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ノア・スミス「脱成長論はろくでもないってみんなも気づきつつある」(2021年9月5日)

[Noah Smith, “People are realizing that degrowth is bad,” Noahpinion, September 5, 2021]

脱成長論者が提唱してる狂った構想は,地球を救う本物の対策からぼくらの気をそらしてしまう幻想だ.

「脱成長」を唱える人たちがいる――地球を救うために経済成長を停止する必要があるのだと,彼らは言う.今回は,これがすごくダメなアイディアである理由を解説する長文記事を書くつもりでいた.ところが,ぼくが書くまでもなく,すでにそういう文章を書いてる人たちやポッドキャストで語ってる人たちが他にいる.たとえば,ブランコ・ミラノビッチケルゼイ・パイパーエズラ・クラインといった人たちだ.そこで,かわりに今回は各種の脱成長論をカタログにまとめて,その要点をとらえることにしよう.

ただ,その前にまずは,標準的な主張を見ておこう.そうすれば,どうしてこういう新しい主張が必要になってるのかわかる.

脱成長論に反対する標準的な論証

まずは,脱成長論への典型的な反論は,しばらく前に『ブルームバーグ』の記事でぼくが書いてある.「脱成長は必要ない」というのが,その内容だ.経済を減速させることなく人間の生活水準を引き上げるのは可能だ.この論証は,アンディ・マカフィーが好著『より少ないモノからより多くを得る』(More From Less) で手際よく展開してる.ぜひ買って読んでみるといい.ようするになにを言ってるかというと,「経済成長するためには資源もより多く使う必要がある」という発想は,間違ってるってことだ.豊かな国々が成長し始めたとき,地球のきわめて重要な資源の利用は減っていった.たとえば,下記のグラフでは,アメリカにおける真水やさまざまな金属,貿易調整した炭素排出量の使用量が示してある:

というわけで,脱成長は必要ないというのが,ここでのアイディアだ.地球の資源を使い尽くすことなく,みんなの生活水準を引き上げ続けていける.経済成長するからといって,ますます多くのモノを使うようになるとはかぎらない.むしろ,経済成長していくとともに,手持ちのモノをもっと効率よく使う方法を見つけ出していくことだってありうる.

脱成長論者たちは,これに2つの反論を言う.典型的に,一つ目の反論では,全世界の資源使用量のグラフを示して,それが全世界の経済成長と相関してるのを示す.これは反論として弱い.理由は2つある:

#1: 各種のいろんな資源を組み合わせて資源利用全体を測る方法が脱成長論者にはわからないので,たいてい彼らは総量で話を進める.これはバカげてる.というのも,原材料には再利用可能なものもあれば,そうでないものもあるからだ――銅を1トン「使用」しても銅が1トンあることは変わらないのに対して,石油を1トン「使用」するとその分だけ石油はなくなる.また,各種資源の相対的な豊富さを考慮に入れていない点でも,総量の論議はバカげてる――石油1トンを砂2トンで代替する方法を見つけ出したら,効率を上げられる.なぜなら,石油に比べて砂は豊富にあるからだ(それに,使用したときに石油ほど汚染しない).経済成長と一口に言っても,稀少な資源を潤沢な資源で代替する方法を見つけ出すことによる部分が大きい.ただトン数を合計して総量を出すのは,この点を無視してしまっている.

#2: これまでの傾向は,将来の傾向を保証しない.たとえば,70年代まで,アメリカの経済成長はエネルギー使用・炭素排出と密接に相関していた.70年代以降になると,この相関は完全にくずれて,それぞれの折れ線は逆方向に動いていく.これらがまるで自然の法則であるかのように脱成長論者たちは提示するけれど,そんなことはないとぼくらは知ってる.「トレンドが友達でいてくれるのは,最後に曲がり角にくるところまで」ってやつだ.それに,もはや経済成長のためにますます多くの資源を利用しなくてすむ地点まで豊かな国々が達したってことをふまえると,中国みたいに産業化を進めている国々もいずれその地点にやってくるだろうと強く予測される.(それに,豊かな国々で資源利用が減少してるのは大半がアウトソーシングによるものではない.これは,さっきの排出量グラフが例示してる.)

というわけで,この脱成長論の論証はただ間違ってる.ただ,マカフィーがいう〔経済成長と資源使用の減少という〕一挙両得の考えに対して,脱成長論者たちには第二のもっとすぐれた反論がある:〔経済成長と資源使用増加の〕分離は,じゅうぶんに迅速に進んでいないんだ.今日の先進国がかつてやったのと同じように資源使用に偏った産業化を中国・インドやアフリカ諸国がこれから進めていって,やがて今日の先進国がやっているように経済成長を非物質的なものに変えるまで待っていたら,手遅れになって地球が生態的な破局を迎えてしまうだろう.

この反論は,印象ほど強くない――中国・インドなどなどの国々は,太陽光発電みたいな先進国によってつくりだされた効率改善テクノロジーを利用できるだろう(というか,現にもう行われている).それに,こうした国々も,経済成長の道筋のごく早期からソーシャルネットワークやビデオゲームみたいな「非物質化された」財・サービスを利用できるようになる(すまんね,習近平).だから,こうした国々の資源使用がたどっていく推移は,アメリカやヨーロッパとはいくぶんちがったものになるだろう.

とはいえ,この脱成長論には,少しばかり真実が含まれている:全世界の資源使用は,いまのところ持続不可能な推移をたどっている.下に示したのは,今世紀末までに地球温暖化がたどる推移の現在予想だ (via Zeke Hausfather).太陽光発電みたいな技術の進歩があってもなお,こういう風に進むと予想されてる:

こうしたシナリオのどれをとっても,全世界的な破局になっている.

というわけで,持続可能な成長経路があるとしても,いまのぼくらはその経路にのっていない.この件に関して,脱成長論者たちは正しい.穏やかにグリーンな経済成長に自然な移行を果たすのは可能だけれど,それはとてもじゃないけど賄いきれない贅沢品だ.ただ,脱成長論者たちの処方箋は間違っている.

その理由を一言で言えば,政治だ.世界中の生産・消費を大規模かつ意図的に再編するのを脱成長論者たちは夢想しているけれど,それはたんに実際問題として実行不可能なばかりか,北欧のごく一握りの声が大きい人々と Twitter で気ままに活動家をしている人たちを除いて,世界中の誰もが拒否するやり方だ.その理由については,ミラノヴィッチ,パイパー,クラインそれぞれの秀逸な記事/ポッドキャストを参照しよう.

脱成長への政治的な反対論

脱成長の話題を取り上げたすぐれた記事を,実はミラノヴィッチは2本書いている.1つ目の記事では,途上国を貧困に無理矢理とどめおくのがろくでもないことである理由を述べている.

議論のため,こう想定してみよう.「脱成長」とは全世界の GDP を現在の水準に固定しようという意思決定だと解釈する.(…)それはつまり,所得の分布を変えないかぎり,一日に 1.90ドル未満を稼ぐ世界人口の 15% ほどの人々や,一日 2.50未満を稼ぐ人類のおよそ 4分の1 を,永続的なおぞましい貧困に追いやることになる.(…)金持ちがいまの生活水準を享受し続けられるようにするために,これほど大勢の人々をおぞましい貧困にとどめおくのは,明らかに,脱成長を提唱している人々が許せることではないだろう.

全世界で脱成長を実施するとなれば,世界の所得をおよそ 17,000ドル/年で凍結する必要があるだろう.そうなれば,いまの豊かな国々の生活水準に世界の大半の人々が近づくことすらなくなる――そうした人々は,中国やボツワナでいま享受されている水準に到達できるのがせいぜいだろう.もしかすると,それはそんなにおそろしい命運ではないのかもしれない.でも,ミラノヴィッチが述べているように,そのためには,先進国の人口の大半を貧しくさせる必要がある.新しい記事では,この点について,ミラノヴィッチはいっさいの手加減なく詳しく書いている:

[世界の大半の人々を貧困にとどめおくのを回避するためには,脱成長論者たちは]別の[所得]分配を導入[しなくてはならない].その所得分配では,現在の世界所得平均(購買力平価で一日16ドル)を上回る人々全員が,この平均にまで押し下げられる一方で,貧しい国々とその人々は,少なくともしばらくの間,この購買力平価一日16ドル水準に到達するまで経済成長の継続が許される.だが,この問題には問題がある.それは,西洋の人口の事実上すべての(…)所得を大幅に削減しなくてはならない,という問題だ.西洋諸国の人口で,この世界平均未満の所得水準で暮らしている人々は,ほんの 14% にすぎない(…).よって,脱成長論者たちは,豊かな国々で暮らしている人口の 86% を説得して,自分たちのいまの所得が高すぎであり削減する必要があることを納得させる必要がある.(…)そのような命題が政治的自殺であることは,実に明白だ.

「GDP は人間の繁栄をはかるすぐれた数値ではない」という脱成長論者たちの抗議を,ミラノヴィッチはかなり正しくはねつけている.たしかに GDP は完璧ではないけれど,基本的な要点のありかに十分近いところにある.

「豊かな国々の人々は自分の生活水準が破滅的なまでに低下するのを受け入れるべきだ」と要求してみても,政治的ににっちもさっちもいかない.クラインは自分のポッドキャストでこの点をできるだけおだやかに指摘している

[脱成長]運動の政治的要求が「牛肉を食べるな」「気候変動をめぐる政治をこれだけ遠大で急速なものにしよう」というものになると,破滅的だろう.同じことは SUV にも当てはまる.自分は SUV が好きではないし,運転もしないけれど,豊かな国の人々に,彼らにとっての気候変動運動とは自分の好きな車に乗れないことだと告げていては,ただ敗北するだけだ.敗北はすぐにやってくるだろう.(…)こうして,[脱成長の]政治は瓦解する.

脱成長を支持する議論を見ても,政治にもっとものすごく緩慢にアプローチするものは見当たらない.たぶん,いま現にぼくらがやってることにくらべて,逆効果なんじゃないかな.いまみんながどうしてるかと言うと,再生可能エネルギー技術を採用して,そういう技術のうえにもっと物質的に満足のいく生活をおくる機会を人々にもたらすことで気候変動で大きく前進できるってことだと思う.

ミラノヴィッチはこれほどおだやかじゃなくって,脱成長論を「まったくの魔術思考」と呼んでいる.彼は正しい.気候変動に対処するために自分たちの物質的な繁栄をどれくらい犠牲にする意欲がアメリカ人にあるか考えてみると,クラインが語っているのよりもはるかに少ない.それに,クラインは犠牲をつつましいものに抑えて語っている――たんに牛肉や SUV を諦めるだけじゃない.いま豊かな国々で人々が享受してる住宅の規模や食品の量を劇的に削減し,交通の便をものすごく悪化させるのが,実際の犠牲だ.

これですら,脱成長の政治的・実践的な困難を大幅に過小評価している.パイパーはいくつかの重要ポイントを付け加えている.第一に,しばらく前から先進国では資源利用と成長が連動しなくなっているため,資源利用を抑制すると,ミラノヴィッチの単純な計算で提示されているよりも多くの制限が途上国にかかる結果になる:

ただ,気候変動の観点で見ると,[単に豊かな国々の生活水準を引き下げることには]問題がある.第一に,脱成長は排出量の大部分と関わりがない.その大部分は途上国で起きている

これは非常に重要なポイントだ.たとえば,いま中国の CO2 排出量は,アメリカ・ヨーロッパ・日本を上回っている:

(あと,これはアウトソーシングのせいじゃないよ.貿易調整した排出量の数字を見てもらえばわかる.)

この点については,別の切り口からの見方もある.GDP 1ドルあたりの CO2 排出量は,中国の方がアメリカの2倍も多く,欧州と比べるとおよそ5倍にのぼる.世界全体での脱成長プランで実際に資源利用を削減すれば,GDP の数字からうかがわれる以上の痛みを中国に引き起こすことになる.なぜなら,単純に,中国の方が資源利用に強く依存した経済成長の段階にあるからだ.

北欧の活動家たちが繰り出す環境にやさしい経済の絶対命令を達成するために自分たちの生活水準を大幅に引き下げるのを,中国が受け入れると思う? もしそう思うなら,ものすごくたくさんのことを再考する必要がある.

ともあれ,パイパーは決定的に重要なポイントをさらに述べている.ここまでは,〔脱成長論の言い分を〕てきとうに聞いて,豊かな国々の GDP を下げつつ,貧しい国々の GDP を引き上げることについて語ってきた.実のところ,経済はそんな風に動かない:

第二に,ヒッケルが示唆しているよりもずっと世界経済はお互いに絡み合っている.COVID-19 におそわれて貧しい国々は打ちのめされたが,それはウイルスそのものだけによるものではなく,感染拡大を受けて豊かな国々での消費が減速した余波によるものでもあった

「消費主義」を終わらせるという考えには,まぎれもなく人に訴求する部分もある.だが,豊かな世界の消費が急にガクンと減少したときに実際に途上国がどう影響を受けるかを味見する機会を,パンデミックは提供した.COVID-19 によって,西洋の輸入と観光はしばらく劇的に減少した.貧しい国々に及んだ影響は,破滅的だった.飢餓は増え,続いて児童の死亡率が上昇した.

こんな具合に,脱成長のためには世界経済の動き全体に強烈な変化が必要となる.変化は起こるけれど,思った通りにはならない.脱成長論者たち気ままに吹聴する再配置スキームを実施するには,旧ソ連のゴスプランも小物に思えるほどの世界経済計画が必要になるだろう.またしても穏やかにクラインがそのへんを指摘している:

提唱している人々が理解しているように,脱成長とは,人類史に並ぶもののない規模で世界経済を計画運営する行為だ.途方もない中央計画の行為だ.

言い換えると,絶望的な幻想ってこと.

以上の議論をまとめると,こうした批判によって,脱成長という企図全体は完膚なきまでにたたきのめされている.現在のかたちでは,メディアでの流行にとどまるのがせいぜいだろう.どれほど声高に脱成長論者たちが終末めいた予想を引用したところで,彼らが要求してるあれこれは実現しない.

幸運にも,地球を救うならマシな方法がある.そして,脱成長運動には,もっとマシな役割がある.ただし,自分たちのアプローチを考え直して,もっと事実にもとづいて,合理的で謙虚になるつもりが彼らにあるならの話だけれど.

地球にとってマシな方向,脱成長運動にとってマシな方向

脱成長はにっちもさっちもいかない.それに,グリーンな経済成長は勝手に十分迅速に起こってくれそうにない.そこで,世界が実行可能な選択肢はひとつしかない:強制的なグリーン経済成長だ.政府の政策によって,グリーンエネルギーへの移行と GDP の脱物質化への移行とを加速しなくてはならないだろう.気候変動に関しては,次のようなことが関わってくる:

  • 強制によってグリーン電力へ急速に移行すること
  • 強制によって,大半のエネルギー利用を電力へ迅速に移行していくこと
  • 各種の産業プロセスで低炭素排出火力を強制によって迅速に採用していくこと
  • 森林伐採の強制的制限

――などなど.

他の資源に関して言えば,各国政府は「共有地の悲劇」を回避するための対策をとらなくてはならない.たとえば,海に廃棄されるプラスチックの大半は,一握りの途上国が出している.そうした国々はこうした行いを抑え,先進国のようにプラスチックを埋め立て処分しなくてはならない.

さらに,共有地の悲劇が存在しない場合であっても,世界各国でもっと将来を見通して自分たちの天然資源を管理する必要がある.たとえばアメリカでは,土地保全でこれを大いにやっているものの,帯水層では失敗している.各国政府は,自分たちの市民よりも先を見据えて行動し,なにもかもを現在世代が消費するのにまかせるのではなく,将来世代のために資源を節約しなくてはならない.

こうしたことすべてには,計画運営が必要になる.しかも大量にだ.でも,全世界の消費を計画配分してそれぞれの一次産品の消費を規制する脱成長論者たちの方式に比べれば,計画運営はとてつもなく少なくてすむ.迅速な脱炭素化・世界中の汚染の抑制・資源保全,これらはどれをとっても政治的にもロジスティックの面でも無理難題だ.それでも,脱成長とちがって,可能ではある.

それに,このプロセスで脱成長論者たちは,建設的な役割を実際に果たせるかもしれない――当人たちにその気があれば.経済成長を減らすことに関心をしぼるのではなくて,消費を減らすことに脱成長論者たちは関心を向ける必要がある.経済学について深く考えたことがない人たちの耳には,経済成長も消費も同じことに聞こえるかもしれない――「脱成長論者って,とっくに消費を抑制しようと試みてなかったっけ?」 実は,大きなちがいがある:投資を促進するには,消費を抑制する必要があるんだ.

グリーンで持続可能な成長に迅速に移行するためには,新しい投資が大量に必要になる.多くの環境保護運動家たちは――たとえばグリーンニューディールを起草した人たちは――この点を理解している.太陽光発電・風力・エネルギー貯蔵〔の設備〕を大量に建設する必要がある.建物の設備の電化を進め,産業プロセスを水素ガス利用に切り替えていく必要もある.大量の自動車を内燃機関から電気に切り替えていく必要もある.電車網と密集住宅などなどの建設も必要だ.それに,組織培養肉みたいな新技術への投資も進める必要がある.

間違いなく,これはとてつもない経済事業だ.そして,これは経済の成長になる.次世代がより高い生活水準とより持続しやすい地球の両方を享受できるように,一部の消費を後回しにする必要は出てくるだろう.でも,決定的に大事な点として,これは永続的な消費減少ではなく,消費の後回しだ.グリーンな成長と脱成長は,この点で大きくちがっている.

より輝かしい未来のためなら,人々は消費を後回しにする意欲がある.産業化を急速に進めている国々では,貯蓄率・投資率が高い一方で対 GDP 非で消費の割合が低い.そうした国々は,こういうことをずっとやってる.それでも,消費の後回しには政治的な意思と同意が必要だ.自分たちが貧困になっていくわけではなく楽しみを後回しにしているだけなんだと――キリギリスじゃなくアリになるんだと――みんなが承知しておく必要がある.

脱成長論者たちは,これが人々に広く受け入れられるようにするのに一役買える.ただし,自分たちのメッセージをいまのものから大幅に変えるかぎりでのはなしだ.メッセージは「消費を控えましょう」ではなく,「今日の消費を減らして,明日の消費を殖やせるようにしましょう」であるべきだ.なんといっても,核心部分において,それこそが持続可能性のねらいでしょ?

ざんねんながら,脱成長運動がグリーンニューディール型の投資志向の枠組みに切り替わっていくかというと,ぼくは悲観的だ.脱成長の訴求力の核心部分は,北欧式の上品な〔消費主義の〕拒絶を仕立て直して,大仰な地球救済の道徳的探求みたいなものにしようという暗黙の約束からきているように感じる.この痒みには,グリーンニューディールでは手が届かない.

ともあれ,いま言われているかたちでの脱成長はにっちもさっちもいかないってことを,他の環境保護運動は――そして政治的左派全般は――認識しなくてはいけない.戦う意義のある聖戦はある.でも,脱成長はそれじゃない.


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