アンドルー・ポター「反消費主義の時代は終焉を迎えた」(2016年11月24日)

The age of anti-consumerism has passed

Posted by Andrew Potter on November 24, 2016 | culture, economy

今朝の朝刊に巻き付いていた下品なチラシで、明日はブラック・フライデーだと気づいた。おそらく今年最大の買い物日和となるだろう。ご存じのように、ブラック・フライデーには、アメリカ人は押し合いへし合いしてウォールマートに殺到し、ベスト・バイのフラットスクリーンTVの回廊内で銃を突きつけあっている。

ブラック・フライデーが、反消費主義達のヒステリーによって包囲されていたのはそんなに昔のことではない。ブラック・フライデーは、カルチャー・ジャマー達の予定表では、最重要日の一つだったのだ。アドバスターズ誌 [1] … Continue reading が無買日を呼びかけた日だったことも原因となっていた。無買日は、反消費主義の活動家達が、クレジットカードをちょんぎり、座り込みし、自転車に乗り、ゾンビ歩行し、自動車の大量走行への批判を行うことで、買い物客への「ジャム(妨害)」を試みる日なのだ。こういったカルチャージャマーの活動は、買い物客に向けて己の肥大さを喚起させ、何も買わせないことを目的にしている。

ジョセフ・ヒースと私は、『反逆の神話』の中で、無買日をさんざんからかわせてもらった。また、毎年この時期になると、ラジオ局かオピニオン紙の担当編集者が、ヒースか私に電話をかけてきて、この乱痴気騒ぎについての考察を求められることが慣行になっていたものだった。ゼロ年代のほとんどでこの慣行は続いていたが、以降…、あっさり消失しまった。無買日はまったく関心を引かなくなり、今やアドバスターズのホームページにすら載っていない。

しかしながら、これは〔一部活動家の局地的な関心の推移ではなくて〕、もっと一般的なトレンドの反映にすぎない。つまり、反消費主義達のレトリックは、基本的には説得力ゼロになっているのだ。広告化、ブランド化、クール(格好良さ)の相乗化に対抗する為の反消費主義の包括的アジェンダは、もう終焉を迎えしまっている。どうして終わってしまったのだろう? いくつかの有力が要因がある。これら要因は場合によっては相互関連している。

1.アイデンティ・ポリティクスが経済や政治よりも優先されることの再来

私がマギル大で学部生だった頃(89-93)、キャンパスはアイデンティティ・ポリティクスに席巻されていた。「承認」「声の盗用」「男らしさの有害性」「名付け」といった、今見られるのと似たような議論が、振り返ってみれば大沸騰していたのだ。このような取り組みは、他の関心事(例えば経済的な論題を)押し退けてしまう傾向となる。

2.クールの終焉

この変化の大部分は、インターネットの到来と共に「クール」が死んでしまい、「リアル」の探索にほとんど置き換わったことにある、と私はAHで論じた。

そして、この変化の多くは、――「ヨガ教室で一人抜きんでいる」、「DIY(日曜大工)の流行体現者」「食べ物への偏執的こだわり」――といった行為の形態となっており、非常にパフォーマティブ〔顕示的行為実践〕だ(世に知られていないヨガを行う、自家製ビールを醸造する、凝った料理を作る)。なので、こういったステータスの動態は、消費に基づいていないのが明らかに明白であり、以前のような反消費のバックラッシュを引き起こさない。

3.あらゆるもののデジタル化

これは若干2から引き続いてのネタだが、様々な消費財の希少性が無くなってしまったことだ。以前だと、人々は、希少な消費財を巡って大規模なステータス競争を行っていたものだった。音楽は特にそうだったが、本もテレビも映画もそうだった。かつて人々は、情報伝達のラグを利用して隙間商売をしていたが、これは今やほとんど消失してしまった。

4.どんな服を着るのかも基本的に自由だ。

5.どんな電化製品を消費するのも基本的に自由だ。

6.ただし、携帯電話を除く

この携帯電話を巡る状況に、最も重要な変化が起こっていると私は考えている。携帯電話による情報消費に紐付いて、ソーシャルメディアは台頭している。かつて、ステータスは〔消費行為・物等の〕代理戦争を経由して争われていた。これはヴェブレンに起源を持ち、50年代のご近所との見栄の張り合い、カウンターカルチャー、クールの獲得、リアルの探求へと軌跡を経てきている:こういったステータスによる標識は全てアバターだ――どんな外国語を学ぶのか、ウチの庭の芝生は人様からどう見えるのか、どんなバンドについて詳しいか、どんな服を着ているのか、どんな風変わりな休暇を取ったか、etc…。

しかし今や、ステータスはソーシャル・メディアを通じて直接的にやり合うものになっている:戦後の全期間において、我々は消費習慣を仲介させて消費主義を駆り立て、間接的にステータス探しを行ってきた。しかし、今やそれに変わって、フェイスブックのいいね数や、ツイッターのリツイート数や、インスタグラムのフォロー数で、白兵戦を繰り広げるようになっている。皆で一緒にアヒルの笑い顔をした写真をSNSに投稿して1時間に800シェアされる時代に、流行のジーンズを必要とする人はいるだろうか?

以前の状況と現在の状況、どちらが悪いのは私には分からない。過去の状況は疲労困憊させるものであり、社会・経済的不平等を悪化させもしていた(実際、80年代のティーン向け映画のほとんどが、貧しい少年を主人公として扱っていたことに着目されたし。この手の映画では、貧乏な主人公の少年は、最初は裕福な主流の体育会系に嘲笑されるが、最終的に金持ち女の子をゲットし、主流の承認を得ることになっていた。)

ただ以前のステータス競争には、利点が1つあった。それは、文化的な産物を生み出すのに、素晴らしいメカニズムだったことだ。

新しいソーシャルメディアの動態は、社会・経済的不平等による分断と同じように疲労困憊しており、文化的にも活気がないように見える。まるで文化的な不況のように、物事が価値中立の中に陥没してしまっているようだ。

(このエントリ内容の多く(特に4と6)は、先週のヒースとの雑談からの話題だ。彼は4と6以外は同意しないかもしれない。)

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1 訳注:カナダに本拠がある有名なカウンターカルチャー雑誌。ナオミ・クラインが参加していることや、「ウォール街を占拠せよ」運動を扇動したことでも有名。
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