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タイラー・コーエン「リベラルならざる改革者たち:進歩派と優生学」

[Tyler Cowen, “*Illiberal Reformers*, on Progressives and eugenics,” Marginal Revolution, January 28, 2016]

トーマス・レナードがすぐれた新著を出した.副題は,ずばり『進歩派時代における人種・優生学・アメリカ経済』だ.

もう読者は大方知っていることだと思うけど,これはかなりひどい話で,初期の進歩派たちも19世紀後半のアメリカ経済学者たちも,あきれるほどの人種差別者であり優生学の信奉者だった.しかも,そうした人種差別はかなり根深く経済学の職業的な構造に入り込んでいた.アメリカ経済学会 (AEA) にも人種差別は根付いていたし,他の学会も同様だった.

ケヴィン・ドラムが,同書を読んで面白い指摘をしている(ぜひ,元記事を全文読んでほしい.下記のおてがるな抜粋以外にも大事なことがある):

20世紀初期の進歩派は社会をよくすると信じて優生学を支持していた.現代のリベラルは60年代に花開いた個人の権利を信じて中絶の権利や死ぬ権利を支持している.

ドラムが言っていることの大半は,つまり「かつての歴史をみても現在のありようはあまりわからない」ということだ.

ぼくはこう考える.十九世紀中盤の J・S・ミル的自由主義にさかのぼってみよう.もし,アメリカの進歩主義や,イギリスの進歩主義にこの哲学がもっと注入されていたなら,優生学の失態は起こらなかっただろう.たとえば,「精神薄弱者法案」(Mental Deficiency Bill) をめぐって1912年に戦わされたイギリス議会の論戦をながめてみると,反優生学の勢力はミルから大いに考え方を取り入れている.これは通常の事態だった.だが,当時の進歩派たちは,ミル的な立場をとるべき自由尊重の理由をあまり見いだしていなかった.むしろ,その逆だった.

とはいえ,べつに現在の進歩派が邪悪だとか人種差別的だという話ではない.ただ,進歩派の思想にはまだまだミルが足りていないし,個人の自由の強調も十分じゃないと言いたい.進歩派たちが〔疑問を覚えずに「リベラル」という〕自称を継続して選んでいるところからみて,どうやらこの点を彼らはあまり気にしていないのか,もしかすると,十分に気づいていないのかもしれない.進歩派たちにしても,ミルのもっと実践的な改革進歩主義はかなり強く賛同するなり,かなり深く考えもするだろうけれど,ミルをはじめとする人々の哲学に現れた「個人の自由」というもっと広い哲学の方は,彼らにとってしっくりこないらしい.これは大きな問題,とても大きな問題だ.もっと長い目でみても,進歩主義と優生学の歴史は,この点をもっとも単純かつ鮮明に描き出す事例なのかもしれない.いまの「左翼」が言論の自由をあまり強く掲げていない理由の1つはここにある.

あまりケヴィンの議論をつつきまわすつもりはないけど――ケヴィンはぼくのお気に入りブロガーの1人だ――ただ,彼の主張には他にも異論がある(し,ここにも問題が示唆されている):

(…)優生学は誰にも嘆かれることなく1世紀前に死んだ.

これの反例を(他にもあるなかから)1つ挙げると,スウェーデンの「進歩的」断種法は1970年代までずっと続いていたし,これはカナダも同様だ.なかでも自閉症者に対する優生学的な見解は左右の別を問わずいまも残っている(これはとくに進歩派だけにしぼった批判じゃないけど,彼らにも非がある).また,CRISPR [wikipedia] とともに優生学論争はすでに復活を遂げている

自由尊重の思想家のみでなく社会民主主義の思想家たちもこれほど多くが反対してきたこの数十年にわたって優生学を奉じてきたような哲学を,本気で奉じたいと思うだろうか? ぼくの考えでは,ミル本人は「ことわる」って言いそうだけど.

John_Stuart_Mill_by_London_Stereoscopic_Company,_c1870


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