シャラン・ムカンド, ダニ・ロドリック 『リベラル民主主義の政治経済学』 (2015年9月29日)

Sharun Mukand, Dani Rodrik, “The political economy of liberal democracy” (VOX29 September 2015)


世界に存在する民主主義国の数は確かに非民主主義国のそれより多いのだが、こういった民主主義国にしても、単なる選挙競争以上の意味をもっているものは極めて僅かに留まる。本稿では、こういった選挙民主主義と、リベラル民主主義 – すなわち政治的権利と財産権に加えて市民的権利の保障も行う民主主義の謂いである – の間の対照点に光をあてる。リベラル民主主義は、稀な存在である。というのも、マイノリティの権利保障が蔑ろにされるのは民主主義勃興の顛末としてありふれたものだからだ。リベラル民主主義は特に発展途上国では稀有な出来事といえるが、こういった地域においては脱植民地化やアイデンティティ亀裂が社会運動の引き金となったのだった。

リベラル民主主義・非リベラル民主主義

Polity IV.[原註1] のデータによると、今日の世界に存在する民主主義国の数は非民主主義の数より多いという。しかしながら、その中でもリベラル民主主義と呼び得るものとなると – すなわち選挙競争以上の意味をもち、マイノリティの権利・法の支配・言論の自由を保障し、かつ、公共財の給付における非差別を実践している政体の謂いである –、これは極めて僅かに留まる。

ハンガリー、エクアドル、メキシコ、トルコ、そしてパキスタンなどが良い例で、これらの国はみなFreedom House [2] によって選挙民主主義に分類されているのであるのだが、同国らにせよまたその他多くの国々にせよ、政治的敵対者からの嫌がらせ、メディアに対する検閲あるいはその自主規制、またマイノリティである民族的/宗教的集団への差別は猖獗を極める。Fareed Zakariaは、定期的に選挙を開催するも日常的に権利侵害を行っているこの種の政治体制を意味する 『非リベラル民主主義 [illiberal democracy]』 なる用語を新造した (Zakaria 1997)。さらに最近では、政治学者のSteve LevitskyとLucan Way (2010) が、彼らの見るところ民主制と独裁制の間に位置付けられる種々の混合政体を形容するのに、『競争的権威主義 [competitive authoritarianism]』 なる用語を用いはじめている。

換言すればイギリス、フランス、ドイツ、そして合衆国でさえも、大衆への参政権賦与 [mass enfranchisement] はリベラル思想が深く根付いたのちに初めて実現をみたのだ。これとは対照的に、いま世界中にみられる新生民主主義国の大半はリベラルな伝統が全く存在しないなかで勃興したのであり、また自らそれを涵養すべく尽くす事も殆どなかった。こういった民主主義国の欠点が明らかになるなかで、『民主主義の後退』 についての言説はもはや日常茶飯事となっている (Diamond 2015)。

新たな考え方とエビデンス

我々は新たに発表する論文 (Mukand and Rodrik 2015) の中で諸政治体制を分類する1つの手法を提示しているが、そこではこれら諸政体のうちでも特に選挙民主制とリベラル民主制の間に区別を立てている。

  • 我々は、マイノリティに対する差別を防止し、平等な待遇を保障する為に、権力を握る者達に課された制約こそが、リベラルな政体の主要な弁別特徴であると考える。

当該制約は、法律上のものでも行政上のものでも在り得る。憲法的羈束でも、或いは自主執行的合意 [self-enforcing agreements] でも、制約を維持することは出来るだろう。要するに、こういった権力の監視抑制 – 我々は端的にこれを 『市民的権利』 と関連付けるのであるが -、 これが実際に有効に機能していればよい訳である。したがって研究の焦点は、非リベラルな選挙民主主義国において欠缺している以上のような制約 – すなわち市民的権利の相対的弱体性 -、これを真正面から問題とするものとなる。

具体的にはまず、諸権利を3つの集合へと区分けてゆく: 財産権、政治的権利、市民的権利がこれである。各々の定義は次のようになる:

  • 財産権とは、資産家や投資家を、国家その他の諸集団による徴集から保護するものである。
  • 政治的権利とは、自由かつ公正な選挙競争を保障し、この様な競争の勝者が政策決定を行う事を、爾余の権利 (その規定が存在する場合) の定立する制限の下にではあるが、許すものである。
  • 市民的権利とは、法の下の平等 – 即ち、司法・保安・教育・厚生といった公共財の給付における非差別 -、これを保障するものである。

我々は、これら諸権利 (の組合せ) の何れの給付が規定されているかに依拠して、政治体制の分類を試みた (表1)。種々の独裁制 [dictatorships] においては、唯一エリート層の財産権のみが保護される事になる。古典的なリベラル政体は財産権および市民的権利を保障するが、選挙上の権利は必ずしもこれを保障するものではない。次は選挙民主主義で、これが今日の民主主義国の大勢を成すのであるが、財産権と政治的権利を保障するも、市民的権利の保障は為されていない。リベラル民主主義は上記3組の権利を全て保障する。尚、リベラリズムの下での非差別要請 [non-discrimination constraint] という概念は、様々に異なる領域 – 法律・宗教・教育etc. – における公共財給付の場面における国家からの平等待遇を意味するものとしたうえで運用してゆく。

表1. 諸政体の分類

これら権利の1つ1つが、明確に特定可能な受益者をもっている。財産権とは専ら富裕な有産エリート層に利するものである。政治的権利はマジョリティ – すなわち組織された大衆および大衆勢力に利する。そして市民的権利というと、通常これが利するのは特権や権力のお零れから締め出された者達 – すなわち民族的、宗教的、地理的、或いはイデオロギー的マイノリティである。

有産エリート層は、自らが支配者と成り得る時には自分達の (財産的) 権利は保障するも、その他諸々の保障となると甚だ手薄いといった専制政治 [autocracy] を敷くものである。これが歴史の紆余曲折を通してありふれた顛末であった。一方の大衆民主主義はといえば、これはエリート層の権力に挑戦し得る組織された大衆集団の勃興をその要件としている。19世紀および20世紀には、工業化や世界大戦また脱植民地化といった流れがその様な集団の動員に繋がった。民主制は、それが登場した時代にあっては、典型的にエリート層と動員大衆との間で交わされた取引の成果であった。エリート層は、大衆側からの 「参政権を財産資格に関わらず、(通例) 全ての男性にまで、拡張せよ」 との要求を呑んだのである。その代償として、新たに参政権を賦与された集団は資産家から徴収を行う自らの権能に対し制限を設ける事を了承したのだった。要するに、選挙上の権利は財産権と引き替えに購われたのである [3]

この政治協定の決定的特徴は、それが市民的権利の主要な受益者 – すなわち被収奪者たるマイノリティの事であるが -、これを交渉の場から締め出すところに在る。彼らマイノリティには、(エリート層の様な) 資財の後盾も、(マジョリティの様な) 人数の後盾も、共に欠けている。すると彼らには交渉の場に持ち出すべき物も無いという事になるので、虚仮脅しだと取られないような真の威嚇を突き付けるのは全く不可能となる。民主化の場面における政治の論理は財産権および政治的権利の規定を命ずるが、市民的権利のそれまで要請するものではない。市民的権利の規定は、マジョリティにとって高くつき、エリート層にとって凡そ不要なものである (というのも、後者は大衆層から一定の余剰を吸上げる事で自らの属する階層の共同財を賄い得るのだ)。したがって当該政治協定は、選挙民主主義の方をリベラル民主主義よりも優遇する事になろう協定なのである。

3つの集団と、3つの関連する権利の集合の各々を明確に区分ける事で、我々の採用する枠組みは、何故リベラル民主主義がかくも稀なる珍獣であるのかを解明する際の一助となる。マイノリティの権利を保障することの懈怠は、民主主義勃興の裏側に在る政治の論理の帰結として容易に理解される。説明を要するのは、リベラル民主主義の相対的な稀少性ではなく、凡そそれが現存しているという事実、こちらの方なのだ – たとえそれが稀にしか確認されない事実であるといえども。

  • 驚嘆すべきは民主主義のなかでもリベラル民主主義を取るものが極めて少ないという事ではなく、凡そリベラル民主主義が現存している事である。

市民的権利の後押しとなる状況

しかしリベラル民主主義は現に存在している。だから問題は、それが均衡状態において維持され得るのは一体なぜなのか、というものになる。そこで我々は、諸般の民主主義国にみられる市民的権利に不利なバイアスを中和してくれるかもしれない幾つかの状況の検討を試みてゆく。

  • 第一に、マジョリティをマイノリティから分離する、明確に特定可能な亀裂 – 民族的、宗教的、或いはその他のものであれ -、この種の亀裂が存在しない場合が挙げられるだろう。

高度に同質的な社会においては、『マジョリティ』 が 『マイノリティ』 を公共財から遠ざけ締め出す事に拠って得られる利は極めて少なく、また公共財に対する等しい利用権を設定しても殆ど負担とならない。20世紀初頭のスウェーデンにみられたリベラル民主主義の勃興、或いはこれとの比較でいえば最近になる日本や韓国におけるその勃興は、これによって説明できるかも知れない。

  • 第二に、マジョリティとマイノリティを区分する亀裂と、エリート層と非エリート層を区分する亀裂、これら2つの亀裂が互いに密接に依り沿う形になっている場合が挙げられよう。

この様な場合に、エリート層はマジョリティとの政治協定の一部として財産権・市民的権利の双方を求めるだろうと思われる。例えば、1994年に起きた民主主義への移行以前の南アフリカにおける白人マイノリティ政府の立ち位置を想起されたい。

  • 第三に、マジョリティの層が薄く、エリート層に対し抜き差しならぬ挑戦を突き付ける為に、マイノリティの後押しを必要とする場合が挙げられるだろう。

或いは、明白歴然たるマジョリティ層というものが存在せず、社会が、互いに交錯する亀裂の優勢に特徴付けられている場合も挙げられよう。こういった場合には、反復ゲームのインセンティブ [repeated game incentives] が在る為に、各々の集団が他集団の権利を認知し、その見返りとして自らの権利を保障してもらう道を取る事が確実になってくるのかも知れない。レバノンの 『多極共存型』 民主主義とは正にその好例となったのかも知れないが、それは不揃いな人口増加と外部からの介入によって多様な宗教分派間に在った既存の権力均衡が転覆してしまうまでの事であった。

社会的亀裂の役割

これらの例が明らかにしているが、我々の筋書きの中で2つの社会的亀裂が重大な役割を果たしている。

  • 第一に、有産エリート層と貧困大衆層の分離が在る。

これは概して経済的な分離であり、社会における土地、資本、及びその他の資産の分割、並んでこれら資産を蓄積すべき機会へのアクセスによって決定付けられている。政治体制の変転に対しスタンダードな階級理論が与える説明は、先ずもってこの亀裂に強調点を置くものである。

  • 第二に、我々がマジョリティ及びマイノリティと呼ぶものの間の亀裂が在る。

特にこの分離に関しては、その背後にアイデンティティ的基礎が存在する可能性が在る。つまり民族的、言語的、或いは地域的な連携関係から派生した分離という訳である。或いは同分離がイデオロギー的なものである事も在り得よう – トルコにおける世俗的な近代化推進者と宗教的保守主義者の対決、ロシアにおける西欧寄りのリベラル陣営と伝統主義者の対決がその好例である。 (我々はこの第二の亀裂を端的に 『アイデンティティ亀裂』 と呼ぶ事にする。しかしながら、当のマジョリティ-マイノリティ亀裂がイデオロギー上の区画を踏み越える事もしばしば在るだろう点には留意する必要が在る)。これら2つの亀裂がお互いに依り沿い一致する場合もあるかも知れないし、それは実際に南アフリカでみられた事態であったのだが、そうならない事の方がおそらく多いだろう。そしてこの2つの亀裂の不一致こそ、我々が選挙民主主義とリベラル民主主義の分析的かつ実体的区別を可能にするものなのである。

我々の形式的モデルでは、リベラル民主主義の展望に対してマジョリティ-マイノリティ分断が種々の影響を及ぼす事になる。第一に、そして最も重大な点でもあるのだが、この分断はマジョリティに選挙民主主義の方をリベラル民主主義よりも好ませる方向に働く。マイノリティを差別する事で、マジョリティは自らが望む公共財をより多く獲得する事が出来る。しかしこれと逆方向に働く影響も存在するのである。一定の状況下では、同分断がエリート層にリベラル民主主義の方を好ませる方向に働く場合も在り得るのである。我々はこの様な場合を2つ特定している。第一に、一般的にいってリベラル民主主義では税率が比較的低くなるのだが、これは、公共財に関してマイノリティと分かち合う必要のあるときには、マジョリティが再分配の為の課税を通して手にする利も少なくなるからである。そこで所得/階級亀裂が極めて根深い場合には、エリート層がリベラル民主主義を支持する事も考え得るのである。第二に、エリート層のアイデンティティがマイノリティのそれとお互いに寄り添い一致する場合には、エリート層も市民的権利の存在に直接の利害関係を有する事になる。こういった経路からは多種多様な帰結が生じ得る。

結語

我々が示唆するのは、西欧および発展途上国におけるリベラル民主主義勃興が辿る多様な運命は、民主主義を導き入れた社会運動の時点で支配的であった亀裂の性質と関連するものであるというものだ。西欧での民主主義への移行は工業化の帰結として生じたものであり、その時代の社会における主要な分離は、資本家と労働者の間のそれであった。他方で、発展途上国の大半では、脱植民地支配および国家解放戦争が大衆政治を生み出したのであり、そこではアイデンティティ亀裂こそが主たる分断層の役割を果たしたのであった。我々の採る枠組みは、この第二種の移行がリベラル民主主義に対し殊更に有害である旨を示唆するものである。

参考文献

Acemoglu, D, and J Robinson (2009), Economic Origins of Dictatorship and Democracy,

Cambridge University Press, Cambridge and New York.

Boix, C (2003), Democracy and Redistribution, Cambridge University Press, Cambridge and New York.

Dahl, R (1991), Polyarchy: Participation and Opposition, Yale University Press, New Haven.

Diamond, L (2015), “Facing Up to the Democratic Recession,” Journal of Democracy, 26(1), January, pp. 141‐155.

Fawcett, E (2014), Liberalism: The Life of an Idea, Princeton and Oxford: Princeton University Press.

Fukuyama, F (2014), Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy, Farrar, Straus and Giroux, New York.

Levitsky, S, and L A Way (2010), Competitive Authoritarianism: Hybrid Regimes After the Cold War, Cambridge University Press, Cambridge and New York.

Mukand, S and D Rodrik (2015), “The Political Economy of Liberal Democracy,” CEPR Discussion Paper 10808, September.

Przeworski, A (1991), Democracy and the Market, Cambridge University Press, New York.

Rueschemeyer, D, E H Stephens, and J D Stephens (1992), Capitalist Development and Democracy, Chicago University Press, Chicago and New York.

Ryan, A (2012), The Making of Modern Liberalism, Princeton University Press, Princeton and Oxford.

Zakaria, F (1997), “The Rise of Illiberal Democracy,” Foreign Affairs, November/December.

原註

1. 『民主主義国』 とは、Polityのdemoc指標で7点以上の評価を得ているもの、一方で『非民主主義国』 とは得点が7に満たないものをいう (本指標は0から10までの値を取る)。

2. フリーダム・ハウス、選挙民主主義国一覧。https://freedomhouse.org/report-types/freedom-world#.VVIZc5PVEZw でダウンロード可能。

3. 例えばAcemogluとRobinson (2009) の提示する民主主義勃興の説明は基本的にこれである。その他には特にDahl (1971)、Przeworski (1991)、Rueschemeyerら (1992)、及びBoix (2003) も参照されたい。

 

http://www.voxeu.org/article/political-economy-liberal-democracy

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