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タイラー・コーエン 「計画経済の誘惑」(2016年3月3日)

●Tyler Cowen, “Teaching economics to the sixth grade”(Marginal Revolution, March 3, 2016)


2008年に金融危機が勃発して以降、アメリカの公立小学校では授業で児童たちに経済学を教えるところがかなり増えてきているようだ。どんな具合か一例を紹介しておこう。

ヒギンス氏が教える(小学6年生の)クラスでは経済体制の比較に話題が移った。児童らはそれぞれバビロニア帝国の都市のいずれかの首長になりきって演習に臨むわけだが、はじめのうちはバビロニア帝国では計画経済(指令経済)が採用されていた。財の価格も住人の収入も中央政府によって直接決められていたわけだ。そんなバビロニア帝国もしばらくすると市場経済に移行して都市間での交易も行われるようになる。それに伴ってどの都市も昔に比べて(計画経済を採用していた頃よりも)豊かにはなったものの、豊かさを手にするために交易に汗を流すのも楽じゃない。児童らはそのような感想を持ったようだ。

「本音を言わせてもらうと、計画経済でやり繰りしていた頃の方が好きだわ」。そう語るのは(バビロニア帝国の都市の一つである)「エシュヌンナの女性首長」マイレッド・チェイス(11歳)。「権力って好きよ。これっていう明確な目標があるのっていいわよね」。そう語りながら肩をすくめて笑顔を浮かべるチェイス。「あれしろこれしろって誰かに指示されるのも時には悪くないものよね」。

引用元はこちらのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事だ。

タイラー・コーエン 「『ワックスかける! ワックスとる!』 ~曖昧さの効用~」(2013年3月19日)

●Tyler Cowen, “Why a coach should be ambiguous”(Marginal Revolution, March 19, 2013)


Jeffのブログより。

映画『ベスト・キッド』でのミヤギ先生の空手の指導法を覚えているだろうか? 「ワックスかける! ワックスとる!」。「次は塀のペンキ塗り。アップ。ダウン。アップ。ダウン」。「鼻から息を吸って口から吐く。呼吸を忘れてはいけない」。ミヤギ先生のお言葉だ。

指導者の指導者たるゆえんは教え子の成長を後押しするために何を教える必要があるかをとくと心得ているところにある。しかし、ここに一つの大問題がある。教え子の中でも早熟タイプの子弟もまた自分が何を教わる必要があるかをわかっていると(才能があるがゆえに当然のごとく)思っているのだ。

仮にミヤギ先生が弟子のダニエル少年に具体的で事細かな練習メニューを組んで空手を教えていたとしたら――「まずは(空手の基本となる)この手の動作を何度も何度も繰り返しなさい」といったように――ダニエル少年はすぐに異を唱えて「これ以外の動作も教えてください。早く次のステップに進んでください」と迫ったことだろう。ミヤギ先生が曖昧なアドバイスに終始したのは(具体的で事細かな練習メニューを組んでいたら避けられなかったであろう)ダニエル少年との悶着を避けるためだったのだ。

天性の才能に恵まれたアーティストの卵も基礎を学ぶ必要がある。しかしながら、基礎を学ぶのにどれだけの時間を費やすべきかをめぐって先生との間で意見が食い違うかもしれない。「これやっといて」といきなり何の説明もなしに課題を出せば教え子(であるそのアーティストの卵)は先生をどう評価しているかに応じてその言いつけに従うかどうかを決めることだろう1。その一方で、「基礎を一つずつ着実に学んでいかなければいけません。まずはこちらの基礎からはじめましょう。そのための課題がこれとこれです」と事細かな説明付きで課題を出せば教え子はその基礎の重要性を自分なりに判断し、その自己判断に応じて出された課題にどれだけ真剣に取り組むかを決めてしまうおそれがある。

  1. 訳注;「この先生は優れた指導者であり、どう指導するのが最善かをわきまえているに違いない」と高く評価している(一目置いている)のであれば言いつけに忠実に従い、「この先生は指導者として大したことない」と評価している(侮っている)のであれば言いつけに耳を貸さない(あるいは手を抜いて課題をこなす)。 []

タイラー・コーエン 「刑事モノの映画やドラマにまつわる謎 ~定年間際のベテラン刑事役が頻繁に出てくるのはなぜ?~」(2010年3月20日)

●Tyler Cowen, “Questions that are rarely asked: why so many retired cops?”(Marginal Revolution, March 20, 2010)


本ブログの熱心な読者の一人であるJIm Crozierから次のような質問を頂戴した。

刑事モノの映画やテレビドラマを観ているとオープニングのシーンで定年間際の年老いた(そして疲れ切った)警察官が登場することがよくありますが、それはなぜなのでしょうか? そういったとても現実的とは言えない技法があちこちで何度も繰り返し使われているというのはビックリです。観客(や視聴者)への訴求力(作品への感情移入を促す力)なんかも――あくまでそのような力があるとしてですが――微々たるものに過ぎないように思えるのですが。

それなりにきっちりとした証拠に裏付けられた回答ができるほど刑事モノの作品に通じているわけではないとあらかじめ断っておくが、おそらく答えらしきものは限界効用理論に行動経済学の知見を加味することで得られるのではないかと思う。おそらくその年老いた警察官は長い警察官人生を通じてずっと心に抱き続けてきた宿願――例えば、指名手配犯を捕まえるだとか極悪政治家を成敗するだとか腐敗しきった警察組織を改革するだとか――があるものの、それを果たせずにきてしまっているのであろう。その警察官の定年がすぐそこに迫っているのだとすれば、観客(視聴者)である我々はその警察官の生涯がいかなるものであったかを決定付けることになる劇的な瞬間(出来事)を目撃していると意識しながら作品を鑑賞することになる。これが定年まで例えばあと残り4年3ヶ月ということであれば(定年までしばらく時間の余裕があるとすれば)なかなかそうはいかないだろう。というのも、定年までそれだけの時間が残されているのであれば劇中の出来事(事件)で仮に下手を打ったとしても「最後の失敗」1を意味しはしないだろうからだ2

行動経済学の知見によると、我々が特定の出来事(過去の経験)から受ける印象であったりその出来事に関する記憶であったりはその出来事の終わり方がどうであったか(出来事の終局でどのように感じたか)によって左右されることが多いという3。例えば、ユーロビジョン・ソング・コンテストの審査員たちは(歌を披露する順番はランダムに決められているにもかかわらず)一番最後に歌を披露した歌手に一番高い点数を与えがち(一番好意的な印象を持ちがち)なことが知られている4。このことを踏まえると、映画(ドラマ)の観客(視聴者)たちは「あのベテラン刑事は警察官人生の締め括りがどうなるかを大いに気にかけているに違いない」と薄々感じながら作品を鑑賞することになる可能性があり、それに加えて先ほど触れた話(宿願を果たせずにいる定年間際の警察官にとって一回一回の出来事(事件)が持つ重みの大きさ)が付け加わることになるわけだ。

刑事モノの作品をよく観る読者がいれば是非ともお聞かせ願いたいのだが、他に何か適当な説明はないだろうか?

  1. 訳注;「最後の失敗」=「宿願」を果たせないままでの警察官人生の終わり。 []
  2. 訳注;言い換えれば、定年までに残されている時間の長さによって「一回の失敗」が持つ重みの大きさが違う、ということ。定年が近い警察官ほど「宿願」を果たすために残されている時間の余裕がなく、一回一回の出来事(事件)の持つ重みも大きくなる。そして劇中の警察官にとって一回一回の出来事(事件)の持つ重みが大きいほど映画(ドラマ)の観客(視聴者)の側が劇中の一回一回の出来事(事件)を目撃することから得られる興奮(限界効用)も大きくなる可能性がある。 []
  3. 訳注;いわゆる「ピーク・エンドの法則」 []
  4. 訳注;この点については次の論文を参照。 ●Wändi Bruine de Bruin, “Save the last dance for me: unwanted serial position effects in jury evaluations”(Acta Psychologica, Vol.118(3), March 2005, pp.245-260) []

タイラー・コーエン 「吸血鬼を題材にした本や映画が人気なのはなぜ?」(2009年11月13日)

●Tyler Cowen, “Why do vampires attract so many readers and viewers?”(Marginal Revolution, November 13, 2009)


こちらのワシントン・ポスト紙の記事で吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由が探られているが、思春期から大人への移行期にある若者特有の心情が関係しているのではないかとの可能性が指摘されている。女性たちのゲイの男性に対する興味が関係していると語る記事もどこかで読んだ覚えがある(誰かその記事を御存知じゃないだろうか?1)。

吸血鬼は「私の趣味」とは言えないが、好きな作品もあるにはある。例えば、アン・ライスの初期の作品だとか『事件記者コルチャック』だとかヴェルナー・ヘルツォークが脚本・監督を担当した『ノスフェラトゥ』だとかだ。コッポラが監督を務めた『ドラキュラ』なんかは世の評論家たちの評価よりも出来がいいと感じたものだ。その一方で、『トワイライト』は最初の5ページくらいで脱落してしまった(『トゥルーブラッド』はチェックしておくべきだろうか?)。

吸血鬼を題材にした本や映画の魅力はどこにあるのだろうか? 個人的に思いつくところをいくつか列挙してみよう。

1. ストーリーが始まる前から大どんでん返しが待ち構えているに違いないとあらかじめ予想できる。物思いに沈みがちで口を開くと延々と語り続ける吸血鬼。これといった波風も立たずにコーヒーショップだとかでダラダラと時を過ごす吸血鬼の姿を映したまま曖昧なエンディングを迎える。そんな映画を作ろうと思い立つ制作陣なんて滅多にいないだろう。吸血鬼が登場するストーリーには「死」が付き物なのだ。

2. あの人物は見た目とは違って意外な顔を隠し持っているかもしれない。そんな話に人はつい惹かれてしまうものだ。吸血鬼を題材にした作品ではどの登場人物が吸血鬼なのかを探して見つけ出すのがストーリーの展開上重要な役割を担っていることが多い。そのことにばかり注目が行き過ぎている場合も時としてあるくらいだ。

3. 吸血鬼物の作品は「純粋で限り無き(果てしなき)欲望」2といったテーマを滑稽にならずに追い求めることを可能とする舞台を用意してくれる。同じテーマを現実に近い設定で追求しようとしたら滑稽な見た目になってしまう危険性がある(例えば、レーズン入りのチーズに目が無い男の物語を想像してみればいい)。

4. 吸血鬼は女性に「つれない」態度で応じるものだが、そのように振る舞う吸血鬼は旧世界の騎士道の理想を(一時的であるとは言え3)立派に(?)実践していることになる。観客たちは吸血鬼のそんなやり口も遠巻きに眺めて素直に楽しむことができる。というのも、吸血鬼は我々とは別の生き物だからだ4

5. 男性はデート用の映画として吸血鬼物の映画を好む面もあるかもしれない。その理由は・・・その何というか・・・プライミング効果を期待してだ。映画がデート相手の感情5を大いに高ぶらせる可能性をあてにしてというわけだ。それと似た話だが、女性はデート相手の男性が残虐なストーリーにどう反応するかを「テスト」しようと思っているかもしれない。その男性がどれだけ頼りがいがあるかを試そうとしているわけだ(反対に男性の方ではデート相手のか弱さを試そうとしているわけだ)6

6. 吸血鬼は世間からの冷たい目など物ともしないかのようだが、10代の若者の多くは吸血鬼のそのようなところに憧れを感じる面があるのであろう。

7. 吸血鬼物の人気の高さのいくらかは吸血鬼というテーマの内容それ自体とは無関係な可能性もある。あるテーマが何かのきっかけで一旦流行り出したらそのテーマに耳目が一気に集まることがあるものだ。最近ヘヴィメタルが大流行なのも同じくそのためなのかもしれない。

8. 映画の観客(本であれば読者)は吸血鬼のことについて予備知識を持っていて吸血鬼の弱点もわきまえているが、作品の中で吸血鬼と戦っている登場人物たちはそうではない。吸血鬼に立ち向かう登場人物たちは物語の設定上社会的地位が高いことが多いが、観客(ないしは読者)はそのような登場人物たちよりも(吸血鬼のことについて詳しいという意味で)賢くて優れているかのような感覚を味わうことができるわけだ。

9. 吸血鬼を題材にした歌や絵画で人気がある作品というのはほとんど見当たらない。ということは、吸血鬼物の人気は「物語としての側面」が重要な役割を果たしていると言えそうだ。

(吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由についての)少しばかり突飛な回答はこちらを参照されたい。

  1. 訳注;おそらく次の記事がそれ。 ●Stephen Marche, “What’s Really Going on With All These Vampires?”(Esquire, October 13, 2009) []
  2. 訳注;生き血に対する飽くなき欲望 []
  3. 訳注;女性の首筋に噛み付いて生き血を吸うことに成功するまでの間、という意味。 []
  4. 訳注;吸血鬼は「つれない」素振りをして女性の気を引こうとしているが、吸血鬼ではなくて現実にいそうな登場人物がそのやり口を使っていたら(何だか逆に見え透いた感じがしたりして)素直には楽しめない、といったことがおそらく言いたいものと思われる。 []
  5. 訳注;恋愛感情ないしは性欲 []
  6. 訳注;この点については本サイトで訳出されている次の記事も参照のこと。 ●アレックス・タバロック 「ホラー映画に関する『イチャイチャ理論』」(2017年6月22日) []

アレックス・タバロック 「ゾンビ襲来の数理モデル」(2009年8月16日)・「ゾンビ経済学」(2013年3月9日)/タイラー・コーエン 「『アンデッドの経済学』」(2014年7月10日)

●Alex Tabarrok, “Mathematics of a Zombie Attack”(Marginal Revolution, August 16, 2009)


今回紹介するのは『Infectious Disease Modelling Research Progress』に収録されている論文(pdf)だ。アブストラクトを以下に引用しておこう。

ゾンビはポップカルチャーやエンターテインメントの世界で人気のキャラクターの一つである。死者が何らかの原因で突如ゾンビとして蘇り、生きている人間を次々と襲っていく。そしてゾンビに襲われた(噛まれた)人間もまたゾンビとなって新たな獲物を追い求めていく。世にある娯楽作品の中ではそのように描かれることが多い。本論文ではポピュラー映画に登場するゾンビの特徴を踏まえた上で「ゾンビ襲来」の数理モデルを組み立てる。まずはじめにゾンビ感染に関する基本となるモデルを構築し、モデルの均衡を求めると同時に均衡の安定性を検証する。さらには、数値シミュレーションも行う。次に基本となるモデルに修正を加え、人間がゾンビ化するまでには一定の潜伏期間を要する――ゾンビに襲われた(ゾンビウイルスに感染した)人間はすぐにゾンビになるのではなく一定の潜伏期間を経た後にゾンビ化する――との前提を置くことにする。その上でゾンビ(やゾンビウイルスに感染したもののまだゾンビになりきれていない人間)の「隔離」やゾンビウイルスに効く「治療薬」(ゾンビ化した人間が再び普通の人間に戻ることを可能とする治療薬)の効果を調べる。そして最後に定期的に「掃討作戦」を繰り返してゾンビの殺傷を試みた場合の効果を検証し、ゾンビの根絶が可能となる条件を求める。早い段階から積極果敢な掃討作戦に打って出る以外に「世界の終焉」シナリオ――ゾンビの襲来によって生きている人間が一人残らずゾンビとなり、文明が崩壊へと向かうシナリオ――を避けられる方法はない。本論文のモデルからはそのような結論が得られることになる。

この話題はBoing BoingサイトでCory Doctorowが紹介していたのを見て知ったものだ1。感謝する次第。
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●Alex Tabarrok, “Zombie Economics”(Marginal Revolution, March 9, 2013)


「ゾンビ経済学」とは言っても「セイの法則」だとかを槍玉に挙げているわけじゃない2。文字通り「ゾンビの経済学」――正真正銘のゾンビを対象とした経済学――だ。グレン・ホイットマン(Glen Whitman)とジェームズ・ダウ(James Dow)の二人が「『アンデッド』(特にゾンビと吸血鬼)の経済学」をテーマとする本の編集を進めているらしい。ロウマン&リトルフィールド出版社から出版予定とのことだ。

経済学の発想を使って「アンデッド」に関わる問題に切り込んだり、「アンデッド」を題材として経済学の方法論を問い直す。本書への寄稿をお考えの方々にはそのような姿勢で筆を進めていただきたいところだ。論文のアブストラクト(要旨)にしても本文にしても一般の読者でも近づきやすくて興味を惹かれるようなスタイルでまとめ上げていただきたい。さらには、ポップカルチャーの分野における「アンデッド」の例――例えば、『トワイライト』シリーズや『バフィー ~恋する十字架~』、アン・ライスの一連の小説、『ワールド・ウォーZ』、ジョージ・ロメロ監督の作品の数々、『トゥルーブラッド』、『ウォーキング・デッド』等々――を引き合いに出しながら論を進めていってもらいたいところだ。

考え得るトピックの例を挙げておくと、「血市場」における需要と供給、「ゾンビ労働市場」の振る舞い、「アンデッド」の脅威への対応策に絡む政治経済学的な問題、ゾンビの襲来によって荒廃した経済の復興にまつわる問題、ゾンビや吸血鬼の行動が合理的選択理論に投げかける示唆等々ということになるだろう。

ただ今論文のアブストラクトの投稿を募集している最中とのことだが、詳しい投稿規定はこちらをご覧になられたい。

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●Tyler Cowen, “*Economics of the Undead* (arrived in my pile)”(Marginal Revolution, July 10, 2014)


『アンデッドの経済学』と題する本が出版された。編者はジェームズ・ダウとグレン・ホイットマンの二人。副題は「ゾンビ、吸血鬼、陰鬱な科学」だ。執筆陣にはスティーブン・ホーウィッツ(Steven Horwitz)サラ・スウワイア(Sarah Skwire)イリヤ・ソミン(Ilya Somin)ホリス・ロビンズ(Hollis Robbins)らが名を連ねている。

  1. 訳注;この論文の内容を日本語で詳しく解説したものとしては例えば次のブログエントリーを参照のこと。 ●“感染症モデルに基づくゾンビ大量発生時の危機管理指針”(A Successful Failure, 2009年8月29日) []
  2. 訳注;「セイの法則」だとかを槍玉に挙げている「ゾンビ経済学」はこちら。 []

タイラー・コーエン 「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」(2005年11月20日)

●Tyler Cowen, “Why are UFO reports declining?”(Marginal Revolution, November 20, 2005)


UFOを発見したりその正体を理解する助けとなる(インターネットや電子機器、モバイル端末といった)テクノロジーが劇的な進歩を遂げてきているわけだが、それと時を同じくしてUFOの目撃例は先細り傾向を辿っている。宇宙人に誘拐されたと告白する人物が登場してから40年以上が経過しているわけだが、神秘に包まれた異星人の手によって不運な地球人の体に汚らわしい人体実験が施されたことを裏付ける物的な証拠はどういうわけだかこれまでに一つとして見つかっていない。アメリカ国内で売られているパソコンにはどれをとっても精密な画像解析を可能とするソフトが内蔵されるようになってきているわけだが、奇妙なことにと言うべきか、それとともにUFOの姿を捉えた写真はレアな(もの珍しい)存在となってきている。超常現象に出くわしたとなれば携帯電話やインスタントメッセージで大勢の仲間を呼び出して皆で一緒にその奇妙な現象を体験することも可能なわけだが、どうやらこの頃は超常現象はそう頻繁には起こっていないようだ。超常現象が起こってくれれば宇宙人はUFOの存在を信じて疑わない者たちの間で「空想の友人」の役目を立派に務めてくれるはずなのだが1。(テクノロジーの進歩のおかげで)UFOの姿をはっきりと捉える能力が高まるのに伴ってUFOが我々の前からその姿をくらますとは何とも奇妙な話ではないか! ・・・大して奇妙なことでもないという意見もあるかもしれないが2

全文はこちら3。テクノロジーの進歩に伴ってUFOの目撃例が減ってきているからといって人々が昔に比べると幻想に取り付かれにくくなってきているかというとどうだろうか? 個人的には懐疑的なところだ。それよりはむしろ、UFOにまつわる幻想4だとかの代わりにその間違いがそう簡単には露呈しないような幻想――例えば、未来に関するする幻想(例えば、トランスヒューマニズムの極端なバージョン)だったり、政治にまつわる幻想だったり、宗教にまつわる幻想だったり――へと思い込みの対象が移っているに過ぎないのではないかというのが私の意見だ。人は自己欺瞞の強力な衝動5に常に駆られており、真実を追い求めようとする欲求(自分が信じている考えの真偽のほどを確かめようとする欲求)が自己欺瞞の衝動に打ち勝てるとは限らない。真偽の怪しい考えを追い払うのは決して楽な戦いではないのだ。それに加えて、真偽が怪しい考えの論駁に必死になり過ぎてかえって逆効果になってしまう場合というのも時としてある6。例えば、UFOにまつわる幻想には馬鹿げたところがあることはその通りだが、これまでを振り返るとUFOにまつわる幻想は数ある幻想の中でも比較的害の無いものだったと言えるだろう。UFOにまつわる幻想のおかげで政府(国家権力)に対して疑いの目が向けられることにもなったし7、SF映画にお客が集まることにもなった。「宇宙人は実在する!」という幻想が公共政策に及ぼす影響(例えば、宇宙人担当大使のポストを新設するとか?)に目を向けてもこれまでのところは財政規律の悪化(財政赤字の拡大)に手を貸すということも無かったのだ。

  1. 訳注;「この異常な現象を引き起こしている犯人は宇宙人に違いない」、といったように。 []
  2. 訳注;仮にUFOは実在している(そして地球にやって来ている)のだとするとUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは奇妙な話ではあるが、実在などしていない(UFOは捏造に過ぎない)とすると奇妙でもなんでもないという話になる。ちなみに、アレックス・タバロックはUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは「地球人の間でカメラ付き携帯(をはじめとしたモバイル端末)が普及していることが宇宙人にも知られるところとなったからだ」(その結果、宇宙人たちはカメラ付き携帯で撮影されないように慎重に行動するようになったからだ)と(冗談めかして)語っている。 []
  3. 訳注;上の引用箇所だけだとわかりにくいかもしれないので念のために注記しておくと、「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」という問いに対するここでの答えは「テクノロジーの進歩に伴って嘘がつきにくくなった(でっち上げやごまかしが見破られやすくなった)ため」(UFOの捏造が難しくなったため)ということになる。例えば、インターネットで検索すれば、UFOの姿を捉えたと称する写真や映像のごまかしを事細かに検証したり、宇宙人と遭遇したと語るエピソードに論駁を加えたりしている情報に容易にアクセスできる。 []
  4. 訳注;「UFO(ないしは宇宙人)は実在していて地球にやって来ている!」と本気で信じ込むこと。 []
  5. 訳注;自己欺瞞の誘惑=真偽のほどは怪しくても自分にとって心地いい考えを(自分を欺いてでも)信じ込もうとする欲求、といったくらいの意味。 []
  6. 訳注;言い換えると、真偽が怪しい幻想も時として有益な効果を発揮することがある(その幻想が完膚なきまでに論駁されて誰にも見向きもされなくなるとそれと同時にその幻想に伴う有益な効果も失われることになる)、ということ。以下にその例としてUFOにまつわる幻想に伴う有益な効果が語られている。 []
  7. 訳注;「政府はUFO(ないしは宇宙人)の存在を裏付ける証拠を握っているにもかかわらずそれを隠しているに違いない。そんな政府は信用ならない」といったようなかたちで政府に対して疑いの目が向けられるようになり、その結果として政府の行動を厳しく監視する姿勢が養われるようになった、というようなことが言いたいのであろう。 []

タイラー・コーエン「祖父の霊、売ります」(2004年12月5日)/アレックス・タバロック 「ビッグフットとUFOに関する計量経済学」(2008年9月1日)

●Tyler Cowen, “Phantom markets”(Marginal Revolution, December 5, 2004)


祖父の霊を怖がる6歳の息子を安心させるにはどうしたらいいだろう? そうだ、(インターネットオークションサイトである)eBay(イーベイ)で祖父の霊を売りに出そう。そのような母親の妙案に対してこれまでに34件を上回る入札があり、最高入札額は今のところ78ドルに達している(最新の情報によると、最高入札額は1万5000ドルにまで競り上がっている)。

「おじいちゃんの幽霊にそのうち出くわすんじゃないかって怖いんだよ」。母親のメアリー・アンダーソンが語るところによると、息子のコリンがそう語るのを聞いて祖父(メアリーにとっては父)の霊をオークションサイトに出品する(売りに出す)ことに決めたという。祖父が亡くなったのは昨年のことだが、それからというものコリンは一人きりで家の中を行き来するのを止す(よす)ようになったという。

・・・(中略)・・・

オークションには(祖父の霊に加えて)祖父が愛用した金属製のステッキも併せて出品されており、祖父の霊の落札者にはちゃんと手で触れることができるモノも送り届けられることになっている。母親のメアリーの言によると、オークションの売上金でコリンに何かしらのプレゼントを買ってあげる予定だという。

全文はこちら

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●Alex Tabarrok, “Econometrics of Bigfoot and UFOs”(Marginal Revolution, September 1, 2008)


ピーター・リーソン(Peter Leeson)がFreakonomicsブログに記事を寄稿している。テーマはビッグフットとUFO(未確認飛行物体)に関する計量経済学。リーソンがデータを詳しく調べたところによると、UFOの目撃件数の多い(アメリカ国内の)州ではビッグフットの目撃件数も多い傾向にあることが見出されたという。リーソンはその事実からいくつかの暫定的な結論を引き出している1が、残念ながらいずれも大間違いだと言わざるを得ない。正しい結論にたどり着きたいのであれば若き同僚(リーソン)にはこちらの古典2の研究に力を入れてもらわねばならないだろう。

  1. 訳注;一例だけ紹介しておくと、UFOの目撃件数が多い州ほどビッグフットの目撃件数も多い傾向にあるのはUFOやビッグフットをだしにして観光客をできるだけたくさん呼び込もうという誘因(インセンティブ)が絡んでいるのではないかとの可能性が挙げられている(UFOやビッグフットの目撃件数が多い州は観光業が州の重要な産業の一つとなっている州でもあるとのこと)。 []
  2. 訳注;『サイボーグ危機一髪』におけるスティーブ・オースティンとビッグフットの格闘シーン。この作品ではビッグフットは宇宙人が作ったサイボーグという設定になっている。 []

タイラー・コーエン「トランプ政権,外見差別,サウジ人」

[Tyler Cowen, “The Trump administration, lookism, and the Saudis,” Marginal Revolution, May 22, 2017]

かくいうぼくも無罪ではないので,謝罪したい.どうやら,ぼくがフォローしてるTwitter界隈の地位ある人たちの一部では,トランプ政権の面々が映ったいろんな画像の醜い部分や風変わりなところや困惑している姿や汗まみれになっている姿など,バカにしやすいものを笑いのネタにするのが政治的に容認できることになっているらしい.
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タイラー・コーエン「1万語あたりに -ly 副詞がでてくる回数」

[Tyler Cowen, “Number of -ly adverbs per 10,000 words,” Marginal Revolution, May 17, 2017]

ヘミングウェイ: 80回
トウェイン: 81回
メルヴィル: 126回
オースティン: 128回
J.K.ローリング: 140回
E.L.ジェイムズ: 155回

ネタ元は,ベン・ブラットのおもしろい新著『ナボコフのお気に入り単語は「藤色」』.ヘミングウェイ作品で -ly で終わる副詞の生起率がいちばん高いのは死後出版となったTrue at Fist Light で,ヘミングウェイ作品で最低の駄作と考えられている.同じパターンはフォークナーやスタインベックにも見られる.つまり,いちばん評価の高い作品は -ly 副詞の生起率が相対的に低い.調査された著名作家たちのなかでは,D.H.ロレンスがこの規則性のいちばん明白な例外となっているようだ.
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タイラー・コーエン「イギリスで産業革命が起きなかったとしたら他の産業革命までどれくらいかかっただろう?」

[Tyler Cowen, “How long until another Industrial Revolution would have taken place?” Marginal Revolution, May 9, 2017]

こう仮定してみよう.どういうわけか,イギリスが産業革命の好機をのがしたか(しなくていい戦争で負けたとか),あるいはそもそも産業革命を起こす状況にいたらなかったとする(メキシコ湾流がなかったとか).その世界では,いったいいつ産業革命が起きただろうか? お忘れなきように――中国の宋はなんらかの突破口を開くのに比較的に近いところまで行ったけれど,産業革命を起こすにはいたらなかった.ローマ帝国についても同じことを言う評論家たちがいる.
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