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スコット・サムナー 「『1Q84』と『サタンタンゴ』と ~超大作を讃えて~」(2012年2月12日)

●Scott Sumner, “Satantango”(TheMoneyIllusion, February 12, 2012)


今回は、いつもとは一風変わった話題を取り上げるとしよう。ここ最近ずっと大いに頭を悩ませている疑問がある。「小説や映画の長さというのは、一体どうやって決まってくるのだろうか?」という疑問がそれだ。大抵の小説は、分量にして200~500ページくらい。大抵の映画は、尺にして2時間くらい。それが相場だ。映画の尺に関しては、映画館側の事情――夕食後2回は上演できるくらいの尺が好ましい――がいくらか関係しているのだろうと推測できるが、しかしそれですべて説明がつくわけではないようにも思う。というのも、「アートフィルム」(前衛映画)にしたって、大体2時間くらいの尺に収まっているからだ。小説が原作となっているアートフィルムでさえも、そうなっているのだ。普通の分量の小説を圧縮せずに、そのまま映像化しようと思ったら(それもアートフィルムのテンポで映像化しようと思ったら)5~10時間くらいの尺になるはずなのに。

私だけなのかどうかわからないが、普通の分量の小説よりは、(分量がずっと多い)「超大作」(“mega-novels”)の方が楽しく読めてしまえる性質(たち)だ。つい最近も『1Q84』を読み終えたばかりだ(『1Q84』は村上春樹の作品の中でもお気に入りの一つとなった)。ここ数年の間に読んだ超大作としては、『2666』だとか、『特性のない男』だとか、『指輪物語』だとかがあるが、どれも大変楽しく読めたものだ。超大作に括られる古典の中には未読のものも多いが(例えば、『戦争と平和』、『カラマーゾフの兄弟』、『失われた時を求めて』などなど)、いずれも傑作と評されている。だったら、超大作に括られる作品がもっとたくさん出回っていてもよさそうなものなのに、そうなっていないのはどうしてなのだろうか? 私がこれまでに読んだ範囲でいうと、がっかりさせられた超大作は、フィリップ・プルマン(Phillip Pullman)作の『ライラの冒険』三部作くらいのものだ(とは言え、第一部と第ニ部は素晴らしい出来だった)。

「別世界」(「別の現実」)へと誘ってくれる小説に惹かれる傾向が私にはあるのかもしれない。『1Q84』を読破するには随分と時間がかかったが、そのせいなのか、読み終える頃には村上春樹が作り上げた空想世界の内側に、自分の体の一部が引きずり込まれてしまっているかのような感覚を覚えたものだ。あまりに入り込みすぎたせいで、『1Q84』を読み終えてからしばらくの間は、別の小説に手を出したくなかったものだ。呪文が解けてほしくなかった(『1Q84』の世界に浸っていたかった)のだ。ふと思うのだが、小説というのは、長さの違いに応じて、やろうとしていることが異なるのではなかろうか? 短編は、「出来事」(事件、エピソード)を創造しようとする営み。普通の分量(200~500ページ)の小説は、「物語」を創造しようとする営み。そして、超大作は、「完結した世界」を創造しようとする営み。そう言えるのではなかろうか? この点について納得してもらうには、(多くの人が『指輪物語』を読んでいるに違いないと見込んだ上で言わせていただくが)『指輪物語』と『ホビットの冒険』を比べてもらうのが一番手っ取り早いだろう(『ホビットの冒険』は、『指輪物語』に比べると入り込むのがずっと難しい)。

映画に関してもやはり同様だ。私がこれまでに観た長尺の映画は、その大半が素晴らしい出来に感じられたものだ。作品の中には、オリジナル版よりも尺が長い拡大版が制作される例もあるが、拡大版の方がオリジナル版よりも出来がいいというケースは多い(例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』の第一部と第二部、『ゴッドファーザー』などなど)――『地獄の黙示録』のように、逆のケース(オリジナル版の方が拡大版よりも出来がいいケース)もごくたまにあるが――。かつて『美しき諍い女』と題されたフランス映画(監督はジャック・リヴェット)を観たことあるが、4時間という長尺であることに加えて、話の内容自体も単純そのものであるにもかかわらず、驚くほど引き込まれて目が離せなかったものだ。この作品には、2時間の短縮版もあってそれも観たのだが、退屈で永久に続くんじゃないかとやたらと長く感じられたものだ。どうやら、コリン・マーシャル(Colin Marshall)も(どうやら短縮版は観てすらいないようだが)同様の結論に達しているようだ。

90~120分の尺が一番しっくりくるという物語もあれば、その尺ではしっくりこないという物語もある(というか、確率的にそうならないとおかしいわけだが)。映画として仕立てるには、61分の尺じゃなきゃダメという物語もあれば、(同じくジャック・リヴェットが監督を務めた『アウト・ワン』のように)773分の尺じゃなきゃダメという物語もある。はたまた、(『美しき諍い女』のように)どうしても237分の尺じゃなきゃダメという物語もあろう。『美しき諍い女』は、237分よりいくらか短くても、いくらか長くても、うまくいかなかったことだろう――『美しき諍い女』には、125分の短縮版(題して『美しき諍い女/ディヴェルティメント』)もあるが、本編たる『美しき諍い女』のための2時間にわたる予告編と言っても過言ではない――。

来月(2012年3月)のことだが、ハーバード大学で、かの誉れ高い『サタンタンゴ』を上映する催しが行われる予定になっており、私も足を運ぶつもりだ。東ヨーロッパにあるわびしい村が舞台の作品だ。雨が降りしきり、地面はぬかるみだらけ。長回しのシーンが延々と続くが、これといって何かが起きるわけでもない。「退屈」そうな気配がプンプンしているが、称賛の声多数とはこれいかに? その理由は至ってシンプルだ。7時間15分という尺の長さが答えだ。それだけの長尺の映画の中では史上最高の作品なんじゃないかというのが(まだ観ていない段階での)私なりの見立てだ。

スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)も私の肩を持ってくれているようだ。彼女は、『サタンタンゴ』をかれこれ15回も観たそうだが、次のように評している。

7時間ずっと絶え間なく圧倒されっぱなしで、心もわしづかみされたまま。命が続く限りは、1年に1回のペースで見直したい作品。

ソンタグに比べると、随分と頼りない鑑識眼の持ち主である小生なんかは一回観るだけで十分そうだ。


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