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ビル・ミッチェル「グレッグ・マンキューへの返答 – Part 2」(2019年12月24日)

Bill Mitchell, “A response to Greg Mankiw – Part 2”, Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, December 24, 2019

A response to Greg Mankiw – Part 1 ビル・ミッチェル「グレッグ・マンキューへの返答 – Part 1」)(2019年12月23日) では、グレッグ・マンキューによるA Skeptic’s Guide to Modern Monetary Theory(懐疑論者のための現代貨幣理論への手引き)(2019年12月12日)の発表に先立って行われたメールでのやり取りを公表した。今回のブログ記事では、その論文で論じられた具体的なポイントへの返答を提示した上で、もし当該論文が(批判的な観点からとはいえ)MMTへのフェアな「ガイド」であることを目指しているのであれば、それはひどく失敗してしまっていると結論付ける。では、なぜ私がそう結論付けたかを説明していくとしよう。今日の投稿は長いので、少し読むのに時間がかかるだろう。極めて長くなるかもしれない。しかし、来週までブログの執筆をお休みするつもりなので(クイズはいつものようにする予定)、いつもの記事より長いものの、読者にはこの記事を読む時間が十分にある。いつもなら3部か4部に分けるところなのだが。

参照について

この問題については、さっさと済ませておく。

2019年3月に大手教科書出版社マクミランから出版された私たちの教科書-Macroeconomics-の中の資料を引き合いに出して、現代貨幣理論(MMT)を批判するのは不公平だと考える人がいる。

この教科書はグレッグ・マンキューが引き合いに出している唯一のMMT参考文献であり、代替の権威ある出典として8つの主流派の参考文献を引用している。

私はそのことに異議はない。

第一に、我々の教科書は、我々が開発した現在のMMTと呼ばれる研究の体系を代表するものである。

第二に、学部の教科書として、明らかに説明を簡略化しており、学術書や学術雑誌に掲載されているすべての研究を網羅したものではない。

故に、これは理解されてしかるべきだ。

ただし、教科書の説明が誤解を招くほど単純化されていたり、虚構を作り出しているのであれば、それは批判されるべきではある。

私の見解では、著者の一人として、この教科書は我々が知っているMMTの原理を忠実に伝えていると考えている。

学術的軽蔑

『ガイド』の冒頭の段落で、グレッグ・マンキューが「著名な学者」が「マクロ経済理論の細部」を議論することに時間を費やしている「一流大学」に言及しているときと、「アカデミアの小さな一角」について言及しているとき、そこで集団思考(Groupthink)がどのように機能しているかを感じ取ることができるだろう。

そこでは暗黙の軽蔑が示されている。

確かに、MMTは独特な形で世間の注目を集めてはいる。

第一に、我々は通常の学術的なルート — 論文を書いたり、学会やワークショップで発表したり — を試みた。多くの研究成果が生み出され— 多くの論文や書籍など — 、そうすることで我々は、主要な成果の本体を記して置くことができた。

第二に、我々はソーシャルメディアを取り入れることでようやく道を切り開くことができた。まずは私のブログ、次に他のブログ、そして他のソーシャルメディアのツールを用いた。

これにより、非常に複雑な経済学の考え方を非学術的な聴衆に提示することができ、その聴衆に、なぜ彼らの生活やコミュニティが、「一流大学」から出てくる経済学に基づいた新自由主義的な政策によって荒廃しているのかを理解するための枠組みを与えることができた。

人々は何かが間違っていること、そしてそれらの「著名な学者」の予測が実現しなかったことを本能的に知っている。

しかし、彼らはそれらの本能的な感覚を理解するための枠組みを持っていなかった。

今、彼らはそれを持っている。

第三に、グレッグ・マンキューが指摘するように、草の根の発展は今では政治的な空間へ緩徐に広がりつつある。

第四に、支配的な理論の「細部」に関する議論から新しいパラダイムが生まれることは滅多にない。科学の発展の歴史は、全く異なるプロセスを描いている。

変化に抵抗する集団の動態である集団思考は、通常、主流の正統派の中から生じるラディカルな発展を妨げているからだ。

例えば、1962年におけるジョセフ・アルトマンによる成人のニューロン新生の発見について考えてみて欲しい。この例は、主流のパラダイムが変化に抵抗しながらも、最終的には、実証的により強固で論理的に一貫性のある代替パラダイムに簒奪されるという典型的なケースだ。

アメリカの生物学者ジョセフ・アルトマンは、彼の専門分野の主流からは外れた存在だった。彼は「ニューヨーク大学医学部の…小さな研究室」にいた博士課程の学生であった。

彼は神経生物学を専門とし、1960年代初頭に成人のニューロン新生を発見した。彼は、成人の脳が新しいニューロンを作り出すことができることを示したが、この考えは当時の考えによって猛烈に否定された。

臨床診療は、成人にはニューロン新生能力がないという支配的な考えに基づいていた。

アルトマンの研究は、主流派の専門家によって「ほとんど無視されていた」のである。

亡くなる5年前の2011年に出版された”Memoir: The Discovery of Adult Mammalian Neurogenesis“で、ジョセフ・アルトマンは次のように述べている。

  1. 「私はちゃんとした学術的資格を持っていましたし、神経科学の世界では認知されていました。そして、私の研究を止めようとした科学者の多くは私より若く、その多くは私よりも確立した地位を持っていませんでした。」
  2. メディアへの記事掲載など、研究が最初に世に知られた後、「何かがおかしいと気づくまでに数年かかりましたが、1960年代後半には状況が変わり始めました。最初の警鐘が鳴らされたのは、MIT でのテニュアが与えられるはずだったのに、昇進が拒否されたときでした。」
  1. 「神経科学の世界で影響力のある一部のメンバー達によって、私たちを排除しようとする組織的な試みが行われました。」
  2. 「彼は、成人のニューロン新生に関する私たちの論文のいくつかに言及しているが、彼はそれらを誤引用しています」 – その”彼”は、発達神経生物学の分野の第一人者だった。
  3. 「脳の発達に関するもう一つの入門書(Lund 1978)は、成人のニューロン新生について全く言及しておらず、そのテーマに関する我々の論文をどれも引用していません。」
  4. 「このような私たちの研究への無視は1980年代も続いたのです。」
  1. 「出生後のニューロン新生の私たちの発表した証拠への参照は、これらの広く流通している入門書(もちろん、我々の研究結果を参照していた教科書もあったが)だけでなく、いくつかのより上級の出版物でも省略されました。」
  2. 「私たちを疎外する動きが進行中であることは明らかでした」
  3. 「(a) 1980 年代初頭には、助成金申請が承認されるのに苦労し始め、(b) 1980 年代半ばには全ての助成金支援を失い、(c) 1990 年代初頭には、提出した論文のいくつかが完全に却下されました。」
  1. 「学生や博士研究員は、シンポジウムや学会を席巻している人気のある講演者の話を聞きながら、誰が『参加』していて、誰が『参加していない』のか、自分のアプローチや発見に共感してくれる研究者に査読してもらえる可能性が高くなるようにするために、参考文献に誰を引用して、誰を引用しないのか、その時々の研究助成機関が好むか好まないかに照らして、どのような研究路線を追求すべきなのか、ということをすぐに学んだのです。」

そして彼は続いて、主流派が彼の研究を抑圧した方法を詳細に説明した。

しかしその間、彼のラボの研究を支持する証拠ベースが構築され、経済学で起こっているように、主流派のパラダイムに対する不協和音を生み出していたのだ。

ジョセフ・アルトマンは次のように書いている:

  • 科学的理論は、政治的態度や宗教的信仰、美的判断とは異なり、個人や集団の好みの問題ではありません……科学的理論は、経験的観察や研究結果によって確認された客観的な事実に従わなければなりません。そうした理論は、収集された新しいデータによって裏付けられたり、反駁されたりするのに応じて、成立したり瓦解したりするものです…遅かれ早かれ事実の方が優勢になれば、反駁された理論の支持者がどれほど強力で、あるいは権威ある存在でも、その理論は最終的に放棄されます。

そして、ニューロン新生のアイデアを強く支持するエビデンス(Elizabeth Gould in 1999)が出てくるまでは、この命題が流行することはなかったのである。

ニューロン新生は今では神経科学の中で最も重要な分野の一つとなっている。パラダイムシフトに基づき、臨床実践は根本的に変化した。

つまり、人々は、脳に関する誤った考えを反映した臨床実践によって、その人生を台無しにされてきたのである。

この神経科学の事例が、グレッグ・マンキューのような人々が広めている主流派の神話に基づいた経済政策によって、地域社会や人々の生命と活力が奪われていることと深く共通していることがあなた方にも分かるだろう。

アルトマンの経験は、主流派経済学の専門家が(重要なことを説明する能力の無さがますます露呈している中で)どのようにして学術界での地位を維持しているかを理解するのに役立つ。

第一に、学問分野(神経生物学、経済学、etc)というものは、組織化された「パラダイム」の中で活動するものである。哲学者トーマス・クーンは、1966年の著書『科学革命の構造』の中でこの「パラダイム」を、『当分の間、実践者の共同体にモデルとなる問題と解決策を提供する、広く認められた科学的成果』と定義している。

典型的には、パラダイムを定義する知識体系は、「科学の教科書(初級から上級まで)で説明されている」(Kuhn, 1996: 10)。

クーンは、「『科学的』な活動とは、直線的なプロセスであり、学者が実証的に裏付けられた新しい事実を知識ベースに追加して、それまでに受け入れられていた概念に取って代わるものである」という考えに対して挑戦した。

むしろ、クーンは、支配的な視点は、克服不可能な異常に直面するまで存続し、革命(パラダイムシフト)が起こると述べている。

新しいパラダイムは、古い理論を不適なものとして晒し者にし、新しい概念を導入し、新しい問いを投げかけ、新しい言語と説明的メタファーを用いた新しい考え方を学徒に提供するのである。

一旦取って代わられると、古い理論はもはや有効な知識とはみなされない。クーンはまた、支配的なパラダイム内の実践者の間にはある種の衆愚政治が存在し、論理的または実証的な異常に直面しても、彼らは自分たちの見解を猛烈に保持していることにも言及している。

アルトマンの仕事はパラダイムシフトの可能性を表しており、変化が避けられなくなるまで周囲に抵抗された。

そのため、パラダイムの変化は通常、「アカデミアの小さな一角」から出てくる新しい研究の体系から生まれるのである。

MMTが不透明だとする主張

主流派の経済学者がMMTの棄却を始める際、その直前に我々の研究について「把握するのが難しい」、あるいは「いかなる首尾一貫した形も見つけるのが困難だ」と主張するのよく見かける。

これは通常、彼らが研究成果を読むことに興味がなく、自分たちの考えるMMTとして二次的な情報源(これまでの欠陥のある批評を含む)を引用することが多いからだ。

最近の典型的な事例としては、BISが発表した論文(2019年10月13日) – Exiting low inflation traps by“consensus”: nominal wages and price stabilityがある。この論文は、ハイパーインフレを引き起こす可能性が高いとしてMMTを攻撃しているが、最初から最後まで、ポール・クルーグマンとラリー・サマーズをソースとして引用している。

MMTの文献は一切引用されていない(恐らく読まれてもいない)。

中央銀行による、中央銀行のためのこの上ない不誠実さの顕れだ。

MMTが政策レジームではなく、通貨システムとその中での通貨発行者の能力を理解するためのものであることすら理解されていない。

グレッグ・マンキューも同じ手口を使っている:

  • まず最初に、MMTを理解するという作業が厄介なものであることを認めなければならない。MMTを検討した際、厳密に何が主張されているかについてしばしば困惑することになった。あらかじめ付け加えておくと、この問題は私自身の自業自得であるかもしれない。40年もこの仕事をしていると、マクロ経済学の主流に浸りすぎて、MMTを十分に理解することができないのかもしれないからである。この可能性を指摘したのは、MMTの支持者が、彼らのアプローチのニュアンスを私が見逃していたと主張するかもしれないからだ。とはいえ、MMTを理解するために真摯に取り組んだ後の私の率直な反応は以下の通りである。

彼が誠意を持って私たちの仕事を理解しようとしたかどうかは、私が結論づけることはできない。彼の行動 – 詳細な点を議論するために電子メールを送っておきながら、その後それ以上のやりとりもなく、それまでのやり取りも踏まえずに論文を書く – は褒められたものではない。

しかし、これは枝葉末節の問題に過ぎない。

主流派の経済学者が「(我々の)MMTは厄介である」と感じるもう一つの重要な理由は、彼らが我々の発言の一部を、彼らのフレーム、言語、概念、因果関係などを使って、彼ら自身のパラダイム構造に吸収しようとするからだ。

極めて明らかなことだが、新興のパラダイムが新しい概念構造、新しいフレーミング、新しい言語と共に生ずるとき、人は単純に「箱の中で考える」ままでいることは出来ないし、また彼らがそれまで接触してきたものに何らかの意義があると願いたいものだ。

集団思考は罠であり、目隠しである。

それが今回起こっていることだと私は考えている。

具体論へ

言語法でさえ、グレッグ・マンキューの用いるものは偏ったものとなっている。

  • MMTは不換紙幣制度の下での政府予算の制約から始まる。

MMTはGBC(Government Budget Constraint, 予算制約式)では始まらない。我々はその概念を明らかに拒絶している。

主流経済学は、家計と主権者である政府の間の誤った類推から始まり、政府支出が税収を上回った場合には、2つの方法で「資金調達」されなければならないとしている。すなわち、(a) 国民からの借り入れ、および/または(b) 「お金を印刷する」ことによってである、と。

どちらの描写も、政府部門と非政府部門の間の取引を明らかにするオペレーションの観点から見ると、現実の世界で起こっていることを表現するものでは全くない。

多くの主流のマクロ経済学的議論の基礎となっているのは、家計や企業の予算と政府の財政収支との間に描く誤った類推である。

この基本的な類推は、最も基本的なレベルで欠陥がある。

現実世界では(MMTでも)、既発通貨を利用するが故に支出が収入によって制約される家計と、同通貨の発行体である中央政府の間にいかなる類似点もない。

家計と政府が直面している選択(と制約)は、金融上は似ても似つかないのである。

確かに実物面ではどちらも販売可能なものしか購入できないが、政府の購入能力は金融的に無限である。この点を踏まえると、利用可能な類似性やアナロジーは存在しない。

1960年代に、いわゆる「政府予算制約」(GBC)に関する研究が発展したのは、個人が直面するミクロ経済的制約が国家政府にも適用されることを主張する意図的な戦略の一部だった。

したがって、当該研究では、個人がその支出を「ファイナンス」し、競合する支出機会の中から選択しなければならないのと同様に、国家政府にも同じ制約が適用されると主張されている。

論理的な展開としては、この「ファイナンス」がどのように行われているのか、そしてそれぞれの結果がどのようなものになるのかを検討することになる。

GBC(政府予算制約)は、英語圏においては、財政赤字が政府支出+政府利払い-税収に等しく、ひいては、国債の発行額の変更(債務の発行)および/またはハイパワードマネーの変更(「お金の印刷」)によって「資金調達」(等しい)されなければならないと述べられている。

主流派は、この記述が(あたかも通貨発行権のある政府が家計と同様であるかのように)資金調達側から支出側への因果関係をもたらしていると想定しているが、実際には、これは単なる会計上の記述であり、MMTの枠組みでは特に重要ではない。

ストックフローと整合的なマクロ経済学では、会計上の記述として、この関係は常に成り立っていなければならない。つまり、政府と非政府部門の間のすべての取引が正しく加減されていれば、それは真でなければならないのである。

つまり、MMTの観点からすると、前記の式は、定義上真でなければならない事後会計上の恒等式に過ぎず、実際の経済的重要性を持たない。

しかし、グレッグ・マンキューのような主流の経済学者にとっては、GBCは政府が拘束されるex ante(事実以前)の金融的制約を表しているものということになる。

この2つの見解の違いは非常に大きく、政府が不換紙幣を発行している場合、(不換紙幣であるかのように振る舞うための自発的な制約を自らに課さない限り)2番目(主流)の解釈が正しいとは言えない。

MMTは、そのような制約の任意性を明らかにし、主流のアプローチで提示されているような拘束力のある法則ではなく、政治的な問題としているのである。

さらに、主流の経済学では、貨幣の創造は、政府が中央銀行に国債の購入を依頼し、その見返りとして中央銀行が政府の支出を促進するために貨幣を「印刷」する、という誤った描写がなされている。

主流派の経済学者はこれを債務の貨幣化(debt monetisation)と呼んでいるが、プラスの政策金利目標を追求する中央銀行にとって、このような方法が通常は実行可能な選択肢ではない理由は、”Deficit 101″シリーズのブログ記事を読めばわかる。

1. Deficit spending 101 – Part 1 (February 21, 2009). [邦訳記事]

2. Deficit spending 101 – Part 2 (February 23, 2009). [邦訳記事]

3. Deficit spending 101 – Part 3 (March 2, 2009). [邦訳記事]

ポイントは、財政赤字によって銀行の準備預金残高が増えるため、他の条件が同じであれば、オーバーナイト金利に下降圧力をかけるということである。

主流派の理論はその逆を予測しており、これは2019年10月にグレッグ・マンキューが当方に宛てたEメールへの返答で指摘した、2つのアプローチを違いを示す「実験」の1つである。

この場合、中央銀行には2つの選択肢がある。

a)公開市場操作を行って過剰な銀行準備を除去し、インターバンク市場での競争によって[訳注:インターバンクレートが]ゼロになるのを防ぐ。つまり、国債発行は、政府の赤字支出の資金調達のためではなく、金利維持のためのオペレーションなのである。

b)超過準備に対して競争的な金利を支払う。

考えてみれば、(a)と(b)の間には実質的な運用上の違いはない。違いがあるとすれば、資金がどの口座にあるか(国債か準備預金か)ということだろう。

しかし、主流派の理論はその点を完全に見落としている。

むしろ、「お金を刷る」という点に焦点を当て、もし政府が貨幣成長率を高めれば(彼らはこれを誤って「お金を刷る」と呼んでいる)、さらなる支出がインフレを加速させることになると主張しているのである!なぜなら、「多すぎる貨幣が少なすぎる商品を追いかける」からである。

その結果、主流派の経済学者にとって最もマシな選択肢は、政府が赤字支出の「調達」に非政府部門への国債発行を用いることで、あたかもそれが赤字のインフレリスクを軽減するかのようにすることになるのである。

主流経済学者は、政府予算制約の枠組みでは、国債発行が金利を押し上げ(政府が有限の貯蓄を奪い合っていると見なされるため)、民間の投資支出を「締め出す」(クラウド・アウト)ことになるため、これが一番マシな選択肢であると考えているわけだ。

どちらの主流派の命題も吟味する必要はない — 詳しくは、以下のブログ記事をお読みいただきたい。

1. Will we really pay higher taxes? (April 7, 2009).

2. Will we really pay higher interest rates? (April 8, 2009).

私はグレッグ・マンキューのEメールに返信したとき(A response to Greg Mankiw – Part 1 (December 23, 2019) [邦訳記事] を参照)-、現実の世界に関するこれらの本質的な事実を提起した。

彼は明らかにこれらの出発点を無視することを選んだ。

さらに、中央銀行がその債務を購入する場合にのみ政府が「紙幣を印刷」するという見解は完全に誤りだ。

すべての政府支出は、政府が円滑化している銀行システムでの電子的な変更によって、新しい「貨幣」(流動性)が創造されることを伴う。何も「印刷」されることはない。

このプロセスは、税収が支出と釣り合っていようが、支出に合わせて国債を発行していようが、中央銀行が財務省に代わって銀行口座に入金していようが、同じである。

また、:

  1. MMTは、これらの「資金調達」の選択によって生じる赤字支出のインフレリスクには差がないと予測しているが、いずれにせよMMTは政府が金融的に制約されているとは考えていない。
  2. 国債を発行しても、いずれにしても国債を購入するための資金は使われないものなので、支出のインフレリスクは減少しない。
  3. 銀行は準備預金の制約を受けていないので、政府が国債を発行することで、有限の貯蓄プールでの競争が激化し、その結果、金利が上昇すると主張するのは理に適わない。銀行の融資は預金を生み、銀行は資金を求める信用力のある借り手に融資を行う。つまり、クラウディング・アウトの前提(主流派の政府予算制約の物語ではこれが中心となる)は完全に誤りなのである。

私はグレッグ・マンキュー氏への回答の中で、これらの点をすべて指摘した。

彼は明らかにそれらを無視し、代わりに、「主権政府は本質的に収入による制約を受けることはない」というMMTの観察に関連して、次のように書いた。

  • 確かに、通貨を発行する政府は、請求書の期日が来ればいつでもお金を増刷することができる。この能力は、政府をいかなる金融的制約からも解放するように見えるかもしれない。確かに、もし個人が貨幣の印刷機にアクセスできるようになれば、その人の金融的制約ははるかに少なくなるだろう。しかし、私は、3つの理由から、国家政府に対して同様の結論を出すことには抵抗がある。

彼は、単純なMMTの命題を受け入れられないことを正当化するために、異なる選択肢を並置している。

第一に、グレッグ・マンキューが言うには:

  • …準備預金に利息を支払う現在の通貨システムでは、政府が国債を弁済するために印刷した貨幣は、おそらく準備預金として銀行システムに入ることになり、政府(FRB経由)はその準備預金に利息を支払う必要がある。つまり、政府が国債の弁済のために貨幣を印刷することは、事実上、借金をしていることになる。貨幣は永遠に準備預金のままでいることができるが、利子は時間とともに発生する。MMTの支持者は、利子はさらに貨幣を印刷して支払うことができると指摘する。しかし、マネタリーベースが拡大し続けることは、さらなる問題をもたらす。資産効果により総需要が増加し、最終的にはインフレに拍車がかかるからだ。

彼は、公開市場操作(中央銀行による国債の売却)が、超過準備の利息を支払うことと同じだと理解している。だから、ステップ1は問題ない。

しかしながら、政府の赤字支出は、その全てが準備預金として銀行システムに行き着くことになる。この点については「おそらくそうなってしまう可能性が高い」わけではない。

政府支出は発行通貨で純金融資産(と準備預金)を創造し、課税はその純金融資産(と準備預金)を破壊する。

政府支出が総需要を増加させ、それがインフレリスクを伴うことは明らかであり、それがMMTの中核である。

しかし、「拡大し続けるマネタリーベース」は、そのインフレリスクを増大させない。銀行は、信用力のある顧客が信用を求めてやってくるのであれば、好きなときに融資を行うことができる。

融資によって生まれた預金が使われれば、そこにはインフレリスクがある。

政府であろうとなかろうと、すべての支出にはインフレリスクがある。これがMMTの核心である。

さらに、金融資産が増加すると、非政府部門は豊かになったと感じて支出が増えるかもしれないが、これは政策の弱体化を回避するための障害にはほとんどならない。

我々は、民間の所得増加、富の効果、あるいは一般的な市場心理の変化に由来するかどうかにかかわらず、全ての支出にはインフレリスクがあるということに立ち返るだけだ。

そのリスクが顕在化した場合、政策変更が必要となる。

財政赤字の目的が、非政府部門の貯蓄選択によって残された支出ギャップを埋めるために完全雇用を維持することであるならば、非政府部門がより多くの支出を選択した場合、政府は選択を迫られることになる。政府の純支出を減らすか、あるいは非政府部門の支出を減らすかだ。 この選択は、経済に対する望ましい政府の規模など、政治的な考慮事項に左右される。

第二に、グレッグ・マンキュー氏は次のように述べている:

  • …準備預金に十分な利息が支払われない場合、マネタリーベースの拡大は、銀行の貸し出しとマネーサプライを増加させる。そして、拡大したマネーサプライを人々に保有させるためには、金利が低下しなければならず、再び総需要とインフレ率に上昇圧力がかかる。

つまり、日本のような状況である。

中央銀行は超過準備をシステムに残し、マネタリーベースを拡大させている。

主流派の枠組みでは、貨幣乗数は中心的な命題となるが、MMTには当該概念はない。実際には、我々は因果関係が広義貨幣からベースマネーへと、逆方向に流れていると考えているのである。

主流派のコースでは、学生は、中央銀行がベースマネー(準備預金)の量をコントロールすることで、経済における融資の供給量を決定すると教え込まれる。

そして、学生たちは広義貨幣(マネーサプライ)とベースマネーに(一定の)比率があり、中央銀行が準備預金を追加すると、それが掛け合わされて、銀行の貸付金や預金に大きく増加すると学ぶ。

この理論には2つの要素がある。

1.準備預金が貸し出しを制約する-供給決定型のアプローチ。

2.中央銀行が準備預金をコントロールする。

繰り返しになるが、これはMMTが主流から逸脱した点であり、私はグレッグ・マンキュー氏に電子メールで回答した際に指摘した。彼は明らかにそれを無視することを選んだ。彼がこの違いを理解していたかどうかはわからない。

議論を深めるために、以下のブログ記事(やその他)をお読みいただきたい:

1. Money multiplier and other myths (April 21, 2009). [邦訳]

2. Money multiplier – missing feared dead (July 16, 2010). [邦訳]

ここで重要なのは、銀行は準備預金を貸し出すことはないということである。銀行の準備預金が増えたからといって、銀行の融資能力が高まるわけでも、融資活動が活発になることが保証されるわけでもない。

後者は、信用を求める信用力のある顧客がどれだけいるかにかかっている。

中央銀行は、決済システム(小切手の決済など)の完全性を維持するために、常にシステム内に十分な準備預金を確保する。

システム内に過剰な準備預金を残しておくと、政府の赤字によるインフレリスクが高まると考えるのは絶対的に誤りである。

また、米国のM1での貨幣乗数を示すグラフ(セントルイス連邦準備銀行が算出)などを検討してみてほしい。

この集計量(比率)がほぼ一定であることを要件とする理論の正当化を試みては如何か。マネーベースと広義のマネーサプライを結びつける概念的な貨幣乗数を計算する多くの手法を学生は教科書内から見つけることが出来るが、どれも似たような変数の話である。

第三に、グレッグ・マンキューは以下のように述べている:

  • インフレ率の上昇は、実質的な貨幣の需要量を減少させる。この実質貨幣残高の減少は、政府が貨幣の創造によって請求できる実物資源を減少させることになる。……このような状況に直面すると、政府は貨幣を増やせるにもかかわらず、債務不履行が最良の選択肢であると判断するかもしれない。つまり、政府の債務不履行が起こるのは、それが避けられないからではなく、ハイパーインフレよりも好ましいからである。

私たちはまだ政府予算制約の枠組みの中で活動していることに注意してほしい。彼はその推論の流れから自由になることができていない。

インフレ率が上昇しても、通貨発行国の政府が政府支出によって実物的な財やサービスを購入する能力は変わらない。

その能力は、政府が発行する通貨で販売可能なものによってのみ制約される。

明らかなことだが、国家が利用可能な実物資源を使い果たしたり、政府が既存の生産資源の利用者と市場入札で競争して、より多くの利用を積極的に求めようとすれば、インフレスパイラルに陥ることになる。

これがインフレ制約である。

準備預金が余っていようがいまいが、実物資源制約には何の関係もない。

制約の2つの概念-政府予算制約(金融)とMMT(実物)-を区別することができず、2つが本質的につながっているかのように混同していることは、グレッグ・マンキュー氏が自分の中にある窮屈さから逃れられないことを示している。

これは、新しいことを学ぼうとする人に共通する問題である。新しいものを古いものに取り込もうとするが、多くの場合、それは不可能である。

だから、新しいことを学ぶのは面倒な作業だと結論づけ、新しいことが不透明だと非難するのである(上記のように)。

私は今、日本語を学んでいる。英語の構文で理解しようとすると、あまり上達しない。そのように考えないようにするのが課題である。そのためには、新しいフレームワークに合わせて流れていくしかないのだが、そうするとずっと楽に進めることができる。

グレッグ・マンキュー氏はこう続ける:

  • この議論では、インフレの理論へと我々を導く。私は、貨幣数量理論によって最も簡単に説明される「高率の貨幣創造はインフレになる」という主流派の見解を採用してきた。しかし、MMTの支持者はこの結論に疑問を呈している。彼らは、「マネーサプライの増加と一般物価水準の上昇との間には、単純な比例関係は存在しない」と主張する。

どうやら、1870年以降のアメリカの「インフレ率と貨幣増加率の相関は0.79」なので、「主流派の見解に対するケース」を過大評価しているようだ。

相関係数については、いくらでも議論できる。

例えば日本の場合はもっと低いだろう。

また、貨幣数量説が因果関係の見解であるのに対し、これらは「相関関係」の記述にとどまる。初歩的な統計学の授業では、この2つ—相関関係と因果関係—を混同しないように教えられる。

さらに、MMTは不換通貨の通貨システムについて述べている。アメリカでは、そのシステムは1971年にニクソン大統領がブレトン・ウッズ体制下での兌換を停止してから始まった。

グレッグ・マンキューも基本的には、いずれにせよ「主流派のマクロ経済学者も、最も単純な貨幣数量理論的推論は超えている」と語っている。

どの程度かというと、どうやら「中央銀行は短期的には金利を、長期的にはインフレを目標としており、金融総量の役割は小さい」ということだそうだ。

そこで気になるのは、グレッグ・マンキューが「銀行の準備預金を増やせば最終的にはインフレになる」と単純化して言っているのは、一体どんなインフレ理論なのかということだ。

彼のこれまでの推論は、かなりベーシックな貨幣数量理論のアプローチを示唆している。

重要なのは、もし彼のMMTに対する批判が合理的で経験的な重みを持つものであれば、次のようなことが起こっていたはずだということだ:

(a) 日銀のバランスシートの拡大規模、日銀が保有する日本国債の水準、継続的な財政赤字の大きさを考えれば、日本ではかなり以前からインフレが加速していたはずである。

(b)ECBは、(巨額の国債購入プログラムを実施し、望むインフレ水準に近づくことに毎年失敗するどころか)2%という物価安定目標を容易に達成するはずだった。

(c) 米国連邦準備制度理事会の国債購入プログラムがあったのだから、米国はリーマンショック後にインフレが加速するはずだった。

彼の最初のEメールでの懇願に答えたとき、私は以下のように概要を説明した:

  1. 経験的なレベルでは、主流派のマクロ経済学は、中央銀行のバランスシートの資産側が劇的に拡大しているにもかかわらず、広義の通貨集約量がそれに見合って(まるで倍になったかのように)増加していない理由を説明するのに苦労している。
  2. 主流派の理論では、量的緩和(QE)によるインフレへの帰結を予測していた。ベースマネーの増加が貨幣乗数を介して広義の貨幣に波及し、数量理論によって銀行融資が加速することで物価が上昇すると考えていたからだ。

一方、MMTは、QEによって銀行融資が加速することはないと予測していた。なぜなら、融資の低迷は準備預金の不足によるものではなく(銀行は準備金を貸し出すことはしない)、むしろ世界金融危機後の不確実な状況によって信用できる借り手が不足しているためであると考えたからである。

どちらの予測が正しかったのかは疑う余地がないだろう。

グレッグ・マンキューは、次にインフレ理論に関する議論を深めていくが、彼がMMTの「ガイド」であることに関して、実際に何を主張しているのかを理解するのは困難である。

第一に、インフレは、供給側と需要側から生じる複数の原因から生じる。彼自身が言うように、MMTは継続的な物価上昇が起こりうる様々な方法を完全に説明している。

MMTの核となる考え方は、グレッグ・マンキュー氏が我々の教科書から引用している通りだ:「すべての支出(民間、公共)は、それが名目総需要を経済の実物的なな吸収能力以上に押し上げるならば、インフレ惹起的である 。」

我々は最初からずっと、このようにして需要サイドのインフレーションが起こりうることを強調してきた。

したがって、グレッグ・マンキューが次のような主張をする正当性をどこから得ているのかは分からない。

  • しかしながら、MMTの提唱者たちは、この可能性を現実的ではなく仮想的なものだと思わせている。

彼がその前に引用した我々の声明には何の気後れもない。

もし、政府支出によって名目総支出が供給能力に比べて急激に増加した場合、インフレ圧力が発生する可能性が高い。

基本的な会計は明白で、我々の教科書にも十分に説明されている。GDPは、1年間に生産された最終財・サービスの価値に相当する。価値は「価格×数量」として計算される。

総計レベルでは、経済がフル稼働していて数量が増えない場合、支出を増やせばGDPは増加するが、(過剰な需要を補うために)価格の上昇を介してしまう。

企業は通常、完全雇用未満では量を調整し(つまり、生産と販売を増やすことで余分な支出を吸収する)、完全な生産能力に達すると価格を調整する。他の市場がフルキャパシティに達する前に、セクター市場にボトルネックが生ずるかもしれない。供給側の能力がいつ枯渇するかは、精密科学的には解明できない。

これがMMTの核心であり、ケインズ派の文献からそのような推論を受け継いでいる。

この段階では、彼の動機は、MMTにはニューケインジアンの文献で説明できないような新しいものは何もないと言いたいのだと思われる。彼は、1970年代と1980年代に大流行した不均衡理論と効率賃金の開発に思いを馳せている。

読者は、企業が市場権力を持っていると仮定しているために市場がクリアにならず、それが失業の原因となり、政府の赤字でそれを軽減することができるという、時代遅れの新古典派の文献を読まされることになる。

実際には、市場の力によって最終的に価格が新古典派的な最適価格に調整されるまでは、賃金や価格の粘着性が短期的失業を引き起こすという主張を繰り返しているだけだ。

つまり、市場の傾向が競争的、利潤最大化、限界生産性理論(実質賃金は限界生産物に、価格は限界費用に等しい)に一致するという「新古典派の世界」を構築した場合、価格清算プロセスに硬直性を持たせると、完全雇用以下の均衡が発生することになるわけだ。

「その意味で、MMTはニューケインジアン分析に似ている」ということらしい。

私は、一体どのような「意味」のことを言っているのかと自問した。

経済が完全雇用になることはほとんどないということ?実質賃金の結果が過大であるため、労働需要が十分に人々を雇用するには不十分であり、失業によって生産市場に売れ残りが生じるからなのか?

この議論は何度も行われており(マルクス、ケインズ、そして1970年代から1980年代にかけて)、実質賃金を下げても失業は減らないというのが妥当な結論だと思われる。

マンキュー氏が支持する主流派の主張は、実質賃金が下がれば、企業はより多くの雇用を提供し、失業した労働者はより多くの消費をするので、労働力と製品という二重の過剰供給が解消されるというものだ。

しかし、グレッグ・マンキューが支持しているニューケインジアンの文献では、財やサービスに対する(希望される)名目需要と有効需要の違いについて、実際には考慮されていなかった。後者は現金に裏付けられたものであるのに対し、前者は潜在的な欲求を反映したものであり、それは無限である可能性がある。

この重要な点については、我々の教科書で詳しく説明している。限界生産性理論の否定や、「生産要素」は生産への貢献度に応じて報酬が与えられるという考え方についても、ページを割いて説明している。

これは、19世紀のマルクス、リカード、セイの間で行われた議論に立ち戻るものである。マルクスは明らかにこの論争に勝利したが、ケインズが1936年に『一般理論』を発表するまで、西洋の経済学者たちは耳を傾けず、大量の失業は粘着性のある価格では説明できないことを理解することはなかった。

マルクスは、TSV(剰余価値学説史) (Vol II, Ch XVII, para 712) において、(ケインズの真の貢献を理解する上で重要となる)名目需要と有効需要の間の現代的な区別を先取りしていた。

マルクスによれば、一般的な供給過剰の可能性の否定にあたってリカードは、消費者の商品に対する無限のニーズに訴え、特定の飽和状態は他の商品に対する需要の増加によってすぐに克服されると主張していた、とのことだ。

マルクス(TSV, Vol II, Ch XVII, para 712)は、「過剰生産」と「絶対的な必要性」との間の関係についての説明を追求し、「市場における一般的供給過剰の可能性」に対するリカードの否定を以下のように引用した:

  • ある商品の生産量が多すぎて、その商品に費やした資本を回収できないほど市場が潤沢になってしまうことがありうるかもしれない。しかし、すべての商品についてこのようなことはありえない。トウモロコシの需要はそれを食べるであろう口の数によって制限され、靴やコートの需要はそれを着るであろう人の数によって制限される。しかし、ある共同体、あるいは共同体の一部が、消費できる、あるいは消費したいと思うだけの量のトウモロコシや、いくつもの帽子や靴を持つことができるとしても、同じことが自然や芸術によって生産されるすべての商品について言えるわけではない。ある人は、ワインを調達する能力があれば、より多くのワインを消費するだろう。また、ワインが十分にあれば、家具の量を増やしたり、質を向上させたりしたいと思う人もいるだろう。また、地面を装飾したり、家を大きくしたりしたいと思う人もいるだろう。これらのすべて、あるいはいくつかを行いたいという願望は、すべての人の胸に植え付けられている。必要なのは手段であり、生産量の増加以外に手段を得ることはできない。

マルクスはこう反論した:

  • これほど幼稚な議論があるだろうか?それは次のようなものだ:ある商品は、その商品を消費するよりも多く生産されるかもしれないが、これはすべての商品に同時に適用することはできない。なぜなら、商品が満たすニーズには限界がなく、これらのニーズがすべて同時に満たされることはないからである。逆に、あるニーズが満たされることで、いわば別のニーズが潜在化するのである。したがって、必要なものは何もないが、これらの欲求を満たすための手段は必要であり、この手段は生産の増加によってのみ提供できる。したがって、一般的な過剰生産はありえない。
  • この議論全体が主張したいことは一体何なのだろう?過剰生産の時期には、国民の大部分(特に労働者階級)は、ワインや家具は言うに及ばず、トウモロコシや靴などをこれまでよりも十分に与えられなくなる。もし、過剰生産が、国民全員が最も切迫した必要を満たしたときにのみ起こるのであれば、これまでのブルジョア社会の歴史において、全体的な過剰生産はもちろん、部分的な過剰生産さえもありえなかったであろう。例えば、市場が靴や更紗やワインや植民地製品であふれているとき、これはおそらく、国民の6分の4が靴や更紗などで必要以上に満足していることを意味するのだろうか?過剰生産と絶対的ニーズとの間に何の関係があるのだろうか?それは、支払い能力に裏付けられた需要にのみ関係している。それは商品を所有したいという絶対的な必要性や欲望に関連しているのであり、絶対的な過剰生産の問題ではない。この意味では、部分的な過剰生産も一般的な過剰生産も存在しないし、一方が他方に対立するものでもない。

資本主義市場は「支払い能力に裏付けられた需要にのみ関係している。それは、絶対的な過剰生産の問題ではなく、商品を所有する絶対的な必要性や欲求に関連した過剰生産の問題である」と言及していることに注目してほしい。

この知恵が、現代の高失業・低成長問題の根幹にある。ケインズは、マルクスのこの著作に書かれている以上のことを提供していない。

ニューケインジアンは、この見解とは何の共通点もない。

我々の教科書では、ニューケインジアンの労働需要概念も否定している。第13章と第14章では、ニューケインジアンとは何の関係もない代替アプローチを提示している。

ケインズの一般理論が「新古典派総合」に吸収されて最も重要な洞察を失ったのと同じような形で、MMTが特別なケースとしてニューケインジアンの考え方に再び吸収されることはあり得ない。

企業は、自社製品に対する需要に応じて雇用を創出する。企業は何百万人もの仕事が欲しくて絶望的になっている飢えた労働者に直面しているかもしれないが、彼らを雇用したりはしない、なぜなら生産拡大を正当化するには有効需要が不十分だからだ。

パンの耳に対する潜在的または概念的な需要は、現金に裏付けられた需要ではないのだ。

主流の経済学者はそのことを真に理解したことがない。マルクスはそれを理解していた。ケインズもカレツキもそれを知っていた。クラウワーとレイヨンフーヴッドは1960年代にそのことを詳しく説明したが、保守的な自由市場主義者たちはセイの法則に囚われていた。

いずれにしても、グレッグ・マンキュー氏が新古典派の中核的な文献に立ち入ったことは、主流派のアプローチが、MMTがインフレと失業の問題を構築する方法といかに異なっているかを強調するのに役立つ。

結語

グレッグ・マンキューの実績は、予測精度の高さという点では優れていない。

2010年、彼はEastern Economics Associationの会長挨拶を元にした論文(Spreading the Wealth Around: Reflections Inspired by Joe the Plumber)を書いた。

その内容は興味深いものだが、ここでのテーマとは関係ない。

序文では、アメリカの増税(2010年)を検討する動機についてこう書いている:

  • もう一つの、おそらくより重要な理由は、米国の連邦政府が大幅な財政赤字を抱えており、不吉な財政ギャップに直面していることである。ベビーブーム世代が退職し、社会保障やメディケアを請求するようになると、経済に占める政府支出の割合はゆっくりと着実に増加していく。議会が突然、ミルトン・フリードマンの著書『資本主義と自由』を読み、熱心な古典的リベラル派(19世紀に使われた言葉)になり、政府の規模と範囲を縮小することを決める可能性もある。しかし、より可能性が高いのは、議会が過去の権利約束を破るのは難しいと判断し、米国史上前例のないレベルまで増税する以外に選択肢がなくなることだ。

MMTのエコノミストはこのような発言をしないであろう。

そして、グレッグ・マンキューはその理由をまだ理解していない。

今日はここまで!


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