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ジョセフ・ヒース「タバロックへの返答」(2015年4月22日)

Response to Tabarrok Posted by Joseph Heath on April 22, 2015

〔『啓蒙思想2.0』本文の訳は、邦訳『 啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』栗原百代訳, NTT出版, 2014年 より引用しました。〕

Marginal Revolution のアレックス・タバロックが最近、寛大にも『啓蒙思想2.0』の告知と、さらにはThe New Rambler での長い書評を(『資本主義は我々を愚かにするか?』という見出しで)書いてくれた。私はこの10年以上ずっと、 Marginal Revolution の熱心な読者でありファンだったので、これはとてもエキサイティングだった。書評ではまた、いくつもの興味深い問題点が提起されており、コメントしようかなと思った。

ちょっと逆順で始めよう。というのは、タバロックによる最も重要な批判は書評の最後の方に出てくるからだ。その部分でタバロックは、最後の第3部が私の本で最も弱い部分だという見解を示している。第3部は、私がある「解決策」を、それまで300ページを費やして述べてきたさまざまな巨大な問題全てに対して提唱している部分である。多くの人々が、この第3部を — 特に最後の2章を — 説得力に欠けるようだと指摘しており、私の前向きな提案はすべて取るに足らず、前の章で示した大問題を解決するという責務に耐えないのが明白だと指摘している。

こうしたすべての告発について、私は有罪を認める。本質的にこの本は実際、深刻な悲観主義の産物なのである。6章と7章の要点は、合理性に流行り廃りがある(あるいは、ジョナサン・ケイが示唆したように「こういうものは循環する」)のではなく、実際には危険な力が我々の文化の中で働いていて、合理性を押しのけてしまうということであった。この私の考えの現実のモデルは常習性の薬物だ。薬物の蓄積は明らかに一方向的で、最終的な効果として、合理的な人生計画に敵対的な環境を作り出す。これだけでは悲観主義が足りないとばかりに、10、11章の中心的な論点として説明しているのは、古い啓蒙主義的な対策 — その一部はタバロックが今も非難し続けているようだ — があまり頼りにならない理由と、既にそういう対策の(自由な民主社会における)有効性の限界に突き当たってしまったと思われる理由だ。特に、ブライアン・ワンシンクの研究 — 人々にバイアスについて教えても全く役に立たないことを示したもの —は、われわれ皆が関心を払うべきものだと思う。

そして最後に、私が本気で避けたかったのは、どうしたらアメリカの政治やら政治制度を「修繕」できるのかを説明しようとする罠に陥ることだ。というのは、アメリカの政治や制度が修繕可能とは思っていないからだ。アメリカの文明は、私の見るところ、逃れがたい長期的な衰退の道筋にがっちりと囚われてしまっている。私がカナダの有識者として全力を注いだのは、米国がカナダを道連れに文明から引きずり下ろすのを防ぐ、ないしは少なくともそのプロセスを遅らせることだった。だから私はこう書いた:

残念ながら、アメリカの政治制度は批判するだけ無駄な状態に陥ってしまった。欠点がぜんぶ互いに補強しあっていて、たとえあれやこれや変えることができても、結局は何も直らない。選挙資金改革はよい考えかもしれないし、ゲリマンダー[不正な選挙区割り]の防止もそうだが、その成果につながる起こりそうなシナリオがなかなか見えてこない(原書 p.342, 邦訳 p.394)。

「選挙資金改革」に言及することさえ尻込みする思いだった。あまりにも手垢のついた陳腐な言葉になってしまっているからだ。アメリカの政治理論家連中は基本的に、ローマが燃えている間にバイオリンを弾いており〔非常時に際して対策を取らず安逸にふけっていて〕、絵空事バージョンの民主主義について語っているが、クレイジーな人々を強大な権力を持つ地位から遠ざける方法さえ見つけ出せていないのだ。しかも、それを指摘すると口を揃えて「選挙資金改革が必要だ」しか言わない。このセリフを今では私は、アメリカの政治を蝕む諸問題の根深さ・深刻さについて真剣に考えないための単なる言い訳とみなしている。

ではなぜ最後のほうの章で「解決案」を提唱しているのか? 理由の一部は、市場に本を出版する際の必要性からだ。『反逆の神話: カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』が出版されたとき、アンドリューと私に向けられた批判で一番多かったのが「良い本。5つ星をあげたいところだが、どうしたら消費主義の問題点を修正できるか述べていない」という人々だった。最初は面食らったものだ。アンドリューと私の分析の明らかな結論は、消費主義の問題点が修正不能だというものだからだ。だが、結局わかったのは、学術界の外の読者は、批判だけで建設的な部分のない本が大嫌いだということだ。

この本では、人々が望むものを与えるという誘惑に屈して、少しは元気が出ることを言おうと試みた(また、本書の副題は『政治・経済・生活を正気に戻すために』とし、『なぜ我々の文明は死のスパイラルにとらわれているのか』とはしなかった)。同時に、解決策として私自身がコミットしている政治イデオロギーを単に引き写すだけにはしたくなかった。(私の心中で、こんなふうに聞こえちゃうのは避けようと思っていたパラダイムの例がジェイン・ジェイコブズだった。彼女の本Dark Age Ahead(邦題『壊れゆくアメリカ』)では基本的に、西洋文明が終末へと衰退していくさまが予言されているのだが、そうなる理由は…理由は…ええっと、なんだっけ?我々が、ある原理(妙なことにカナダ新民主党の選挙プラットフォームに似たやつ)を守れなかったから。で、この新たな「暗黒時代」を防ぐには?簡単だ。単に新民主党の選挙プラットフォームを実現すればいい… もちろん、トロントのアネックス地区の連中は真に受けたのだが、私には全体がどうにも喜劇的に見えて必死で避けようとした。)

その結果、私が「解決策」として提示したものの多くが本当の解決策ではなく、実際には問題点にたださらなる診断を加えて、解決策にみせかけただけになった。たとえば、Globeの書評でアイヴァー・トッセルは、私が「アメリカの人種問題をたった3ページで診断し処方箋を出」そうとしたと不満を述べている。もっとよく見ればわかるのだが、私が3ページ(原書 pp. 333-335, 邦訳pp.380?-386)でやったのは、アメリカ人が人種問題をなぜ解決しなかったか・そしてなぜたぶん今後もできないかの説明だ。主な問題は人種差別じゃなくて人種意識にあると主張した意図は、現在の情況が実際にはアメリカ人によって維持されている均衡状態だとこっそり示唆することだった。この全アメリカ人には、自らを人種問題について「進歩的」と認識している人々を含む。これが含意するのは、アメリカ人によって解決策として提示されるものの多くが実際には〔それ自体が〕問題の一部であり、それもまた人種問題が決して消え去らない理由の一つであるということだ。

私が提示した他の「解決策」の多くはそれほど解決策っぽく見えない。むしろ、ものごとを解決したいと思うならこんなふうに考えるべき、と私が考えるやりかたの例になっている(たとえばニューヨーク市長ブルームバーグのソーダ規制)。言い換えると、私自身で問題を解決しようと努力する代わりに、どうやったら解決できるか他の人達に考えるよう奨励するということだ。いくぶん不細工なやり方であることは認めるが、自己弁護として2つのことは言える。まず、私の考えでは、我々が非合理性に対処したやり方がうまくいかなかった理由の一部は、合理性に関する人々の考え方が間違っていたからだ。私は、哲学者としての専門知識から合理性について意見を述べる資格があるが、それ以上のものではない。私の望みは、人々が理性についてより明確に — 理性とは何で、理性はどのように働くのか — 知るようになれば、理性を働かせる方法についてもっと生産的に考えられるだろうということだ。第2に、私は、デザインにおけるディスコースの洗練の度合いにものすごく感銘を受けている — 少し畏怖の念さえ抱いている — からだ。そこでは、人々は多くの時間を思索に費やして、人間の認知の欠点がもたらす多くの問題を解決しようとしている。だから、全く真剣にこう書いた:

デザインの分野ではずっと以前から、人間の認知システムと、構築された環境との関係が強調され、人間の能力を増幅し、有効な介入を可能にする環境を構築することがひたすら重視されてきた。「認知デザイン」を掲げて、人間のバイアスが不利になるよりむしろ有利に働くようにする方法について非常に行動な議論がなされてきた。この成果はそこかしこに見られる… 私たちはいつの日か、これと同じように苦労を要しない環境との調和を達成すべく、社会制度を改善するために同じような一致協力がなされることを夢見てもいいのかもしれない。理想は、私たちをもっとバカにではなく、もっと利口にする環境を生み出すための操作の対象となるのみならず、相互に作用し合う制度とも協働していく、そういう世界である。(原書 p.328, 邦訳 p.378)

わざわざ言いはしなかったがこの考え方はブルース・マウが最近制度とデザインについて論じているやり方そのものだ(たとえば、ここ〔現在はリンク切れ〕のインタビュー)。言及しておくべきだったかもしれないが、マウのファンみたいに思われたくなかったのだ。さてタバロックに戻って、強調しておく価値があると思うのは、マウがやってきたもっとエキサイティングな仕事の中に、学校が組織された過程を再概念化するというものがあるという点だ。彼が、学校という制度を公的部門から選んだのがたまたまだとは思わない — 選んだ理由は、学校なら、制度の管理者と、制度が奉仕する「顧客」の間の関心の一致といった話題が見つけられるからだ。これが、学校が(たとえば)スーパーマーケットと違う理由だ。スーパーマーケットでは、会社と顧客の関心の不一致が、顧客にとって敵対的でない環境を作る上で大いに障害になっている。

これで何か資本主義に対する重大な反論ができると考えるほどうぶではない。しかし、こうは考える: 特定の領域における市場を通じた相互作用に関連するコストとして、標準的な企業の所有構造が、理性の働きにますます敵対的となる消費環境を作り出す傾向があるという点を計上すべきだと。また、こんなのは倒錯的だとも思う: 道具がますますユーザフレンドリーになるにつれ、私達の環境がこんなにもどんどんユーザに敵対的になっているなんて。

いずれにせよ、私が市場について述べたことは極めて穏健だと思う。しかし、タバロックは懸念を示している:

広告に注意を集中したせいで、ヒースには市場と合理性の関係のうちただ1つの面しか見えていない。市場は非合理的な消費者を欲し、時には作り出しさえするかもしれないが、市場はまた合理的な生産者を欲し、時には作り出しさえするのである。仕事は、私達の暮らしの中で合理性がもっともあらわになる部分であり、おおよそのところ市場は教育・IQ・推論能力に報酬を与える。

2点。第1に、タバロックは私が生産者の合理性と仕事環境の合理性を論じた部分(原書 pp. 303-304, 邦訳pp.349-350)を見落としたに違いない。その部分で私はまさに、なぜ「企業の意思決定が経済的合理性の理想にきわめて近づいている」のかという疑問を扱っている。私の答はタバロックのもとのとはいくぶん違っていて、「それは、人々がより以上に合理的になっているからではなく、合理的な思考と計画にいっそう役立つ制度的環境のもとで稼働しているからだ」(原書p.304, 邦訳pp.349-350)。(ところで、ここで私は単にアンディ・クラークの口寄せをしているだけである。彼と、彼の素晴らしい論文「Economic Reason: The Interplay of Individual Learning and External Structure」の口寄せを — この論文をまだ読んでいない人は今すぐ読むべし。)

第2に、このIQの話でタバロックはさらに「ヒースはまた、近代以降、IQスコアの計測値は上昇しており、下降などしていないことをごまかしている。IQスコアは、抽象的推論能力のテストにおいて特に上昇した」と述べた。これはまた奇妙な批判だ。というのは、まさにタバロックが引用した、映画Idiocracy(邦題『26世紀青年』)を論じた部分で私は「アメリカでは、平均IQ(知能指数)は10年ごとに約3ポイント上昇しており、1932年から2002年の間の合計で、平均IQの増加は22ポイントをちょっと下回る」(原書p.209, 邦訳p.240)と述べているからだ。ひょっとしたら「ごまかす」という言葉で彼が言いたかったのは、私がこれを大して評価しなかったということかもしれない。そう、そのとおり。大して評価しなかった。なぜなら、キース・スタノヴィッチの合理性障害(ディスラショナリア)〔十分な知能があるにもかかわらず、合理的に行動できない状態〕のコンセプトや、彼が行った、IQテストのパフォーマンスは合理性に関する予測力がないという研究を非常に重視しているからだ(私の本のpp.138-139 (邦訳 pp.158-159)の議論と、スタノヴィッチのWhat Intelligence Tests Missを参照)。実際、IQフェチ化はアメリカ文化の極めて有害な特徴だと思う。あまりにも多くの有害な思考習慣を助長してしまうからだ。すごく簡略化すると: IQは基本的に君のハードウェアの品質に関するものだ。一方で合理性は、君が走らせるソフトウェアに関する話だ。ハードウェアがこんなにすごいんだから、その上でどんなソフトを走らせたって問題ないと考える人が多すぎる。それは大間違いだ。

最後に、タバロックは私が「政治の役割について楽観的すぎる」と示唆している。自分ではかなり政治に悲観的だと思っていた。この点に関するタバロックと私の主要な相違点は — そしてまた確実に、我々の政治的イデオロギーの主要な相違点は — 私が国家の役割に関して彼よりずっと楽観的であるという点だ。これは民主政治について楽観的であるということと同じではない。たとえば、彼は以下のように指摘する:

大規模な選挙で、個人の投票が選挙結果を変えるとは考えられない。結果として、政治に関する情報を得たり、政治について考えるのは客観的かつ合理的見地から見合わない。ある個人が時間と努力を費やして政治に関する情報を得たとする。この個人は、その投資の見返りに何を得るだろう?情報を持たない個人と全く同じものである。より良い情報がより良い結果につながらないのだから、個人にとって情報を得ても見合わない。

完全に賛成だ。実際、『資本主義・社会主義・民主主義』でヨーゼフ・シュンペーターが初めてこの主張をした節には驚喜した。(そして、多くの「熟議民主主義者」が、この主張が彼らの観点にとっていかに強力な反論であるか理解できないことに腹を立てている。) 私は論文でこの論点について(有権者の無知の問題に関して)以下のように述べた。約10年前のことだ:

もちろん、この種の問題は原理的には修正できる。もし人々がもっと十分な情報とよりよい教育を与えられれば。しかし、それで解決が保証されるわけではない。人々は情報のみならず、情報を吸収する十分な動機を必要とする。残念ながら、近代的な大衆民主主義における政治の運営は必然的に巨大なスケールとなる。ということは、個人の行動とその最終的な結果の関連は極度に弱いものとなる。すると、政治的意見を形成するにあたって無責任な感覚が助長されてしまう。ヨーゼフ・シュンペーターが気づいたとおり、たとえば医師が患者のデータを調べる際と、気楽に朝刊を読んで政治的意見を形作る際の注意深さと正確さを比べて見るだけで良い。前者では、医師はすべての知的能力を診断という仕事に投じるだろう。彼の分析結果の質が彼の生活について現実的な結果をもたらすのだから。後者の場合、彼の分析の質は知覚できる違いをもたらさない。したがって、なにか特別な関心を政治にいだいていない限り、意見を形作る上で大して注意を働かせるとは考えづらい。

タバロックは、市場での賭けを通じた意思決定に熱意を抱いている。その理由となっている考え方と(私の推測では)とても似たものが、私をして費用便益分析に対する熱意を抱かせる。主な違いはタバロック(とブライアン・カプラン)が、民主主義が「人々」に与える、国の行動を制御する力を実際よりもはるかに大きく見積もる傾向があるという点だ。その背景にあるんじゃないかと私が疑っているのは、選好を集約する複雑な過程としての立法の、なんとなく公共選択っぽい図式だ。対照的に私はイアン・シャピロにならい、この種の「一般意志」の民主主義理論は克服する必要があるものと考えている。

最後の章にも1箇所、私が本当に考えていることを述べているが、またしても簡単に見過ごされてしまいそうな場所がある。だから、ただ記録のために言わせてもらう。以下の段落もまた、本気で真剣に書いたのだ(そして、私の考察の要約にもっとも近いものだ):

だから近代的民主政治のシステムは、一方で政治判断を民衆がコントロールしたいという欲求と、もう一方で合理的で一貫した政策の必要という、微妙な妥協の上に成り立っていることを認識しておくことは重要だ。民主主義は民主的でなくてはならないが、責任をしっかり果たす国を生み出すことが求められるという意味で、きちんと機能することも必要だ。そのために、たとえ民主主義の公的領域がすっかり堕落してしまっても役目を果たせるような多様な制度的特徴を備えている。これはおおむね、選出された代表者から専門家へ権限と支配力を移すことで実行される。こうするのが難しいアメリカでさえ、あらゆるところに例が見いだせる。最も明らかなのが、他のほとんどの民主主義体制では立法府に任される決定に、連邦最高裁判所が果たしてきた多大な役割だ。だが、政府機関が独立性を高めていることや、公的意思決定における費用便益分析の利用が増加していることなど、ほかの分野にも見られる(原書 p.338, 邦訳p.389)。

だから、私が本当にどう考えているか知りたいならこうだ。政治において増大してきた非合理性の問題を解決することはできないだろう — せいぜい、非合理性のもっとも有害な作用を制限することができるくらいだろう。結果として、立法府はいっそうただの余興となり、他の2つの国家の機関が、現実の統治の責務をますます多く負うようになる。(だから私は自分の時間を費やして、公共選択プログラムで教鞭をとって未来の公僕を訓練している。公共機関の質は、ほとんどの政治理論が評価するよりずっと重要である。)

最後に重要なことを。タバロックはアイン・ランドの合理主義に関する私の議論に不満足だ。「ヒースはアイン・ランドの問題を認識しているが、無視している。これは遺憾だ。もっと長く論じてくれれば勉強になっただろうに。」 この点に関する不平をたくさん聞いた — ’60年代にあんなに反合理主義になってしまった左派と合理主義者の旗頭であったランドから、実質的に立場が逆になったのはなぜか。この本の中に、最初はもっと長い保守主義に関する議論と、なぜランドが反合理主義につねに惹きつけられる幅広い伝統の中の例外であったのかに関する議論があった。これはボツ原稿置き場に残っていたので、ほこりを払ってきれいに仕上げた。私の1分間でわかる保守的反合理主義の歴史と呼ぶことにしよう。まだかなり荒削りだが、少なくとも本に書いたものよりはたくさんある。


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