ジョセフ・ヒース「“自分のあたまで考えよう”的『啓蒙思想1.0』はどうして駄目なのか。ウォルドロンとサンスティーンの論争から見る『啓蒙思想2.0』が必要な理由」(2014年10月10日)

Waldron, Sunstein, and nudge paternalism
Posted by Joseph Heath on October 10, 2014 | politics, public policy

ジェレミー・ウォルドロン〔訳注:法哲学者。アカデミアの世界では最も権威ある役職の一つであるオックスフォード大学のチチェレ教授職を努めたことでも有名〕が、少し前にニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスで、キャス・サンスティーンの新著『なぜナッジなのか?(Why Nudge?)』について〔批判的な〕書評を書いている。この雑誌の記事についてコメントするのは私の主義に反しているのだが、今回ばかりは反応せざるを得ない誘惑に駆られている。というのも、ウォルドロンによるサンスティーン批判の見解こそまさに、我々が克服しなければならない「啓蒙思想1.0」の代表例となっているからだ。私が新著『啓蒙思想2.0』で主要目的としたものは、ウォルドロンのような考え方をなぜ避けなければならないのを示すことにあった(本のタイトルに「2.0」とあるのはこれが理由だ。ウォルドロンが、我々に強いているのは、私が「啓蒙思想1.0」的立場と考えているものである)。そして、サンスティーンは最新号でウォルドロンに反論しているが、この反論はあまりにヌルすぎる。

サンスティーンのことは、「ナッジ」パターナリズムの提唱者としてご存知の方もいるかもしれない。「ナッジ」パターナリズムとは、経済的合理性の観点からは一見中立に見えるが、実際には特定の選択肢が多く選好される事実の観察から導出された理論である。選択において、yの代わりにxを選択する経済的コストは具体的には存在しないとしよう。ところが、yがデフォルトとなっており、xを選択するにはフォームへの記載が必要となっていれば、アーキテクチャ的にyの選択が優勢となる。フォームへの記入は些細な労力に思えるかもしれないが、意思決定時の心理的コストは非常に大きいため、人は決定を後回しにしたり、完全に無視してしまう。すると、xへの強い選好がある場合でも、yが選択されてしまう可能性が生じる。

これは、企業が長年にわって自家薬籠中の物としてきており、企業は利用できるならほぼ確実に利用する(私がこれまで遭遇した事例で一番わかり易い例を挙げるなら、最近購入した『プレイステーション4』だ。PS4には、「プレイステーション・プラス」の特典会員権が、1ヶ月分無料で付いていたが、無料特典を有効にするには、クレジットカードの情報をソニーに提供し、毎月の会員自動更新プランに加入しなければならない。むろん後日、自動更新は解除できる。しかし、自動更新をデフォルトにしておけば、顧客の多くは〔解約に〕手間がかかるため、当初のままにするであろうと、ソニーは打算しているのだ。)

つまり、「ナッジ」パターナリズムとは、最も議論の余地が少ない状況で、選択の構造として必然的になんらかの選択肢が有利な状況になっていれば、政府はその管理領域内で、選択に直面している人が最も有利な選択を選べるように設定して、「公共の利益」への取り組みを強化すべきである、との見解に過ぎない。(物議を醸しているのは、個人が主体的行っている選択に対して、国家が合法的に強制できるかもしれないと想定されていることにある。)

ここで注意しなければならないのが、我々の普段直面している選択肢のほとんどは、私的な利益に有利に働くように構成されていない事実である。一例を挙げよう。一般的なスーパーマーケットのレイアウトを思い浮かべてほしい。スーパーマーケットのレイアウトは、売上の最大化――特に利益率の高い商品を最大限売ることに重点が置かれ、極めて入念に配置されている。例えば、乳製品の売り場は通常、入り口から最も遠い場所にあるため、1パックの牛乳を購入しようと店舗に立ち寄った顧客は、一連の手続き(牛乳の入手、支払い、店舗を出る)を済ますのに、店舗内全ての陳列棚の前を通る必要がある。そしてこの過程で、牛乳だけを絶対に買わせないように、少なくとも6つの強力な認知バイアスが使用されている。

すると、政府がスーパーマーケットを経営したらどうなるだろう? 政府によるスーパーマーケットも、一般的なスーパーマーケットと同じように運営されてもよいのだろうか、あるいは望ましいのだろうか? 現在スーパーマーケットは、顧客の利益ではなく、オーナーの利益を目的に運営されている。特に、レジの前には不健康なスナック菓子が戦略的に配置されているが、これは顧客の利益に明らかに相反している。スーパーマーケットが、顧客の利益を優先して経営されると、ほぼスーパーマーケットの形態を取らなくなるだろう。最も自明なのは、陳列の完全なる変更である。顧客が最も頻繁に購入する商品が非常に簡単に(ストレス無く)入手できるようになる。しかし、もっと重要なのは、健康に良い食品や、コストパフォーマンスの高い商品をもっと目立つよう、品揃えは再編されることである。

むろん、これは単なる例え話であり、政府がスーパーマーケット事業に参入すべきだ、とは言っていない。しかし、政府は、学校や病院といった、食堂を備えた施設を多く運営している(そして、実際の運営は外部に委託していたとしても、フードサービスに運営方法については多くの条件を設定することができる)。典型的な個人経営の食堂では、売上を最大化し、利益率が高くなるように運営されているため、(食品の選択と、食品の量の両方で)不健康な食事を助長するような方法で経営されていることが多い。そこで、サンスティーンと共著者のリチャード・セイラーは、〔行政〕施設のカフェテリアは、デザートよりサラダを目立たせる等して、別の方法で運営されるべきだと提案している。

このセイラー&サンスティーンの提案は、官僚が健康的な食事を押し付けようとしている、といった〔保守派からの〕予想通りの反発を招いた(干渉的な民間企業が、不健康な食事を食べさせようと、数桁多い時間とエネルギーを費やしている事実に関しては、我々は皆慣れてしまっているようで、もはや怒りを引き起こさない)。なので、サラ・ペイリンがCPAC(保守政治活動会議)のスピーチに、スーパー・ビッグ・ガルプ〔訳注:1Lサイズの清涼飲料水〕を啜りながら登場する光景を目の当たりにするに至っている(もっとも、ラナ―ズ・ワールドのこの特集記事を見る限り、普段のペイリンは500カロリー以上の清涼飲料水を飲まないようである)。もっと最近だと、マーガレット・ウォンテによる〔ナッジを批判する保守派の〕テンプレのような批判コラムが登場している(ウォンテは、サンスティーンの本を読まず、ウォルドロンのレビューだけ読んて批判を書いたようだ)。

〔ビッグ・ガルプを啜るペイリン:画像出典元

こうした〔保守派による〕反応は、いずれもサンスティーンが繊細な見解を打ち出している事実を見落としている。特に、「政府の干渉を批判し、個人にプラスとなるような物事の組織化を望まない」なら、「個人にマイナスとなるように組織運営されている事実をなぜ肯定するのか」という明白な反論に答えねばならない。政府は個人にマイナスになるような処置を講ずることができるし、実際そうするように働きかける企業ロビイストは常に存在しているからだ。

もっとも、ウォルドロンによるサンスティーンへの反論は、「ナッジは我々を選択や選択能力を実際に向上させないので、一種のカンニングじゃないか」といった彼の良識から来ているようである。

ナッジは、不適切なヒューリスティクス〔経験的・本能的反応〕を使用しないようしたり、不合理や直感や時代遅れの経験則を放棄する方法を教えてくれるわけではない。ナッジは、個人の選択をより良いものにしてくれるわけでもない。個人に啓発を与えてくれないからだろう。代わりに、個人の欠点に漬け込むような代物である。ナッジは、自身のヒューリスティクス――例えば、人には老後の蓄えを考えられない怠惰な認識(手近な選択肢は、原理的な不適切な選択肢となっている)――に合理的な解決策がもらされるように環境を操作するものなのだ。

ウォルドロンは、この件についての自身の見解の全てを正確には述べていない。しかし、この種の外部操作が、人の自律性や尊厳の侵害を伴うという考えに、彼は明らかに同調を示している。

ナッジは、備わっている欠点を利用する。これは子供を甘やかすようなものだ。ナッジ政策を(官邸内で)練っている人は、カント的命題に反して、個人を単なる手段として利用しているわけではないだろう。それでも、個人の選択は、何者かによって目的のための単なる手段されてしまっている――つまるところ、尊厳についての懸念はこの件につきるのだ。

上記引用で〔ウォルドロンが何が問題としているのか〕、その基礎的な枠組みを概略しよう。それは、彼が、エージェントの「頭の中」での行為と、環境依存の行為を区別していることにある。そして、個人の自律性とは、「頭の中」のリソースを使って意思決定をコントロールすることにあると主張(あるいは仮定)しているのだ。選択ルールに欠陥があっても、望ましい結果が得られるように環境を再編成するだけでは〔自律性の観点からは〕不十分ということになってしまう。ウォルドロンは、ナッジはある種の「ずる」と示唆しているのである。彼は、自分自身で選択ルールを決定すべきだと考えているのだ。しかし問題は、なぜ〔わざわざ自分で決定しなければならない〕? ということにある。例えば、我々の多くは、かなり信頼性の低い記憶システムを持っている。明日、会社に持っていかなければならない書類があるとしよう。今はこの書類が必要と分かっているが、明日の朝、急いで出勤する際には忘れてしまうかもしれない。そこで、玄関のドアに立てかけて、明日の朝、家を出立する時に蹴躓くようにする。で、これはある種のズルなんだろうか? 結局のところ、これは自身の記憶システムの欠陥を修復しているわけではない。環境を再編成するだけで、記憶システムに欠陥があるにもかかわらず、望ましい選択をもらたらすことができるのだ。

よって、ウォルドロンの主張への私の基本的な反論は、個人の自律性を考える際に、「搭載基盤(オンボード)」のリソースを、環境リソースより優先するやり方は、恣意的なものにすぎない、というものとなる。高いパフォーマンスをあげている人の習慣をよく観察してみると、彼らは環境操作(専門用語で言うところの環境的“足場”)に囲まれていることがわかる。アンディ・クラークとデビッド・チャルマースによって提唱され大きな影響を与えた「拡張された心」という理論から、私は大きく示唆を得ている。個人は、いかなる時も認知の要素では環境に「外部委託」している。この事実を認識すれば、〔ナッジは〕「尊厳」への冒涜だと考えてしまう人が、人間の心の機能実態について重大な誤解をしていることが分かるだろう。

ジョエル・アンダーソンと私は、この考え方を応用して、個人の環境操作よる様々な合理的な自己管理の事例を示すことで、「拡張された意志」という概念を提唱した。例えば、不健康な食事を避けたい2人の人間がいるとしよう。一人は、家にジャンクフード山ほど蓄えているが、適度にしかそれを食べない。もう一人は、適度に食べることが困難なので、家にジャンクフードを置かないようにしている。どちらも、ある種の「合理的な自己管理」には成功している。しかし、一人目は、ほぼ完全の自己意志の力――「搭載基盤(オンボード)」のリソースによってこれを達成している。二人目は、主に環境操作(家にジャンクフードを置かない)と、街角の店まで出かけるのは億劫なことによって達成している。カント的な、前者は自律的で、後者は非自律的だとの論拠は、純粋なカント主義的な立場以外で存在するのだろうか? 私は、この2者を、合理的自律性の異なる2つのスタイルとして扱いたいのである。

ここまで説明してきた事例は言うまでもなく、欠陥のあるヒューリスティック的決定を人は備えていても、個人向けの物理的環境を再編成すれば、望む結果を得られる処置のことである。ここで重要なのが、合理的自律性という考え方は、“不適切なヒューリスティクス”を克服するのに必要とされていないことにあるのだ。我々はまた、その場しのぎで解決を図ることできる―これこそがクルージ〔訳注:コンピュータープログラムにおいてありあわせの条件を操作することでのその場しのぎの解決策〕の本質である。サンスティーンが提唱しているナッジとは、社会環境を抜本的に変化させるような代物ではない。ナッジには、意思決定の権限を他者に委ねることが含まれているため、自律性への脅威は自明となっていると思うかもしれない。しかし、個人は頻繁にこのような〔他者への権限委譲の〕操作を意図的に行っていることを認識するのは重要である。個人は、タスクを物理的な環境操作に委ねるように、他者にも委ねている。これは特に、意志の力と自制心ではそうである――特にこの領域ではリソースでの対処が難しくなっているからだ(人と長期的な交際を行った経験がある人なら、意志の行使を相手に委ねるような事例をすぐに6つほど挙げられるだろう)。

つまり、AさんがBさんに、自分の意志を押し付けている、あるいは自分の判断をBに置き換えているように見える関係性があったとしても、実態は異なっている場合がある。もしかしたらBが、なんらかの意志力や実用的な推論をAに肩代わりさせているかもしれない。その場合、肩代わりをBは許していたなら、Bの行動は、合理的自律性の行使の一部であると言える。よって、「ある人が他者の選択を制約している・影響を与えている」という事実に焦点を絞ることは、着目点を間違えている。これは他者の自律性の侵害とはならない。ここで規範的な意味で重要な問題となっているのは、「他者」が、自身の受けた制約や影響を支持するかどうかにある。

我々社会の問題の一つは、自由の名の下に、自己統治を達成するために人が伝統的に利用してきた足場を自ら解体してしまったことにある。同時に、多くの誘惑に振り回されるように環境を改変してしまってもいる。言い換えれば、世界は、合理的な自己統治の必要性が恒常的に増加する一方で、個人が合理的な自己統治を達成するために歴史的に頼ってきた制度的な資源が切り崩されていく方向に進化しているのである。一番わかりやすい例は、ダイエットと依存性物質の分野となるが、他の様々な分野でもそうなってしまっている。

最後に、ウォルドロンが提唱しているような、壊れたヒューリスティクスの「修正」や、「時代遅れのヒューリスティクス」の廃止は、不可能であることを示す証拠は大量に存在している。ヒューリスティクスの修正は、最初の啓蒙主義プロジェクトの中核に据えられていた特徴だったが、いくつもの点で(少なくとも大衆に関する限り)大失敗に終わった。自著『啓蒙思想2.0』では、最近の心理学的知見である「二重過程理論」を用いて、ヒューリスティクスに欠陥があることを自覚していても、ヒューリスティクスは多くは修正が難しいことを説明させてもらった(一次資料を読みたい人は、ブライアン・ワンシンクのダイエットに関する本が特にオススメである。)。

ドラクロア画『民衆を導く自由の女神』

ウォルドロンは以下のように書いている。

私は、ナッジの世界は御免こうむりたい。選択下手として周りに知れ渡っている私だが、それでもだ。サンスティーンのような選択肢の建築家が、私の自主的な生活を少しでも良くしようと知的な努力を払ってくれてるのは感謝している。それでも、今の私の無分別さやお粗末な直感を(自分の利益になるかといって)是正するよりも、自身でもっとよい選択を行いたいと思う

これに反論したいのが、「選択下手」では、オックスフォードのオール・ソールズ・カレッジの社会・政治理論のチチェレ教授にはなれない、という厳然たる事実である。本当に「選択下手」なら、麻薬中毒、高校中退、殺人被害者になってしまう。ウォルドロンは、サンスティーンや私、そしてこの議論に参加している全ての人と同様、「自制心貴族」の一員なのだ。実際、博士課程を修了し、アカデミアで職を得て、1冊だけでなく数冊の本を出版している人は、誰であれ、自制心、満足の先送り、合理的な人生設計に関して、上位1%に入るのは明らかだ。午前6時半に目覚まし時計が鳴った時や、もう1杯だけスコッチを飲もう考えた時に、誘惑に駆られない事実は、99%のメンバーの人生のほとんどの実態がどのようなののであるかの洞察を教えてくれるだろう。

実際、ウォルドロンは最後の段落では、公共政策に付いての本の書評をしている事実を完全に失念しているようである。つまり、政府は、社会・政治理論におけるチチェレ教授が享受している(明らかに抜きん出ている)理性的な自制心のレベルまで、国民の自制心を引き上げられるのだろうか? という問題だ。大学教授がよくやる虚偽の謙遜(ファッションモデルが全員「ワタシ、高校の頃にはブスだったの」と言うのと同じように、大学教授は「私は上の空なんですよ」と言いふらすの)は、この事例を扱って、重要な問題に取り組むにあたって負のアドバンテージとなっている。もし、ウォルドロンが、自身の意思決定を「軽率」で「下手くそ」と感じているのなら、自分以外の人はどんなレベルに達していると想定しているのだろうか? 一度、我が身を省みて、自分以外の人がどれだけ未熟であるか、そしてそうした人々の意思決定を改善できる(現在のチチェレ教授のレベルにまで引き上げられる)かどうかと考慮してみれば、ナッジ・アプローチにもっと共感できるはずだ。

最後に、ウォルドロンが一つだけ、反論の余地がなく、説得力ある主張をしている事実を記しておこう。行動経済学や公共政策の議論では、個人の意思決定に偏りがある事実を示せば、政府による介入の根拠として十二分であるとする考察を驚くほど頻繁に見受けられる。これは、誤謬である。これは、民間市場を非効率だと診断するだけで、政府の介入を正当化できるとの考えと、多くの点で似通っている。どちらの場合でも、「政府は〔介入によって〕何らかの形でもっと改善できることを示す必要性」を見落としている。政府は民間市場において、民間企業にはない強制力を持っているため、政府のほうがうまくやれるだろうとする根拠はありえる。しかし、〔個人の〕合理性の失敗を示すことで、政府のほうがうまくやれるだろう、とする根拠はありうるのだろうか? 政府の介入を正当化するには、政府で働く人が、私人よりも何らかの形で「もっと合理的」であることを示さなければならない。

よって、私の〔政府介入の〕正当化は、ウォルドロンの指摘(彼は、インセンティブや信頼の問題も取り上げている)よりかなり範囲を絞っている。なせなら、公共政策の観点では、人間は意思決定に何らかの欠陥を抱えていることが分かったからといって、些事にすぎない、という極めて基本的な事実を述べたいからだ。国家が、それ〔人間の意思決定の欠陥〕を是正できる(そして、国家に奉仕し、解決策を策定する実務家が、同じ〔欠陥〕バイアスに影響されず、もっと事態を悪化させない)との何らかの根拠が得られるまで、国家の介入を正当化できないのは自明である。幸いなことに、この件での論争は行われており、そこでも(やはり)環境的足場との関係が指摘されている。大雑把に言うなら、国の官僚は、そうした〔政府による介入是非の〕判断を行うための良い足場を持っているため、(ある条件下では)私人よりも理性的である可能性が高い、というものだ。私はこの議論を、『啓蒙思想2.0』で簡単に要約したが、一般向けの本できちんと論理だって説明するのは不可能となっている。この考えは、アンディ・クラークに寄っており、私のお気に入りの論文「経済的理性:個人の学習と外部構造の相互作用」で、彼はこれを立案している。この件に専門的な関心を持っている人は、ぜひクラークの論文を読んで欲しい。

Total
29
Shares

コメントを残す

Related Posts