Joseph Heath, “A one-minute history of conservative anti-rationalism” (In Due Course, April, 2015)
〔訳注:本稿では、理性および理由という意味を強調するために原文における「rationalism」という言葉を、邦訳『 啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』栗原百代訳, NTT出版, 2014年で使われている「合理主義」ではなく、「理性主義」と訳出しています。〕
左派の反理性主義はこれまでずっと害悪を撒き散らしてきたが、同時に左派が反理性主義でいるのは自分自身を破滅に至らしめる行為であると指摘しておきたい。というのも、左派というのはどんな形であれ常に進歩というアイディアにコミットしており、進歩とは理性の働きに依拠するものだからだ。我々の社会の中のおける社会的・経済的問題のほとんどは複雑であり、解決するには巧みさと集団行動が必要である。これらは直感に従えば成しえるというものでは、けしてない。そのためアメリカの「リベラル」が自分たちを「進歩派(プログレッシブ)」と再ブランディングしているのには大きな利点がある。はじめに、アメリカで使われている「左派」の同義語としての「リベラル」という言葉は語源的に根拠薄弱だし、歴史的に見て不正確であり、他の英語圏での使われ方と一致しない。ふたつめに、「進歩派」対「保守派」というのは、抽象的な「左派」「右派」より、政治的に何が問題とされているのかを実際によりはっきり捕らえている。左派と右派を分ける核になっているものはフランス革命とその後の反応であり、左派とは理性的洞察を道具として使ってより正しい社会を発展させることにコミットするものであり、右派とはその結果を恐れるか或いは「発展」という価値観に懐疑的なひとびとのことだった。なので、保守派の反理性主義は長い歴史と際立った伝統がある。いやまったく、反理性主義というのは歴史を通して存在する「保守派」の多様なイデオロギーに共通する数少ないもののひとつだ。最初であり最も有名なバージョンは、エドマンド・バーク(または20世紀にはマイケル・オークショット)に最も良く例示される進化論的保守主義の類である。
この思考スタイルは、蓄積された知恵の宝庫としての伝統に多大な重きを置いている。保守主義のなかでもとりわけ繊細な部類は、こうした伝統の中身を改良するどころか意識的に継続させる力量が個々人にどれほどあるのかについて非常に謙虚な感覚をもち、そこから見識を得ている。たとえば政治で言えば、伝統のおかげで私たちは民主的な制度を維持できているが、それがどうして機能しているのかまったくわかっていないし、余所で新たに民主的制度をつくりあげる方法も知らない。したがって、それを壊したらどう元に戻すのかわからないということにならないように、物事を変えるのはとても控えめにしなければならないということになる。同じことは家族や教育制度にも言える。こうした気質の保守派にとって、例えばラテン語がもはや一般的な学校カリキュラムに入っていないことは非常に嘆かわしく感じられる。ラテン語の一体何がそんなに素晴らしいというのだ。まったくわからない。我々にわかっていることは、何百年もの間、西洋文明の隅々でラテン語とローマ古典文学の学習が男子学生の教育の中心になっていたということだ。西洋の科学、文学、美術、そして政治の素晴らしい成果を見たまえ!なので、〔この伝統的教育は〕何か正しいことをしてきたに違いない、議論はこう続く。より多くを知っているなどという我々はいったい何者だ?と。
保守派のこのスタイルは、多様な有権者たちを魅了するが、特に信仰心の厚い層にとっては魅力的だ。教会の正式な教義と一致しているので、カトリック教徒には特に魅力的だ。キリスト教徒の義務の解釈を決める際に、教会の伝統は聖書と同じくらい権威があると考える。しかし伝統にそこまで重きを置かず宗教の原典を重視するプロテスタントや原理主義者でも、強く惹きつけられる。主に伝統への敬意の念は、理性主義の冷酷な攻撃に対する避難場所を提供するからだ。特に神の存在についての疑問すべてに魅力的で大袈裟な答えを与えてくれる。「うちの代々の先祖たちの知恵を疑うなんて、いったい自分は何様のつもりだ? ご先祖たちがずっと神を信じてきたのなら、それで自分には十分じゃないか」と。なので、知的控えめさという姿勢は、神を信じること自体を支持する論証ではなく、その論拠を示せという要求をたんにかわす方法として使われることがある。この観点から、とても「古い」信仰ほどより巨大な権威を持つという事実があり、そうであるからこそ正しそうに見えるのである。(これは標準的な啓蒙主義の見解とは正反対で、宗教的信仰の古さはたぶん間違っている徴候だと見なされる。何といっても、古代の人々は地球は平らで、火はエレメントで、風呂に入るのは健康に悪いと信じていたのだから。どうして古いものが正しいと?)
第2の保守派の潮流は、市場反理性主義(market anti-rationalism)である。これは20世紀の初め、特にフリードリヒ・ハイエクの研究によって影響を及ぼすようになった。この類の保守派は、ラテン語を教えることにはさほど重きを置かず、障害を受けない市場経済の運営に興味関心を持つ。なぜか?完全に明確な方法で再生産されることができない伝統的な組織である家族というようなものを作り出すことができるということと同じように、市場も明確な計算によって成立させることができないものである。ハイエクは、資本主義のもとでは、個人は(価格、生産可能性、個人の嗜好などについての)純粋なローカル情報に反応し行動するが、市場は社会全体により効率的な資源の分配を可能にする方法でこれらの情報を集めるということに特に注目した。旧共産圏の政府中枢政策担当者がこれを明示的に再生産しようとしたところ、これが単にとても複雑であることがわかった。とても高度な数学技術を用いても、ソ連の官僚たちは自国の経済生産を導く安定した計画を作ることに成功しなかったのだ。なので、ハイエクの視点では、市場は個人のそれを超えるある種の知恵を持っている。これは政府が市場を規制しようとすることは知的傲慢と描写されやすく、「人々」よりもう少し知識のあるエリートの中間的介入が最も良いとされるのである。
したがって、第2の保守派への「王道」は経済学を学ぶことである。もちろん、文化進化論型保守主義と自由市場型保守主義の間には目に見えるほどの敵対関係がある。特に規制のない自由市場は、人類が今まで発明した伝統的な制度を破壊するのに最も効率がいいからだ。ほとんどの文化進化論型保守主義者と宗教的原理主義者たちが毛嫌いしている現代世界とは、根無し草な人生、快楽主義、粗野な商業主義、緩い性的モラル、反権威主義、一般的に規律の欠如といわれるものであり、これは市場の直接的な生産物または市場によって劇的に増幅させられた性質である。何が両者に手を握らせるかというと、理性主義スタイルの中にある「ソーシャルエンジニアリング」という別選択肢よりも、この計画されていない工程のほうが良いという信念からである。
最後に、保守主義思考の「哀愁」制約と呼ばれるものがある。この考えは、人間の条件を改善する理性の力の悲観的な評価に基づいている。この考えによると、物事を改善しようと試みることは単に物事を悪化させるにすぎない。貧困は常に我々とともにあり、犯罪者を改心させるとこは不可能で、世界には常に悪が存在し、不平等は人間の条件の一部である、などなど。文化論型と市場型の両者が人間の条件を改善させる方法として自らの考えを提示する傾向にあるのに対し、悲観的保守主義者はそんな希望は抱かない。一部の例では、衰退の不可欠な速度を遅くすることだけに希望を見出している(オズヴァルト・シュペングラー著「西洋の没落」は、この手段の中で、おそらく最も影響を及ぼした書籍であろう)。
この傾向を持つ保守主義者は、人間の条件を改善しようと良かれと思って試みられたものの一部が、(「予期せぬ結果の法則」によって)如何にバックファイヤーを起こしたかというストーリーが大好きだ。受益者になるはずだった人々が以前よりずっと悪い状況に取り残されたといったように(そしてその道徳的優位性と知的傲慢という鼻持ちならぬ結合が人間の条件を改善できると思ったリベラルたちは悔やみ、面目を失うのだ。)これはその通りたくさんの例がある。例えば、戦後の公共住宅事業は汚くて危険なスラムで搾取する大家の被害から貧しい人々を自由にするために設計されたが、まったくの大惨事となった。政府は、ほとんどの状況において以前よりもっと酷い大家であるだけでなく、理性主義者に選好されたクリーンな幾何学的な線をもとに「啓蒙された」デザインは人間の交流には完全に適さないことが証明された。巨大な空間は、スラムの過密に混雑した感覚をなくすためにデザインされたが、すぐに犯罪の温床となった(トム・ウルフ)。ジェイン・ジェイコブズのような左派社会主義批評家たちでさえ、「計画されていない」あるいは「有機的な」コミュニティを賞賛するまでそう長くかからなかった。
このような例はもっと挙げることができる。貧しい人々を救済するには程遠い賃貸規制はホームレスを結局生み出すことになる。発展を奨励する代わりに対外援助を与えることは単に不十分な開発と無力を生む。人々が再び働けるよう支援するのではなく福祉を与えることで職業倫理がゆっくりと蝕まれ永久的な下級階層を作り出す。哀愁的保守主義者は、人間性の頑固さに感銘を受け、人間の条件は変えられるものではないというのは実質的に自明であるとなる。如何なる改善計画を提示されても上手くいくわけがないとの信念から始まり、そしてそこからことが上手くいかないメカニズムを演繹するのだ。
これらが保守派の思考の典型的なものである。しかしアメリカで過去何十年かの間に生まれたのは、少々新しい種のものだ。保守主義者たちはこの新しいトレンドを「常識」とよく呼ぶ。常識の中心的特徴は、フランク・ランツによると、「手の込んだ理論は必要なく、自明に正しい」というとこだ。自明であると述べることは、議論や説明なしで正しいと知られているということになる。なので、常識的保守主義者たちは反理性主義への傾倒について他の保守主義思想の様態と共有するが、何を選択肢として示すかが異なっている。常識を政治的イデオロギーの中心にすることは、理性的思考より直観を、熟考より「勘」を、頭脳より心を、純粋に優先することになる。 (もちろん、ランツの引用からもわかるように、理性の明らかな劣化であることが見てわかる。常識は、東海岸のひ弱なインテリたちが提案した類の「理論」、それもただの「理論」のみならず「手の込んだ理論」から、無関係である。手の込んだ理論の極めて重要なところは、それが手の込んでいるという理由があるからこそ無視してもよいということだ。相手が何を言っているのか実際の内容について気にする必要はない。)これが、証拠はないが真実だと信じたいことを信じさせる現象と米共和党の話法と「現実的」コミュニティの間で生じた断絶を引き起こしている。
「常識」という言葉はもちろんそれ自体が試験販売されており、肯定的な響きを最大にするので選ばれている。(これはペイリンの「母グマ(mama grizzly bears) [1] … Continue reading 」のテレビ宣伝の中で多くを占めている。「常識は保守派の女性を救う」「常識的な答え」などなどだ。)常識が嫌いなひとなんているだろうか?しかしこれは現代保守主義の最も重要な統一見解を説明しやすくもある。もし提案したいプランが説明を要する場合、それは常識ではない。もしそれが「正しく」聞こえなかったら、常識ではないのだ。
たくさんの異なった潮流の考えが集まってこの傾向を生み出した。最もはっきりしていることは、伝統的保守主義の反理性主義とリベラルの「傲慢さ」への批判を心から受容していると示していることだ。それはアメリカで強大な力として居残っている反知性主義と反エリート主義という深い井戸をも利用している。この感情は、ウィリアム・F・バックリーの有名な言葉がもしかしたら最も良い表現だろう。「ハーバード大学の教授陣よりも、ボストン市の電話帳に載っている初めの400人〔の一般市民〕で構成されたアメリカ政府のほうが信頼できる」と。あるいは、アメリカ保守派の大好きな映画「フォレスト・ガンプ」に見てとることもできる。この映画の主人公は、少々知能に問題のある南部アメリカ人だ。彼は子供だった1950年代にシンプルで常識的ないくつかの真実を学び、それがベトナム戦争を含む1960年代の動乱の中を無傷のまま生き残らせた。この映画は全体を通して、アメリカ社会の混乱のすべてがインテリたちが原因であると非難していることが非常に明確だ。彼らインテリたちは、常に物事を複雑に考えすぎ、賢くやろうと努力し、そのことによって我々みんなを良き人生へと導くシンプルな真実を、シンプルなモラルの真実でさえ、見失っていると。
この種の保守主義者たちの最も重要なことは、これが信じられないほど強大な一連の「選挙戦略」を生み出しているということだ。頭ではなく直観に訴えることは、ラジオではいうまでもなく、テレビでも信じられないほど上手くいく。もちろん、アメリカ様式の保守主義が広まった主要な伝達経路はインテリな表現からではない、実際にそういったものはまったくない。そうではなく、オフシーズンの間に雇ったアメリカ共和党の「選挙戦略家」を通してである。(言っておくと、カナダ保守党政府と英国保守党政府の両方がアメリカ選挙戦略家を多用している。)例えば、テレビインタビューではこの「強烈な」スタイルはおそろしくよく効く。要点を言うのに誰にも10秒も時間を与えないのだ。フォックスニュースのインタビュワーであるビル・オライリーはこれの達人だ。「説明してもらおうか、君は頭が良いんだろう?」と言って、10秒だけ聞く。そしてそれまでに答えられなかったら、目をちょっとぐるっと回して見せてから話を遮る。(結局、彼はそれで自分を窮地に追いやった。彼の言い分は、潮の満ち引きが一定のリズムで起こっているのは神が直接介入しているからであり神の存在なくしてそれを説明するのは不可能だというものだ。これは確かに10秒以内に説明できるが、できないものも他にたくさんある)。すべての質問に短時間で答えることの要求は、イデオロギー的に中立ではない。一般的ではないものよりよりよく親しんだもの、理性より直観、「手の込んだ理論」より「常識」が、有利に働くのだから。
翻訳おつかれさまです.
「この最も同情的な類は~」のところが少し文意をとりにくく感じました.次のような訳はいかがでしょうか:
「保守主義のなかでもとりわけ繊細な部類は,こうした伝統の中身を改良するどころか意識的に継続させる力量が個々人にどれほどあるのかについて非常に謙虚な感覚をもち,そこから見識を得ている.たとえば政治で言えば,伝統のおかげで私たちは民主的な制度を維持できているが,それがどうして機能しているのかまったくわかっていないし,余所で新たに民主的制度をつくりあげる方法も知らない.」
そのあとの箇所も,要注意です:
「この傾向を持つ保守派は恐ろしく難儀だ。例えば、ラテン語はもう一般的な学校カリキュラムにはないことは事実だ。」
→「こうした気質の保守派にとって,たとえばラテン語がもはや一般的な学校カリキュラムに入っていないことは非常に嘆かわしく感じられる」
「キリスト教徒の義務を正しく解釈するうえで、教会の伝統は聖書と同じくらいキリスト教徒の義務を正しいとみなす。」
→「キリスト教徒の義務の解釈を決める際に,教会の伝統は聖書と同じくらい権威があると考える」
下記の箇所は複数形 forefathers の意味を重視した方がよいです.父も祖父も曾祖父も,ずっと神を信じてきたということですよね:
「我々の祖先の英知に疑問を呈する私とは何者だ?我々の祖先が神を信じていたのなら、それで十分ではないか」
→「うちの代々の先祖たちの知恵を疑うなんて,いったい自分は何様のつもりだ? ご先祖たちがずっと神を信じてきたのなら,それで自分には十分じゃないか」
「信仰それ自体の議論というより、単に正当性への要求をかわす方法として使われることがある」
→「神を信じること自体を支持する論証ではなく,その論拠を示せという要求をたんにかわす方法として使われることがある」
いつもありがとうございます。大変助かります。