Stephen Harper versus the intellectuals, part 2
Posted by Joseph Heath on August 25, 2015 | political philosophy, politics
トム・フラナガン事件
〔訳注:トム・フラナガン事件とは、カナダで非常に著名な保守系法学者であるトム・フラナガンの「児童ポルノ」に関する発言を巡って起こった炎上騒ぎである。フラナガンは、2006年まではハーパーの法律顧問を努め、超保守の地域政党ワイルドローズ党の立ち上げに参加する等、非常に保守色が強い法学者である。フラナガンはカナダ先住民の法的権利の撤廃を主張していることもあり、左派の活動家からは非常に憎まれてる人物でもある。
2013年、フラナガンは大学で講演を行い、講演後の質疑応答で児童ポルノに関する法的規制について問われた際に、カナダの児童ポルノ法が非実在の児童ポルノを規制していることへの反対を述べた。フラナガンに敵意を抱く活動家達は、このフラナガンの質疑から動画トリミングし、「フラナガンは児童ポルノ肯定論者である」とYoutubeやtwitter等SNSで大規模に拡散したことで、炎上事件となった。
炎上事件が起こったことで、フラナガンと関係があったハーパー政権と地域保守政党ワイルドローズ党の党首ダニエル・スミスはフラナガンを「児童ポルノ肯定論者」として強く批判する声明を出し、フラナガンは所属大学から辞職を強要され、マスメディアからも強く批判されるに至った。
フラナガンは、一連のバッシングに根気よく反論し、大学の辞職要求を拒否し、炎上を鎮圧化させている。〕
〔前回のエントリで〕トム・フラナガンに言及した人がいたので、フラナガンの「児童ポルノ」物語(フラナガンの自著”ペルソナ・ノン・グラータ〔村八分〕“に記録されている。短い要約はここで読める)の全体に、アカデミアの外ではあまり自明になっていないであろういくつかの事象を説明することで、私も少しだけ補足してみようと思う。フラナガンの政策や、彼が行ってきたカナダの公共空間への貢献に関しては、私を含め多くの人がほとんど共感を持っていない。ただそれでも、2013年の保守運動(当時ワイルドローズ党党首ダニエル・スミスと、スティーブン・ハーバーの官邸スタッフによって陣頭指揮が執られた)からフラナガンが耐えぬいた後には、ほとんど皆してフラナガンになんらかの同情を覚えたものだった。
当時〔政権に近い保守政治家達が〕フラナガンを晒し上げたやり方は、単にフラナガンにトラウマを与えただけでなく、国内のほとんどの保守系インテリをドン引きさせたことを理解することが重要だ。なぜなら、フラナガンが表明し、晒し上げられた見解は、異常な過激思想などではなく、政治・法哲学において極めて主流派の見解だからだ。実際、フラナガンは、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の一節から直接引用して主張を行っている――その内容は、我々アカデミシャンのほとんどが、学生に教えている政治・法哲学理論だ。私自身、カナダの児童ポルノ法を「ミルが反対したであろう法」の実例として実際に授業で使用したことがある。
なので、スミスとハーパーがフラナガンに発狂していた時、政治理論について何か知っている人や、ジョン・スチュアート・ミルの最も有名な著作について詳しい人は、一歩引いて「こいつらは一体何をしでかしてるんだ」と言ったのだろうか? スミスのフラナガンへの反応は、スミスがリバタリアンを自称していることを考えると、看過できないものだった。なぜなら、フラナガンが表明した見解は、個人の自由を擁護する観点においては極めて穏当な原理だったのだ。しかしながら、リバタリアンでないにしても、フラナガンの表明言説は、保守的なインテリ領域では、主流であり尊重すべき立場であることを認めるのに弁解の余地はない(これは時に「古典的自由主義」と呼ばれている)。つまり、フラナガンは事実上ミルを引用していのだ(フラナガンは「他者に何の危害を与えていない人をどこまで投獄すべきは、まさに個人の自由の問題です…」と言っている)。
ジョン・スチュアート・ミルを代弁することにどんな問題があるのだろうか!
まあ、少し話を戻して、『自由論』についてあまり詳しくない人のために、きちんと説明しておこう。ミルは『自由論』で、20世紀において最も影響力を持った法思想の一つとなった原理について述べている。
個人がなんらかの行為を行い、その行為の一部分であっても、他者に不利益を与えれば、即座に社会はその行為を裁く権利を持っている。…しかし、個人の行為が当人以外の誰の利益にも影響を及ぼさないなら、この問題は出てくる余地はない。…誰の利益にも影響を及ばさない場合には、個人は完全に自由であり、好きなことをして、その結果の責任を自分で引き受ける自由が、法的にも社会的にも認められなければならない。〔ジョン・スチュアート・ミル『自由論』4章より〕
『自由論』では基本的に、「個人の行動において他人への危害が示されない限り、その個人の行動は法的規制の対象になるべきではない。例え、個人の行動に危害があったとしても、自分自身に危害があるだけなら、国家は自身への危害行動を止めるよう強制する必要はない。自身への危害行為は、個人の自由の領域に含まれる」と主張している。
すると、何を危害とすべきかを(「他者加害と自己加害の境界への線引き」等を行って)説明しようとすると、面倒な関係性が大量に生じるのは明白だ。にも関わらず、この危害原理は非常に多くの影響を持つようになり、「パターナリスティック(温情主義的)」な法律制定に反対する世論と法律上の見解の両方に強い変化をもたらした。結果、20世紀における一連の判例で、不当に押し付けがましいと思われていた様々な形態の法律が廃止されることになった。最も有名なのが、避妊や姦通、そして様々な非生殖的性行為を禁ずる法律の制定を禁止する法律だ。この危害原理の最も影響があった帰結の一つは、疑いようもなく同性愛に関する法律だった――同性愛は大人同士の同意した関係なので、他の誰にも危害を及ぼさないからだ。
ミルの原理のもう一つの重要な帰結は、ポルノの合法化だった。もちろん、ポルノを消費することが危害を与えるのか、そうでないのかについては(インターネット普及前には)激しい議論が行われていた。ここで重要なポイントは、ポルノを批判するフェミニスト達が、ミルの前提を大筋で受け入れていたことだ。つまり、ポルノの禁止を主張するには、危害を実証しなければならない――なので、フェミニストは、ポルノの消費がレイプ性癖を高めることを証明しようとしたのだ。〔フェミニストによって〕あらゆる種類の研究やエビデンスが次々と発表されたが、この論拠が勝利と収めた、とは到底言えないだろう。
では、児童ポルノ場合、「ミルの原理では何が言えるのだろう?」を検討してみよう。実在の児童を撮影した写真の場合、児童ポルノの消費を犯罪とすることに議論の余地は存在しない。消費者の需要が、ポルノ素材の生産を促進する限り、危害が発生することを証明するのは容易である。問題は、カナダの児童ポルノ法の適用範囲が広すぎることだ。カナダの法律では、絵だけでなく、単なる表現物(例えば文学)の所有まで犯罪化してしまっている。現行社会におけるこれの最適事例は、日本のヘンタイ漫画のほとんど大多数がカナダでは違法になっていることだ。この処置には、〔法が制定された〕最初期から一般市民は反対してきた。(私は、1993年にマルルーニー政権下で、オリジナルの法案が可決された当時を覚えてる年齢だ。当時、一般市民はまさしくこの〔危害原理に基づいた〕告発を表明し、多くの市民がフラナガンと同じ立場に立って話題にし、世間で幅広く議論されていた。)
次に、非実在児童が描かれている児童ポルノ作品(例えば日本の漫画)について検討してみよう。これを所有することにどんな危害があるのだろうか? この件で、ミルの危害原理を適応させるには、以下の2つの論拠のうち1つを適応させなければならない。①「非実在児童ポルノはレイプ性向を増大させる」 ②「非実在児童ポルノは社会の『道徳的基盤』を損なう」だ。①②論は共に、明らかに問題がある。「レイプ性向」論は、最終的に「全てのポルノは違法である」との意味に至ることになる(17歳の絵と19歳の絵が異なる因果関係を持つことを示す詳細な証拠は存在しない)。「道徳基盤」論は、同性愛の犯罪化で使用されたのと同じ論法であり――今日の法文化においては無効化されている論法だ。
他の多くの込み入った争点も、この問題には影響を与えることになっている。私が指摘したいのは、もし極めて標準的なミル的態度(今日の憲法学上で極めて主流派の見解)を取るなら、カナダの児童ポルノ法は個人の自由を不当に侵害しているように思われるので、非常に深刻な問題をいくつも孕むことになっていることだ。カナダの立法状況において、学術的な法的見解に関心がある人は、オズゴード法科大学院のブルース・ライダーの以下の論文[『児童ポルノ法の危害』]を読むことを薦める。ライダーは、児童ポルノ法の問題がある部分に対して、基礎的な反論として以下のように要約している。
この法律〔児童ポルノ法〕は、〔ポルノの〕製造においては危害はもたらしてもらず、危害があるとの主張は論証不十分であり、危害行為の実行に関しては好意的に見ても根拠薄弱な関連性しかない。よって、この法律は、児童や青少年の性に関する思想や表現を規制することで社会に危害をもたらしてる。危害の危険性においてなんらかの説得力のある証拠がない場合の児童ポルノ違法化は、ある特定領域のクリエイティブ表現を犯罪化することになる。
フラナガンは正確に何を言ったのだろう? 基本的にライダーと同じである。フラナガンは、児童ポルノ法が、実在児童への虐待を伴ってない表現を犯罪化している有り様に焦点を絞って指摘した上で、他者に危害を及していないであろう行動を行った人を投獄することは妥当かどうか疑問を呈したのだ。実際、フラナガンは疑問を呈してすらいない。引用すると「他者に危害を加えていない行為を行った人を我々はどこまで投獄するかは、まさに個人の自由の問題である」と彼は言っただけだ。これは、上でリンクを貼った論文でライダーが言っている内容と基本的に同じであり、非常に多くの学者の法的見解と同じである。
ここまでのやや長ったらしい議論のポイントは、フラナガンが「事件」と呼ぶものの、背景の一部を説明することにある。皆にとって自明になっていないかもしれないからだ。なぜハーパーが、個人攻撃を受けたフラナガン当人だけでなく、ほとんどのインテリ(事件を聞いた時にジョン・スチュアート・ミルの引用を認識できるような種類のインテリ)の間で侮蔑されるに至ったかの説明だ。
私が言おうとしているのは、今日の保守の政治家はかくも不快で無知な反動主義者達であり、反動主義の保守政治家達は、私に〔普段は同意できない保守の知識人である〕トム・フラナガンとさえ知的に繋がっていることを感じさせたことにある。