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ジョセフ・ヒース「ウォーク(正義に目覚めた一部の左派)は戦術・信条において裸の王様・女王様である:リベラリズムの皮を被った反自由主義」(2021年6月23日)

Joseph Heath: Woke tactics are as important as woke beliefs
Woke language hides illiberal tactics in liberal aims
Posted by Joseph Heath on June 23, 2021

 ここ数年、進歩主義を装った反自由主義が世を覆いつつあったが、ついにアメリカのリベラルたちは団結して行動を起こし始めた。リベラルたちは、「ウォーク」〔woke、社会問題に対して目覚めた(=wake)人々を指す〕の政治活動やイデオロギー的影響力の拡散を阻むために、いくつかの組織を創設したのである。〔ウォークと戦う〕リベラル派が優勢なのは、一つには、ウォーク派の「警察予算を打ち切れ(defund the police)」1 といった呪文の多くが不人気であることが誰の目にも明らかになったからだ。そして、ウォーク左派が不寛容で権威主義的な政治と結びついていることに対して、警戒心が高まっているからでもある。

 不幸なことに、ウォーク派の多くは、自分たちの政治的手段や政治的戦術を、脅迫と感じる人がいることをまったく理解できていない。特に、「お前たちは権威主義的になってしまっている」とか、「『キャセル・カルチャー』は表現の自由を脅かしている」といった非難が寄せられても、ウォークたちには馬耳東風である。

 これには理由があり、そしてそれを理解しておくことは有益だ。ウォークの政治活動には大変重要な役回りを担ういくつかのキーフレーズ(「安全性(safety)」、「メンタルヘルス(mental health)」、「マイクロアグレッション(microagression)」、「いじめ(bullying)」、更には「人権(human rights)」まで)が存在するが、活動家らはこうしたフレーズを利用して「ウォークは権威主義だ」との批判を逸らしている。活動家らは「正しい言葉」を使えば、たとえ悪人のように振る舞っても、自分は善人である安易に思い込めるのである。

 このメカニズムがどのように働いているのかを説明していきたい。

 ウォーク政治活動を理解する上で最も重要なのは、これは伝統的なタイプの「反自由主義」とは異なっており、「反自由主義的リベラリズム」の一種であると考えた方がよいということだ。「反自由主義的リベラリズム」とは、根本的レベルでは反自由主義的な一連の政治的要求を行うが、表面上は伝統的リベラルの政治的言説の構造に沿うように表現をまとめ上がるやりかたである。抗議活動は〔正義を標榜する伝統的なリベラル的言説によって〕梱包化されているため、ウォーク活動家は、戦術への批判に無視を決め込むことが可能となっている。

 表現の自由という問題を例に考えよう。このリベラルの伝統的な美徳には、様々なバージョンが存在する。その中でも有力な立場は、表現の自由を支持する者ならば「内容に基づく表現の規制に反対すべきだ」というものだ。こうした考え方は今では広く受け入れられているが、昔は政治家の多くも実はそこまで表現の自由を支持していなかったし、支配階級の人々の多くも非自由主義的な価値観を持っていることを隠そうともしなかった。

 例えば、1968年のシカゴ民主党大会で起こった「警察による暴動」〔ベトナム反戦運動家に向けられた警察による暴力行為。ベトナム反戦運動における象徴的な事件の一つ〕の余波について考えてみよう。民主党の大統領候補、ヒューバート・ハンフリーは、警官が行った暴動の責任を堂々と〔反戦活動を行う〕抗議者たちに負わせた。フェミニズムが普及する以前の時代において、ヒッピーの抗議者たちの一般的な戦術は、秩序を実力で守る警察官たちに向かって、お前たちの妻や娘に様々な性的行為を行おうとしていると(生々しい細部まで)述べて警察官を挑発する、というものだった。ハンフリーはこれを不愉快に思い、警察による暴力を次のように擁護した。

 ホテルの前で夜な夜な発される、猥褻で、冒瀆的で、卑猥な言葉は、全ての女性、全ての母親、全ての娘、それどころか全ての人間を侮辱しています。そのような言葉を許す者はいないでしょう。そのような言葉を発したものは誰であれ刑務所に入るべきだと思うはずです。それが来る日も来る日も続いているのです。警察が行動に出ても、なんら驚くことはではないでしょう?

 これが古き良き反自由主義だ。不愉快で許しがたい発言をした者は、その咎で罰されるべきなのだ。警察を侮辱したなら、警察官に袋叩きに遭っても文句は言えない。ハンフリーに言わせると、抗議者たちの「発言内容」を考えれば、彼らは獄中に叩き込まれてしかるべきなのだ。

 私にとって印象的なのは、表現を検閲したいと思っている人々が、最早ハンフリーのような言い方を採用していないことだ。ハンフリーのようなやり方をすればリベラリズムの原理に明白に違反することになってしまうからだ。現代における表現の自由の敵は、表現への処罰を要求するにあたり、リベラリズムの原理となっている「精神」には反するが、リベラリズムの「形式」を尊重するポーズによって、処罰を正当化する方法を発見した。最も分かりやすいところで言えば、彼らは内容に基づいて表現を規制しようとする際に、「特定の例外」を利用して、巧みに全般的な規制を正当化する。

 表現の自由について学んだことのある人や、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を読んだことがある人なら、「〔表現を〕例外として禁止すべき場合」について精通しているだろう。表現の自由の例外として最も重要なのは、「禁止すべきでないとされているなんらかの表現」があったとしても、「その表現を行うことで他者に重要な危害を与える可能性が高い状況」ではその表現は禁止すべきである、というものだ。例えばミルは、「穀物商は貧しい人から略奪している」という意見自体は公にしてよいとしても、穀物商の家の前に集まった興奮した群衆の前でそう連呼すること(が許されるか)は全く別の問題である、という有名な議論を提起している。後者の場合は穀物業者に害を与える可能性が高いため、表現が禁止され得る。

 このような但し書きは一見もっともらしく思えるかもしれないが、これこそがあらゆる問題を生み出している。危害という概念がきちんと定義されていないからである。ミルの例を見て気がつくのは、「穀物商は貧しい人から略奪している」との主張を述べている人間は、穀物商に直接的に危害を加えているわけではないということだ。その発言者は厳密には群衆を扇動しているのであり、穀物商に脅威をもたらしているのは群衆である(そしてこのような脅威は全く現実化しないかもしれない)。

 表現規制を推進するウォーク左派は、この抜け穴を、非常に積極的に利用してきた。彼らは自身の好まないものに出会うと、内容に基づいて検閲を求める代わりに、それが危害の原因になるとの理由で規制を行おうとする。もちろん活動家も、自分たちの心をかき乱すという事実だけでは、その表現が害であると見なされるには不十分だと分かる程度に頭はある。それゆえ彼らは、〔当該の表現と〕重大な身体的・心理的危害との間に因果関係が存在すると言い張る。例えば、教室においてあるタイプの意見の表明を検閲しようとする学生は、議論すること自体が自分たちを「安全でなく(unsafe)」し、メンタルヘルスに脅威を与える、と訴えることになる。この戦略で重要なのは、表面上はリベラルの原理に違反していないとの理由によって、(表現に対する検閲や罰といった)反自由主義的な行動の標榜を可能にしていることである。

 これについて具体的な例を考えてみよう。2017年、私の専門分野である哲学は、キャンセルカルチャー・スキャンダルによって震撼していた。このキャンセルカルチャー・スキャンダルの中心は、カナダの哲学者レベッカ・トゥベルがフェミニスト哲学誌『Hypatia』で発表した論文であった。この論文でトゥベルは、「もし全てが社会的に構築されているに過ぎないなら、なぜ私たちはジェンダーを変えたいという主張を受け入れても、人種を変えたいという主張を受け入れないのか」という厄介な疑問を提起し、多くの人々を動揺させた。しかし論争に火を点けたのは論文それ自体ではなく、多くの学者が『Hypatia』誌に論文撤回を求めるオンラインの陳情に署名して、論文をキャンセルしようとしたことだった。

 論争を呼ぶ学術的著述の撤回を要求する近年のトレンドは、反自由主義的リベラリズムの完璧な実例となっている。伝統的に、哲学者が同意できない学術論文に応答するやり方は、その見解を批判する論文を自ら書くことであった。学術誌に論文の撤回を要求するというのは、これとは全く違う戦術である。学術誌はそもそも然るべき基準に達した論文を掲載し、また後に基準に達さないことが分かった論文は撤回する、ということを約束しているのだから、撤回要求も表面上は反自由主義的でない。と同時に、それでもやはり、それは明らかに懲罰的である。掲載した後に論文を撤回されるのは学者の評価における重大な汚点であり、容易にテニュア(研究者の終身雇用ポスト)獲得の障害となり得る。

 トゥベルの論文の場合、オンラインの陳情の目的は(撤回を正当化する理由がなかった以上)明らかに懲罰的なものだった。それは明白に検閲(という反自由主義的な対応)の要求であったが、撤回要求(というリベラリズムと整合的な行動)の名目の下で行われていた。

 陳情書において、論文を撤回させようとする中心的な論拠は、トゥベルの論文は「危害」を生じさせているとの観点や、論文の発表自体が「危険」であるという主張によって構成されていた。フェミニスト学術誌に掲載された、アイデンティティと社会的構築に関する完全に抽象的な考察を行っている論文が、どのようにして危害を生じさせるのだろう、と多くの人が疑問に思った。署名者の中にはその論拠を擁護するために、トランスジェンダーの自殺率の高さを指摘して、自分たちの主張に疑義を呈したり討論を行おうとしたりする者は、トランスジェンダーを自傷行為のリスクに晒していると断言する者もいた。

 こうした論拠は明らかにうさん臭い。自殺率の高い社会的グループに属する人を動揺させることは、「危害」と見なされるべきであり、表現規制を正当化する十分な理由となる、という主張における「危害」の概念は、擁護できるものではない。銃を所有する若い白人のアメリカ人男性の自殺率も大変高いが、彼らの心情を傷つけることを懸念する者はいない。もっと一般化して言うと、このようなやり方で危害の適用範囲を広げていけば、実質的にあらゆる行為は有害であると解釈できてしまえるほど危害という概念が拡散してしまい、表現の自由の土台は徹底的に掘り崩される。この論拠は明らかに、特定の人々が攻撃的だと感じる表現を禁止するために、危害の概念の範囲を恣意的に改変している。

 とは言え、この議論において最も注目すべきなのは、そこで用いられている論法だ。同意できない表現を検閲しようとする人々は、こうした弱者への曖昧な危害を場当たり的に指摘することで、自分たちが行っているのは検閲ではないと独り合点できるのである。危害に訴えて表現規制を正当化する議論によって、自らの真の動機を他者から隠し、またある意味で自分自身からも隠しているという点で、これは「イチジクの葉」論法2 だと言える。

 こうして分析すれば、特定の政治的信念を持つ若者に見られる奇妙な「スノーフレーク」3 行動をよく理解できるようになる。彼・彼女らは、「自分の気に入らないことをしたという咎で他者を罰するには、その人が自分を傷つけたと主張すべきだ」という考え方を、明示的にか暗黙的にかはともかく内面化している。これが、普通の人なら軽く受け流すような状況でも、彼・彼女らがすぐに自分が傷ついた(メンタルヘルスにダメージを受けた、安全性が脅かされた、…)と主張する理由である。彼らは、〔相手方に〕反則を引き出そうとするサッカー選手に似ている。彼らの「傷つけられたパフォーマンス」は、「被害者性の文化」とは真逆の、「社会的な攻撃行為」であることが多い。なぜならこの手のパフォーマンスは、共感に訴えるものではなく、他者を罰しコントロールしようとするものだからだ。

 これは、人事部門が反自由主義の重要な媒介装置となった理由でもある。例えば私の大学では、哲学科の特定のカリキュラムを、アクセシビリティ・サービス4 事務局のスタッフが検閲しようとしたことがあった。ここで働いているロジックは容易に理解できる。学生は、教員に訴えて、特定の著者やテキストを扱うことを禁止させることはできないと承知している。なので代わりに、障がい者支援の相談員のところへ行き、ある著者の意見が議論で取り上げられているせいで安全性が脅かされているので、授業に出席できないと訴える。相談員は特に学問の自由にコミットしてるわけでもないので、喜んでこの苦情を受け入れる。人事部は文化的マルクス主義者で占められているわけではない。彼らは、根本レベルでは反自由主義な〔学生の〕衝動を隠すために利用されるリベラルな「イチジクの葉」である。ほとんどの人事部の職員は特にイデオロギーを持っているわけではない。彼らはただ、衝突を極端なまでに嫌がり、他人を動揺させるようなことを言う輩にそれを止めさせることが、衝突を最短経路で解消させる方法だと考えているのである。

 私はジェネレーションX5 の人間として、若者と交流してるいると、サッカーの試合を観戦して、選手たちは全て誇張した演技をしているだけなのか、それとも本当にそこまで繊細なのかを見極めようとしているホッケー選手のような気持ちによくなる。答えはおそらく中間点のどこかにある。若者の多くが心理的な回復力を欠いているのは間違いのない事実だと思っているが、かように繊細にふるまうことを促すような政治的動機もまた働いていると認識することは重要だ。

 同じくらい重要なのは、彼・彼女らを「左翼ファシスト」とか「独裁主義者」と呼んでも無駄だと認識することだ。そうした訴えを行っても、反発されるだけでなく、「スノーフレーク」行動をますます促してしまう。なぜなら、彼・彼女らはその訴えによって傷ついたと主張し、不寛容と非難されたことから話をそらすことは確実だからだ。

〔本記事はカナダのオピニオン誌『the Line』に掲載されたものであるが、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・公開している〕

  1. 人種差別的な取り扱いを行っているなどの理由から、警察の解体・縮小を求める主張。2020年の警察官によるジョージ・フロイド氏殺害事件に対する抗議運動によって一般に普及した []
  2. 訳注:“fig leaf” argument、不都合なものを無害なもので覆い隠す論法。絵画などで局部を隠す際にイチジクの葉がよく用いられることから []
  3. 訳注:snow frake、元々は個人のユニークさを示す語だったが、近年では感情を害しやすく、自らと対立する意見に対して不寛容な人を指すスラングとして普及している []
  4. 訳注:主にハンディキャップを抱える人を支援するためのサービス []
  5. 訳注:1960年代中盤から1970年代後半までに生まれた世代 []

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