってしまうのは「あなた方はあまりに不合理で愚か過ぎるから市場経済では到底生き抜いてはいけないでしょう」と言っているに等しい。その通りなのかもしれないが、もう少しましな言い方はなかったんだろうか? おそらくアカロフ&シラーは「フィッシング」の抑制を意図した公共政策への支持を取り付けたいと思ったのだろう1。しかしながら、アカロフ&シラーが掲げる政策に賛成するということは自分の愚かさを認めることを意味するのではないだろうか? そう考えた読者はメンツを保つためにもアカロフ&シラーが掲げる政策にかえって反対するなんてことになりやしないだろうか?

ともあれ、まとめるとしよう。『Phishing for Phools』は経済論壇の世界に非常に興味深くて重要なアイデアを持ち込んでいる面白い一冊だ。しかしながら、素材の選び方やその堅苦しい言葉遣いのせいでメッセージの効力が薄められてしまっていると思う。アカロフ&シラーが本書で取り上げている話題に正面から立ち向かう学術的な研究だけではなく、アカロフ&シラーよりもキャッチーな(俗受けしやすい)語り口で同様の問題を論じるポピュラー書の出現が待たれるところだ。

  1. 訳注;それゆえ、アカロフ&シラーは「あなた達はphoolsであり、企業はそこに付け込んでくる。その結果としてどの市場にも程度の差はあれ「騙し」や「過ち」が見出されることになる」という論法を採用したのだろう、という意味。 []

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