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ベン・バーナンキ「アメリカにおける中央銀行の100年:目標、枠組み、説明責任」

Ben Bernanke, “A Century of U.S. Central Banking: Goals, Frameworks, Accountability” (July 10, 2013)
At the “The First 100 Years of the Federal Reserve: The Policy Record, Lessons Learned, and Prospects for the Future,” a conference sponsored by the National Bureau of Economic Research, Cambridge, Massachusetts


FEDの100周年に合わせたこの度の会合を開いてくださった全米経済研究所にお礼を申し上げたいと思うとともに、そこに参加できる機会を得られたことを嬉しく思います。本会合の趣旨に鑑み、本日は歴史的観点からお話させて頂こうと思います。現在の政策に関する議論については、本日の質疑応答の際と、当然のことではありますが、来週に控えている私の議会証言(訳注:ここを参照)に譲りたいと思います。

本日は、FEDの政策決定において鍵となる3つの面、すなわち政策のゴール、政策枠組み、そして説明責任及びコミュニケーションにおける過去100年での進化についてお話ししたいと思います。これら3つの領域における年月の経過による変化は、FEDの役割と機能が1913年のその設立からどのように変化したかについて有益な観点を提供すると私は信じておりますし、現在そして未来に対する教訓ももたらしてくれます。本日はFEDの歴史上で鍵となるいくつかのエピソードについて特に傾注いたします。それらは多様な文脈において「大(Great)」という形容詞を冠して言及されています。FED設立の大実験、大恐慌、大インフレとその後のディスインフレ、大平穏、そして昨今の大不況がそれであります。

FED設立の大実験
連邦準備法起草者の一人であるロバート・ラサム・オーウェンの言葉を借りるなばらば、「アメリカ共和国を揺るがし多大な被害を与える周期的なパニックを治める手段を提供する」原注1 ためにFEDは設立されました。端的に言えば、FEDを設立した大実験の元々の目的は金融的な安定の保護だったのです。原注2 当時、パニックに対する標準的な見方というものは、商業や農業による流動性資金の必要性が利用可能な供給量を超過したとき、例えば季節的な種まきや収穫物の輸送の資金需要があるようなときに引き起こされるというもので、こうしたパニックはそうしたときに流動性をため込もうとする銀行や個人のインセンティブによってさらに深刻化するというものでした。原注3 新たな制度はそのような逼迫を「弾力的な」通貨を提供することによって解消する、つまり必要に応じて各加盟銀行に大して割引窓口を通じて流動性を供給することによって、商業銀行が今度はその顧客に融資を行うことが出来るようになるというものでした。興味深いことに、議会における推進派はFEDの創設が将来におけるパニックの回避に役立つことを望んでいたにも関わらず、英国の経済学者であり文筆家でもあったウォルター・バジョットがかねてから主張していたような、FEDが最後の貸し手として振る舞うことで現に起きているパニックを治めるのに資するべきという考えについては、彼らは完全には受け入れてはいませんでした。原注4 議員たちはパニックへの対処に際して貸し出しを行うFEDの権限に、非加盟銀行による割引窓口の利用の禁止やFEDが受け入れ可能な担保の種類を制限することなどの枷をはめたのです。原注5

金融安定性を促進するために初期においてFEDが採用していた枠組みは、合衆国が金本位制下にあるという事実とともに、かなりの部分リアル・ビルズ・ドクトリンと呼ばれるものを反映していました。原注6 リアル・ビルズ・ドクトリンの枠組みにおいては、自らの機能をFEDは金融・経済的安定を究極的な目標としつつ、商取引が必要とするだけ流動性を供給することと見ており、これは弾力的な貨幣の提供という考えと整合的でした。原注7 商業活動が拡大している時にはFEDは銀行へ流動性を供給することによって貸付の需要に応ずるのを助け、商業活動が縮小しており貸付の需要が減少している時には、FEDは流動性をシステム内から減少させるということです。

先に言及した通り、FEDが政策に対するこのアプローチを推進していたのは金本位制という背景の下でありました。FEDの発行する紙幣は要求に応じて金に兌換でき、FEDは金準備を発行済み紙幣の40%に保つことを義務付けられていました。しかしながら、理想的な金本位制の原則とは対照的に、FEDはしばしば金の流出入が国内のマネーサプライの変化に完全に反映されることを妨げる行動をとりました。原注8 この慣行により、合衆国経済の大きさとも相まって、FEDは貨幣政策において多大な自律性を獲得し、とりわけリアル・ビルズ・ドクトリンに沿った政策を大きな制約なしに実行することができたのです。

そうしたFEDの初期の政策枠組みは後になって強く批判されました。金本位制がFED創設後数年間のアメリカの貨幣政策を大きく制約したとは見なされなかったものの、後の研究は世界的な金本位制が1920年代末から1930年代始めにかけて世界経済を不安定化させるのに果たした役割の大きさを浮き彫りにしました。原注9 同様に経済歴史家は、商業活動と価格の上昇圧力が最高点に達している正にその時に、リアル・ビルズ・ドクトリンの下において、FEDがマネーサプライを増やしたことを指摘しました。つまり、貨幣政策は景気変動と同じ方向を向いていたのです。それにより、FEDの行動は経済活動と価格の変動性を減少させるのではなく、むしろ増加させがちだったのです。原注10

こうした初期の中で、新設されて間もないFEDはその政策の道具箱に重要な追加を行いました。当初、FEDの主な手段は割引窓口を通じた貸出量と、貸出を行う際の利子率、つまり割引率でした。しかしながら早い段階からFEDは、その運営費用を賄う利益を捻出するために公開市場で政府証券を購入することを始めたのです。そう、その後公開市場操作として知られることになるものです。1920年代の初め、FEDの職員はこれらの操作が銀行の準備預金の供給と費用に影響を与え、結果としてそれが銀行が顧客に対して貸出を行う期間にも及ぶことに気付きました。その後、もちろんのことながら、公開市場操作はFEDが銀行のみならずより幅広い金融市場に働きかけを行うことのできる、貨幣政策の主要な手段となったのです。原注11

ここまででFEDの元々の責務と初期の政策枠組みについてお話ししました。公衆に対する説明責任についてはどうでしょうか。御来場の皆さんが御存知の通り、FEDが設立された際、民間の機関になるか公の機関になるかというのは非常に議論を呼びました。妥協の産物として折衷案的な連邦準備制度となったのです。連邦準備制度は政府によって指名される理事会によって運営され、理事には当初財務長官と通貨監査官が含まれていました。しかし12の地域の準備銀行は民間から選ばれた理事を含む官民合同の監督の基に置かれ、彼ら理事は自らの担当地区における政策決定に際し、広範な裁量を有していました。例えば、準備銀行は理事会によって定められた下限以上であれば、独自の割引率を定めることができました。

FEDの設立者たちはこの新制度が金融、ひいては経済安定性をもたらすことを望んでいたのに対し、その政策枠組みと制度構造はFEDがその後間もなく直面することになる苦難に対して不適切であることが明らかになるのです。

大恐慌
大恐慌はFEDにとって最も困難な試練でした。残念なことに、FEDは金融安定性を維持するというその責務を果たすことに失敗しました。とりわけ、1929年の株式市場の崩壊に際してFEDは相当量の流動性を金融システムに提供したものの、その後の銀行の混乱への対処は贔屓目に限定的と言うべきものであり、広範囲に及ぶ銀行の倒産とそれによる貨幣と貸出の減少は経済の沈降の主要因となりました。原注12 パニックに際しては懲罰的な金利で際限なく貸出を行うというバジョットの金言の支持者は、その当時のFEDにはほとんどいないようでした。原注13

1920年代末から1930年代初めにおいて、FEDの職員が経済の収縮と金融の大混乱に際して貨幣政策を引締め、ないし傍観を選んだことが経済学者によって多々実証されています。歴史家のうちにはこれらの政策の間違いの要因を、ニューヨーク連銀総裁であったベンジャミン・ストロングが1928年に早逝したことにより、分権的なFEDが強力なリーダーを欠いたことに求める意見もあります。原注14 その当否はどうあれ、この仮説は強力なリーダーならばどのような知的枠組みをそれが必要とされた当時において導き出し、より能動的な貨幣政策を正当化したかという興味深い問いを浮かび上がらせます。金本位制がアメリカの金融政策を制約した度合いについては議論がありますが、金本位制が当時必要であった非常に拡張的な政策を後押ししなかったことは明らかです。原注15リアル・ビルズ・ドクトリンについても同様で、これにより政策決定者は低い名目金利とFEDからの借入を鑑み、貨幣政策は適切に支援を行っており追加的な行動は無意味であると結論付けたと考えられます。原注16 歴史家によってさらにもう一つの反生産的なドクトリンの当時における浸透が指摘されています。すなわち清算主義的な見方と言われるもので、恐慌によって必要な浄化がなされるというものです。原注17 FEDにとっては1930年代におけるリーダーシップの欠如よりも、何が起こっており何をすべきなのかということを理解する知的枠組みの不存在がより深刻だった可能性があります。

FEDの不適切な政策枠組みは、最終的に経済的な失敗、新たな考え、そして政治的な進展による重みによって崩れ去りました。世界的な金本位制は1930年代のうちに放棄されました。リアル・ビルズ・ドクトリンも同様に1930年代の厄災の後にその優越的な地位を失うに至りました。例えば、1935年の銀行法はFEDに対し公開市場操作を「国の一般的な信用状況」の考慮の上で用いるものとし、単に短期の流動性需要に狭く焦点を置いたものにはなっていません。原注18 さらに議会は、より幅広い相手への貸出とより幅広い種類の担保を認めることで、割引窓口を通じて信用を供与するFEDの権限を拡大しました。原注19

大恐慌の経験は、ここでお話しさせて頂いているFEDの3つの面、すなわちその目標、政策枠組み、そして公衆に対する説明責任の全てに対し強く影響を及ぼしました。目標に関しては、恐慌による高い失業率、さらには第二次世界大戦の終了後には再び高い失業率に戻るという恐怖が完全雇用の維持をマクロ経済政策の目標としての位置まで持ち上げました。1946年の雇用法により、雇用の促進が連邦政策の一般的な目的となりました。FEDの二つの責務と言われるものの一環として、「物価の安定」とともに「雇用の安定化」を明文化した1977年の連邦準備改革法までFEDは公式な雇用の目標を持ってはいませんでしたが、それよりも以前の立法によりFEDは少しずつそうした方向に舵を切り始めていました。原注20 例えば、議員たちは1935年の銀行法の意図を次のように述べていました。「貨幣政策と信用管理の可能な範囲において、銀行システムが雇用と景気安定化を促進する能力を高める」原注21

この新たなアプローチを支える政策枠組みは、クヌート・ウィクセル、アーヴィング・フィッシャー、ラルフ・ホートレー、デニス・ロバートソン、そしてジョン・メイナード・ケインズらの業績によって、貨幣政策がどのように実体経済と雇用に影響を与え、循環的な変動を減衰することに資するのかという理解に係る基盤が築かれたことを反映していました。それと同時に、FEDは当初の責務であった金融安定性の維持からは距離を取りましたが、これは1930年代に連邦預金保険公社や証券取引委員会を始めとして、金融システムのさらなる安定化を図る改革が行われたことがその理由の一部でしょう。

ガバナンスと公衆に対する説明責任の領域においても、政策決定者はFEDの構造と意思決定の向上のために改革を行う必要性を認識していました。1935年の銀行法は、FEDの法的な独立性を高めると同時に連邦準備理事会による統制力の強化をもたらしました。とりわけ、この法律によって連邦公開市場委員会(FOMC)の現代的な構成、理事会が委員会の過半数を握るとともに財務長官と通貨監査官が理事会から外れるといったことがもたらされました。実際面では、しかしながら財務省は1933年以降も貨幣政策に対し大きな支配力を維持し続け、ある経済史家はこのようなFEDを「後部座席に座っている」と表現しています。原注22第二次世界大戦の最中、FEDは戦争費用を賄う試みを支援するために自らの手段を行使しました。しかしながら、戦争終了後においてさえ、FEDの政策は財務省の強い影響下にあり続けました。FEDが貨幣政策を実施するにあたって正真正銘の独立性を回復するのは、1951年の財務省との協定を待たなければなりませんでした。

大インフレとディスインフレ
FEDがその政策の独立性を回復すると、FEDの目標は物価の安定と1946年の雇用法で示された雇用の目標に軸足を据えました。戦後から数十年間、FEDは短期市場金利を操作するために公開市場操作と割引率を用い、FFレートが望ましい操作目標として段々と浮かび上がってきました。1950年代から1960年代初めの大部分において低く安定したインフレが達成されました。しかしながら、1960年代中盤に差し掛かると、インフレは長い上り坂をたどり始めました。これは政策決定者が経済がインフレを引き起こさずに急速な成長を保てるということに楽観的になりすぎたことが理由の一つとして挙げられます。原注23

こうした誤った楽観主義による被害は2つのメカニズムによって軽減された可能性があります。第一に、1950年代に見られたものよりもより強いインフレに対する政策対応は確実に一助となったでしょう。原注24 第二に、FEDの政策決定者は経済の潜在的な生産力のより現実的な評価を導入することによって、継続的な高インフレ率に対処することが出来ました。原注25 しかしながら、政策決定者はコストプッシュや構造要因と言われるものをインフレの原因として強調することを選び、賃金並びに物価の設定が経済沈滞のインセンティブとなったと見なしました。原注26 こうした、ミルトン・フリードマンの有名な格言「インフレはいつどこでも貨幣的な現象である」と著しく対照的な見方は、インフレへの対処にあたって貨幣的な解決策よりも賃金と価格の統制にFEDを導きました。原注27 さらに、低インフレによる便益はそれを達成するための費用に見合わないという、多くの経済学者が抱いていた考えも障害となりました。原注28

1970年代における貨幣的枠組みの結果は、二度に渡る二桁のインフレでした。さらに、70年代末に至るとインフレをコントロールするというコミットメントの欠如が、長期金利に織り込まれたインフレの経路に対する期待を高め、インフレ期待を明らかに「不安定化(unanchored)」させる結果となりました。

御存知の通り、ポール・ボルカ―議長のリーダーシップの下で、1979年にFEDは物価の安定の確保に関するアプローチを根本的に変化させました。この変化には、政策決定者側における重要な考えの変化が含まれていました。1970年代末までに、FEDの職員はインフレが貨幣的な原因、少なくとも中長期的にはそうであることを段々と受け入れ、経済の潜在的な産出に対する過剰な楽観主義の危険性についてより警戒するようになるとともに、実質、すなわちインフレ調整済と名目の金利との区別を新たに重要視しました。原注29 この政策枠組みにおける変化は当初準備預金の成長の重要視という手法上の変化と結びついていましたが、インフレに対してより積極的に対処する決意という決定的な変化は、FEDが従来のFFレートを政策手段として用いることに回帰した後も継続しました。原注30 この新たなレジームは、民間部門のインフレ期待を中央銀行の信頼性によってしっかりと固定することの重要性に対して理解が進んだことも影響していました。原注31 結果、それによって政策決定者が物価の安定の達成は雇用最大化の維持に必要な条件をもたらすことに資するという、二つの責務についての考え方の変化が引き起こされることになりました。原注32

大平穏
ボルカ―によるインフレとの戦いにおける勝利は、1984年から2007年までの大平穏と呼ばれる時期をもたらし、この期間にFEDは二つの責務の双方の目標の達成に関し大きな成功を収めました。金融安定性も当然ながら依然として目標の一つでした。FEDは金融安定性に対する脅威を注視し、1987年の株式市場の崩壊や2001年のテロリストによる攻撃のような出来事によって金融システムが動揺した際には対応策を実施しました。平時に関して言えば、FEDはその他の銀行関連当局とともに監督義務を担っていました。しかしながら、大部分において金融安定性はこの当時の貨幣政策についての議論において大きく考慮されることはありませんでした。今振り返れば、この当時中央銀行内部と外部双方のマクロ経済学者たちは、広範囲の経済の振る舞いを分析する際には金融システムの構造の詳細は無視できるというモディリアーニ・ミラー定理と呼ばれる見方に過剰に立脚していました。

大平穏における重要な進展の一つは、経済学者と政策決定者が貨幣政策の目標達成にとってのコミュニケーションの価値について合意に至ったことによって、世界の中央銀行においてコミュニケーションと透明性に対する重要視が高まったことです。原注33 FEDの職員は、その他の中央銀行家と同様に、従来公式発表に対して慎重な姿勢をとっていました。例えば、彼らは市場を驚かせることは金融環境に影響を与えるために重要だと信じていました。原注34 つまり、1980年代から1990年代初めにかけてのFEDの政策決定者は政策目標と戦略については以前よりも明示的と言えるようなものになっていたにも関わらず、貨幣政策決定とその運営に関しては同程度の透明性を持つには至っていませんでした。原注35 FOMCによる会合後の声明の発表、1994年に始まった慣行ですが、これはしたがって重要な分水嶺でありました。その後、声明は政策決定の理由とリスクバランスの指摘に関してより詳細な情報を含むような形に拡大しました。原注36

これらのコミュニケーションにおける発展は、貨幣政策の有効性の改善のだけでなく、FEDの公衆への説明責任の強化にもなりました。説明責任は、もちろんながら民主主義において政治的独立性を持つ場合には必要不可欠なものです。この期間には、課せられた目標を追求するにあたって政治的独立性を与えられた中央銀行はより優れた経済上の成果をもたらすということについて、強力な証拠が経済学者によって発見されました。原注37

今日、大平穏を振り返るにあたっては、この期間における持続的な経済的安定が何らかの形でその後の過剰なリスク負担を促したかどうかという問いは避けられません。この長く続いた平穏な期間が、リスクを積み上げることに対する投資家、金融関連企業、そして金融規制当局たちの注意を不十分なものに陥らせたという考えは、間違いなく真実の一面を含んでいます。私はしかしながら、経済的安定の達成を目指すべきではないと結論付けるべきとは考えていません。それよりも、安定した好調期においても(もしくは多分そうした時期には特に)貨幣政策決定者と金融監督当局は金融安定性の堅持はマクロ経済的安定の維持と等しく重要であるとともに、実際にはその必要条件であると考えるべきというのが正しい結論です。

大平穏における顕著な経済的成果の原因についてのマクロ経済学者と歴史家による議論は今後も続くでしょう。原注38 私としては、貨幣政策の枠組みと貨幣政策のコミュニケーションにおける向上、ここにはもちろんより優れたインフレ管理とインフレ期待の固定を含みますが、これらがそうした優れた成果の重要な原因だったと考えています。しかしながら、貨幣政策の良好な運営が経済的安定にとっては必要かもしれない一方で、それだけでは不十分であるというのがここ数年で私たちが得た教訓であります。

金融危機、大不況、そして今日
アメリカにおいて金融危機の最初の兆候が表れてからおよそ6年となりますが、私たちは依然としてその影響からの完全な回復を達成するために力を尽くしているところです。この経験から将来にとってどういった教訓を、とりわけFEDの一世紀の歴史という文脈において学び取るべきでしょうか。

金融危機とそれに続く大不況によって、深刻な金融的不安定は広範囲の経済に対し大きな被害を与えうるという、私たちが19世紀や大恐慌の際に学びつつも忘れかけてしまった教訓が再認識されました。ここから導かれるのは、良いマクロ経済的成果を達成するのに資するのであれば、中央銀行は金融的安定に対するリスクを考慮に入れなければならないということです。今日、FEDは金融的安定の維持についての責任を貨幣政策の運営についてのそれと同等に考えており、私たちはこの目標の変化を鑑みて大きな制度上の変更を行いました。ある意味、私たちは360度回って金融パニックを防止するというFEDの元々の目標に戻ってきたと言えます。原注39

中央銀行はどのように金融的安定を強化すべきでしょうか。パニックの最中もしくはその始まりにおいて、市場の状況を和らげるために流動性を供給することに中央銀行がその力を振るうという、140年前にバジョットが理解し述べた最後の貸し手機能を担うことが一つの手段です。2008年から2009年にかけての危機を抑えこむために、FEDによる数々の流動性プログラムが中心的な役割を果たしました。しかしながら、火を消すだけでは十分ではありません。大きな金融ショックに耐える十分な回復力のある金融システムを作り上げることも重要です。そのためにFEDは、その他の規制当局や金融安定監視評議会とともに、金融発展の監視や金融制度と市場を強化する作業に積極的に取り組んでいます。こうした規制の強化への信用はニューディール政策による規制改革の成功から着想されたものですが、今日の改革への取組は個人に対してばかりではなく全体としての金融システムに対するリスクの特定化と除去を行うという進歩したものであり、これはマクロプルーデンシャル規制として知られているアプローチです。

金融的安定は貨幣政策とも結びついていますが、この結びつきは未だ完全には理解されていません。現在FEDは監視、監督、規制をシステミック・リスクに対する第一防衛線とする戦略を進化させていますが、リスクが依然として存在する限り、FOMCはあらゆる貨幣政策行動に適用されている費用便益分析にそうしたリスクを組み込むよう取り組んでいます。原注40

貨幣政策の枠組みにかんしてはどうでしょうか。おおよそにおいて、FEDの政策枠組みは大平穏の期間に導入された多くの要素を受け継いでいます。その中には、インフレ期待の固定に大変重要なFEDのインフレ信頼性の維持に対する重要視や、FEDの二つの責務双方を中期的に達成するためのバランスの取れたアプローチも含まれています。貨幣政策の透明性の向上にも取り組み続けています。例えば、現在の委員会のコミュニケーション枠組みには、長期の目標や貨幣政策戦略についての声明が含まれています。原注41(訳注;この声明の邦訳は、「リフレが正しい。FRB議長ベン・バーナンキの言葉(中経出版)」に収録されている。)この声明の中では、2%のインフレ率(個人消費支出の価格指数の年率変化を指標とする)がFOMCの二つの責務とより長期において最も整合的だとされています。FOMC委員はより長期での自然失業率の推測についても定期的に発表しており、この推測は現在5.2%~6.0%の中心傾向を持っています。こうした透明性は、より長期での期待を固定化するのに資することを通じて、短期における出来事に対するFEDの対応の柔軟性を向上させます。短期における政策の柔軟性と明示的な目標による規律の組み合わせというこの枠組みは、制約付きの裁量と呼ばれてきました。原注42 その他のコミュニケーション上の進歩としては、FOMCの議事録公開の早期化や四半期ごとの議長による会合後の記者会見等があります。

貨幣政策実施の枠組みは、経済学の進展と政治環境の変化を受けて近年さらに進化しました。特に、ラルス・スヴェンソンらによる考えに基づき、FOMCは政策設定を経済見通しにより直接的に結びつける、予測重視型アプローチと言われるものに舵を切ることとなりました。原注43 とりわけ、FOMCは会合後に経済上の変化の予想に政策についての展望を関連付けたより詳細な声明を発表するようになっていますし、各FOMC委員個人の経済の見通しの要旨も導入しました(FFレートの目標値を含む)。政策プランに関する追加的な情報の提供によって、FEDの政策決定者は短期金利の事実上のゼロ下限による制約への対処が容易になりました。とりわけ、経済上の変化に対して政策がどのように対応するかという指針を提供することによって、短期金利がゼロ近傍でそれ以上実質上引き下げができないという場合においても、委員会は政策の対応余地を広げています。原注44 また、委員会は主に証券の購入を通じてイールドカーブ上の金利にも影響を与えようと努めてきています。同様の方策は、短期金利の事実上のゼロ下限に直面している他の先進国の中央銀行も採用しています。

要約するならば、貨幣政策と金融安定性の枠組みの強化と、それらのより優れた統合という二つの必要性が昨今の危機によって浮き彫りとなったのです。私たちはその双方を進めてきておりますが、未だやるべきことは残っています。とりわけ、規制・監督政策(マクロプルーデンス政策を含む)、最後の貸し手政策、そして標準的な貨幣政策の間の相互補完関係がますます明らかになってきています。FEDを始めとする中央銀行がこれらの要素全てを統合した包括的な枠組みを作り上げるためには、理論・実証の双方がひつようです。より一般的な結論は、FEDの歴史からの最も重要な教訓ともいえるかもしれません。すなわち、中央銀行のドクトリンと慣行は不変のものではないということです。FEDを始めとする世界中の中央銀行は、出来事や新しい考え、経済及び金融環境の変化に順応するために懸命であり続けなければならないのです。


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原注

原注1. Owen (1919, p. 24)を参照。財務省はFED創設以前、中央銀行的な役割の一部を担っていた。それに加え、それ以前にもアメリカでは合衆国第一銀行及び第二銀行という中央銀行の試みがなされたことがあった。1913年においてはしかしながら、第二銀行がその役割の遂行を止めてから約75年が経過していた。さらに、FEDとそれ以前の機関の運営は幾分異なっていたのであり、その創設は結局のところ実験に等しいものだった。

原注2.1929年出版のWall Street and Washingtonについてのニューヨークタイムスによる書評によれば、「連邦準備制度は当初から、我々の金融史の道筋において必ず持ち上がる予見できないこうした新規の多様な状況による要求に対してその全般的な政策を順応させる定めにあり、必然的に大実験であった。」(Noyes, 1929)

原注3.Friedman and Schwartz (1963) には弾力的な通貨についての議論に関する記述がある。Warburg (1914) は、その回避がFED設立の目的となった、貯め込み行動とパニックの動学について議論している。

原注4.Willis (1923, p. 1407), Carlson and Wheelock (2012), and Bordo and Wheelock (2013)を参照。Bagehot ([1873] 1897)は、パニックは中央銀行が懲罰的金利で無制限に貸出を行うことによって解消すべきであるという格言の原典である。

原注5.1980年の貨幣統制法によって、全ての預金受入機関が割引窓口を利用できることになった。割引窓口に差し入れられる担保の範囲は時とともに顕著に拡大し、とりわけ1930年代の銀行に関する諸々の立法によって、連邦準備銀行に対しての「補償が担保されて」いればFEDは加盟銀行に貸出機関の延長を申し出ることが出来るようになった。

原注6.リアル・ビルズ・ドクトリンの歴史的な進展に関する議論についてはHumphrey (1982) を参照。

原注7.こうした解釈はTenth Annual Report of the Federal Reserve Board (Board of Governors, 1924)による議論を受けている。FEDは設立後すぐに、戦争支援とその後のそうした支援の収拾にその使命の軸足を移した。1923年という年はしたがって、FEDにとって初めて普通の平時における金融状況に立ち向かうことになる年といえるものの一つだったのであり、FEDはその機会を捉えて、そうした状況における政策の適切な実行に関する見方を明確に打ち出したのである。

原注8.後に議論する通り、FEDは公開市場操作を通じて金の流入が国内のマネーサプライに与える影響を打ち消すことができた。

原注9.Eichengreen (1992)等を参照。

原注10.Friedman and Schwartz (1963), Humphrey (1982), and Meltzer (2003)を参照。

原注11.Strong (1926)を参照

原注12.Friedman and Schwartz (1963)を参照。

原注13.Meltzer (2003, pp. 282, 729-30)は、理事たちがバジョットの考えについて議論を行ったものの、それでもそれを政策アプローチへ完全に統合することはなかったと記している。

原注14.Friedman and Schwartz (1963, chapter 7)を参照。

原注15.Wicker (1965), Temin (1989), and Eichengreen (1992)はアメリカの政策決定者が金本位制による制約を感じていたことを示している。それとは対照的に、Hsieh and Romer (2006)やBordo, Choudhri, and Schwartz (2002)は、FEDに大きな制約があったということに対する反証として、1932年の短期間の貨幣拡大に焦点を当てている。

原注16.Meltzer (2003) and Romer and Romer (2013)を参照。

原注17.DeLong (1990)などを参照。

原注18.これによって連邦準備法の12A(c)項が改正された。

原注19.例えば10B項によって加盟銀行に対するFEDの貸出能力が強化され、13(3)及び13(13)項によって、特定の状況においてより幅広い潜在的な借り手に対してFEDが短期貸出を行えるようになった。

原注20.より正確には、1977年の連邦準備改革法に記された貨幣政策の法律上の目的は、雇用最大化、物価安定、穏当な長期金利である。二つの責務とは前二者を指しており、長期金利の目標は雇用と物価安定という目標の達成と結びついたマクロ経済環境によってもたらされるであろうと考えられている(Mishkin, 2007)。このことから、金利の目標については二つの責務の内に盛り込まれているものと見なされている。

原注21.U.S. Congress (1935)を参照。

原注22.Meltzer (2003)を参照。

原注23.Orphanides (2003) やMeltzer (2009a)などを参照。

原注24.Romer and Romer (2002b)を参照。

原注25.Lars Svensson’s remarks in Stokey (2002, p. 63)を参照。

原注26.Poole (1979), Romer and Romer (2002a, 2013), Bernanke (2004), and Nelson (2005)などを参照。

原注27.1970年代のインフレに対するFFレートによる対応は、弱いものでしかなかったと見積もられている。Judd and Rudebusch (1998); Taylor (1999a); and Clarida, Galí, and Gertler (2000)を参照。引用箇所についてはFriedman (1963, p.17)を参照。

原注28.1970年代におけるインフレのコストに対する考えについての議論は、DeLong (1997)とTaylor (1997)を参照。

原注29.これらの点に関する議論については、Meltzer (2009b)を参照。

原注30.Axilrod (1982)などを参照。

原注31.中央銀行の期待の管理に対する重視は、1970年代の合理的期待に関する論文による成果にも基づいている。合理的期待理論の貨幣政策的な含意は、その後の研究によってさらに明確化された。例えば、Sargent (1982) は、主要なディスインフレーションに関する研究によって貨幣政策レジームに対するインフレ期待の依存性を劇的な形で明らかにし、また、合理的期待モデルは粘着的な価格 (Fischer, 1977; Taylor, 1980; Rotemberg, 1982; Calvo, 1983)や金利についてのルール(Sargent and Wallace, 1975; McCallum, 1981; Taylor, 1993, 1999b; Woodford, 2003)を含むように拡張された。

原注32.See Lindsey, Orphanides, and Rasche (2005)を参照。

原注33.Woodford (2005)を参照。これらの原則の多くは、他国の中央銀行のおかげで大きく進展した慣行であるインフレ目標のドクトリンの中に体系化された。特に注記すべき例の一つとして、ニュージーランドによる1990年のインフレ目標導入が挙げられる。

原注34.Goodfriend (1986)やCukierman and Meltzer (1986)などを参照。

原注35.1980~90年代における政策目標の明確性向上へのFEDの進展についての議論に関しては、Orphanides (2006)を参照。

原注36.Lindsey (2003)を参照。

原注37.Alesina and Summers (1993)及びDebelle and Fischer (1994)を参照。

原注38.こうした議論の一例としては、Stock and Watson (2003); Ahmed, Levin, and Wilson (2004); Dynan, Elmendorf, and Sichel (2006)及び Davis and Kahn (2008)を参照。

原注39.Bernanke (2011)を参照。

原注40.Bernanke (2002)を参照。

原注41.この声明はwww.federalreserve.gov/newsevents/press/monetary/20120125c.htmから読める。

原注42.Bernanke and Mishkin (1997)を参照。

原注43.予測重視型アプローチにおいては、貨幣政策決定者は特定のインフレ率などの中期的な目標を公表し、徐々にその目標を達成するために必要に応じて政策手段を動かそうとする。対照的に、手段重視型アプローチは、FFレートのような短期金利に代表される政策手段を、貨幣政策委員会が経済状況に応じてどのように動かそうとしているかについての情報を公表する。Svensson (2003)を参照。

原注44.この点に関する精緻化についてはYellen (2012)を参照。


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