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サイモン・レン=ルイス「経済学者:イデオロギー過剰,経験則過少」

[Simon Wren-Lewis, “Economists: too much ideology, too little craft,” Mainly Macro, October 9, 2017]

昨日、ポール・クルーグマンがこんな議論を書いている——金融危機をふまえて新たな経済学思想が必要だという考えはまちがっているけれど、ビッグマネーや政治的右派に好都合な影響力あるイカレた考えにつながったのだという。ポールが言っていることには賛成する部分も多いけれど、付け加えたい点もある。いま考えていることは、ちょうどいまダニ・ロドリックの新著『貿易を率直に語れば』を読んでいる真っ最中なことに強く影響されている(この本については、できれば後日もっと語りたい)。

同書の序論で、ロドリックはこう語っている:20年ほど前、彼の前著『グローバリゼーションは行き過ぎたか』に賛成かどうか、とある経済学者に尋ねたところ、相手は「賛同できない」と答えた。とはいっても、べつに本の内容に異論があるからではなくて、同書が「野蛮人どもに武器を与えることになるだろうから」なのだという。ダニ・ロドリックに言わせれば、この態度はいまでもよく見受けられるそうだ。もちろん、この態度はとても政治的で、ひどく非科学的だ。

これと似たようなことは、金融危機以前に金融業界ではたらく経済学者たちのあいだであったんじゃないかと私はみている。たしかに、主流経済学にはグローバル金融危機を説明しうるモデルがあったのだから、べつに新しい思想なんて必要でないというポール・クルーグマンの言い分は正しい。ただ、いざ危機が生じるまで主流経済学者のあいだにそういうモデルを使う人がほとんどいなかった理由には、イデオロギー的に規制を忌避する傾向や飼い主の手を噛むまいとする傾向による部分が少なくともいくらかはあった。

今日の主流経済学には、出回っているモデルがとてつもなく多種多様だという特徴がある。学術的な栄誉は、モデルをさらに増やした人物にもたらされがちだ。だが、具体的なしかじかの問題にどのモデルを使うか、どうやって決めるのだろうか? 答え:応用可能性に関する証拠に目を向けて決める。これはささいな仕事ではすまない。なぜなら、経済学的な証拠には確率的で多様だという性質があるためだ。ダニ・ロドリックによれば、この〔証拠を検討してモデルを選ぶ〕プロセスは、科学というより経験則だという。

さて、グローバル金融危機の場合、すぐれた経験則とは、リスクを広く分散する各種の新手法は金融システム全体に影響する事象に対して脆弱だという点を見ぬくことだった。すぐれた経験則とは、データにアクセスできるなら、銀行のレバレッジが急速に増大すればかならず懸念をもたらすのを理解することだった。もっと一般的に言えば、「今回はちがう」という主張はたいていいい結末を迎えないという話だ。

私じしんの領域で言えば、モデル選択の経験則がうまく用いられていれば道を踏み外さなかったはずの分野が少なくとも1つある。リアルビジネスサイクル理論のモデルはけっして景気循環を記述しない。なぜなら、みんなが知っているとおり、不況期に増加する失業は当人の意思によるものではないからだ。この経験則をうまく当てはめなかったら、そのかわりに登場するのはイデオロギーだったり政治だったりたんなる集団思考だったりする。これは、誰か個々人の経済学者にとっての問題には終わらない。ときには、大多数の人たちにとって懸念すべき事態となる。


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