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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 2“, Bill Mitchell – billy blog, February 23, 2009.

Part1の翻訳はこちら

Part3の翻訳はこちら


さて、「私たちは財政赤字を恐れる必要がない」ということを説明するために書くシリーズの第二回だ。今回は、所謂、「財政赤字を”ファイナンスする”」ことをめぐる神話のいくつかを解消したい。とりわけ「財政赤字はインフレをもたらす」、ないしは/もしくは、「財政赤字により政府は借り入れをする必要が出てくる」という神話だ。結論としては、政府には財政制約がなく、売られているものがある限り、それらに対して好きなだけ支出できるということになる。そして、支出が常にインフレをもたらすわけではないし、必ず政府債務を増加させるわけでもない、ということだ。

まず前回のパート1の復習から。一般の個人の場合、その支出は入手可能な原資に制約されている。自分の所得や資産の売却、どこかからの借りるなどを合わせても限度がある。対して、政府の支出は容易に可能で、中央銀行に小切手を振り出せばよい。政府の支出は、政府が中央銀行に持っている政府預金の額とは基本的に無関係なのだ。政府支出の小切手の受領者(政府にモノやサービスを売った人)が、小切手を銀行に持ち込むと、小切手は中央銀行収支(準備預金)を通じて清算され、民間銀行システムを通じ、口座への振込み記帳となって現れる。言い換えれば、政府支出は、民間銀行が中央銀行に持つ口座に信用を与えることによってなされている。このプロセスは、何か先行する収入(つまり税や借入)と関係しているわけではない。また、この信用付与によって政府資産は何ら減少しないし、政府の支出能力が減じることもない。

対して納税だが、民間部門からの納税が、民間銀行への小切手振出(または銀行振込)によってなされ、中央銀行が民間銀行の口座から引き落とす記帳となる。このとき何かの実質資源が政府に移転するというわけではない。また、この記帳によって政府の支出能力が高まるということもない。

この点に関して主流経済学は、家計の予算と政府の予算の違いを区別しないゆえの誤謬に陥っている。「政府の貯蓄と貯蓄取り崩しは、ちょうど家計のそれと思って考えていい」とは、評判の高い経済学者ロバート・バローの言葉だが、このような言明は全くの誤りだ。

主流経済学では政府予算制約(GBC:the government budget constraint)という枠組みを用い、次の三形態に分けた分析を行う。(1)増税、(2)民間部門への利付負債(国債)販売、(3)利子のないハイパワードマネーの発行(貨幣創造)、だ。そして、「ハイパワードマネーによるファイナンス(債務マネタイゼーション)の場合は赤字がインフレをもたらす」、であるとか、「債務発行によるファイナンスは民間部門の支出を搾り取る」、という結論を導き出すシナリオをいくつも構築する。実際のところのGBCは「事後的」にとらえた会計の姿に過ぎないのにも関わらず、従来の経済学ではそれが政府支出の「事前の」資金的制約であると主張されている。

GBCという枠組みを教えられる学生たちは「政府支出の際には、紙幣を刷ることでインフレーションにならないよう、増税か国債発行が必要になる」と信じることになる。人々も、政府支出のための金は税や国債が賄っているという誤解を持っている。政府が赤字を増やすと(徴税より多い支出をすると)債務残高が増えるか「お金を刷る」かのどちらかになるに違いない、いずれにしても望ましくない結果だと考えている。

しかし実際の政府の財政運営は、そのような先入観とはまるで違っている。家計、すなわち貨幣の使用者(user)は、使用者であるがゆえに支出の前に第一に資金を調達しなければならない。全く逆に、政府、すなわち通貨の発行者(issuer)は、必然的にまず支出(民間銀行口座に信用を付与)することによって、後日必要に応じて民間口座からの引き落としができるようになるのだ。政府は、民間部門が支払いや納税や貯蓄(取引のための残高維持も含む)のために必要とする資源の源(the fund)そのものだ。政府は自国通貨の支払いに困ることはない。

主流経済学ではこれを「貨幣創造」と呼ぶが、正確ではない。人気のあるオリバー・ブランチャードの教科書によれば、政府は

私やあなたにはできないことをすることが出来る。政府は貨幣を刷ることによって赤字を事実上賄うことができる。ここで”事実上”と言うのは、貨幣を作るのは政府ではなく中央銀行だということだ。しかし、中央銀行の協力があれば、政府は事実上、貨幣の発行によって自ら資金を調達することができる。政府は債券を発行し、中央銀行に購入させることが出来る。その際、中央銀行は自身が発行した通貨を政府に支払い、政府はその通貨を財政赤字の調達に用いる。このプロセスは債務マネタイゼーションと呼ばれる。

これが主流経済学者が「紙幣を刷る」と言っているものだ。しかしこれは金融システムから見れば間違った認識だ。マネタイズとは、貨幣への変換という意味だ。かつて金(gold)は政府が金(gold)を購入して金証券を発行するときにマネタイズされていた。中央銀行が外貨を購入するときにもマネタイズは起こっている。外国通貨の購入は、外国通貨を自国通貨へと変換あるいはマネタイズしていると言える。このとき中央銀行は、新規発行されたドルに対して銀行システム内に利子を稼げる手段を提供するために、連邦政府有価証券を売却する。不胎化と呼ばれる処理だ。広い意味で言えば、独自通貨を持つ政府の負債は貨幣だ。赤字支出のプロセスとは何を買うのであれ、マネタイズのプロセスということになる。

確かに、あらゆる政府支出が貨幣創造を伴っているのは明らかだ。但し、これは経済学の教科書や公共の言論においての言われているところの債務マネタイゼーションとは意味が異なる。ブランシャールの概念に従えば、債務マネタイゼーションは通常、中央銀行が政府債券を財務省から直接購入するプロセスのことを指すことになっている。言い換えると、連邦政府が市民からではなく中央銀行から通貨を借入するということである。債務マネタイゼーションは通常、政府が「お金を刷る」と言われるようなプロセスを意味する。債務マネタイゼーションは、他の条件が一定なら、マネーサプライを増やして深刻なインフレーションをもたらすとされている。

しかし、債務マネタイゼーションを怖れる根拠がない。そもそも政府が支出するときに通貨を持っている必要がないのだが、さらに、中央銀行には既発国債にしろ新発国債にしろ、それらを購入する選択肢がない。Part 3で紹介するつもりだが、中央銀行に目標短期金利を維持するという任務を持たせるのであれば、中央銀行は国債購入量・売却量を任意に決定することができない。中央銀行が準備預金量をコントロールできないというこの事実は、債務マネタイゼーションの不可能性を明確に示すものだ。中央銀行は、その意のままに政府有価証券を購入して政府債務をマネタイズするというようなことはできない。なぜなら、それを行うと、超過準備の発生によって、短期金利がゼロか、サポート金利のところまで低下してしまうからだ。このことについてはPart 3で逐一考察しよう。

ここまでの分析をまとめると、次のように結論できる。政府は小切手を切ることなどで銀行口座に信用を与えるか、現金を出すことで支出(経済に金融資産を導入する)を行う。この支出は収入に制約されない。自国通貨を持つ政府は、支出に関しての金融的な制約はない。ただし自ら(政治的に)課している制約は別だ。

政府支出が収入に制約されていないとなると、徴税についてもこれまでとは別の見方ができるようになる。徴税には、民間人が納税義務を果たすための必要資金を調達するために、その財やサービスを政府に提供するように仕向ける、という機能があるのだ。

徴税は、政府が支出するために必要な収入だというのがオーソドックスな理解だ。しかし真実はその反対だ。政府が支出することが、非政府部門に収入を提供し、それによって人々が納税義務を履行することを可能にしているのだ。つまり、納税負債を決済するのに必要な資金は、政府が支出することによって非政府主体へと供給されている。このことは、納税義務を課すことが非政府主体における政府貨幣の需要を創り出しており、このことによって、政府が経済的・社会的政策プログラムを運営できるようになっている、ということを意味している。

この洞察から、主流の分析が見落としている税の別の側面が見えてくる。税を支払うために非政府部門が不換貨幣を必要とするであれば、税の賦課とはまず第一に(支出のためではなく)、非政府部門の(求職者全員の)完全雇用のために作られているものなのだ。そうであれば、非政府部門の失業者・遊休資産は、実物材やサービスを非政府部門から政府部門へ移転させる政府支出を通じた需要追加により活用され得ることになる。
裏を返せば、この移転が政府の経済的・社会的政策プログラムを促進する。実物資源が財やサービスの政府購入という形で非政府部門から政府部門に移動する時に、その資源を供給する側は、納税義務を果たすために不換紙幣を獲得する必要があるということに動機づけられている。

さらに、実物資源が移転されたとしても、徴税によって政府が紙幣を発行できる余地が大きくなるわけでもない。以上のように政府部門と非政府部門の関係を概念化してみると、政府が支出することが賃金労働を供給し、同時に、租税によって作り出される失業を消滅させているということが明らかになる。

こうして、マスとしての失業がなぜ起こるのかがわかってくる。(政府による税と支出で定義される)国家貨幣を非金融経済に導入することで、非自発的失業という亡霊が現れる。会計の事実として、総産出が売れるためには、総支出と総所得が一致していなければならない(ある期間において、生産を通じて得られた所得の同額が支出されたとしても、そうでなくても常に)。非自発的失業は、現在の価格(賃金)では買い手がつかなかった遊休労働力だ。失業が発生するのは、民間部門が全体として、他の条件を一定とした場合、労働者を欲しつつも、稼得分の全部は支払わないことで貨幣を稼ごうとするからだ。その結果、モノやサービスの売り手のところに望まない在庫が蓄積し、ひいては産出と雇用の低下につながる。こうした状況では、名目賃金(あるいは実質賃金)をカットしても、そうした賃金カットが民間部門の純貯蓄需要を取り除いて支出を増加させるのでもない限り、労働市場の失業がなくならない。

このように、国家貨幣の目的は、実物財・サービスの非政府部門(主に民間)から政府領域(公共)への移動を促すことである。政府は、まず最初に税を課し政府発行貨幣への抽象的需要を作り出すことによって、こうした移転を達成する。非政府主体は、納税と純貯蓄に必要な資金を得るため、実物財・サービスを売りに出し、必要な貨幣単位と交換する。売りに出すものには当然労働力の提供も含まれる。明らかな結論として、失業とは、政府純支出が納税需要と純貯蓄需要を満たすのに少なすぎるときに生じるのである。

この分析により、政府支出の上限も定まる。納税が可能になるためには、十分な政府支出が必要だということはすでにはっきりしているが、加えて、政府純支出は民間の貯蓄需要(金融純資産の蓄積)に合わせる必要がある。前のパラグラフで明らかだが、もし政府が租税分と非政府部門の貯蓄需要を満たすのに十分な支出を行わないと、不足の兆候として失業が現れることになるだろう。ケインジアンは「需要不足失業」という言葉を用いてきた。我々の考えでは、いかなる時も民間の支出(貯蓄)決定は所与なのだから、失業の原因とは常に政府純支出の不足だ。

政府純支出の水準が不十分であっても失業が増加しない状態が持続する場合もある。ここ数年のアメリカやオーストラリアといった国にも裏付けられる通り、その場合のGDP成長は民間債務の拡張によってもたらされていることになる。問題は、民間部門の所得は決まっているので、所得に占める債務元利払いの水準が一定割合を超えたときに、民間部門が”借入余力を使い果たし”てしまうことだ。

そうなると、民間部門は不安定性回避のためにバランスシートを再構成しようとする。結果として債務の拡張に頼っていた総需要は減速し、経済全体が傾く。ここに至り、財政の歯止め(不十分な純支出水準)の問題は、失業という形で顕在化し始める。

重要なのは、税構造は所与として、人々が雇用を希望しつつ、それまでのような消費水準(もしくは、さらなる債務形成)は望まない状況でも、政府が支出を行い、財・サービスを購入すれば完全雇用を維持することが出来るということである。そうしないと失業や不況が生じることになる。不況経済では、資本側にも労働側にも多くの遊休資源があるため、財政赤字の拡張がインフレを促進するとは考え難い。

私がずっと指摘してきた話だが、連邦政府がまず最初にすべきことは、職を望む者すべてに労働機会を提供し、すべての法的資格の付与とともに最低賃金を支払うことだ。失業者は、定義によって”市場価格”がついていない。その労働力への需要がないからだ。価格のないサービスの購入は、何らインフレ促進的な行為ではない。

Part3では、「政府借入は金融市場から貨幣を搾り取るので、財政赤字は自動的に金利上昇につながる」という議論を検討しよう。そこであなたは納得することになるだろう…これもまた、政府の活動を制限するように設計されている、もう一つのネオリベラルの神話だったのだ、と。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 1」(2009年2月21日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 1, Bill Mitchell – billy blog, February 21, 2009.

Part2の邦訳Part3の邦訳


財政赤字を心配するべきではない、とか、赤字は債務でファイナンスされているとは限らない(政府が実際に債務を増やし財政赤字になっているとしても)というのはどういうことか説明してほしいというメールがたくさん来る。そこでこれから数週間にわたってこのトリッキーな問題についていくつかのエントリを書こうと思う。まず、赤字がどのように発生するか、そしてそれが経済にどのような影響を与えるかを説明しよう。まずは、特に次のような考えから自由になろう。「政府が赤字支出をすると、自動的に借入れをする必要が生じ、金融市場(そこには限られた貸出枠しかない)に圧力がかかり、金利が上がって、本来生産に向かうべき民間投資支出が絞られる。」この考えの連鎖は意味を為していないし、容易に却下することができる。だからこれは財政赤字101なのだ。次回は中央銀行が債券(政府債務)を発行する理由の詳細を書こう。

一連の議論では下の図を使う。クリックすると新しいウインドウに表示されるので、議論を読むときに印刷したものを横に置いておくことを勧める。もしこの問題についてのもっと詳しく学術的な議論に興味を持たれたら、私の一番新しい本を読むことを勧める。

Full employment abandoned: shifting sands and policy failures(with Joan Muysken) 2008.

  • 変動相場制。中央銀行は自国通貨を守るための外貨準備をする必要がない。
  • 物やサービスの交換単位に貨幣を用いる。貨幣は不換通貨、つまり交換できるのは通貨のみであり、金本位制のように政府が法的に金(gold)と交換するようなものではない。
  • 主権政府がその通貨の排他的発行権を持ち、同時に納税のために通貨を需要する。この意味で政府はその不換貨幣を独占している。
  • 不換貨幣が使用されるのは、納税その他の政府の需要への支払いとして受け入れられる唯一の単位だからだ。

この図は、政府と非政府部門の間の本質的な構造的関係を示している。まず、中央銀行の政府からの独立という論があるが、財務省と中央銀行のオペレーションを分離する実質的な意義はない。この統合された政府部門が、その経済における金融純資産のポジション(勘定単位での)を決定する。例えば、財務省のオペレーションがもたらす黒字(金融純資産の破壊)を、中央銀行のオペレーションがの赤字(同じ大きさ)打ち消すという具合だ。この両者の組み合わせが金融純資産の水準を決めている。上が正しい限り、中央銀行のオペレーションは非政府部門の金融資産を準備預金から債券に、あるいは逆に債券から準備預金へとシフトさせるのみに過ぎないので、中央銀行は実質的に金融純資産にはかかわっていない。例外として、中央銀行による外貨の売買と、自身の運営費用の支払いがある。政府内での取引に限れば、それらは統合政府部門(財務省と中央銀行)と非政府部門の垂直取引の理解にあたって重要ではない。その件は将来のエントリでもっと詳しく検討しよう。

第二に、海外部門を区別するようにモデルを拡張しても基本的な分析には何ら違いをもたらさないので、国内民間部門と海外部門を非政府部門として統合させても分析する上での損失はない。海外取引は基本的に分配の問題と言える。

この部門間取引を会計的に見ると、政府財政赤字は民間の金融純資産を(非政府部門の貯蓄を増やすことにより)増加させる、黒字は逆に働く。この点についてはさらなる説明が必要だろう。現代貨幣マクロ経済学の基本を理解するにあたって決定的に重要なことだからだ。

標準的な教科書では曖昧にしか扱われないのだが、国民所得勘定の肝はこの恒等式に尽きる – 政府の赤字(黒字)は非政府部門の黒字(赤字)に等しい。有効需要は常に国民所得と等しいので、事後的に(国民所得からの漏出の総計は他部門への投入分に等しいので)、次の部門間等式が成り立つ。

(G-T) = (S-I) – NX

ここで左辺は政府収支で、政府支出Gと税収Tの差だ。右辺は民間部門と海外部門を合わせた非政府部門の収支で、Sは貯蓄、Iは投資、NXは純輸出。統合民間部門は海外部門を含むので、トータルの民間貯蓄は必ず民間投資と財政赤字の和になる。

総体で、非政府部門の金融純資産貯蓄は政府の赤字支出の累積なしには成立しない。閉鎖経済であれば NX=0 であり、政府の赤字は一円たがわず国内民間部門の黒字となる。開放経済の場合は、非政府部門は民間部門が海外部門に分かれ、総民間貯蓄は、民間投資と財政赤字と純輸出の和になる(純輸出は非居住者の金融純資産であるので)。

ここで、非政府部門に金融純資産(純貯蓄)を供給し、民間の貯蓄(金融資産)志向に同時対応し、それによって失業を消すことができるのは、通貨を独占する政府のみだ。政府は純支出(G>T)によってこれができる。さらに、主流派のレトリックとは対照的に、むしろ逆説的に、システマティックに財政黒字(G<T)を目指すと、必然的にその黒字額ぴったりだけ非政府部門の貯蓄が減少する。国内民間セクターの貯蓄を増やすことを目指すならば、純輸出が赤字とすれば、全税収は総政府支出よりも少なくしなければならない。つまり、財政赤字(G>T)にする必要がある。

さて、財政赤字はどのように増えるのだろう? 連邦政府はどのように支出するのだろう。

政府はキャッシュを操作する口座を持っている。日々の支出(G)と、収入(T)をスムースに操作できるように。オーストラリア政府はオーストラリア中央銀行(RBA)に、”多数の銀行口座を管理するための公的口座グループを持っていて、これは the Official Public Account (OPA) Group として知られている。これらの合計が毎日の政府のキャッシュポジションを表す。” (詳細はこちら)。

政府が支出を実行するとき、それは上記口座の借方に、民間銀行システムの中のさまざまな銀行口座の貸方にそれぞれ記帳される。こうして支出の結果として民間銀行の口座に預金が現れる。政府は小切手を切って民間部門の誰かに送り、受け取った人はその小切手を銀行に預けるだろう。このプロセスが電子的に行われても効果は同じだ。

連邦の支出はすべてこのように行われる。まとめると

  • 政府は「紙幣を刷る」ことで支出をするのではない。民間銀行システムの中に預金を作ることで支出している。間違いなく、いくらかの通貨は流通の中で「印刷」されてはいるだろうが、それは日々の支出や徴税の流れとは別のプロセスだ。
  • ここまで最初の債権と債務がどこから来るのかについて言及がない。簡単に答えれば、どこからでもないところから来るのだが、これを完全に理解するためには間もなく書かれるエントリを待つ必要がある。 ここでは連邦政府は唯一の通貨発行主体なので収入に制約されないとだけ言えば十分だ。つまり家計と異なり政府は支出の原資を調達する必要がないということだ。不換貨幣を使うのだ。そして
  • 政府が同時に債務(債権)を発行しているとしても、政府支出の「調達」とは何の関係もない。 – このことについても別エントリで説明されるだろう。

これらの商業銀行は、スムースな運営のためRBAの口座に準備預金を維持している。これら為替決済勘定とか準備預金と呼ばれるものは、一日の終わりの時点ではプラスの残高を維持していなければならない。日中は資金の流れによってある銀行の残高がマイナスになっていることもある。
個々の銀行がいつも一定の残高になるように運営していると考える必要はまったくないのだ。

この準備預金の金利だが、RBAはサポート金利を定め民間銀行の準備預金に対してこれを支払っている。多くの国々(オーストラリア、カナダ、ユーロ圏等)は準備預金のプラス残高に対して、オーバーナイト金利より2.5ベーシスポイント下と低くなると定めた金利を支払っている。準備預金に金利を支払わない国々もある。永続的な過剰流動性を持たせることで短期金利をゼロに近づけようというものだ(2006年半ばまでの日本)。ただし国債の発行や増税がない場合だ。このサポートレートが経済における金利の下限となる。この点は別のエントリで説明しよう。

結局のところ財務省による国の支出は、以下のようなことだ。つまり、財務省が持つ口座のどれか一つに借方記帳することであり(百万ドルとか)、これはすなわちRBAにある政府の準備預金がその額減少するということだ。このことによって、小切手の受領者が民間銀行に持っている預金に100万ドルが生じ、民間銀行の準備預金もその額だけ増えている。

これと文字通り逆なのが徴税だ。民間の口座の借方に記帳され(民間の準備預金が減少)、政府の口座の貸方に記帳されて政府の準備預金は増加する。以上のことはすべて会計処理だけで終わる話だ。徴税はどこかへ行ってしまったりはしない!知らないどこかに保管されるわけではなく、ましてや消費を”ファイナンスする”ためのものではない。政府があらかじめ支出しておいてくれないと民間部門は納税することができないのだ! こんな風に税を考えてみると良い練習になるだろう。それは単に、民間から支払い能力を奪いたいという政府の意向を反映して、非政府部門から流動性を枯渇させるだけのものなのだ、と。

単純な例示で論点を明確にできるだろう。二人だけで構成される経済で、一人が政府部門でもう一人が民間(非政府)部門だ。この政府が収支を均衡させていたら(100ドル支出し100ドル徴税する)、民間側に累積する通貨(貯蓄)はゼロで、その期の民間の収支は政府と同様に均衡している。

では政府が120支出し、税は100のままとした場合であれば、民間は収支を均衡させたまま20ドルの金融資産をためることができる。政府は追加費用の支払いのために20ドルの紙幣を印刷していたとしよう。政府は貯蓄を奨励するために、金利付きの債券を発行するという状況も考えられる。政府の赤字20は民間の黒字20とちょうど等しい。

では、もし政府がこれを続けるとすると、民間の貯蓄は政府の累積赤字は等しいということなる。しかしここで、政府が黒字にしなければならないと決心したとする。たとえば支出は80、徴税を100としよう。すると民間部門は20の支払いをするために何かを政府に売り戻さなければならない。つまり、政府は過去に自分が売った債券をいくらか買い戻すということだ。非政府部門全体の資金調達需要は、金利を通じた政府の適切な反応を自動的に引き出すことになる。

どちらにしても、政府が黒字の時、民間貯蓄はその額だけ減少することになる。政府部門の黒字は民間部門に次の二つの悪影響をもたらす。

  • – 民間部門が保持していた金融資産(貨幣と債券)の蓄えを下落させる。金融資産はすなわち富であるにも関わらず。
  • – 民間の可処分所得も税の黒字分と同じだけ下落する。こういう反論はあるかも知れない。政府の債券購入が民間にキャッシュをもたらすのではないかと。それはそうなのだが、債券の処分は、税の需要が収入をオーバーすることによる資金不足によって余儀なくされたものなのだ。債券を売って得たキャッシュで政府に税を支払う。民間での所得創出や銀行部門を入れて考えたとしても以上の結果は完全に同じになる。

上記の例から、少し考えれば「紙幣+準備預金(マネタリーベース)+民間が持つ国債」が非政府部門の金融純資産となるとわかる。非政府部門は、自身の純貯蓄形成のための資金と政府に対する納税のための資金の双方の供給を政府に依存している、というのが会計的な事実である。

次回は、財政赤字が銀行準備に与える影響を調べ、借入および金利についての神話(借入が金利を上昇させる)を解消しよう。

ビル・ミッチェル「MMT(現代金融理論)の論じ方」(2013年11月5日)

いわゆるMMT(Modern Monetary Theory)を主導する一人 Bill Mitchell のブログ Bill Mitchell – billy blog の翻訳許可を得ました! 第一弾は、5年前のこちらです。
How to discuss Modern Monetary Theory (November 5, 2013)


今日は出張しなくてはならないところが沢山あり(6時間近く早く出発する)、エントリを書く時間があまりない。現在私が取り組んでいるペーパーは、経済学におけるメタファーの利用と、公共精神の貫徹を妨害する明白な(基礎的)偏見を克服するために現代金融理論(MMT)の枠組みがどう役立つかについてのものだ。ここではそのテーマに関するいくらかのメモを書いておく。この記事はあくまでラフスケッチで、後々に洗練した記事を書くつもりだ。この記事の最後には、読者の理解を明らかにするために、フィードバックを促すセクションを書いてある。

フレーミング(枠組み)

マクロ経済学は議論がつきものだ。国にとって非常に重要とされる学問でありながら、マクロ経済の働きには理解が難しい概念が含まれている。

たとえば、物価とは何か? 財政赤字や財政黒字はどう理解すればいいだろう? 財政赤字は常に同じものなのか?

これらのマクロ経済的概念は日々メディア上で議論されている。実質GDP成長率、物価上昇率、失業率、財政赤字、金利などがそれだ。

国の財政に関するマスコミの報道を見ると、ここ30年、マクロ経済学の用語がますます頻繁に用いられるようになっているが、その言葉や概念についての教育水準が相応に高まっているわけではない。

さらにソーシャルメディアの出現によって誰もがマクロ経済の評論家になることができるようになった。所謂ブロゴスフィアは自己流マクロ経済学の専門家であふれている。彼らの多くは国の財政についても「常識」的な論理に立脚して議論を展開している。

問題なのは、現実を把握するうえで常識に頼るのはむしろ危険な場合があるということと、公共の議論においてすべての意見が平等に扱われるように見えてしまうことだ。個人的な体験を一般化してしまう私たちの性質、つまり、あたかも経験が一般的知識を構築するかのように考えてしまう性質が公共の議論を支配している。マクロ経済の領域はこの種の誤った推論の主要な舞台の一つだ。

マクロ経済問題への公共の関心の高まりは、経済学を支配している新古典派パラダイムに従わされてきたと言える。

その結果、人々の理解はオーソドックスな概念や結論に拘束されたものになっている。しかし、それはそれ自体間違っているばかりでなく、繁栄を棄損し公共の福祉を破壊するような政策を導いてすらいるのだ。

その症例の一つが、1980年代に起こった完全雇用の放棄、巨大な失業を許容しようという考えだ。

世界金融危機は、マクロ経済学の支配的パラダイムが推進してきた労働市場と金融の規制緩和の帰結と言えるが、危機を予測することができないどころか「大いなる安定の時代に入った」と宣言すらしていた。

ラカトシュが1970年に提案した分類に従えば、主流マクロ経済学は実証的な内容を欠いており、新しい事実(世界金融危機)を予見できなかったことから、疑似科学であり、後退的なリサーチプログラムだということになる。

しかし、その時生まれた「今回の危機が主流派経済学の役割に対する大いなる試練となった」という認識や、教育カリキュラムや望ましい研究事項を変更する動きも、短命に終わってしまった。

主流経済学者はその反政府的また自由市場的なバイアスを働かせることにより、もともと民間の債務危機だったものを、国家の債務危機だったということに上手に再構築させていった。 この危機を生み出した力学(規制緩和、金融監督の縮小)は今も解決策として主流派によって提唱され続けている。

公共の言論空間は、財政緊縮だけが実行可能な回復への道だというような主張に占領されているし、IMFやOECDのような主要な国際機関も財政緊縮が経済成長を妨げるということを認めようとしない。

メディアの評論家も同じこのビューをそのまま受け取っている。帰結としてIMFは、自身の計算が誤りだという事を認めざるを得なくなり(IMF apology article)、その記事が指し示す事実は驚くべきものだったのだが、こうした告白は支配的な論説にほとんど影響を齎さなかった。

現代金融理論(MMT)は首尾一貫しており、内的整合性のある成熟したマクロ経済学的枠組みであり、金融資本主義の運用上の現実に基礎づけられている。

MMTがここ20年(世界金融危機とその余波を含む)に起きた主な出来事を説明してきたという実績は、新奇な事実を予測する能力を持ち、その予測が事後に生じた出来事によって確証されたという意味で、(ラカトシュ的な考えに基づけば)MMTが先進的な研究プログラムであるということを示している。

しかし問題なのは、支配的なマクロ経済学のパラダイムがマクロ経済学論議の「枠組み」になっていることだ。上述の通り新興MMTのアプローチはより優れたものであるにも関わらず広まっていない。

フレーミング(枠組)とは、ある議論がどのような形で人々の議論に乗っており推進されているかということだ。認知言語学者がこれまで明らかにしてきたように、我々は複雑な問題を理解する際、メタファーを経由している。新古典派マクロ経済学は、そのイデオロギー的な権益を推進するにあたって、共有されやすいメタファーを用いることで大成功を収めてきた。(ジョージ・レイコフの研究が著名である)

私たちが何を信じどの政策を支持することになっているかが、そもそも議論の提示のされ方に規定されていて、本来の私たちの利益が隠されてしまっている。言い換えれば、私たちは嘘を真実と受け止めているし、支配的なイデオロギーが「証拠」を隠している。

最新の心理学研究では、既存のバイアスが簡単な統計データを含めた現実の情報の解釈にどれだけ影響を与えているかが強調されるようになっている。
この問題は、公共政策設計に関する研究成果を研究者たちが公共に伝える際にも表れる。とりわけ経済的緊縮や気候変動のように、発見が反直観的だったり支配的な論説に対して挑戦的であったりするケースだ。

私が今書いている論文――および以下に記すメモ――の目的だが、次のことを示したい。MMTの進化とは、現実的で一貫性のある代替理論の提示であると考えていることを。さらに、重要なマクロ経済学的概念に関するコミュニケーションにおいて、進歩主義者も保守主義者も共通に用いている言語が、MMTからの洞察に基づいたコミュニケーションの成功を阻害していると認識しているということを。

そして、いかに言葉が重要かということを理解する概念的基礎を与え(この問題に詳しい共著者の貢献だ)、オーソドックスな経済学の誤ったメッセージを強化するのに用いられたいくつかの重要なメタファーを吟味し、同時に現代金融理論のキーとなる考えを吟味しつつそれらを表現する効果的な方法を提案することを狙いとする。

MMTの研究者仲間のランディ・レイたちは、マクロ経済的な動きや結果を記述するのにあたって、しばしば用いられている語法を支えているメタファーについて探求している。

しかし、メタファー的語法と価値観との関連や、ある価値観や価値観群を抑制したり阻害したりする過程についての研究はあまりない。これが我々の今回の研究目的である。

「経済」とは「我々」だ(The economy is Us)

人々が経済を作り出す。そこに自然なものはない。「自然利子率」のような概念の背後には、経済はあたかも生態システムのように、自身の均衡に向かう力によって自然状態に到達するのに任せるべきものであるという考えがある。

しかし、自然というような言葉を使うときに我々は問うべきなのだ ― 何に対して自然なのか? 主流派は「自然」という単語が隠すイデオロギー的な基準を説明せず、ただこの問いを回避する。

現実とは人の相互作用や選択であり、もともとは単純で局所的なものだ。それが次第に合わさり、とてつもなく複雑になり、空間的に分散し(グローバル化)、私たちが経済と呼ぶものになる。それは私たちが動かしているものなのだ。

どこかの段階で、私たちは自分自身では簡単にはできないか、不可能であるような事柄をするための代理人が必要だと悟った。こうして政府を組織した。私たちはまた私たちが創出したもの ―経済― は、我々の代理人によって監督制御されていれば、公共の諸目的にのみに仕えるものになるだろうと考えた。

かつての私たちは間違ったビューの下で経済を運営していた。私たちの自発的な相互作用は私たちにとって好ましいように完結するはずなのだから、政府の役割は絶対に必要というわけではないと考えた。しかしそうではなかった。この失敗の帰結は ― 大恐慌の中で― 余りにも明らかになったので、金融資本主義システムが機能することを確かなものにするための基盤としての代理人の役割を認めるようになった。

私たちは、資本主義が賃金労働の大きなシステムに進化していて、その基本には労働と資本の緊張関係があるのだということを学んだ。私たちはまた、いわゆる「市場」シグナル(需要と供給が決める価格)は、その仕事のための労働に見合うような雇用の帰結を反映しているわけではないということをも学んだ。

私たちは、このシステムは容易に大量の失業が存在する状態(それ以上の力学を持たない状態)に均衡し得るのだということを学んだ。

大恐慌が私たちに教えたのは、私たちの代理人(政府)はシステムがそのような均衡に陥らないことを確実にすることができるということだった。なぜなら、政府は経済の中に職を求めるすべての人を雇うのに十分な産出を生み出すだけの支出を行う能力を持っているからだ。

大恐慌の時代から得られた単純な理解は、経済とは、よりよい生活水準 ―つまり住居、教育、健康など― といった望ましい帰結を創出するために私たちがコントロールできるような構築物だということだった。

その帰結として要請されているのは、民間企業-労働者間の協力を公的部門が媒介することで結実する実物資源である。

第二次世界大戦後のコンセンサスに抵抗する強力な保守分子も存在したが、社会的利益のみならず民間利益ももたらすシステムを確実化するために、政府は階級闘争を仲裁した。

私たちは学んだ。雇用が悪化するのは十分な需要がないのが原因だ、そして経済は私たち自身だからだ。何をすべきかはもう知っている―もっと支出を。問題はそれをどうやって達成するか、だ。

経済学者は、民間支出が停滞しうることを確実に知っている。その時、失業者は間違いなくモノやサービスを需要しているのだが、その願いは抽象的なシグナルとして企業に発せられるだけだ。

民間市場は、有効な需要と供給のシグナルに対してのみ働く。つまり、現金に裏付けられた需要意向だ。失業者は仕事を失っているために現金を持っていない。支出を裏付ける収入を提供するのは雇用なのだから。

このようなことを経済学者たちが話すときの手法は、(ジャーゴンetcに満ちた)学問に裏付けられていたが、その概念は広く人々に理解された。また私たちは、政府負債が必要なのだと知った。政府が十分に支出を行い、私たち(非政府部門)すべての収入を支出に回さなくてもいいようにする(つまり、貯蓄する)ためには。

自惚れネオリベラルの時代

1980年代とそれ以降、主流派による過去への再解釈が勢いづいた。
Weber(1997: 71)は”新しい経済学”の勃興を以下のように特徴づけている:
『…生産におけるグローバリゼーション、金融の変化、雇用の性質、政策、新しい市場、そして情報技術が…景気循環の抑制を齎すようになった。』
[Reference: Weber, S. (1997) ‘The End of the Business Cycle?’, Foreign Affairs, 76(4), 65–82]

これらの「特徴」がスムースな成長をもたらしてきたし、現在の供給ショックは:
『…ショックに対して一層容易に順応するフレキシブルかつ適応的な経済においては、あまり重要なものではなくなり、新しい景気循環に火を付けるような性質は弱まるだろう』
Weberはまた、労働組合の弱体化、よりフレキシブルな労働市場、及び金融部門の急速な成長が、景気循環を終わらせるのに貢献すると主張した。

彼は、デリバティブ取引の”莫大な成長”が有益なものだと論じた。なぜなら”これらの新しい金融商品はリスクを拡散・多角化する”し、新しいタイプのファンドマネージャーは、”そうした新しいツールを用いて金融フローを安定化させ、自身をショックから守るのに一層長けている”からだ(1997: 74)。金融部門は、国際資本市場を円滑に”よりいっそう効率的”にし、”経済変動を和らげる衝撃吸収装置”の配置を作り上げたと見做されていた。

彼らはまたこうも言っている(1997: 80)。『中央銀行らのインフレについての現在の合意は政府の財政政策を制約』し、『政府支出の本質的な循環的性質は、景気循環の平準化につれて弱まるだろう』。
Weber(1997: 75)は、『最後の審判』的議論、つまり、『複雑な市場は、相乗効果を生じ、斉一的に崩壊するという議論は、説得的な理論や、経験上の証拠には全く支持されない』と結論付けた。こうした考えは、新世紀が近づくにつれ、主流派経済学者に大いに共有されるようになった。

2002年、ハーバード大学の経済学者James StockとMark Watsonはこうした所感を捉え、アメリカの経済は、”過去20年を越える景気循環の安定、及びGDP成長率のボラティリテの全般的低下を反映した””静止状態”になったと論じた(Stock and Watson, 2002)。彼らはこうした傾向を”大いなる安定”と名付けた(2002: 162)。[Reference: Stock, J.H. and Watson, M.W. (2002) ‘Has the Business Cycle Changed and Why?, in Gertler, M. and Rogoff, K. (eds.), NBER Macroeconomics Annual 2002, Volume 17, MIT Press, 159-218]

2004年2月20日、現在のFRB議長であるベン・S・バーナンキはワシントンで”大いなる安定”というタイトルの論文(Bernanke, 2004)のプレゼンを行った。その論文では、経済学者の大多数による「景気循環は滅びた!」という見解が要約されていた。

主流派経済学者によるこうしたお祝い気分の、独善的な確信は、ロバート・ルーカスJrによるアメリカ経済学会の会長講演(2003: 1)に最もよく要約されている:
『マクロ経済学は、今とは全く異なる状況であった1940年代に、大恐慌への知的反応の一部として生まれた。この言葉は、かのような経済的破局の再発を防ぐことを望んだ知識や専門性の体系を指すものだった。このレクチャーにおける私の主張は、オリジナルの意味におけるマクロ経済学は成功裏に終わったというものだ:その中心的な問題意識である不況防止は解決され、実際のところ、何十年もの間、その問題は解消していた。より良い財政政策による繁栄を通じた利得の重要性も残ってはいるが、私は「より良い支出のファインチューニングではなく、人々がより働き、貯蓄するような一層優れたインセンティブを与えることによる利得が存在する」ということを論ずる。過去50年のアメリカの経済パフォーマンスをベンチマークとすると、より良い長期的サプライサイド政策によって得られる繁栄のポテンシャルは、短期的総需要管理の一層の向上のポテンシャルよりもはるかに優れているのである。』

このメッセージはシンプルだ。経済を過剰規制し、民間企業のインセンティブを阻害し、労働組合を過剰に強化し、福祉支出だけを熱望する怠惰でやる気のない世代を育成してきた介入主義者たちに対し、主流派経済学者たちが打ち勝ったということである。

この勝利は、政策レベルでは、安定化政策としての金融政策の優位として現れ、政策の第一目標はインフレーションの安定となった。財政政策は受動的で劣位の政策となり、政府は完全雇用を維持するという責任を放棄した。

こうした議論については、私たちは2008年の本 Full Employment abandoned  で詳しく考察した。

ルーカスが表明した所感は、いわゆるミクロ経済学的改革へ向かう主要な政策シフトに寄り添っているものだった。こうして広範囲に及ぶ金融市場改革及び労働市場改革が遂行された。世界金融危機が生じる前提条件は、この時期に定着した。

生産性成長に対して実質賃金の上昇は遅れをとるようになった。これは労働組合への攻撃と、職業の不安定性の上昇(非正規雇用の増加と就職難の悪化)の結果であり、それによって労働者たちが十分な報酬を希求するための能力を毀損したのだ。

消費成長を維持する枠が小さくなった分を、金融部門の急成長が補った。金融部門は、民間債務の大規模な増加を背景に急速に成長した。民間債務は多くの新しい借手に提供され、複雑なデリバティブにパッケージされて次なるカモに売りつけられた。

公の物語はルーカスの話した通りのものだった――景気循環はほぼ滅びた。

熱烈な政治的キャンペーンがそのような世界観を後押しした。政府を縛っていてた「国民の総意」などという概念を捨て、経済とは個々の貢献に応じてそれぞれに果実を齎す自然なシステムであるという見方を推し進めた。

彼らは、経済とは自己制御的システムであると喧伝していた。

Anat Shankar-Osorioは、彼女の本 Don’t Buy Itで、二つの経済モデルを提示した。一つ目のモデルは、以下に示す図で描写されており、彼女はこのモデルが保守的な見方を示すと考えている(実際には進歩的な見方もこのカテゴリーの範疇だが)。

それによれば、現在のイメージは「人と自然は、一義的には経済に貢献するために存在している」(Location 439)。経済は我々から分離され、我々の努力を認識し、その努力に応じて報酬を与える道義的裁定者ということになっている。働かない者や、”経済”の犠牲になった者からは、報酬は奪われることになる。

さらに、もし”政府”がこうした競争的プロセスに介入し、報酬を受けるに値しない態度(怠惰etc)でも報酬を受け取れるような抜け道をもたらしたなら、そのときシステムは機能停止し、”不健康”(経済を生き物と見做すメタファー)に陥るだろう。その解決方法は、経済の自然なプロセスを修復することになるだろう(つまり、最低賃金、雇用保護、所得補償etcといった政府介入を取り除くということ)。

したがって、”自治的かつ自然的”というのが我々の受け取るメッセージということになり、このメッセージに従えば、”政府の’でしゃばり’は良いどころかむしろ有害で、現在の経済的苦難はただただ受容しなければならない”という結論が明確に導かれる。(Location 386)

 

このため、我々の成功は、経済の成功とはある意味独立したものになる。実質GDP成長が強いことが成功している国の品質証明だ。 ”それが大気環境、休暇、平均余命、あるいは幸せといったものを犠牲にして成り立っているかどうか” は無関係だ――”…そうしたものすべては二次的なものになる”。

もし貧困率が上昇しているとしても、それは経済の失敗というより、その人が経済のための活動を十分に行っていないからであって、現在の経済運営で我々にとって十分なことがなされているということになる。

我々が、我々自身の失敗を責められるのだ。貧困率上昇が生じるのは、我々が十分に貢献していないからだということになる。成功している経済に対して標準以下の成功しかしていないなら、どうして報酬を期待することができよう?

進歩的見解もこうした論説に取り込まれており、例えば、緊縮財政論議などにおいても、”より公平な”代替案を提示しようとする。先進国で現在行われている議論を見てみるといい。

どの主要な(進歩的)政党も、緊縮財政ドグマには挑戦しようとしない。あなたは進歩的評論家が以下のようなことを書いているのをたびたび読むことになるだろう… ”我々は、財政赤字が問題で、政府債務は減らさなければならないということは知っているが、もう少し漸進的に行うべきだと思う”。

この点において、両陣営ともに事実上似たり寄ったりの主張をしており、公共的思慮が煙と消えている。その基礎的にある命題が根から枝まで間違っているにもかかわらず、解決策は明瞭だと思われており、価値観体系(保守側にせよ進歩側にせよ)は維持したままに程度問題の議論となっている。

代替理論を目指して

1990年代前半、新自由主義下の信用が高まり始めていた頃、今では現代金融理論(MMT)として広く知られる理論の初期の提唱者たち――それは小さいグループ(Bell/Kelton, Fullwiler, Mitchell, Mosler, Wray)だった――は、過去の異端理論(機能的財政論etc)を利用しつつ、それらに金融システムに特有の運営上の知見を付加し――金融資本主義の運営法についての代替的な論説を発展させようとした。

彼らはそうした論説を通じ、当時目の前にあった「自己制御的市場が万人に対して最大限の富を齎す」という主流派の信条が助長した経済動態が、実は持続不可能であることを明らかにした。

民間負債が積み上がる初期の段階においてさえ、無思慮な金融慣行が生じており、重大な危機が近づいているのは明らかだった。

しかし、他の進歩的経済学者たちは、そうした問題に関心を抱いていなかった。彼らは概してジェンダーやセクシュアリティ、方法論といった問題に注力しており、主流派経済学の論説に対しては、断片的で、容易に退けられるような批判しかしていなかった。

MMTの提唱者によって生み出された言説が進歩的な陣営での地位を上げていくことについての敵意すらあった。

大いなる安定は世界金融危機によって完全な停滞に陥った。世界金融危機は、最初に2007年8月にフランスの銀行であるBNPパリバが、サブプライムローン証券の履行可能性に対する不安の増加による3つの投資銀行からの撤退を凍結したときに始まった。(訳注:要するに、サブプライム証券不安を受けて、投資銀行からの資金引き上げの動きが生じ始めていたときに、BNPパリバが(自行傘下の)投資銀行からの資金引き上げを一方的に凍結した、ということです。)同月の後半に、イギリスのノーザンロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。

住宅価格と株価の急落に伴い、大いなる安定の中で積み上げられた富が幻であることが証明され始めた頃に、危機はエスカレートした。2008年9月、リーマンが破綻した。

このとき、自己制御的市場という考えが神話であることが暴かれ、主流派経済学理論の体系全体が信用性を失うことになった――大学で教えられ、研究論文で学術的に用いられる支配的なニューケインジアンモデルは、どれもこの危機を予測できるようにはできていなかったし、危機に対する実行可能な解決法を提示できるものでもなかった。

最終的に、王様は裸だということが明らかになったのだ。

主流派経済学者は当初、とんでもない想定外事象がいくつも生じたにも拘わらず危機に対して沈黙を守った。

危機がエスカレートしてきていた2008年10月23日、前FRB議長(訳注:アラン・グリーンスパンのこと)が米下院の監視・政府改革委員会に姿を現した。当委員会は”金融危機と連邦監督機関の役割”について調査していた。

下院議長のHenry Waxmanはグリーンスパンに対し、後で後悔することになったいくつもの決断を後押ししていたのは自由市場イデオロギーだったのではないかと尋ねた。彼は以下のように答えた:(US House of Representatives, 2008, page 36-37)

グリーンスパン: あー、思い出していただきたいのですが、何にせよ、イデオロギーというのは、人間が現実を扱うための概念上の枠組みなのです。すべての人が持っている。あなたも必ず持っている。生きる上で、あなたがたはイデオロギーを必要としている。問題なのは、持っているイデオロギーが適切か、そうでないかです。私が言いたいのは、そうですね、私の考えに欠陥を見つけたという事です。それがどれくらい重大で、永続的なのかわかりませんが、その事実に私は大変苦悩しておりまして…

Waxman議長:欠陥を見つけたと?

グリーンスパン:どのように世界が機能しているかを定義づける決定的に重要な機能構造だと認識していたモデルに、欠陥を見つけたという事です。言うなれば。

Waxman議長:言い換えれば、あなたの世界観、イデオロギーが、正しくなかったということ、機能しなかったということに気付いたと。

グリーンスパン:その通りです。それがまさに私がショックを受けた理由です。なぜなら、私は40年以上、そのモデルが非常に良く機能しているという相当な根拠を目にしてきたのですから。

しかし、「今回の危機が主流派経済学の役割に対する大いなる試練となった」という認識や、教育カリキュラムや望ましい研究事項を変更する動きも、短命に終わってしまった。

主流派の専門家は、民間の債務危機だったものを国家の債務危機に再構築し始めた。彼らの反政府・自由市場バイアスに適合するように。

危機を醸成させた動態(規制緩和や監督縮小)が解決策であると提唱された。公的な議論は「緊縮財政が唯一の道だ」という主張に溢れ、IMFやOECDのような主導的な国際組織も「大幅な財政緊縮は経済成長を毀損する」という考えを否定する熱烈な予測を立てた。

その後、IMFは自身の計算が間違っていることを認めざるを得なくなった(IMF apology ARTICLE)。
このように、MMTの論説は高度な予測上の価値を持っていたのだが、公共的議論への影響力はゼロに限りなく近かった。

Shenker-Osorio(2012)は経済について以下のような代替的概念を提案している。この概念は、経済が我々の構築物であり、我々から切り離せるものではないという考え方と整合的だ。彼女は以下のように書いている。(Location 1037)

このイメージは、本当に大事なのは、自然環境と密接に関係し依存している我々である概念を描写しています。経済は我々とともに機能するべきなのです。いま政策の是非判断は、それがどれだけ経済のサイズを大きくするかで考えられていますが、これからはその政策がどれだけ我々の幸福に資するかで考えられるべきです。

さらに我々としては「その政策がどれだけ財政赤字や政府債務を増やすか」をも政策の是非の判断材料に加えたい。

彼女の提案は機能的財政論の原則に正しく即している――そこでは経済は”構築物”と見做される――、政策介入は、それらが我々の広範な目標に対してどれだけ機能するかという尺度においてのみ評価されるべきだ、とされている。

だから私たちは、自分たちが何を目標として何を成し遂げたいのかをもっと幅広く正確に定める必要がある。ある一時点の財政赤字というのは無意味な目標だ。

財政バランスは――我々の目標や、政府純支出と目標の間の機能的関係に従って――いかようにもなり得るものだ。

政府は道徳を強化する存在ではないし、経済は道徳活動ではない。

 

 

メタファーと価値観

進歩的な文献(例えば、The Common Values Handbook)(訳注:The Common Cause Handbookの間違い? とりあえずそれらしきもの発見できず)では、”我々の態度や行動”に影響を与える”我々の基本規範”となる価値観を明示しようとしている。広範な研究によって、”一貫して生ずる人間的価値観が大量に特定された”。(Common Values Handbook, 2012:8)

この研究を大まかにまとめると、Schwartzの研究と彼の価値観を中心に展開するものだといえる。彼は我々の思考の枠組みとなっている基本で普遍的な10個の人間的価値観を特定した。

我々のビュー―このペーパーで詳説するもの―においては、こうした議論はある種付加的なものだ。そうした価値観は一般的であるため、どんな考えとも整合的なのである。

我々としては、それにいくつかの原則を付け加えることに集中し、その原則を支持する語法を確立していきたい。

諸原則と語法

その諸原則は以下のようなものだ:

1. 政府とは我々だ!

2. 政府は我々の代理人であり、あらゆる代理人と同様、我々が政府に対して資源と裁量を割譲する。なぜなら、我々は各々個人では達成不可能な便益を政府が創造することが出来ると信頼するからである。我々は規模というものを理解している。

3. 政府は、必要不可欠なサービスを提供することにより我々現役の世代の幸福に資する。収益は不必要。

4. 政府は、数十年に渡ってサービスを提供する生産的なインフラの建設を通じて、将来世代の幸福に資する。

5.私たちは政府にこのユニークな権限を与えることによって、制約に直面することなしに関心を追求できるようにしている。

6. 我々にとっての赤字は、その原資を見つけなければならないものだと理解されている。ところが、我々の代理人である通貨発行権付き政府にとっての赤字は、私たちの消費・貯蓄選択の原資となるものなのである。

7.政府の赤字が私たちの自由を強化する。所得を増やし選択肢を増やすからだ。

対決!主流とMMT

下の表は、経済学者や評論家が財政支出、財政赤字、公的債務、及び最も不利な状況にある労働者たちへの所得補償制度などを攻撃する際にしばしば用いている命題だ。

今回の論文では、これらの例が主流パラダイムが推進しようとする中核的な価値の強化につながっているということを示したい。例えば自己規律、独立性、野心、富、そして犠牲だ。

これらのそれぞれの偽命題の背後には、神話に偽装したメタファーの連鎖がある。二列目に書かれているのが、それらに対してMMTが提示する現実の動きだ。

主流経済学Modern Monetary Theory
財政赤字は悪財政赤字自体は善でも悪でもないが、非政府部門の消費意欲が現存する生産資源を十分かつ確実に利用するほど十分でないときには必要。
財政黒字は善財政黒字自体は善でも悪でもないが、資源に余力があり黒字が成長の足を引っ張る状況においては有害である。
財政黒字が国の貯蓄を産み出す自国通貨をもつ政府がその貨幣を貯蓄するという考えが無意味。貯蓄とは将来の支出を確実にするための支出行動で、金銭的制約を持つ政府ではない存在に適用されるもの。政府は支出のための資金をあらかじめ用意しておく必要がないので”貯蓄”の必要性は全くない。
景気循環を通じて予算は収支均衡させるべき予算は非政府部門の消費動向に応じて完全雇用を達成し維持するのに必要なだけの総支出水準に、景気循環とは無関係に調整されるべき。
財政赤字は金利を上げる。民間貯蓄との競合になるから。民間の貯蓄は収入次第で決められない。常に支出によって貯蓄が決まる。なぜなら貯蓄は収入の上下変動とともに変化し、支出の動きと直接関係しているので。
政府の資金調達費用は債券市場で決まる中央銀行が金利を定めており、イールドカーブの任意の箇所にコントロールすることができる。政府支出の費用は公共政策に利用可能な実物資源である。
財政赤字は将来の税負担財政赤字を返済する必要は全くない。各世代は自由に課税水準を選択することができる。
政府の財政余地がなくなるかもしれない財政余地はより正確には通貨で購入できる実質の財やサービスと定義される。通貨を発行する政府は、通貨で売られているものを常に購入することができる。政府にとって通貨での支払いができなくなるということはあり得ない。
財政赤字は大きな政府と同義だ財政赤字は大きな政府でも小さな政府でも生じ得るだろう。小さな政府でさえ、もし非政府部門が全体での貯蓄願望を持ち、かつ政策目標として国民所得を完全雇用水準に維持しようとするなら、継続的な赤字を計上する必要がある。
政府支出はインフレ促進的である全ての支出(民間あるいは政府)がインフレーションリスクを持つ。遊休資源(例えば失業)などがある間は、政府支出はインフレ促進的ではない。もし経済の実物キャパシティが吸収できる範囲を超えて名目総需要を加速させるなら、あらゆる支出がインフレ促進的となる。
民間部門に対して債券を発行すると、財政赤字によるインフレーションリスクが抑制されるある特定の政府純支出の水準に伴うインフレーションリスクは、赤字分と同額の債券を発行した場合と発行しなかった場合を比較しても違いはない。インフレーションリスクは、支出に関する金融的取り決めではなく、支出自体によって決定する。
将来世代の負担は、返済しなければならない債務という形態の財政赤字の継承にリンクしている将来世代の負担は、実物資源の利用可能性にリンクしている。例えば、ある世代が再生不可能な資源を使い果たせば、将来世代へ負担を課すことになる。将来世代は実物資源を過去へとタイムトラベルさせることはできない。
インフレ率のコントロールのために失業を用いるインフレ率のコントロールのために雇用を用いる
通貨発行権のある政府にデフォルトリスクがある通貨発行権のある政府にはデフォルトリスクは全くない。通貨発行者は、当該通貨建てで負った負債はどんなものであれ返済可能だからだ。
納税者のお金公共貨幣。納税者は何の資金供給も行ってはいない。租税は実物資源を解放する装置であり、それによって、我々の代理人である政府は、我々の共同体的利益のために、社会経済プログラムを推進することが出来る。
人は個々の関心に従い合理的に態度を決める人間は複雑かつ予測困難であり、理性と感情は不可分である。

下の図は、主流の新古典派経済学が用いるメタファーの例で、これらは上図左列にまとめた誤った命題を強化するために用いられてきたものだ。

攻撃目標メタファー目的
政府支出分相応の

国のクレジットカードの枠がいっぱい

酔った水夫のような浪費
余剰と犠牲が必要
急いで削減を
破産する
無責任な支出
無責任なふるまい
財政均衡財政ブラックホール
国の財政が悪化する

巨大化する財政赤字
国が破産する、壊れる

膨れ上がる赤字と負債
大質量の星の崩壊(天文学)の比喩
健康の比喩。病気、緊急事態
TINA - 外科手術
制御不能
国の財政は家計のようなもの - 経済は私たちに似ている

制御不能
国の負債アメリカは破産状態だ
債務の山
我々の孫たちへの負担
将来への借金
国は経営状態の悪い破産企業だ
莫大、重大
子供たちを弱らせる
将来を台無しにする
所得補償福祉依存
失業手当をもらったまま働かない人、ずる休みしている人
勤労者世帯
薬物中毒
怠惰、無価値

模範

語法

MMTが避けなければならない誤解を招きやすい表現がある。二つ例を挙げる。

ステートメント 1: 大量の失業は財政赤字が少なすぎることの兆候だ

結論としては正しい。

財政赤字という言葉には二つ問題がある。第一に、この言葉がネガティブな印象を与える。赤字とは不足を意味するからだ。

会計的な意味では赤字は支出に対しての収入不足だ。

第二に、財政収支の変動ではあいまいで、詳細かつ技術的な検討なしに量的な判断はできない。

結果としての財政収支が赤字なのが「良い」場合はある。民間部門の支出消費動向に基づいて完全雇用を維持しようという政府の裁量的な財政政策の結果として赤字が増えていた場合だ。「悪い」ケースとしては、民間の消費が落ち込み、自動安定化装置が税収を引き下げ失業が増加しているような場合がある。

またこの見方は、政府は財政収支をコントロールするのだという結論に行きがちだ。

現実において財政収支の結果とは、非政府部門の消費や貯蓄の動向と政府の裁量的な決定を反映する。

というわけでこの用語は問題があるし、実際ややこしいのだ。

国の収支に関しては「赤字」「黒字」という言葉を使うのをやめようと言う人もいるが、そのような提案が出てくる。

そのような、別の効果的な言葉が必要だという賛成ではあるのだが、教育によってコミュニケーションを効果的にできないかを考えている。

たとえば「赤字」のような言葉に代わる新語を作ったとるすると、その言葉が表しているストーリーそのものを完全に失ってしまいかねず、そうだとすればコミュニケーション上でほとんど意味がないことになると思う。

この種の問題は、新しい言語を開発するよりも、教育を改善したり理解を助けるツールを提供するほうが良いと考えるというわけだ。

ステートメント 2: 政府支出は非政府部門の金融資産を増やす

これも結論としては正しい。

マスコミはいつもありふれたメタファー ―― 政府は港で酔っぱらった船乗りのようにカネを使っている―― というのを使い人々の不安を煽っている。

失業を増やし実質所得を減らす財政緊縮を正当化するため、イデオロギー的に政府の介入に反対する人を利してしまう。

真実を隠す議論によって私たちの生活を悪化させる政策に手を貸してしまう。

支出、という語は何かが浪費されたりどこかへ行ってしまうような先入観を招いてしまうという事実がある。

政府支出とは実際には、非政府部門への資金(金融純資産)の供給であり、私たちの所得と貯蓄を増やし、雇用を増やし、非政府部門に将来のリスクを管理する手段をもたらす(貯蓄の蓄積によって)。

この場合は意味を変えずに言葉を変えられそうだ。

ここでは「政府の資本支出」ではなく、「政府の消費支出のための回帰的な投資」、「長期の投資」という語を使うべきだ。

しかしここでもまた、投資という語は混乱を招くかもしれない。なぜなら投資には二つの意味がある。:

(a)経済学者は生産力の増強と言う意味でこれを使うし、(b)普通の人々は金融資産の購入と言う意味で使う。

しかし「投資」にはポジティブな含意があるので有意義かもしれない。

まとめ

作業はまだ途中だ。
我々は、あなた方が用語が重要だと考えているかどうか、及び次のようなコンセプトについてどのような代替用語が適切と考えているかについて関心がある:

1. 財政バランス
2. 財政赤字
3. 財政黒字
4. 国債
5. 政府支出
6. 政府租税
7. 国民所得
8. 所得保障支出
9. 完全雇用

こうした取り組みを始動するべきだろう…
今日はここまで!

ニック・ロウ 「政府負債は子供世代の負担でしょう(リカーディアン均衡になると信じていないなら)」(2011年12月28日)

Debt is too a burden on our children (unless you believe in Ricardian Equivalence), December 28, 2011)
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実は外で雪かきをしながら、将来世代の負担としての政府負債に関するエントリを書こうか考えていた。それと、この問題に関するマクロ経済学者の考えが30年ほど前に静かに転換したこと。そして我々プロはある意味「記憶を改ざん」したということについて(Timur Kuranの “preference falsification” のような話。訳注:himaginary氏による関連情報)。経済学を知らない無学な田舎者だけが信じることだとかつては思っていたようなことを,今は自分たちが信じている。

そしてこう結論した。「いや、古い議論を蒸し返す意味はないな。例の「自分自身に借りている」という話はもう誰も信じていないし。」

で、屋内に戻りクルーグマンのエントリを読んだ。どうやら書かないでおこうと決めたことを書かなければならなくなった。

「高水準の負債が何の問題も引き起こさないということではない。問題は確かに起こり得る。でもそれは分配及びインセンティブについての問題で、一般に理解されているように負担になるという問題ではない。ディーンが言うように、子供たちに負担を押し付けるという言い方は特に無意味だ。我々が続く世代に残すのは、我々の子供たちのうちの誰かが別の子供たちにいくばくかの金を支払わなければならないという約束であって、それは負担とはぜんぜん違う問題だ。」

おそれながら、これは純然たる間違いだ。経済学を知らない田舎者ー国の負債は子や孫の負担になると考えるーは基本的に正しいのだ。正に「特に無意味」とは対極だ。リカーディアン均衡になると信じているのでなければ。

クルーグマンの続編エントリ

「これを肯定するのに右翼である必要はない。限界税率がとても高くなり生産性が損なわれることになるだろう。よって実質GDPは大きく落ち込む。

負債の負担の問題はインセンティブに関することで、誰かに資源を移転することではないと言ったのはそういうことだ。

……

つまり、借り過ぎた家計に喩えるのは完全に間違いということ。残念ながらこのつまらない例えが全国を覆ってしまっているが。」

いや、インセンティブの問題に過ぎないということはない。そして誰かへの資源の移転は確かにある。家計に喩えるのはつまらないことではないし、完全な間違いでもない(もちろんあらゆる喩えのご多分に漏れず、物事を完璧に描写するわけではない。)

昔、私たちは皆NB(訳注:Not burden、「負担でない」)と信じていたものだ。少なくとも、教育を受けた洗練された人々は皆NBと信じていた。B(訳注:burden、「負担である」)と信じていたのは無学で洗練されていない人だけだった。私たちは皆うぬぼれて「そのへんの人」は間違っていると見なしていた。実際、BかNBかのどちらを信じるかは、その人が教育され洗練されているかどうかのクイックテスト足り得た。教育され洗練された人々の中にもBと信じていた人や、NBであることが自明だとは本当に理解していなかった人たちもいたかもしれないが、皆それを隠していた。自分が教養がなく洗練されていないと他の人に思われたくなかったからだ。

1980年代のいつだったかに参加したチャールトンでの経済学セミナーを覚えている。招待講演者は年長の男性で、アメリカのトップ校から来たオールドケインジアンだった(名前は忘れてしまった)。セミナーの途中で彼はこう言った。「聴衆の皆さんは経済学の素養があるのでBだと信じている人はいませんね。」 そう言って彼は黙って室内を見渡した。私は顔が熱くなった(あとで院生に聞くと私の顔は真っ赤だったそうだ)。私は挙手し、自分はBと思うと言ったものだ。

ジェームス・ブキャナンは洗練されたマクロ経済理論家ではなかった。彼はマクロはやらなかった。彼は政治の経済学と公共選択をやっていた。マクロ理論の権威では全くない。ジェームス・ブキャナンはBだと論じた。彼も私と同じ田舎者だった。(そりゃ自分でもわかってるけれど、なんでそんなこと聞くの?)

ところが、ある時突然、洗練され教養のある人々が皆Bと信じるようになったようだった。とても静かな革命だった。目に見える議論は兆候すらなかった。ある日まで我々は皆(私が言っているのは教育を受けた洗練された人々)NBを信じていた。そして翌日は皆Bを信じるようになっていた。Bと信じている「そのへんの人々」を見下すのをやめた。自分が以前NBと信じていたことを口にすることすらなかった。昔の記憶から古い信念を消し去ったのだ。ソビエトの写真のように。話題にすることが恥ずかし過ぎる事柄になったのだ。

このような記憶抹消や信念の静かな反転には危険がある。「メモが回ってこない」人たちがいて、古いNBを信じ続けている。我々(洗練され教養のある人々)も皆かつてそうだったようにだ。付け加えれば、このことは信念一般について、我々はそれを信じることがファッショナブルであるものを信じるものなのかもしれない、ということを示唆している。(我々はこれをやっている。しょっちゅう。我々の信念、とりわけ教養的で洗練された信念の多くが実にくだらないのはこの理由からだ)。

ポール・クルーグマンは私よりはるかに優れた経済学者だ。ただ「メモ」が彼には回らなかった。古い箱に押し込んでいた記憶を再び開くときが来たのだろう。

BとNBの違いの核心を突くため、単純にした仮定を置こう。(そう、もちろんこれらの仮定は偽であり非現実的だ。しかし両者が合意している領域を除外することよって、合意していない領域に集中できるというわけだ。)

仮定:閉鎖経済、投資およびあらゆる実質資本はゼロ。税は歪みのない一括税で、徴収コストはゼロ。実質金利はプラスで実質成長はゼロ。完全雇用水準の生産があるものとする。生産する財はリンゴのみ。リンゴは保存できない。経済主体は同質、世代は重複。以上、おかしな仮定はない。

政府は借り入れによって得た100リンゴを現役世代に配るとしよう。このことは将来世代の負担を生み出すだろうか? イエスかノーか? BかNBか?

私の答えはイエス、Bだ。間違いなく将来世代の負担が作り出されている。将来世代の負担にならないとすれば、リカーディアン均衡が成り立つ場合だけだ。リカーディアン均衡では、人はそれが将来世代の負担になると認識するので、もらった支払いを全部利息ごと貯蓄し、遺産として子の世代に渡す。子も、将来世代の負担を無くしたいからという全く同じ理由で次の世代に渡していく。

洗練されていない無知無教養な人物は基本的に正しい。負債は彼の子や孫の負担だ。バロー=リカード風にそれを予想して遺産を増やすことによって帳消しにしようとした時のみ、負担は消える。

いやいや、私の議論にタイムトラベルは出てこない。今から100年かけてリンゴを育て、それをタイムマシンに乗せて今食べるようなことは必要ない。あたかもそれができるかのような。

私の議論は明快だ。世代重複モデルについて考えれば明らかだ。そして世代重複モデルなど一度も考えたことのないような、洗練されておらず無教養な田舎者にとっても同じくらい明らかなことだ。

政府が世代A全員から100個のリンゴを借り、全員に100個分の支払いをする。これはちょうど、政府が単純にリンゴ100個の借用証書を渡すのと同じだ。借用証書は国債だ。

ここまででAのリンゴ消費に変化はない。

世代Aは若いB世代のメンバーに債権を売る。ここで世代Aはプラス110個のリンゴを得て(金利は一世代10%とする)、これを食べる。世代Aが死ぬ。

世代Aの収支はプラス。世代Aは全員110個多くのリンゴを食べる。現在価値で見ると110個のリンゴは支払いを受けたときのリンゴ100個分の価値に等しい。

世代Bは若いうちはリンゴを110個少なくしか食べられないが、晩年に121多く食べる。そしてC世代のメンバーに債権を売る。世代Bは生涯で11多くのリンゴを食べるが、現在価値で見ればプラスマイナスゼロだ。金利は「若いころのリンゴは少なくなるけれども、晩年に取り戻せるよ」と説得できる水準である必要がある。そうでなければ彼らは世代Aから債権を買わない。と言うわけで、Bはプラスマイナスゼロ。

しかし(仮定から)負債はGDPよりも増えるのが早い。政府はこれが維持不可能と知る。結局は次の世代が前の世代から債権を買えなくなるので、永遠にロールオーバーすることができない。そこで政府は負債を償還するために、若き世代Cの人々に一人121リンゴの税を課し、これを原資に世代Cから債権を買い戻す。

世代Cのリンゴは121少ない、ということになる。

世代Aはリンゴを多く食べ、世代Cは少ない。これはちょうど、世代Cの口から世代Aの口へリンゴが時間移動するのと同じだ。(タイムマシンを通ることで利子が差し引かれる)

そう、政府負債は将来世代の負担なのだ。

場合によっては将来世代の負担を帳消しにできるだろうか。イエス。

リカーディアン均衡が意味するところでは、個人が次の世代の子供たちに債権を「売る」のではなく「贈与」することにすれば負担を帳消しにすることになる(訳注:従って余分のリンゴを食べない)。よって、リカーディアン均衡を信じる限りにおいて、国の借金は負担でないと議論してもよい。しかしそれは、各個人がそれを負担と見なし、それを帳消しする行動をとるがゆえに負担ではなくなるという話なのだ。ここでも無知無教養な人は正しい。

あるいは、この負債を子供の教育投資の原資に充てても負担を帳消しにすることができる。またあるいは、常に金利が成長率よりも低いとの仮定を加えれば「ノン・ポンジー」条件にならないので、将来世代に増税しなくても負債を永遠に利息付きでロールオーバーすることができ、よって世代Aが多くのリンゴを食べても、続く世代のリンゴが少なくなることはない(上の世代Cが現れず、Bの状況が続く)。

同様に、上の単純な仮定群はすべて、緩めても基本的な結論がほぼ同じになると示すことができるのだが、それは別の機会に。

サイモン・レン=ルイス「政府負債は将来世代の負担か?もしくは最後の世代のパラドックス」(2011年12月30日)

Is government debt a burden for future generations? or the paradox of the last generation.mainly macro, December 30, 2011)
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クルーグマンが「負債は(ほぼ)我々が自分自身に負うカネだ」と題された良いエントリーを書いている。その論点は、学生がマクロ経済学がミクロ経済学とどう異なるか理解するのを助けるために私もしょっちゅう使っているものだ。政府は負債の金利を支払うために増税しなければならないので、政府負債は納税者の「負担」であるように見える。しかし当の納税者が貸し手であるならば金利を受け取るわけで収支は全く悪化しない。さて、この考え方はもっと拡張することができるだろう。政府が(必要と思われているより)余分に借り越す分について、それが将来世代の負担になると考えるのは確かに筋が通る。

議論に踏み込む前に二つのファクター、非常に重要だがここでは無視するファクターについて述べておくべきだろう。第一に、増税はインセンティブを歪めるため、そのコストがかかると言える。第二に、政府負債は資本を創出する他の貯蓄ツールと置き換えることができるので、投資や資本蓄積を減らし、さらに産出も減らす面がある。以上のこの二点についてはもっと論じるべきことがあるが、それは別の機会に譲る。ここではトータルの収支に焦点を当てたいので上記二点は考えない。

次のような明白なパラドックスを考える。一時的な減税によっていくぶん負債が増えたとする。この減税された世代を「減税世代」と呼ぼう。また、この負債は「永続的」なものとする。決して返済されることはなく、また貸し手は金利を受け取り続ける。この債権は国内に売られるものとする。当然、減税された人の収支は改善する。ここで上に書いたように、将来世代の単純収支は悪化しない。つまり、全体としては税金は取られるが、金利で返ってくる。フリーランチを得ているように見える。減税世代は恩恵を受け、将来世代は損をしない。
(ここはミスがある。下のニック・ロウのコメントと私の返答をみよ。どういうミスなのかは別のエントリにて。ここの議論への影響はない。)

このパラドックスの原因は何だろう。では、この負債が永遠ではなく千年後に返済しなければならないものだとしてみよう。その時政府は増税して負債を返す。千年後に税金を払うこの世代はずいぶん損をする。この世代の収支は減税世代の恩恵と同じだけ悪化する。この場合パラドックスは消えている。返済しなければならない最後の世代が存在しない場合にパラドックスが現れる。

賦課方式の社会保障スキーム(未積立て)にも同パラドックスが現れる。政府が年金制度を創設するとする。働いている世代が拠出したお金を使って年金を支払われるというものだ。この制度を導入する際にちょうど引退の時期に当たった人の収支はとても良くなる。「タダで」年金を受け取れる。引退の時に受け取る年金を支払った人も基本的に損はしない(基本的に、と書くのはこの「強制貯蓄」からのリターンがどのくらいかの心配もするべきだからだが、この議論では戻ってくるということ自体が重要だ)。ここでもまたフリーランチを得ることになるが、それはこの年金制度に終わりがないということが前提だ。終わりがあるならば、最後の世代が積立を支払ったのに年金が受け取れないということになる。彼らの損失は導入の時に引退した人々が得た恩恵に相当する。

このように、必ずしも政府負債が将来世代の負担であるとは限らない。決して返済されないとしたら。ただし、これは現実的で賢明な想定ではない。私の考えでは意味を持つのは次の場合だ。長期の負債計画を持つ政府は、目標値を超えた分の負債はどこかで返済しなければならないとする。もしそうなら、いま負債増加はそれを返済する将来諸世代の負担になる(政府はゆっくり負債を目標水準に戻すので)。

緊縮でなく財政出動を推進する我々は、これによって今考えを改める必要があるのだろうか。ノー。トータルで見て、便益がコストを上回り続けているだろう? 1930年代の大恐慌を避けるためだった拡張的財政が今の税を少し高くしているからといって、やらないほうがよかったという議論を本当にしたいだろうか? そんなわけはないだろう。

(以下、コメント欄から訳者抜粋)

Nick Rowe 14 January 2012 at 21:26

サイモンへ。もし自分が誤解していなければ、少しおかしい。
標準的な世代交代モデルで、永続的な負債とすると、その金利を支払うための税を課される世代はすべて収支悪化となる。生涯消費の現在価値という意味でも、生涯効用の意味でも。直感としては、有利子の場合、全員が消費を後ろに延期する形になるとし、得られる利子の方は代表的個人にとって(一括税として)得た瞬間に課税されて相殺となる。

しかしながら、永遠にその金利が成長率を下回るならば、その負債は増税することなく永遠にロールオーバーすることができる。将来世代の負担がゼロになるのはその場合だけだ。サミュエルソン58。

一時点で捉えるとこの負担を見逃してしまう。そうではなく、各世代の生涯消費(または生涯効用)の現在価値で見る必要がある。

僭越ながら、クルーグマンはこの見逃しをしている。

君はこれについての私のエントリを読んでくれただろうか。


Mainly Macro 15 January 2012 at 11:11

ニックへ。君が正しい。超過負債は返済すべきものであるがゆえに将来世代の負担になるという論点に注力したので、クルーグマンの展開した議論には無批判になってしまった。基本的な論点を混乱させないように、ここでは他の貯蓄ツールとの比較や、動学効率性、リカードの等価定理を避けたのだが、上で書いた返済されない負債の例はご指摘の通り、少しおかしい。(悔しいが、おそらくポールに対するブラッドの言い回しに気を取られてしまったせいで、知っていたはずのことを忘れてしまった。)
とは言え、これでエントリの基本的なメッセージが変わるとは思わない。これは税の歪みやクラウディングアウトと同種の問題で、超過負債が永遠であるべきと考えるのは間違いだ。だからもしそうだったら(それが負担であろうがなかろうが)何が起こるかについての議論は、政策的な関心と言うより、学術的な関心からの議論だ。

ジョセフ・ヒース 「偽善」についてのメモ (2014年12月12日)

A note on hypocrisyIn Due Course, December 12, 2014)

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この件は昔から個人的なイライラの元なのです。偽善とは何かということについて、とても多くのジャーナリストたちさえ明瞭な理解をしてないように感じられるのです。簡単のため、日常的な偽善の定義、「していることが言っていることと違う」という定義で話を進めましょう。これは立派な定義なのですが一つ問題があって、誰かを偽善だとして咎めようとするときに相手が言っていることを注意深く観察することが重要になります。特に、ルール一般がどうあってほしいかの話なのか、それとも、所与のルールの下でどんな行動をとりたいのかの話なのかの区別に注意を払うことが大事です。(Viktor Vanberg と James Buchanan は「構造的選好」(constitutional preferences)、「行動の選好」(action preferences)という語を導入しこの二つを区別しました。この呼び方はベストではないかもしれませんが、この区別に関する彼らの議論は重要なものです)。

具体例を挙げましょう。先日私は、ビル・ゲイツが選んだ2014年の5冊 についての小さな記事を読みました。うち一冊はトマ・ピケティの「21世紀の資本」だったのはウケました。ゲイツはこう言ったそうです。「著者のいちばん重要な結論に賛成だ。不平等の問題はますます大きくなっており、政府はこれを緩和する役割を果たすべきだ。著者の業績を称えるとともに、これが賢人たちが不平等の原因を探求したり解決するためのきっかけになることを期待する。」と。

こう言うと決まって「偽善だ!本当に不平等を解決する気があるなら自分の金をばらまくんじゃないのか?」という反応がありますね。知っての通りゲイツは自分の巨額のお金を—あなたや私が稼いだ以上の額を—ばらまいてきましたし、彼の子供たちに残す額にも厳しい上限を設定しています。しかしそれでもまだ彼はクロイソス級のリッチマンですし、彼があと20億ドルもばらまけば不平等をそれだけ緩和することになるのも確実です。さて、では彼自身が自分のお金でもっとできることがあるのに、政府に対して不平等の緩和のためより積極的な役割を果たすよう求めるのは、果たして「していることが言っていることと違う」ということになるのでしょうか。

答えは「ノー」。その理由は「構造的選好」と 「行動の選好」 の区別にあります。
ほとんどの人は、ある問題について自分個人がどれだけの義務を負うのかは、他の人々がどれくらいのことをしているかにある程度依存していると考えています。その人は同時に、他の人々がもっと多くのことをすればよいのにと思っているかもしれないし、また、他の人がそうするなら自分も喜んでそうするつもりもある、という場合もあります。つまり、自分を含む全員がXをするというルールに変えることを常に支持するけれども、同時に、そのようなルールがまだないのであれば自発的にXをすることはしない、ということがあり得るわけです。これは単純明快なポイントなのですが、公共の議論においてしばしば無視されています。(ジェラルド・コーエンの著書、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』はこの単純なポイントに焦点を当てていればはるかに短い本にできたといつも思うのですが、考えてみればそれができないことがコーエンのこの仕事の欠点の一つなのでしょう。)

さて私は、税はあと1%高い方がいいと考えているのですが、かと言って自発的に余分に払うことはしていません。私のずる賢い会計士は私の税負担を減らすために様々な手法を駆使しています。大学教授はもっと授業をするべきだと考えていますが、自発的にクラスを増やしたりはしません。気候変動と戦うために私たちはあらゆる手段を講じるべきだと考えますが、私自身は明らかにサステナブルな水準以上の炭素エネルギーを消費しています。それでも私が偽善ということにはなりません。

とは言え、「みんなだってそうしている」、「みんながやるなら喜んでやるけれど」という言い訳を余りにも利己的に使いすぎる人のことを、何か一つの言葉で記述しようという考えが間違っているというわけではありません。たとえば、気候変動に対してのカナダの態度ですが、「構造的な」水準で言えば炭素使用量緩和の枠組みを決めたいと私たちは皆が思っていますが、個々の行動の水準においては、全員が計画に同意できるまで何も実行する準備がないわけです。個人レベルのアナロジーで言えば、「皆が正直に税を払うべきだと思う」と言いながら、どこかの誰かが税を回避しているということを知ると「なんで自分が払わなければならない?」と言って、あらゆるスレスレの税回避手段を駆使するような人。

一般化するとこういうことです。ある行動Xは全員の義務であるべきという構造的選好を持っているような人であっても、それが全員の義務になっていない状況においては行動Xをとる義務はありません。とは言え構造的選好はあなたの行動を緩やかに制限するはずです。つまりXと正反対のことは選択すべきではない、というように。これを犯してしまう不道徳にも名前があれば良いですね —「偽善」は明らかにこれを表現するための適切な言葉ではないので。

そうそう、偽善の正当な例をお望みでしたら、こういうのがそうでしょう。

ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは,現代の大学界隈に見られる多種多様なふるまいをジャーナリストたちがひとしなみに「ポリティカル・コレクトネス」の一語でくくってしまいがちだとぼやきました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

この章の締めくくりは控えめな勝利宣言です。

左翼は、実際の問題を特定しながらそれを間違った原因に帰着させてしまったため、政策としての解決策を提示することが難しいということになったのだ。(177)

このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えたくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実際の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。

ジョセフ・ヒース 「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日)

The problem of “me” studies

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大学での「ポリティカル・コレクトネス」の問題についていろいろ言うジャーナリストがたくさんいるのだが、言っていることはたいてい古臭いか、どこか的外れに思われるものばかりだ。私が見るところ、ポリティカル・コレクトネスの盛り上がりは90年代初頭に最高水位に達したが、そのあとはずっと凋落傾向にある(少なくとも教員の間での話で学生については別の問題だ)。この認知相違の一因は、不正確な語法にありそうだ。大学外の人々はポリティカル・コレクトネスという言葉の下にたくさんの別のものをまとめてしまうのだが、大学ではそれぞれ別の言葉が使われている。今日ここで書きたいのは、しばしばポリティカル・コレクトネスとされてしまうが、正確には「“じぶん”学」の問題として知られている、ある困った状況、傾向についてだ。

まず、ポリティカル・コレクトネスが凋落傾向にあるとはどういうことなのかの説明が要るだろう。ジャーナリストがこれを口にするときにたいてい思い描いているのは、あの古臭い「言葉狩り」だ。もちろん、いまだに大学でこれが発生していることは認めざるを得ない。先日も大学のある人が、私が出した本のカバーに書かれた「この二十年で、西側諸国の政治システムはますます分断されつつある。右と左にではなく、気違いと非気違いに」という文に異議を挟んできた。「気違い」という言葉を使うことを非難するのだ。明らかにこれは「差別」だから。

つまり、そういうことは今もある。ただ、それはもはや深刻な問題とは受け取られていないのだ。この種の言葉狩りは大学ではバカバカしいネタで、誰もがそれをどうやればいいか知っていて、しかも、学部を終える頃までには卒業するものだ。いろいろな人がいる集団の中でこのような言葉を使えば周囲は呆れて目をパチクリさせる。そんなことをすれば「お仲間」以外の人たちからは話をまともに扱ってはもらえなくなる、ということに普通はなっている。

他方、もっと深い問題がしっかり残っている。「“じぶん”学」と呼ばれる現象だ。学生に対し私たちはしょっちゅうこう言う。「長い目で成功するためには、自分が深い興味を持つことができ真に情熱を持てるテーマを選ぶことだ。」当然ながら一番情熱と関心を持てるテーマとは・・・まさに自分自身、となる。地上でこの瞬間起こっている事柄の中で、自分の生活こそは最も興味を惹かれるものだと考えるのは圧倒的で当たり前の傾向だ。人生は自分のためのものなのだから!

というわけで「自分の情熱に従いなさい」という助言に従い、本質的に自分自身についてのテーマからの招待に応じる人々がいる。一例として、モントリオールで人類学を学んでいた私の古い友人の修士論文なのだが、タイトルを正確には思い出せないが、確か「モントリオールのプラト―地区におけるケベック人-ユダヤ人カップルの違いの埋め方」というようなものだった。彼女は当時ユダヤ人若者と一緒に、ご想像通り、プラトー地区に住んでいた。そう、彼女の修士論文のテーマは自分の関係性に関する問題だった。この例は、クラシックな 「“じぶん”学」。

今の例は、害はないにせよ少し歪んだものではある。なぜなら、基本的に人文学の広い意味での目的を転倒させている。人文学の本来の目的は、歴史的また文化的にすさまじいまでに多様な形をとる人間経験というものについての理解を深めることだ。基本的に、異なる人々は異なるやり方で世界を理解し評価しているということを深く理解するためだ。それゆえ自分自身を研究することに時間をかけることは、ある意味専門知識としては良くないということになる。もちろん全ての人がよい専門知識を持たなければならないということでもない。

ただ「“じぶん”学」は、「自分自身そのもの」ではなく「自分が抑圧されているもの」を学ぼうとする場合に、問題をはらむものになりやすい。もちろん抑圧自体は完全に正当な探求テーマであるし、その形態も多様だ。実際、20世紀を通して私たちが消し去ろうとした様々な社会的不公平の問題は、努力もむなしく、非常に御しがたいものだとわかった程度に過ぎない。

なにしろ、不公平を無くすのが難しい理由を示すことだけでも驚異的にチャレンジングな冒険だ。(一例として、男女の給与格差を挙げる。この格差がどうして生まれるのかは全くわかっていないし、これまでに明らかになっている諸理論も問題全体の断片に過ぎないということは少し論文に当たるだけでわかるだろう。解決が待たれる社会科学上の重要問題が居座っている。)

それにしても、多様な形をとる抑圧というものを学ぶのに最もふさわしいのはどのような人だろうか。立ち止まって考えてみるとこの問題の扱いはむつかしい。いちばんふさわしい位置にいるのは、実際に抑圧されている人だろうか、それともそうでない人だろうか。どちらも理想的とは言えない。理論構築のどこかの水準で自己利益か自己弁護のどちらかのバイアスがかかるだろうからだ。

これに対しては、たくさんの人が同じ問題を研究しロバストなディベートを積み重ねればバイアスは修正されていくだろう、という議論がある。しかし残念ながら、実際にはなかなかそうはならないのだ。抑圧についての学問は、その抑圧に関連する苦しみを負った人ばかりを過剰なまでに惹きつけてしまう面がある。 そもそも「“じぶん”学」は個人的な野心や不満に訴えかけるものであるから、そういう人はそこに強い関心を持っている。このことは、この抑圧をべつだん受けていないような人たちを締め出す力学を生み出す。

学問の質という面で、これでは悲惨なことになる。「批判研究」といったものを専門にしている人が、批判的な思索からは驚くほど遠い人だったという経験をしたことがこれまで何回あったかわからない。彼らには、批判的な思索にとって最重要なスキルであるところの「自己批判」、自分の見方に疑問を持ったり自分のバイアスを修正したりする技術が欠落している。彼らがそうなるのは、自分の見方を深刻に揺るがす挑戦を受けた経験がないからだ。(最初から自己批判に長けた人はいない。上達のためのたった一つの方法とは、自分に賛成しない他人からの挑戦を受けることだ。)

ある研究対象が研究者自身のかかわる抑圧で、同時にその研究者が抑圧される側に属していることがはっきりわかっているようなとき、同情はするけれど意見には賛成しない人たちは挑戦してこない。そういう問題だ。挑戦することにより、同情していないかのように見えてしまうことを避けるからだ。そして特にあなたに同情しない多くの人々もまた、何も言わないだろう。彼らだって同情していないことをわざわざ示そうとは思わない。かくして、聞こえてくる意見は次の二種類の人々からだけということになっていく。一つはあなたに同情し、かつ、あなた以上にラジカルなスタンスな人たち。もう一つは非同情的で、同時に、どういうわけか他人にどう思われるかを気にしない人たちだ。

これについて私は下のようなイメージを持っている。まず、人をその抑圧を悪いと考える人とそうでない人のグループに分ける。不公平かもしれないが人間性というものに敬意を表して、前者の方が多いとしよう。さらに、同情的かどうかと、その抑圧に対してどのような態度を採るかの基準を考えよう。まず、ラジカルで極端な見方を持つ人がいるだろう(例えば、この問題を改善するために社会秩序のすべてをひっくり返せば良いと考える)。中庸の人もいて、保守的な人(改善策はほとんどないし、改善の試みがかえって状況を悪くしかねないと考える)もいるだろう。

無題J

あなたのポジションは「中庸」と「ラディカル」の間の位置だとして、自分の見解についてプレゼンするとする。挑戦してくるのは誰だろうか。それは基本的にあなたよりよりもラディカルな見方をする左側の人たちと、はるか遠くの右端にいる人たちだろう。前者は、発言があなたに同情的ではないと受け取られられてしまうという心配がないゆえに自説を主張する。後者は、まさに同情的ではないゆえに、また、周囲にそう受け取られることも気にしないがゆえに。

実際、プレゼンの質問時間が次のようになったのに何回立ち会わされたからわからない。発表者はプレゼンで、大多数の人々の考えは間違った方向を向いているという見方を示した。対して次のようなことは誰も言おうと思わない。「その指摘に意味があるとは思えない」、「その主張の根拠を言っていないようだが」、「その政治的提言は利己的すぎる」、というような。他方、出てくる質問は次のような二種類の質問だけだ。「その分析が、本当に社会的開放の実践に繋がっていくのかが心配だ」(つまり「あなたは左翼として甘い」)というタイプ。もう一つ、「あなたたちはいつだって自分の問題の不平をいう」(つまり「自分は無神経な “jerk” (訳注:嫌な奴)だ」)というタイプ。

そして、多くの人はプレゼンの後、会場の外では本当はどう考えるかを語る。さまざまなタイプの理性的批評は全部ここでなされるだろう。もしプレゼン者が彼らと交流していたら真に有意義なものになったであろうような指摘がなされるだろう。というわけで、「“じぶん”学」の実践者は基本的に両極端の人々からだけしか真摯なフィードバックを得られないので、研究の質の向上という意味において、初めから巨大なハンディキャップを負っている。

さらに悪いことに、上のシナリオと同じ出来事が繰り返されることにより、議論はますますねじ曲がっていく。何故か。プレゼンターの右側に位置する全員のうち、大声で発言しようとするのは、言ってみれば、プレゼンターから見て道義的に間違っている見方をする人々のみだ。するとプレゼンターは「自分に賛成しない人たちは全員が道徳的に怪しい」と感じるようになりがちになる。つまり 「“じぶん”学」の実践者から見て、「自分に賛成しない人々」と「道徳的に非難されるべき見方をしている人たち」とが強く相関しているように感じられる。こうして、「理性的な不同意」というものもあるという可能性を簡単に見失ってしまう。ここで理性的な不同意とは、道徳的信念をおおむね共有しつつも、すべきことは何か、また改善のために必要な正義は何かという点では賛成でなかったり、その問題は道徳とは関係ないプラクティカルなものだと考えていたりすることだ。

以上のメカニズムは、なぜあれほど多くの「“じぶん”学」実践者たちが、リアクションに対しあれほどまでに応報的に対応するようになったかをかなり説明できているだろう。彼らは、自分の見解に対する「すべての」批評が、道徳的に疑問がある動機からなされていると考え始める。これはポリティカル・コレクトネスと呼ばれているところの、はっきり言えば、全ての反論を教化しようとする傾向となり、知的な批判にも知的には対応せず、ただ応戦するようになる。

こうして全ては悪循環になる。どんな批評に対しても激怒するものだから、同情的な批評はますます得られなくなってしまい、 コメントはとうとう”jerk” か極端な左翼からのものだけになる。こうして反論への応戦という対応を生み出した認知がさらに強化されるというわけだ。そうなると救いようがなくなる。

学問の世界にいて30年、この力学の具体例を数ダースは挙げることができる。問題に嵌ってしまった人たち。ちょくちょく話題になるようにはなったが、誰も大衆に問いかけようとは思わないような変な考え方。この特殊世界の人々は、私に対しても怒りを向けるようになる。これに対し私はいつも黙るだけだ。私が何を考えているかを知りたいならば質問すれば良い。彼らから質問されたことは一度もないけれども。

スコット・サムナー 「三つの10月」

●Scott Sumner, “Three Octobers”(TheMoneyIllusion, March 8, 2009)

表題の「三つの10月」というのは1929年(の10月)、1937年(の10月)、2008年(の10月)のことを指している。いずれもコモディティ(一次産品)価格の下落を伴う株価の急落に見舞われた年だ。迂遠なようだが一歩引いて過去の例(1929年10月と1937年10月のエピソード)を振り返ることで昨今の危機をより深く理解できるようになるだろう。というのも、これら三つのエピソードの間には興味深い類似点があるからだ。

これらの三つのエピソードはいずれも広い意味での「貨幣的な」(monetary)問題を根っこに抱えていると言えるが、現代の金融理論をもってしては簡単に説明し尽くすことのできない面を持っている。その一方で、私が前回のエントリー〔邦訳はこちら〕で描写したモデルに照らして考えるなら、これら三つのエピソードを通じて経済を深刻な不況へと押しやった力が何だったのかを説明することができる。例えば、私自身のモデルに照らせば、1929年に関しては中央銀行による金(ゴールド)の退蔵(溜め込み)が問題の元凶であり、1937年に関しては民間部門による金の退蔵(溜め込み)が問題の元凶であり、そして2008年に関しては民間銀行による準備預金の溜め込みが問題の元凶であったという結論が得られるのだ。

これら三つのエピソードの間には重要な相違点もある。1929年には純然たる需要ショックが発生したが、金融システムや供給サイドではこれといって大きな問題は起こらなかった。1937年には金融システムは安定していたが、経済は強烈な賃金ショックに見舞われることになった。そして2008年は強烈なオイルショックと厳しい金融危機に襲われた。

これら三つのエピソードに関して私がとりわけ興味を惹かれるのは、金融系のメディアの当時の報道を眺めていると(株価暴落に見舞われた)10月前後の時期にいずれのケースでも劇的に期待が変化したという強い「感じ」(the strong sense)が読み取れることである。投資家たちが名目GDP成長率の向こう2、3年先の見通しを突然劇的に引き下げたという「感じ」が読み取れるのだ。もちろん今も昔も新聞で「名目GDP」について言及されることは滅多に無いが、いずれのケースでも10月にインフレ期待と実質成長期待が急落したことを示す明らかな「感じ」があるのだ。例えば、1929年の半ばにおいては経済は力強いブームの最中にあったのに、12月に入ると状況は一変して今回の不況はいつになく厳しくなるだろうという不吉なレポートがたくさん出回るようになり、鉱工業生産は第4四半期に極端な勢いで下落したのであった。1937年と2008年のケースではいずれも株価が急落し、それと同時にコモディティ市場(そこでも価格が急落していた)や債券市場(短期金利はゼロ%に近い水準にまで下落した)から非常に弱気なニュースが流れ込んできたのであった。それに加えて、1929年のケースと同様に、1937年のケースでも2008年のケースでも生産はいつになく極端な勢いで減少することになったのである。

これら三つのエピソードのいずれでも株価暴落がそれに続く不景気の引き金となったのではないかと考えたくなるかもしれない。しかし私はそうではないと思っている。1987年の10月(また10月!)にもこれら三つのエピソードに引けを取らないほどの株価暴落が発生したが、その後に不況どころか景気のマイルドな減速すら起こらなかったのである。もちろん個々の事例はそれぞれ事情が異なるとは言え、株価暴落がそれ自体として経済成長に強い影響を及ぼすだけの力を持っているのだとすれば、1987年のケースでも株価暴落の直後にちょっとくらいは景気が落ち込んでもいいはずだろう。

 

1929年10月

現在私は大恐慌をテーマとした本を執筆している最中なのだが、正直言ってその本の中でも1929年の株価暴落を完全に説明できるかどうか心許ないのだが、部分的な説明ならできると思っている。鍵は金融政策だ。当時は言うまでもなく金本位制下にあったわけだが、金本位制下で真に外生的な政策ツールと呼べるものは金準備率(中央銀行が準備として保有する金とマネタリーベースとの比率)だけである。フランスが金本位制に復帰した1926年12月から1929年10月までの間に世界全体で金準備率は年率2.5%のペースで上昇したが、これはマイルドなデフレーション政策であったと言える。実際にもこの間に世界全体の物価水準はやや下落傾向にあったのである。

金準備率はその後の12ヶ月の間にさらに9.6%もの急上昇を見せ、ほとんどの先進国は厳しいデフレーションと不況に陥ることになった。前回のエントリー〔邦訳はこちら〕を見逃した読者のために説明しておくと、中央銀行が金を退蔵する(金準備の保有量を増やす)と金の実質価値が高まることになる。金本位制下では金は価値尺度(the medium of account)の役割を果たしており、価値尺度である金の実質価値(もしくは購買力)が高まるということは物価の下落(デフレ)を意味することになるのだ。

金準備率が上昇した原因についてはここで説明するには複雑すぎる。果たしてマーケットが事態を正確に理解できていたかどうかも微妙なところだ。ただし、マーケットは金準備率に異変が起こっていることをはっきりと意識してはいなくとも、中央銀行が知らず知らずのうちに誤って非常にデフレ的な政策スタンスをとっていることを直観レベルで理解していたのではないかというのが私の意見だ。1930~38年の期間においては株式市場の動きと金融政策との間の関連を容易に見い出せるのだが、こと今回(1929年10月)のケースに関しては金融引き締めが株価暴落を引き起こしたことを示す「決定的な」証拠がなかなか見当たらないのも事実だ。しかし、大恐慌の引き金を引いた過度に緊縮的な金融政策がこの10月の株価暴落の付近で既に始まっていたように見受けられるのは興味深いことだ。金融引き締めと株価暴落との間のつながりを示す証拠を見つけ出せたとしたら私が一番乗りということになるだろう。

1929年10月の株価暴落を引き起こしたと思われる要因は4つある。重要な順に挙げると次のようになるだろう。

1.  とりわけ米国、フランス、英国において世界全体の金準備率を大きく上昇させるような金融政策のスタンスが採用されたこと。

2.  株価暴落と同じ時期にニューヨーク・タイムズ紙の見出しを賑わせることになったスムート・ホーリー法をめぐる激しい議会闘争。ジュード・ワニスキー(Jude Wanniski)もこの説を採っているが、私が考える理由は彼とはやや異なる。

3.  10月初めに ドイツの政治家シュトレーゼマンが死亡し、10月下旬に入ってドイツの政治情勢が不透明化したこと(右翼ナショナリスト政党が勢力を強め、直前に成立していたドイツの戦後賠償問題を巡る国際合意(いわゆるヤング案)に対する反対運動がドイツ国内で巻き起こることになった)。

4.  10月26日に企業間の合併に対する取り締まりを強化する方針(反トラスト法の厳格な適用)が政府によって決定されたこと。ジョージ・ビトリングメイヤー(George Bittlingmayer)によると、政府が反トラスト法の厳格な適用に動くとの噂が数日前にマーケットに伝わっていた可能性があるということだ。

これらの要因が1929年10月段階の株式市場でどの程度重要な役割を果たしたかについてははっきりとはわからない面もあるが、事が起こった後の時点から振り返って考えてみると最初の三つの要因(1~3)は非常に重要な役割を果たしたと言えるだろう。金融引き締めは1933年3月までにわたって景気の停滞をもたらすことになった。1930年の春に入って再びスムート・ホーリー法を巡る激しい議会闘争が繰り広げられることになったが、それが主な原因となってその後の5月~6月に株価の急落が引き起こされたことは疑いない。そして1931年半ばから1932年終わりまでの期間に関しては米国の株式市場の低迷をもたらした主な原因はドイツにおける政情不安にあったと思われるのだ。

 

1937年10月

1937年10月の株価暴落(1929年と2008年に関しても言えることだが、株価の暴落は(10月だけに限定されていたわけではなく)正確には9月から11月までの期間に及んでいる)も1929年とケースと同じくらい興味深いが、より複雑だ。まずは基本的な事実をいくつか抑えておく必要があるだろう。

1.  米国は1937年に金本位制に復帰した。とは言え、37年の段階では金本位制はもはや国際標準の通貨制度とは言えなくなっており(わずか数カ国だけが金本位制を採用していたに過ぎなかった)、米国内では金の個人所有が禁じられていた(建前はそうだったが、ロンドンの銀行に金を預けていた個人もいた)。しかしながら、金の国際市場に生じるショックによって米国の金融政策が翻弄された点はかつてと変わるところがなかった。例えば、1936年半ばから1937年半ばの期間は米国は不況に襲われたにもかかわらず、国際市場で金を放出する動きが強まった結果、米国の卸売物価指数(WPI)はおよそ10%も押し上げられることになった。そしてその後の1937年半ばから1938年半ばまでの間に卸売物価は同じ規模だけ下落することになった。卸売物価の動きだけを見ていると1936年末から1937年初めまでは力強い経済成長の期間であり、その後はマイルドな景気後退に移行したように見えるが、実際のところはそうではなかった。1936年には力強く成長していた鉱工業生産も拡張的な金融政策が実施されたにもかかわらず1937年春には踊り場に入ることになったのである。

2. ルーズベルト大統領(FDR)による5つの賃金ショックのうち第3のものがこの時期に発生した。この第3の賃金ショックは5つのショックの中では政府の政策と最も関係が薄いものだ。1936年の終わりから1937年の大部分の期間を通じて労働組合の加入者が急増したが、その原因は1935年に制定されたワグナー法によって労働組合の組織が容易になったことに加えてルーズベルト大統領が1936年の大統領選で圧勝したためである。ルーズベルト大統領の圧勝を目の当たりにした労働組合の指導者たちがワシントンは自分達の味方だと確信するようになったのである。こうして発生した賃金ショックは卸売物価に生じたショックとかなり似た動きを見せたが、名目賃金の動きは卸売物価の動きよりも半年だけ後ろにずれていた。名目賃金は卸売物価の後を追うようにして上昇を始め、卸売物価よりも後にピークを付け、卸売物価よりも後になって下落を始めたのである。さらには、名目賃金は卸売物価ほどには下落しなかったのであった。1937年の初頭に生産が伸び悩んだ理由もコモディティ価格の下落に端を発する景気後退が本来であればマイルドなもので済んでいたはずがⅠ920-21年の景気後退に匹敵するほどの深刻な不況にまで発展した理由もここ(訳注;実質賃金が高止まりしたこと)にある。

実質賃金(名目賃金÷卸売物価)は1930年代を通じて月次の鉱工業生産と密接に連動しており、1936-38年に関してもその例外ではなかった(実質賃金は反循環的な動きを見せているので鉱工業生産との連動を捉えるにはデータを反転させる必要がある)。(卸売物価が名目賃金よりも速いペースで上昇したために)実質賃金が低下した場合には景気は上向き、その反対に名目賃金が卸売物価よりも速いペースで上昇した(それゆえ実質賃金が上昇した)場合には景気は低迷したのである。そして実質賃金が一定の水準で変わらない期間はそれなりの経済成長が発生した。というわけで、1936-38年の期間は景気循環に関する私のモデルがよく当てはまるわけだ。さて、そこで残された問題はこの間における名目賃金と卸売物価の動きをどう説明するかだ。かつてのエントリーで論じたように、名目賃金に影響を及ぼした外生的な要因はニューディール政策を通じた5つの賃金ショックだったと思われる。そして卸売物価の動きは平価(金とドルの兌換レート)が固定されていた1929-33年および1934-40年の時期に関しては金の国際市場の動向によって説明できるし、1933-34年の時期に関しては――ジョージ・ウォーレン(George Warren)に関するエントリー〔邦訳はこちら〕で詳しく論じたように――平価の変更によって説明できるだろう。

それでは1936-37年の時期に卸売物価を押し上げた要因は何だったのだろうか? それは全部で3つある。一つ目の要因は1936年の後半に入ってフランスをはじめとした国々が金本位制を離脱し、それにあわせて金本位制を離脱した国の中央銀行が金を放出したことである。二つ目の要因はロシアによる金の輸出(販売)が増加し、今後ロシアからもっと大量の金が売り出されるのではないかとの(間違った)予想が広まったことである。そしてこの誤った予想が民間部門における金の放出を招くことになる。これが三つ目の要因である。ヨーロッパで各国が金本位制から離脱したために将来の平価切り下げに備えて金を溜め込んでおく必要が無くなったことに加えて、米国に大量の金が流入してインフレになればルーズベルト大統領もドルの切り上げを強いられるのではないかとの恐れが広がったことも民間部門における金の放出に油を注ぐ格好となったのであった。この点についてはかつてのエントリーで引用したポール・アインチッヒ(Paul Einzig)の言葉をご覧いただきたい。

色々な要因が複雑に絡み合ってこのプロセス(民間部門における金の放出に向けた動き)は1937年半ばに入って反転し始めることになる。実質賃金の上昇を受けて米国経済の減速がはっきりし始めるや、ドルが切り上げられるのではないかとの恐怖は消え失せることになり、ロシアからもっと大量の金が売り出されるのではないかとの噂も噂に過ぎなかった。米国が再び不況に戻るのではないか、ルーズベルト大統領が1933年と同じように新たなる金融「カンフル剤」を打つのではないかとの思惑が広がるにつれて、民間部門では金の放出から金の退蔵へ向けて潮目が変わり始めることになる。秋頃になるとドルが切り下げられるのではないかとの恐れが急速に広がり、金を退蔵する動きが加速することになった。そして米国への金の流入はほとんどストップすることになった。名目賃金が高止まりする一方で卸売物価の急激な下落に見舞われた米国は深い不況に落ち込み、株価とコモディティ価格は急落することになったのであった。

1937年と2008年との間にはいくつかの興味深い共通点がある。どちらの年も世界各地におけるコモディティ価格の急騰で始まり、そしてそれと同じくらい急速なペースでのコモディティ価格の急落で1年を終えたのである。相違点もある。1936-37年のコモディティ価格のブーム(高騰)は純然たる貨幣的な要因によるものだったが――その一方で実体経済は停滞していた――、2007-08年のコモディティ価格のブーム(高騰)は途上国の力強い成長に牽引されたものだった。

どちらの年も中期的な成長期待およびインフレ期待の急反転に見舞われたというかなり興味深い共通点もある。1937年の前半においては米国が保有する金準備が増大するのではないかという予想もあって金融市場もマスコミも明らかにインフレが続くと予想していた。しかしながら、1937年の終わりになるとそのような予想は180度変わって今後は長いデフレが待っているのではないかとの見方が広がるようになったのである(そしてそれは現実のものとなった)。1937年半ばから1940年半ばにかけて卸売物価は下落の一途を辿ることになったのだ。

2008年の10月にこれと似た期待の急反転が起こった時、私はすぐに1937年の出来事のことを思い出し、Fedが迅速かつ効果的な行動に打って出ない限りは名目GDP成長率がそれまでの標準的な値である5%をはるかに下回ることになってしまうのではないかと心配になり始めた。確かにFedはその後素早く行動したが、残念なことに間違った問題――金融システムの安定化――に目を奪われてしまったのである。

共通点はまだある。Fedは1936-37年の時期に三段階にわけて預金準備率を引き上げた(最終的に預金準備率はそれまでの2倍の水準に上昇することになった)。つい最近Fedが準備預金に付利を行った(これは民間銀行による準備預金の需要を増やすことになる)ことに対して私が折に触れて批判している様子を見て、「なるほど。サムナーは預金準備率の引き上げが1937-38年の不況の原因だと考えているのか」と判断する読者もいるかもしれない。しかし事はそんな簡単ではない。預金準備率の引き上げが発表された当初はFedがそれを本当に実行するとは信頼されておらず、投資家たちも当初のうちはFedのこの決定にほとんど注意を払っていなかったのだ。当時の金融系のメディアではFedは大量に流入してくる金をすべて不胎化することなどできないとの意見が大勢であり、投機家たちもFedがマネーサプライの増加を抑えることはできないと予想してコモディティの積極的な購入に回ったのである(その結果、コモディティ価格は急騰した)。

Fedが大きな過ちを犯したのは1937年の暮れのことである。金の国際市場で期待が反転した直後に十分積極的な行動を採らなかったのだ。しかしながら、1929年のケースとは違って1937年の不況に関しては金融政策(の失敗)だけにその責任があるわけではなく、賃金ショックも重要な役割を果たしたのである。

当時の財政政策についてはどう考えているのかとの意見もあることだろう。1937年に給与税が導入されることになったが、規模的には大したことはなかった。とは言え、給与税は労働者を雇用するコストの増大を意味しており、穏やかではあるが賃金ショックの一つとして働いた可能性はある。しかしながら、その点を除けば当時の財政政策は全体としてマイナーな役割しか果たさなかったということになるだろう。1937-38年の不況の原因は総需要の不足にあると考えたとして、便宜上そのうちの半分は名目賃金の高止まりのせいであり、残りの半分は物価の下落(デフレーション)のせいだとすると、どれだけ高く見積もっても財政政策はごくマイナーな役割しか果たさなかったと考えられるのだ。1937-38年の急激なデフレーションは――直前の1936-37年のインフレーションもそうだったように――明らかに世界全体の金市場の反転とリンクしている(大きな関わりがある)のだ。財政政策が不況の原因だとするにはタイミングがことごとく合わないのだ。通常のマネタリストの面々もそうなのだが、ケインジアンに共感を寄せる経済史家の面々も政策上の失敗と当時の出来事――コモディティ市場、株式市場、債券市場の値動き――とがどのように結び付いているかについて十分に注意を払っているとは言えない。その点にまで細かく配慮した上で大恐慌を包括的に分析しているのは私だけだと言うと言い過ぎだろうか。

 

2008年10月

2008年の秋に株式市場やコモディティ市場、鉱工業生産、債券利回りの急落を引き起こした原因は金融政策の失敗にあるが、それでは金融政策の失敗を引き起こした要因は何なのだろうか? その要因は数多くあるが、その中でも最も重要なものはコモディティ価格のブーム(高騰)と金融危機の二つということになるだろう。

コモディティ価格のブームや金融危機が総需要の下落を引き起こしたとは言っていないことに注意していただきたい。コモディティ価格のブームや金融危機はあくまでも金融政策の失敗を招いたのであって、総需要の下落を引き起こしたのは金融政策の失敗である。2008年の半ばまでは経済はそこそこのプラス成長を記録していた。株価もしぶとさを見せており、7月初旬の段階でも最高値から約10%の乖離幅に収まっていた。世界経済は米国経済を上回るほどの力強さで拡大を続け、それに支えられるかたちで7月まで異常なコモディティ価格のブームが続くことになったのである。大きな過ちが犯されたのは2008年の後半に入ってからのことだ。第3四半期と第4四半期をそれぞれ区別した上で政策上の失敗を2つのタイプに分けて整理するとわかりやすいことだろう。

2008年第3四半期における金融政策はラース・スヴェンソン(Lars Svensson)がお好みの尺度に照らせば最適であったという評価になるだろう。つまりは、Fed自身による名目GDP成長率の見通し(予測)がFedの目標とほぼ一致していたのである。このことは9月16日に開催されたFOMC(連邦公開市場委員会)でインフレと不況のリスクがおおむね均衡していると判断され、その判断を受けて金融政策が変更されなかった(現状維持に保たれた)事実によく表れている。しかしながら、どうやら民間部門はFedに先んじるかたちで事の次第を理解していたようである。今となっては明らかだが、名目GDP成長率は第3四半期の段階で既に急落を始めていた。住宅不況が発生してから二年間はどうにか持ちこたえてきた鉱工業生産も8月には急落し始めていたのだ。第3四半期においてFedは二つの失敗を犯した。一つ目の失敗は自らの見通し(予測)を重視し過ぎてマーケットの予測に十分注意を払わなかったこと。そして二つ目の失敗はインフレ率の動きにばかり囚われて名目GDP成長率の動きに十分注意を払わなかったことである(インフレ率よりも名目GDPの方が政策当局者に対して一貫して優れたシグナルを送っている事実はいくら強調してもしすぎることはないだろう。例えば、2004-06年の住宅バブルの時のことを思い出すといい)。

2008年の第4四半期に入ると事態は急速な勢いで悪化の一途を辿ることになった。スヴェンソン好みの(それも甘めの)尺度に照らしても10月半ばまでに金融政策は信用を失ってしまっていることが私の目には(おそらくほとんどの人にとっても)明らかだった。つまりは、Fed自身による(名目GDP成長率の)見通しでさえも政策目標をはるかに下回る状況になっていたのだ。さらに不味いことには、金利がゼロ%に近づきつつあり、米国はいとも簡単に日本のような状況に陥ってそこからしばらく抜け出せないかもしれないとマーケットが気付き始めたのである。そのような危険な状況に陥らないための唯一の方法は非伝統的な金融政策を通じて積極的な行動に踏み出すことにあっただろう。短期国債を購入する通常の金融緩和ではおそらくもう手遅れだっただろう。

残念ながらFedはこの時二つの大きな失敗を犯した。一つ目の失敗はその後5ヶ月間にわたって金利を引き下げず、そればかりか準備預金に付利を行うという極めてデフレ的な政策を採用し、ベースマネーの拡大に伴う緩和効果を打ち消すことになってしまったことである。二つ目の失敗はさらに不味い。Fedの当局者たちは金融危機こそが「真の問題」であり、金融危機が解決されない限りは総需要を刺激することはできないとの間違った前提に飛びつき、そのために「真の問題」から目を逸らすことになってしまったのだ。しかし、この失敗は理解できないこともない。というのは、2008年10月の段階で「真の問題」は貨幣的なものであり金融危機ではないと懸念を表明していたのは私を含めてごく少数の限られた経済学者だけだったからだ。確かに金融危機は今回の不況の過程で重要な役割を演じた。しかし、通常理解されているのとは異なる次の二つの経路を通じてそのような役割を演じたのである。

1.  金融危機は政策当局者の注目を「真の問題」から逸らせることになった

2.  金融危機は自然利子率の下落をもたらした

金融危機は信用に対する需要(資金の借り入れ需要)を急減させ、その結果「流動性の罠」に嵌ってしまうのではないかとの恐れが広まることになった。金融危機自体が総需要の急落を引き起こしたわけではないが、Fedの仕事を難しくしたとは言えるだろう。しかし、Fedは物価と生産の安定を図ることが自らの使命だと宣言しており、貨幣需要(あるいは貨幣の流通速度)に生じたショックを相殺するのが自らの義務だとも語っている。それだけではなく、とりわけデフレの恐れがある時には先回りして行動するのが自らに課せられた責任だと認めており、マーケットの指標は政策を決める上で有用なシグナルの一つだと語った前例もある。かつてバーナンキは短期金利がゼロ%に達しても金融政策は依然として有効であり得ると論文ではっきりと書いている。果たして今の現実はどうなっているだろうか? 今のFedは自らが掲げた尺度に照らしても失敗していると評価せざるを得ないのだ。

今回のエントリーは簡潔なまとめのようなものであり重要な細部をたくさん省略してしまっている。大恐慌をテーマとした本を執筆中であることは既に触れたが、1929-30年の時期をカバーしている章は大体40ページくらいになる予定だ。1937-38年の時期は2つの章にわたって取り上げる予定だが分量的にはずっと多い。今のところ全体で14章構成になる予定だ。今回のエントリーを読んだそこのあなたも本を買わずに済ますわけにはいかないというわけだ(あくまでも出版してもいいと名乗りを上げる出版社が見つかればの話だが)。

今後もこのブログでは大恐慌について様々な観点から話題にしていくつもりだ。

 


 

(本翻訳は以前某所にアップしたものを今回、常連翻訳者のhicksianさんに全面的に見直しいただいたものです)

スコット・サムナー 「ホットポテト効果、説明!」

[この記事の原文:Scott Sumner, “The “hot potato effect” explained”  The Money Illusion, 2013年9月1日]


私にとってはマクロ経済学の核心である「ホットポテト効果」なのだが、これに手を焼いている人は多い。これを理解しないなら何も理解していないということなのに。人々は個人行動の水準で理解できるような説明を求める。しかしこの場合それはうまく行かない。問題の一端は、実質から名目への伝達メカニズムを考えがちなことだ。価格硬直性のある世界ではその経路が自然に見えるのだ。「ジョーはなぜ新車を買うのか?」と聞いても仕方がない。それはデッドエンドだ。

これまで私はリンゴ市場の喩えでこのホットポテト効果を説明しようとしてきたのだが、もっといい喩えがあることに気が付いた。金である。金はリンゴに比べて貨幣に似た性質が多い。もっと良いことには、かつてそれは実際に貨幣だった!

ではホットポテト効果をステップバイステップで説明して行くが、もしどこかで躓いたらその個所を教えてほしい。

1. 金が1200ドルで売られているとする。金利は低く、従って将来の予測価格はおおむね同じか少し高い状態だ。ここである企業が世界の金産出量を急増させるほどの巨大な金鉱を発見したとする。この新しい産出により金の価格は数年かけて半分に下がる。しかしそれはなぜか? まずこの金鉱が発見される前、人々はその時点の価格なら持っていたいと思っていた量の金を実際に持っていることで価格が均衡していた。新発見の金は、人々が持ちたくない「ホットポテト」のようなものとして働く。もちろん投げ捨てたりはしない。売って手放すのだ。しかしそれは個人個人の水準の話で、全体としてはそうならない(手放すことができない)ことに注意しよう。余分な金を誰かが持っている。(このことこそが代表的消費者の水準で貨幣を理解しようとしてもうまく行かない理由だ)。社会全体としてこの超過の金を処分する道は、人々が持っていたいと思う価格になるまで価格が下がっていくこと以外にない。こうして金の価格が下落して半分になったとしよう。これは金の価値が他のモノやサービスに対して半分になったことをも意味している。

2. ではこの会社が金の発見をアナウンスしただけだとしたら。ただし会社は信用できる。アナウンスによって金貨価格は急落するだろう。

3. ではこの会社が金の埋蔵をレーダーで確認し、これを掘り出すのに二年かかるだろうとアナウンスした場合。同じく金価格は直ちに下落するだろう。2の事例とほとんど同じ割合で。(ここまでは誰でも理解してくれると思う。経済学入門レベルだ。)

4. では金が会計媒体であるとして上の話を考えてみよう。どこが変わるだろうか。明らかに、金価格が急騰したりはしない。会計媒体の価格は定義により固定だから。しかし金の価値は、他のモノとサービスの価格が上昇することで急落するだろう。ここで非常に重要な相違点がある。上の1-3のケースでは金の価値はほとんど瞬時だった。今度は金(会計媒体)の価値の変化は、物価の粘着性により緩やかなものになるだろう。ただし長期的な影響は変わらない。ここまでよろしいか? とても頭が良いが最終段階では私と意見を異にする人々(ジョン・コクランのような)もここまでは意見が一致する。コクランは商品貨幣システムの議論では本質的に「マーケットマネタリスト」だと思う。

注目してほしいのは、ここまでこの変化をマクロ経済学の基本原則だけを使って説明できていることである。たとえば金利などの「伝達メカニズム」を用いる必要はない。ただ需要と供給だけ。ただし重要なことがある。物価は粘着的なので、物価水準が完全に調整されるまでの間は金市場の短期的な均衡を実現するために「他のあれこれ」が変化する。金利は明らかにこの「他のあれこれ」の一つだ。他にも資産価格の変化や実質産出の変化が「他のあれこれ」に含まれる。

しかしこれら「他のあれこれ」の要因がどんなに重要であるにせよ、ホットポテト効果こそが第一義的なのだ。金の量の増加が長期的な金の価値に影響を与えることを説明するのはホットポテト効果に他ならない。ここまだまだ経済学入門レベル。それ以外の効果は我々を最終的な均衡へと動かすのを助ける副次的効果に過ぎない。

5. いよいよ会計媒体を金から現金に置き換えよう。本質的には何も変わらない。三つのケースに分ける。

a. 金利がプラスの状態の場合: 上の金の例とちょうど同じく貨幣ベースがホットポテトになる。準備預金への付利のために事情がやや異なるが、それは読者が考えるほどのことではない。準備預金付利があってもなお、長期的な貨幣数量理論が成立することをピーター・アイルランドが示している。私の表現では次のようになる。準備金付利があってもなお、ベース貨幣の一度かつ永続的な増加は、長期的な物価水準に比例的な増加をもたらす。貨幣はどこまでも中立的だ。  T

b. 名目金利がゼロで、かつ永遠にゼロと予測されている場合。このとき公開市場操作に意味はなくなる。利子が支払われない国債は本質的に現金と等価となり、公開市場操作がただの両替と同じなる。財政政策は強力なはずだが、政府負債が小さいなら(訳者補足:名目金利が永遠にゼロと予測されるほどに小さいなら)効率的ではない。

c. 名目金利がゼロだが、将来はプラスだと予測されている場合。この場合、掘り出すのに二年かかる金の場合で論じたのと同じ理由から、貨幣ベースの永続的な増加がインフレ効果を持つ。では一時的なベースの増加だったら? 効果はほとんどない。それは金利がプラスの場合も同じだ。

6. では、現金と準備金の合計が会計媒体である場合。まったく同じだ。準備金もまたホットポテトである。実際100年前、準備金はすべて現金だった。

7. では準備金が100%会計媒体であるキャッシュレス経済を想定する。やはり同じく準備金はホットポテトだ。上で述べたように準備金金利は本質的ではない。銀行はX%の準備金金利の下でYの準備金を需要する。準備金金利をX%としたままで準備金の量を二倍にすれば、銀行は直ちに準備金を増やす。ホットポテト効果が発動! ゼロ制約? 5の例を見よ。

QED

マーケットマネタリストに開眼への列車から落ちこぼれた人はいるかな? 何人かのMMT論者は溝に落ちて頭を悩ませていると思うけれど。