●Alex Tabarrok, “On the Origin of Specie”(Marginal Revolution, August 23, 2012)
エコノミスト誌の記事によると、貨幣――特に、硬貨(コイン)――は、「取引に伴うコストをできるだけ低く抑えようと試みられる過程で民間部門において自生的に発展してきたわけではなく、政府がその発行を引き受けることを通じて発展してこざるを得なかった」とのこと。しかしながら、過去の歴史を振り返ると、民間部門において硬貨(私鋳銭)が鋳造された例は数多い。しばらく前に、ジョージ・セルジン(George Selgin)の傑作である『Good Money』を話題にしたことがあるが、その時のエントリーの一部を以下に引用しておこう。テーマは、産業革命黎明期のイギリスにおける私鋳銭の鋳造だ。
産業革命が到来すると、多くの人々は、生まれ故郷(の農地)を離れて、都市部の工場で労働者として働き始めることになるが、それに伴って、決済手段(交換手段)に対する需要が劇的に高まることになった。それまでは、労働の対価は現物(農作物)で支払われていたが、都市部で働く労働者たちは、生活必需品を購入するために使える決済手段を得るために、労働の対価を現金で支払うよう求めたのである。しかしながら、民間の銀行が独自の少額銀行券を発行するのは法律で禁じられており、硬貨を鋳造する独占的な権限を付与されていた英国王立造幣局(Royal Mint)は、労働者や雇用主の求めに応じることができずにいた――質の高い硬貨(銅貨)を十分に供給できずにいた―― [1] … Continue reading。
王立造幣局は、工場で働く労働者たちの求めに応じる――十分な量の硬貨(銅貨)を鋳造する――意思もなければ、そのために必要な能力(技術)も欠いていた。とある歴史家(pdf)が当時の王立造幣局が直面していたインセンティブについて次のように説明しているが、旧ソ連時代の製釘工場(釘を製造する工場)の姿が重なって見える。
硬貨の鋳造を受け持っていた公的な機関が王立造幣局である。ところで、王立造幣局に課せられていた年間のノルマは、枚数単位(一年間に何枚の硬貨を製造するか)ではなく、総額単位(一年間に総額でいくらの硬貨を製造するか)で決められていた。50万4千枚の半ペンス銅貨を鋳造するよりは、1000枚のギニー金貨を鋳造する方がずっと簡単で楽だ [2] … Continue readingということは、その当時の最先端の科学知識がなくとも容易に理解できた。タワーヒル地区の(働き過ぎとは決して言えない)住民たち [3] … Continue readingは、そのことに気付いて大喜びした。・・・(中略)・・・王立造幣局がもう少し協力的で、(工場で働く)賃金労働者たちの求めに応じる意思をあともう少しだけ持ち合わせていたとしても、銅貨不足の解消に一役買うのは難しかったろう。それというのも、王立造幣局が硬貨の鋳造に用いていた機械は、遠い昔から受け継がれてきた時代遅れの代物だったからである。
・・・(中略)・・・
公の機関が投げ出した問題の解決に乗り出したのは、民間の企業家たちだった。
銅貨不足の解消に乗り出したのは、バーミンガムを拠点とするボタン製造業者たちだった。ボタン製造業者たちが鋳造した銅貨(私鋳銭)は広い範囲で流通したが、問題もあった。偽造が至るところで蔓延(はびこ)ったのである。マシュー・ ボールトン(Matthew Boulton)は、質の高い銅貨(良貨)が不足していることに常々不満を募らせていたが、ある時ふと妙案を思い付いた。ビジネスパートナーであるジェームズ・ワット(James Watt)が発明した蒸気機関の力を借りたスチームプレス機なら質の高い銅貨が鋳造できるのではないかと考えて、そのアイデアを実行に移したのである。蒸気機関を利用した新たなプレス機は、従来機よりもずっと大きな圧力を加えることができた。そのおかげで、硬貨の縁を正確に整えられたし、硬貨を正確にくり抜くこともできた。言い換えると、偽造が困難な銅貨を鋳造することができたわけである。それも大量に。
ボールトンのエピソードについてはセルジンの件の本でも取り上げられているが、ここでは、ボールトンが鋳造した銅貨は、それまでに(イギリス国内においてだけではなく、インド、シンガポール、バミューダ諸島といったその他のあらゆる地域において)製造されたどの銅貨よりも優れたもの――最高品質の銅貨――だったと指摘しておくだけで十分だろう。民間部門において硬貨(私鋳銭)が鋳造された例は、ボールトンのケースだけに限られるわけじゃない。セルジンが自らのブログで指摘しているように、アメリカや日本をはじめとしたその他の国でも、私鋳銭が鋳造された例を見出すことは可能なのだ。
ボールトンがソーホー鋳造所で鋳造した硬貨の画像をいくつか掲げて、エントリーを締め括るとしよう。
References
↑1 | 訳注;言い換えると、銅貨が不足する事態が続いたということ。当時の労働者の賃金は低かったので、給与は額面の小さな硬貨(=銅貨)で支払う必要があった。 |
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↑2 | 訳注;1ギニー=21シリング、1シリング=12ペンス。総額で1000ギニーの硬貨を製造するには、1ギニー金貨であれば1000枚で済むが、半ペンス銅貨だと50万4千枚(=2×12×21×1000)も製造しなければならない。硬貨の鋳造に関するノルマが総額単位で決められていたこともあり、王立造幣局は、額面の大きな硬貨(金貨)を鋳造して、できるだけ仕事量を減らそうとする(硬貨の製造枚数をできるだけ少なく抑えてノルマを達成しようとする)インセンティブに直面していたわけである。 |
↑3 | 訳注;王立造幣局の所在地は、タワーヒル地区。「タワーヒル地区の住民たち」というのは、王立造幣局で硬貨の鋳造を担当していた役人のことを指している。 |
いま大英博物館を見学中です。
ジェームズワットの工場で作成されたコインを見て、私の英語の理解は正しいか確認したくてこちらのページにたどり着きました。
かなり大きく重いコインなため、長い期間は流通しなかったようですね。
詳しいご説明を拝見できて良かったてます。
ありがとうございました。