経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

クラウディオ・ミケラッチ et al.「アメリカ人はヨーロッパ人より働くが、ヨーロッパ人が怠けているとは思わないでほしい」(2007年9月)

[Claudio Michelacci, Josep Pijoan-Mas, “Americans do work more than Europeans, but please don’t think that Europeans are lazy,” 17 September, 2007]

 

こんにちではアメリカ人は多くのヨーロッパ人より働くけれども、このことは1970年代には当てはまらなかった。ヨーロッパ人はアメリカ人より怠け者になってしまったのだろうか?もちろんそうではない。つまり、大西洋の両岸を越えた労働時間の違いは、単に仕事人生をめぐる労働者のインセンティブの違いを反映しているだけなのだ。

 

アメリカと大陸ヨーロッパにおける総労働時間は、過去35年間で非常に異なる変化をした。1970年代には、アメリカよりもフランスやイタリアやドイツのようなヨーロッパ諸国のほうが一人当たり平均労働時間はわずかに長かった。こんにちのアメリカ人はヨーロッパ人より30%多く働く。これらの違いは重要であり、またこれらが現在のアメリカとヨーロッパの1人あたりGDPの違いのほとんど全てを説明する。つまり、1人あたりGDPはこんにちではフランスやドイツよりアメリカのほうが30%高い一方で、労働時間あたりのGDPによって測定される生産性は大まかに見れば等しいのである。このことは、アメリカ人がこんにちヨーロッパ人より豊かなのは、アメリカ人の方がより生産的だからではなく、単にアメリカ人の方が長く働くからだということを意味する。

労働時間の顕在化しつつある差は、部分的には労働力化率(アメリカにおいてより多く増えてきている)の変化や失業率(ちょうどヨーロッパで増えてきている)による。しかし、他の相当な部分は、違いの3分の1から2分の1を説明するダイナミクスである、労働者一人当たりの労働時間と関係がある。

ひとたび雇われれば、何時間働くかの決定は多くの労働者にとって自発的なものである。もちろん、たとえば、国や仕事のなかには、現行の規制が最大限どの労働時間を制限しているもののように例外もあるが、規則は必ずしも拘束力を持っているわけでもなければ施行されているわけでもない。実際のおよび望ましい労働時間の差はヨーロッパ人にとっては実際に小さいものであり、また、それでもなお過去数十年で小さくした。だから、アメリカとヨーロッパにおける一人当たり労働時間の分岐しつつある変化について心配しすぎる必要はないといえる。こんにちのヨーロッパ人は、単に、より余暇を享受し始めたので労働時間の活動により短い時間を捧げているだけなのである。

しかし、アメリカ人とヨーロッパ人が本質的に違うものになってきたというわけだ、というのは本当だろうか?おそらくそうであろう。しかし、総労働市場の条件がアメリカとヨーロッパとで非常に違うふうに変化したというのもまた事実である。過去30年の間、賃金格差はアメリカでは相当拡大したのに対しヨーロッパではわずかにしか拡大しなかった一方で、失業率はヨーロッパでは上昇したがアメリカでは上昇しなかった。こんにち、ヨーロッパに比べてアメリカでは失業のリスクがより小さく、就職はより容易であり、キャリアのはしごを登ったり高い給料の職に雇われたりするより大きな可能性がある。このことはアメリカ人とヨーロッパ人の仕事人生の間の極めて異なるインセンティブを示唆している。

われわれの最近の研究(※追記:リンク切れ)は、インセンティブにおけるこれらの違いが、大西洋の両岸をまたいでの労働時間において観測された違いを説明できることを示している。現在の仕事における昇進やより良い職を得ることはハードワークを要し、また労働者も努力の価値がある場合にのみそうするのを厭わない。これが左遷の場合だと、労働時間は短くなる。このことは過去30年間のヨーロッパにも当てはまる。アメリカン・ドリームによってアメリカ人が一生懸命働くように、ヨーロッパの不振な経済パフォーマンスによってヨーロッパの労働者は長時間働く気を削がれているのである。だから、ヨーロッパ人を余暇活動に時間を捧げすぎであると責めるよりはむしろ、ヨーロッパの市場をより自由化するほうが価値はある。ヨーロッパの労働者に仕事人生に関するより強力なインセンティブを与えれば、アメリカとヨーロッパの間のアウトプットの差を縮める最も効果的な方法となろう。

スコット・サムナー「なぜオーストラリアは26年間不況を経験していないのか」

[Scott Sumner,”Why Australia hasn’t had a recession in 26 years,” The Money Illusion, July 18th, 2017]

 

過去の投稿において、私は、オーストラリアは名目GDPを適切に成長させ続けることによって26年間不況を回避してきたことを指摘した。コメント者の中には、オーストラリアは金融政策ではなく、むしろ鉱業ブームによって恩恵を受けている“ラッキーな国”である、と示唆するものもいた。その理論は意味をなさない。なぜなら経済が非常に不安定な商品の輸出に輸出している場合、大規模かつ高度に多様化した経済を伴った国に比べてより不安定なビジネスサイクルになるだろうからである。いずれにせよ、近年のデータは完全にその説を棄却している。

ステファン・キッチナーは、かつてオーストラリア準備銀行の役人であったウォーウィック・マッキビンの見解について議論している非常に興味深い記事に私を導いた。

元オーストラリア準備銀行役員のウォーウィック・マッキンビンは、世界の中央銀行は、家計や政府の巨額の債務負担が安全に解消されるよう、名目所得の伸びを目標とする公的金利のシステムに切り替えるべきだと述べている。

“インフレーションは、価格の期待を縛り、中央銀行が資産を引き下げないという自信を人々に与えたため、良い中間段階になった”と、彼は水曜日のシドニーでの主要な経済会議で語るだろう。

1970年代や80年代、それに90年代の初期と同様に、“高いインフレ率の時にはそれが重要なのだ。”

“しかし、本当に成長とインフレーションである非常に明示的な所得ターゲットがあるなら、同じ信用度をもつことができる”、と彼は言う。

彼は、オーストラリアでは、そのことは、準備銀行は名目GDP——本質的には、どのくらいその経済がその経済の生産した財やサービスに支払われているかの尺度——の成長を約6%に保とうと試みようとしていることを意味すると示唆している。

オーストラリアは人口増加率が1.4%であるので、オーストラリアの名目GDPの成長率がアメリカ(人口増加率=0.7%)や日本(人口減少中)の名目GDPの成長率より高いのは不思議ではない。それにもかかわらず、私は、6%は少し高いので、オーストラリアには5%にいくぶんか近い成長率を勧めたい。一方で、6%でさえ2008年以降連邦銀行や欧州中央銀行、日本銀行によって実施されている一連の政策に比べればはるかに良いだろう。

オーストラリア国立大学クロフォード校出身のマッキビン教授は、公式の2%から3%のインフレターゲットは“サイクル全体”にしか適用されないので、実際に準備銀行はすでに“曖昧な名目の”所得ターゲットを追求している、と認める。

このことは、オーストラリアは大恐慌[1]の間、隠れて名目GDP目標を行っている国であったと示唆してきた様々な市場のマネタリストの主張を裏づけしている。

私は、日本のような国にとって名目所得ターゲットの最大の利点は、それが公的債務の負担を減じうるということであると主張した。マッキビンは同様の議論を行っている。

”高い公的および私的な所得に占める負債の割合の持続可能性は過去以上に高い名目所得の成長を必要とするので、今後数十年にわたって問題になるであろうことは、名目所得の成長であろう。”

興味深いことには、6%のターゲットでさえいますぐに金融引き締めが必要なように思われることである。

彼の提唱した所得ターゲットのスキームによれば、1.5%というこんにちの準備銀行のキャッシュレートは、第一四半期に前の3か月に比べて名目GDPが2.3%上昇したことと、1年前に比べて7.7%上昇したことを考慮すればおそらく低すぎる。“現在、中央銀行は名目所得基準による緩やかな金融政策を取っているだろうし、名目所得の伸びが急速に高まっているため、このルールに従って政策を強化することを期待している。”

待ってほしい。それが正しいはずはない。私の批判者は、オーストラリアは鉱業ブームから恩恵を受けている単にラッキーな国だった述べている。いまや鉱業開発が衰退しつつあるのだから、うまくいっているはずがない。それとも私が何か間違っているのだろうか?

エコノミスト誌は賢い国がいかにして再分配を扱って斜陽化する部門からはずすかを説明している。

鉱業ブームがしりすぼみになると、準備銀行はベンチマークの“キャッシュ”レートを2011年の4.75%から1.5%に下げた。オーストラリアドルは急速に下落した(6年前のピーク時には1.10ドルだったのに対し、現在では0.76ドルの価値である)。安い通貨と低い利子率によって、より高齢化が進んでいてより人口の多いニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州は経済が賑わった。不動産開発業者はより多くの家を建てる、農家はより多くの食糧を輸出し、外国人(留学生と観光客の両方)がより訪れた。たとえば、オーストラリアは昨年、過去最高となる120万人の中国人を迎え入れた。

再配分が不況を引き起こすのではなく、金融引き締めが引き起こすのだ。

かつて、私はオーストラリアは名目GDPよりむしろ被雇用者の合計の補償を目標にしたい可能性があると主張した。それはなぜなら、労働市場に大きな影響を与えることなく鉱物の輸出価格の変動は名目GDPにおける大幅な変動を生じうるからである。過去12か月、被雇用者への保障は1.4%しか増えなかったが、これは名目GDPの7.7%の上昇をはるかに下回る。この類の不一致はアメリカにおいては見られない。それゆえに恐らくオーストラリアは金融引き締めを必要としないのだろう。)

 

追伸 デーヴィッド・ベックワースがNGDPと政策立案者の直面している知識の問題についての新しいポリシーペーパーを書いている。いつもどおり、デーヴィッドはいくつかの良いグラフィックを用いている。

[1]本文では“the Great recession”と表記されている。もちろんこれは1929年に端を発する大恐慌のことではなく、2008年のリーマンショックに端を発する不況のことである。

タイラー・コーエン「ウクライナ: 何が間違っていたか、そしてどう立て直すか」(2015年5月)

[Tyler Cowen, “*Ukraine: What Went Wrong With It and How to Fix It,*” Marginal Revolution, May 22, 2015]

 

これはアンダース・オースランドの新しい本であり、全面的に参考になる。以下は私が学んだいくつかのことである。

 

  1. ウクライナの若者の80%が何らかの高等教育を受ける。
  2. ウクライナのGDPに占める年金支出は2010年頃には約18%で、世界最高水準の年金支出である。そのほとんどは老齢年金であり、寿命は68.5歳と比較的短く、UNDPによるとこれは世界で122番目である。
  3. この本の出版時点で、ウクライナの公的支出はGDPの53%を占める
  4. ウクライナはお金を使い果たしつつある…” オーケー、これは既に知っていることだ。
  5. 平時において1989年から1999年にウクライナがまずくいった以上にまずくいった経済はない。公式な統計によれば、10年間で、ウクライナのGDPは合計で61%急落した。しかしながら、このいくらかは闇市場の成長によって相殺された。
  6. ドンバス[1]は含まれているけれども、クリミアはもはやウクライナのGDPの公式統計に含まれていない

 

[1] 訳者注: ドンバスとは、ウクライナ東部の地域であり、「ドネツク人民共和国」や「ルガンスク人民共和国」を名乗る勢力が分離独立を主張している。

ラヴィ・カンブール「グンナー・ミュルダールと『アジアのドラマ』の文脈」

Ravi Kanbur “Gunnar Myrdal and “Asian Drama” in context“, VoxEU, 09 March 2018

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマ』は50年前に出版された。一見すると、経済的に停滞したアジアの現実という観点から見れば、本書には近代の開発経済学者に提供しうるものはほとんどないように思われる。しかし、このコラムでは、ミュルダールが提起した問題は開発にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるということを主張したい。

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマーー諸国民の貧困の一研究』は50年前に出版された(Myrdal 1968)この本の序文は“HABENT SUA FATA LIBELLI(本にはそれら自身の運命がある)”というラテン語のフレーズで始まっており、これには例外がない。この本は非常に時間を経ており、そして経済的に停滞したアジアの現実という観点で見ているが、これはいまや明らかに時代遅れである。それゆえに一見すると、本書には近代の開発学者に提供しうるものが少ないように思われる。それでも、本書とミュルダールは、共鳴し続けており、われわれが無視している問題を、開発経済学および経済学全般の貧困に導入し、強調したと主張することができる。

グンナー・ミュルダールは1974年にノーベル経済学賞を受賞した[1]。しかし彼はそれ以前にいくつかの生涯の業績を達成している。彼はスウェーデンの伝統の影響を受けた優れた経済学者であり[2]、因習打破主義者となり経済学の方法論的な基礎に疑問を呈し、のちにケインズの一般理論においてみられるマクロ経済学に関する洞察力(スウェーデン語で出版されている)を持つストックホルム学派の創設者であり、スウェーデンの福祉国家の知的および政治的な創設者の一人であり、アメリカにおける人種差別待遇廃止の基礎としての役割を果たした、記念碑的な『アメリカのジレンマ――黒人問題と現代の民主主義』(Myrdal 1944)の著者であった。第二次世界大戦後は、彼は国連欧州経済委員会の長として鉄のカーテンを超えて経済と政治の関係に取り組み、そしてもちろん1968年の3巻におよぶ『アジアのドラマ』の著者であった。しかし『アジアのドラマ』は決して彼の最後の仕事ではない。彼はその最高傑作の出版ののち20年生き、晩年に健康状態が悪化するまで、十分に経済発展についての議論に関わった。実際、彼のノーベル賞受賞スピーチ(Myrdal 1975)はほとんどが経済発展の話題についてであった。

 

ミュルダールの最高傑作

グンナー・ミュルダールは出版の10年以上前の1957年にアジアのドラマに関する仕事を始めた。その時の世界の見方は、彼が1957年に書いたものによく表れている。

  • “…非常に豊かな少数の国のグループと、はるかにより多くの非常に貧しい国のグループがある。前者のグループに含まれる国は全体的に、継続的な経済発展のパターンがしっかりと定着している。それに対して、後者のグループでは、平均所得水準が懸念される限り、多くの国々が停滞やさらには地位の低下から脱出できないという絶え間ない危険にさらされているおり、発展が遅い。そしてそれゆえに、全体として、ここ数十年、先進国と発展途上国の間の経済格差は増大してきている。”

中国やインドやベトナムやその他の多くの国の爆発的な成長に伴って、最近四半世紀のアジアの発展の現実に関して最も食い違っているのは、半世紀以上前のこのフレーミングである。アジアのドラマは主には南アジアに焦点を当てているものの、この本では中国やその他のアジアの国もしばしば同様に描かれている[3]。当時のほとんどの他の人と一緒で、ミュルダールもインドや中国の経済が半世紀と少しの間にアメリカ経済の規模のライバルになるだろうとは予測しなかったのである。

 

21世紀における開発の言説との関係

しかしながら、21世紀の開発に関する言説には、『アジアのドラマ』とアジアのドラマ前後のミュルダールの強い痕跡が見られる。なぜなら、ミュルダールが彼の生涯およびアジアのドラマを通して提起した問題は、発展にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるからである。ここに、そうした3つのテーマを挙げる。

これらの第一のものは分析における価値の役割である。ミュルダールは、経済学は価値判断を前提としている[4]と主張し、1930年代に最初に主張してからは決して意見を変える[5]ことはなかった。彼はこのことについては19世紀から活発な議論がなされているが、自然科学に匹敵する地位を達成しようと、彼の時代の経済学は経済学自体を、価値観を含まないものとして描写することを試みていたと主張した。しかし経済学の本質を考慮すると、このことは明らかに当てはまらず、また不可能でもある。価値観を含まないふりをするよりはむしろ、彼は価値観を明確にするべきだと提案し、彼の提案を『アジアのドラマ』の中で非常に徹底的に実行した。

『アジアのドラマ』に関する研究から現れる第二のテーマは、グンナー・ミュルダールの生涯の業績の相対的なコンテクストは、社会を理解するためはおろか、経済それ自体を理解するためにも狭い経済学の原則を超えることが必要だということであった。業績をとおして、ミュルダールは経済学の中心的な信条を健全に尊重し続けた。実際、『アジアのドラマ』に関するレビューの中にはこの点に非常に注意しているものもある。しかし、彼の主要な主張は、経済的な事実を説明しようと試みるときや経済政策の処方箋を作るときに、社会的、文化的、政治的なコンテクストを十分に理解することの必要性であった。このことは支配層のエリートの役割や、彼が「軟性国家」[6]とよぶところの政策形成と政策実施の間の違いに関する議論の中でやり通されている。

しかし支配エリートや腐敗、軟性国家は『アジアのドラマ』とミュルダールの生涯の業績において私が第三のテーマだと考えるものを前面に持ち出す。これは、国家と市場との間のバランスを発見するための絶え間ない努力である。その努力は、公の知恵によって導かれるべき国家と、可能な限り干渉を最小限に抑えて、個々の裁量に任せなければならないものとしてエドマンド・バーク(1795)によって立派に表現されている。

私は、これが実質的に政治経済学の永遠の問いであるとカンブール(2016)において主張した。ケインズ(1926)は、同様に有名な自由放任主義批判の中でこれに言及した。明白な市場破綻に直面した介入主義的スタンスと、政府の失敗の実現に対する撤退との間のシーソー、そしてそのバランスが崩れたところは、開発援助および開発不足の罠から脱出する方法としての計画の不足と、エリートと軟性国家に人質を与える罠としての計画それ自体の間で常に揺れ動いていることに関する、グンナー・ミュルダールの彼自身および彼の考え方のサイクルに伴う具体的な努力とにおいて見られる。

 

過去半世紀で、開発に関する視点は劇的に変化してきた。しかし、ここで議論された三つのテーマを含む基本的な緊張は未だにわれわれとともにある。いまとなっては過去50年間でコンテクストが変化したにもかかわらず、それらは過去10年間の全てではないにしてもほとんどの「全体像」や「概観」の本において、何らかの形で見つかるだろう。これらの緊張とのミュルダールの努力は、21世紀の開発の言説に対する彼の究極的な遺産である。

 

参照

Barber, W J (2008), Gunnar Myrdal, Palgrave Macmillan.

Burke, E (1795), “Thoughts and Details on Scarcity. Originally Presented to The Right Hon. William Pitt, in the Month of November”, published in F Canavan (ed.), Select Works of Edmund Burke, Liberty Fund (1990).

Kanbur, R (2016), “The End of Laissez Faire, The End of History and The Structure of Scientific Revolutions”, Challenge 59(1): 35-46.

Kanbur, R (2017), “Gunnar Myrdal and Asian Drama in Context”, CEPR Discussion Paper No. 12590.

Keynes, J M (1926), “The End of Laissez-Faire”, in The Collected Writings of John Maynard Keynes, Volume IX, Essays in Persuasion, Royal Economic Society, Palgrave MacMillan (1972).

Myrdal, G (1944), An American Dilemma: The Negro Problem and Modern Democracy:  Volumes I and II, Harper and Row

Myrdal, G (1954), The Political Element in the Development of Economic Theory, Harvard University Press.

Myrdal, G (1957), Economic Theory and Underdeveloped Regions, Harper and Row.

Myrdal, G (1968), Asian Drama: An Inquiry into the Poverty of Nations (Volumes, I, II and III), A Twentieth Century Fund Study, Pantheon.

Myrdal, G (1975), “The Equality Issue in World Development”, 1974 Nobel Lecture.

Rosen, G (1968), “Review of ‘Asian Drama’”, American Economic Review 58(5): 1397-1401.

 

脚注

[1] 彼は「貨幣理論および経済変動理論に関する先駆的業績と、経済現象・社会現象・組織現象の相互依存関係に関する鋭い分析を称えて」フリードリヒ・ハイエクとノーベル経済学賞を分け合った。多くの人は、自由市場の象徴であるハイエクが社会民主的な干渉主義の擁護者であるミュルダールとペアになるのは奇妙で皮肉だと考えた。

[2] 話の通り、彼は法律を専攻として卒業したが法律に幻滅した。彼の妻であるアルバ・ミュルダール(彼女自身が象徴的な人物でありのちのノーベル平和賞受賞者である)は、彼にグスタフ・カッセルの Theoretische Sozialokonomie(邦題; 『社会経済の理論』)を買ったところ、彼は経済学に没入し、発刊された1899年以降のEkonomisk tidskriftというスウェーデンの経済ジャーナルのすべての号を読みとおした。 (Barber 2008 および Kanbur 2017 を参照せよ)。

[3] 彼は例えば、現代史における最も壮大な貧困削減のためこんにちでは確実に信じられない、『貧困に苦しむ中国』(Myrdal 1968:11)の記述を参照している。

[4] Myrdal (1954).

[5] waverの原義は「揺れる」や「迷う」であるが、「(気持ちが)揺れなかった」という意味から「意見を変えることはなかった」と訳した。

[6] 「軟性国家(原文: Soft state)」とは、ミュルダールが独自に用いた用語であり、法律制度に欠陥があるなどの理由により、法が遵守されず、行政に不正や汚職が蔓延している国家のことを指す。

タイラー・コーエン「テック産業では、われわれはわれわれが制御できないことを恐れる」

[Tyler Cowen, “In tech, we fear what we can’t control” Marginal Revolution, March 21, 2018]

当記事は私のブルームバーグのコラムの話題であり、これはその記事の一部である。

ドローンと同様、自動運転車[1]は、特に強力な恐ろしいいくつかの特徴を持っている。それらは新しくて心躍る技術であり、そしてそれゆえにそれらについての話はよく検索されている。われわれは実際にはどの程度それらが安全なのかを知らないので、人々は、リスクの特定のレベルが何であれ、その不確実性によってそれ以上に怯えるのである。とりわけ、定義上、自動運転車は人間が直接的に制御していないように感じるものを含む。それは空を飛ぶことはふつう、車を運転することより安全であるにもかかわらず、多くの人々が車を運転するときに比べて空を飛ぶときにより重大な危険を感じるのに似ている。自動運転車は運転者の制御に関する多くの問題を提起している。その問題とはすなわち、後部座席で眠っていても構わないか、あるいは運転に常に注意しておかなくてはならないのかということである。そのことは、われわれの精神および感情を制御の問題により一層集中させる。

そして、

最近のFacebookやケンブリッジ・アナリティカをめぐる騒動は幾分似た問題を反映している(これこれを参照せよ)。アメリカ人のほとんどであれば、この件に関して何が間違っていたのかを明確かつ正確に表現できるであろうか。おそらくそうではないだろう。しかし人々は、SNSや個人的なデータやアルゴリズムのこととなると、彼らは明らかに制御できていないと感じていることを確実に知っている。その出来事および法的責任の不明確さが実際のところ問題の一部となっているのだ。

情報技術の世界に関する新たな話や批判を目にするとき、私はもはやテック企業が人気があるかを問わない(彼らが行なっているので)。その代わりに私は投票者が、北朝鮮の核兵器や常軌を逸したアメリカの大統領やどこにでもあるアルゴリズムを伴った世界が制御されていると感じているかを疑問に思う。彼らはその投票を行なっていない。なぜ、完全雇用のときに、ロボットがわれわれをみな失業者にしてしまうという記事が非常に人気なのかと疑問に思ったことはないだろうか。

われわれはまさに私が”制御している感覚の再確立”とよぶところの、アメリカ社会のための新しいメタ・ナラティブに突入しようとしている。残念なことに、実際の制御よりむしろ制御しているという感覚を追求するとき、しばしば両方とも手に入っていないのだ。

全てお読みいただきたい。

[1] 原文では”driverless car”であり「無人運転車」とでも訳すべきなのだろうが、「自動運転車」という用語が最も定着していると思われる。本稿においてもこの訳語を用いることとした。

Samans「成長と発展の新しい測定方法」

Samans “A new way to measure growth and development“(VoxEU, March 6, 2018)

 

多くの国における近年の政治的な発展は、多くの国の市民のほとんどが、社会の誰もがGDPの成長から恩恵を受けているという標準的な成長モデルの前提に対する自信を欠いていることを示唆している。このコラムは、成長と発展、包摂、世代間の平等、そして持続可能性の一連の指標[1]に基づいて、多次元的な包括的な発展の指標(Inclusive Development Index)を提唱する。一人当たりGDPの成長は、雇用や、収入と資産の不公平や、炭素強度[2]に付随する指標を含む、多くの新しい指標の項目のパフォーマンスと弱い相関がある。

世界的な経済成長は、予想されていた以上の復活をもたらしている。世界的な経済成長は、2016年の3.2%から2018年には4%にまで加速しようとしている。(IMF 2018) これは多くの面で良いニュースであるが、われわれは、多くの国における、高まりつつある不平等や政治的なエスタブリッシュメントを揺るがした経済的な不安に関する社会的な不満を減らすために、より強力な成長を期待することができるだろうか。

これは最近数十年の標準的な成長モデルの背後にある暗黙の前提である。その前提は、GDPの上げ潮——私的な資本の投資へのインセンティブの増大や輸出志向の生産など、特には供給サイドの改革によって上昇させられる——は、究極的には全ての船を持ち上げる[3]だろう、というものである。

しかし多くの国における近年の政治的な発展は、それらの国の市民のほとんどがこの前提に対する自信を欠いていることを示唆している。そして金融危機以降、G20のコミュニケと国連の決議において経済成長をより社会的に包摂的にするための新しくてより計画的な努力を繰り返し要求しながら、政治指導者は同様の懐疑論を主張してきている。

経済政策における幅広い社会経済的進歩がより強く優先されるべきであるというこのコンセンサスにもかかわらず、GDP成長率は国家経済パフォーマンスが政府によって統計的に追跡され、メディアで報告される主要な方法であり続けている。2009年に報告書を発行した”Stiglitz-Sen-Fitoussi Commission”と一般に呼ばれる経済パフォーマンスと社会進歩の測定に関する委員会を含むいくつかの研究の試みは、長きにわたってこの難問を調査してきた。(Stiglitz et al. 2009)

測定されたものは管理される傾向にあり、そしてそれゆえにGDP統計の優先順位はマクロ経済政策や金融安定化政策に適用される注意とリソースの不均衡をより強化する傾向にある。これにより,技能開発,労働市場,投資家と企業のガバナンス,社会的保護,インフラ,基礎的サービスといった,経済活動のパターン形成,特に成長のプロセスと果実への社会的参加の幅広さにとって重要な役割を果たす構造的な政策分野における制度と政治的インセンティブの強さと平等性よりも,全体としての経済活動に重きが置かれてしまう。

明らかにこのことが理由の一つとなり,包摂的な成長に関するコンセンサスは,集団としての希求から,多くの経済政策決定者の考え方を形作る標準的なモデルや彼らが設定する優先順位を変える協調した行動へと進歩するにはいまだ至っていない。

2018年の1月に、ダボスでの世界経済フォーラム年次総会で、”Shaping the Future of Economic Progress”とよばれる構想[4]が国家経済パフォーマンスの包括的な指標、「包摂的開発指数」すなわちIDIを発表した。(World Economic Forum 2018) IDIは、ほとんどの市民は自国の経済発展をその経済において生産された財とサービスの量(GDP)によってではなく、家庭の生活水準によって評価するという気づきに基づいている。これは、収入や雇用機会、経済的な安全保障、生活の質を包含する多次元的な現象である。

われわれはGDPの成長を、生活水準の広範な進歩である最終的な社会的成功尺度への手段(決定的に重要ではあるが)であるという意味において、国家経済パフォーマンスのトップレベルの尺度として理解することができる。それゆえに、政策立案者と市民は同様に、代わりのあるいは少なくとも補完的な、共有された社会経済的な進歩における進歩のレベルと割合を測定するボトムレベルの尺度から恩恵を受けるだろう。

IDIは103の国に対してボトムレベルの報告カードを提供している。それは3領域(経済成長と経済発展、包摂性、世代間の平等と持続可能性)における12の指標というより広範な一連の尺度に基づいている。

IDIの競争的なデータは、包括的な社会経済的な成長と生活水準の中央値の向上を生み出すためには強力なGDP成長率のみに頼ってはならないという決定的な証拠を提供している。一人当たりGDPの成長は、雇用、所得の不平等、資産の不平等、家計収入の中央値、公的債務および炭素強度に関連するものを含むIDI指標の4分の3のパフォーマンスと、弱く相関している。

このことは過去5年間のIDIの傾向について考えるとより明確になる。3か国を除くすべての国がこの期間にGDPを成長させたが、29か国のうち10か国しかIDIの「包摂性」の柱において明確な成長を示さなかった。包摂性は大半の国(29か国中16か国)で悪化し、残り3か国ではこの指標は変化しなかった。このパターンはGDPの成長とIDIの「世代間の平等と持続可能性」の柱でも繰り返されており、成長性の最も強い国のグループであってもその傾向がある。

発展途上国のデータはGDPの成長と包摂性の間の同様の無関係性を示している。過去5年間のGDP成長率のパフォーマンスの上位二つの分位の30か国のうち、6か国しか同様に包摂性の指標の大半で好成績を残さなかった一方で、13か国は平凡であり11か国の成績は悪かった。

GDPの成長は、市民が究極的にはそれに基づいて自国の経済的な成功を判断する生活水準における広範囲に根ざした進歩の達成の、必要条件であるが十分条件ではない。このメッセージは、グローバルな経済成長が最終的により堅調に回復しているときに留意することが重要である。政治的およびビジネスのリーダーは、高成長が、近年多くの国の政治をかき乱してきた社会不満に対する万能薬となることを期待してはならない。

人々と生活水準を国家的な経済政策と国際的な経済統合の中心に置く新しい経済発展のモデルが必要とされている。(Samans et al. 2017) 多くの国には、同時に経済成長と社会的な包摂性を増大させることができる莫大な利用されていない潜在能力がある。しかし包摂的な成長の好循環をより完全に活性化するには、以下のことが必要である。

  • 経済における制度や構造政策の生態系を強化する努力として、構造的な経済改革を再考すること。それらは生活水準における広範囲に根ざした進歩と高成長を導くうえで重要な役割を果たす。また、
  • 社会の経済発展の最終的な尺度である政策立案者の業績を改善し、政策立案者の業績にインセンティブを与える国家経済の成功の広範な指標を採用すること

多くの国の暗黙の所得分配制度は、著しく低迷しているか、あるいは比較的未成熟であるが、これは資本主義の鉄の法則のためというよりはむしろ、政策の重要な部分には注意が払われていないためである。不平等は政策決定者にとって主に内在的というよりむしろ外生的な課題である。技術進歩と、すべての人の生活水準の上昇を支える国際的経済統合の両方の能力に対する国民の信頼を維持するためには、それを認識し、優先順位を付け、測定する必要がある。

 

参照

IMF (2018), World Economic Outlook Update January 2018: Brighter Prospects, Optimistic Markets, Challenges Ahead.

Samans, R, J Blanke, G Corrigan and M Drzeniek Hanouz (2017), “Rising to the Challenge of Inclusive Growth and Development”, in Inclusive Growth and Development Report, World Economic Forum.

Stiglitz, J, A Sen, J-P Fitoussi (2009), Report of the Commission on the Measurement of Economic performance and Social Progress, Commission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress.

World Economic Forum (2018), Inclusive Development Index, World Economic Forum.

 

[1] dashboardとは本来「(自動車などの)計器盤」のことであるが、比喩的にこの単語が用いられていることを考慮し、ここではdashboard of indicatorsで「一連の指標」と訳した。

[2] 炭素強度(炭素集約度などとよばれることもある)とは、国内で排出された二酸化炭素量を一次エネルギー総供給量で割った値のことである。なお、一次エネルギー総供給量をGDPで割った値をエネルギー強度とよび、二酸化炭素排出量は次のように計算できる。

二酸化炭素総排出量
=人口×一人当たり国内総生産×エネルギー強度×二酸化炭素強度
=人口×(国内総生産/人口)×(一次エネルギー総供給/国内総生産)×(二酸化炭素総排出量/一次エネルギー総供給)

[3] A rising tide lifts all boats. (諺)「上げ潮は船を皆持ち上げる」を踏まえた表現。なお、元となった表現は、シェイクスピアの作品『ジュリアス・シーザー』の中に出てくるブルータスの言葉”There is a tide in the affairs of men.”であり、「人のすることには潮時がある」という意味である。

[4] initiativeは訳しにくい単語であるが、「主導権」の意味で合わなければ、「plan(計画、構想)」や「motivation(やる気)」に近い意味もある。

伊藤匡・中村良平・森田学「卸売業者、間接輸出、地理および経済の範囲:日本における企業取引データからの証拠」(2018年2月13日)

Tadashi Ito, Ryohei Nakamura, Manabu Morita “Wholesalers, indirect exports, geography, and economies of scope: Evidence from firm transaction data in Japan” VoxEU, February 13, 2018

 

要約

地方の企業は、生き残るために仲介者として卸売業者を利用しながら、輸出市場を見つけなければならない。このコラムは直接輸出が製造業者と卸売業者の距離に負の相関を持っている可能性を伴いながら、このタイプの間接輸出活動が主に都市圏から起こっているということを示すために、日本における輸出活動のデータセットを利用する。卸売業者の生産性(製造業者の生産性ではない)は、これらの間接輸出の可能性と関連してきたが、このことは卸売業者が適した製造業者を探していることを示唆している一方で、逆もまた然りというわけではない。

 

本論

日本を含む多くの国の中心的な政策目標の一つは、停滞している地域経済を再活性化することである。若年層の間での低い出生率と、地方から都市への移住に対する選好は、未だに縮小し続けている地方経済において、企業が地方において拡大したり、あるいは生き残ったりすることさえもますます困難にしている。それらの企業や政府は、ますます海外市場を模索しつつある。

われわれは、卸売業者が経済活動において重要な役割を果たしているということを知っている(Ahn et al. 2011, Bernard et al. 2010, or Crozet et al. 2013) 。このことは卸売業者が多くのビジネス取引に関わっている日本において特に当てはまる。しかしわれわれは製造業者の海外での販売における卸売業者の役割について十分に知らない。日本における企業取引に関する独自のデータセットを用いることによって、われわれは地域経済における製造業者からの間接輸出における卸売業者の影響について調査することができた。より具体的には下記のとおりである:

 

  • どれだけの割合の輸出品が卸売業者によって仲介されているか。また、地元の製造業者の輸出品を仲介する卸売業者の場所はどこか。)

 

  • 製造業者と卸売業者の関係には限界[1]の距離があるか。これは地域経済にとって特に重要な問題である。)

 

  • 製品という観点で、製造業者と卸売業者の間にはどのようなマッチングが存在しているのか。われわれの当初の想定では、選択的なマッチングが存在し、そのなかで高生産性の製造業者は高生産性の卸売業者を通して輸出するだろう、というものであった。データは異なる像を示した。

 

  • 範囲の経済の効果は存在するか。すなわち、卸売業者は多くの生産者からの多くの種類の財を輸出するため、輸出の固定費用を拡散させることが可能なのか。このことによって、製造業者は卸売業者を通して輸出しやすくなっている。[2](Akerman 2016)

 

データと方法論

われわれは、株式会社東京商工リサーチ(TSR) が作成した企業間の日本国内の取引に関する独自のデータセットを用いた。データセットには、約80万社の住所、設立年、従業員数、売上高、利益などの基本的な企業の情報が含まれている。また、約400万件の、それらの企業間の購入や販売の取引に関する情報もある。

われわれは製造業者による卸売業者に対する販売の取引データを抽出した。もし製造業者の輸出状態が”yes”として記録されていれば直接輸出としてカウントしたのに対し、製造業者の回答が”no”であるが製造業者が製品を販売した卸売業者が輸出した状態である場合には、間接輸出として定義した。

これは非常にゆるい定義であり、この定義は卸売業者が単に仲介者として行動する間接輸出の真水の数量を過大評価するだろう。しかしながら、入手可能な情報を考慮に入れると、これが最善の方法であり、また、同じデータセットを利用した研究者がしてきたことを反映している。(たとえばFujii et al. 2016など)

われわれは労働生産性と全要素生産性[3](TFP)の両方を生産性の尺度として用いた。TFPを計算するために、われわれは経済産業省(METI)によって実施されている企業活動基本調査を利用し、TSRの取引データセットと照合した。

 

主要な発見

  • 16万4329社の製造企業のうち、5%が製品を直接輸出しており、14.5%が卸売業者を通して間接的に輸出している。卸売業者を通して間接的に輸出している製造業社は、主に大都市圏とりわけ東京に位置していた。

 

  • 取引の平均距離は約198kmであったのに対し、間接輸出の取引の平均距離は約227kmであった。このことは、財を間接輸出する卸売業者に到達するために、製造業者は追加的な30kmを乗り越えなければならないことを示している。

 

  • 最も顕著なことには、卸売業者の生産性には、製造業者の生産性と相関性がなかったのに対し、間接輸出の可能性と正の相関性があった。この発見は、製造企業が潜在的な卸売企業を探しているというよりむしろ、卸売企業が潜在的な製造企業を探しており、卸売企業は探すコストを埋めるのに十分な生産性が必要であるということを示唆している。

 

  • われわれはまた、範囲の経済の効果に関する証拠を得た。

 

編集者メモ:このコラムの主な研究は、日本の経済産業研究所(RIETI)のディスカッションペーパーとして最初に登場したものである。

 

参照

Akerman, A (2018), “A Theory on the Role of Wholesalers in International Trade Based on Economies of Scope”, Canadian Journal of Economics 51(1).

Ahn, J, A K Khandelwal, and S Wei (2011), “The Role of Intermediaries in Facilitating Trade.” Journal of International Economics, 84(1): 73–85.

Bernard, A B, J B Jensen, S J Redding, and P K Schott (2010), “Wholesalers and Retailers in U.S. Trade”, American Economic Review, Papers & Proceedings 100(2): 408–413.

Crozet, M, G Lalanne, and S Poncet (2013), “Wholesalers in International Trade”, European Economic Review 58: 1–17.

Fujii, D, Y Ono, and Y Saito (2016), “Indirect Exports and Wholesalers: Evidence from interfirm transaction network data”, RIETI Discussion Paper 16-E-068.

Ito, T, R Nakamura, and M Morita (2017), “Wholesalers, Indirect Exports, Geography, and Economies of Scope: Evidence from firm transaction data in Japan

[1] thresholdには「閾値」という意味がある。ここでは分かりやすく「限界」と訳した。

[2] 原文はAre there are the economies of scope effects? となっているが、恐らくこれは誤りであろう。Are there the economies of scope effects? の意味で訳した。なお、economy of scope (訳:「範囲の経済」)とは、複数の製品をそれぞれの企業で生産するより、同一の企業がまとめて生産した方が、経営資源を共有するため費用を節約できるというものである。

[3] 全要素生産性(TFP)とは、全体の産出の変化率から、労働と資本の投入の変化率を引いたものであり、技術進歩を示す数値として扱われる。