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ビル・ミッチェル「MMT批判者の大行列 − 忘却への行進」(2019年3月7日)

Bill Mitchell, “The conga line of MMT critics – marching into oblivion“,  Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, March 7, 2019

ちょうど先週末、「経済に関する教育的・学術的交流」の推進を目的とした、米国を拠点とするEastern Economic Associationによる毎年恒例の会議がニューヨークで開催された。討論会の一つは「貨幣の新たな見方」に焦点を当てたもので、注意力に欠けた経済学者が不満を抱き、我々の研究を打ち砕こうとしたためにMMTバッシングのセッションに変わったという話を確かに聞いている。こうした手法はほとんど標準化されてきている。MMTではないものをMMTとして作り上げ、一次ソースをほとんど参照せず、自分たちの主張に適合するように言葉の策略によってねじ曲げることができるものだけを参照し、虚偽のMMTを用いて引用もしていないMMT発案者の様々な過失を批判し、MMTは役に立たないと結論づける。もしくは、それが正しいのは少なくとも知っていたし、斬新さはないからという理由で、いつものように片付ける。現実から目を背ける。自分が信頼性を失った退行パラダイムの一部であるということが怖くて認められない。横断性条件の最適化が満たされる必要があるというようなことをあれこれ言いながら怒鳴り散らす。批判の大行列の一員になれたことに幸福を感じる。私には、その行列が忘却の彼方に向かっていて欲しいものだが。そこはまさに反知性のゴミの山だ。

MMTとGoogleトレンド

Googleトレンドを使ってインターネット上のトピックの盛り上がりを追跡したり、世界中の盛り上がっている場所を図面化することができる。これは本当にちょっとした楽しみ程度のことだが、時々夢中になってしまうことがある。

ここでは検索トピック「Modern Monetary Theory(現代貨幣理論)」の2004年1月1日(データ開始時)から、2019年3月4日までの月次時系列を紹介する。

Googleは次のように説明している。

数値は、指定された地域と時間のチャート上の最高点を基準にした検索注目度を表している。数値が100であれば、その用語の注目がピークに達している。50であれば、注目が半分であることになる。そして0の時には、この用語のデータが不十分であることを意味する。

最初の急上昇は2008年の8月に始まり、2008年10月にピークを迎えている。その時期はリーマン・ブラザーズが破綻し、何が起こっているのかと誰もが不思議に思っていた時期である。

その後落ち込んだものの、新たな高い水準で注目を維持している。

次の急上昇は2018年11月に始まっており、これはAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)の影響によるものだと私は考えている。

こちらは関連した地図である。この一週間のうちにフィンランドは濃い青色に変わっており、ほとんどがヘルシンキ周辺に集中している。

次のグラフは、検索トピック「New Keynesian Economics(ニュー・ケインジアン経済学)」の結果である。

全ての変動は世界金融危機以前のものであり、グレートモデレーション(Great Moderation:大いなる安定)が大ブームとなっていた時期と一致する。

この点については、私のブログ記事– The Great Moderation myth (January 24, 2010)-で議論を深めているので読んでもらいたい。

世界金融危機が起きた後も、マクロ経済学におけるこの退行パラダイムに対する注目は低下し続けている。

次の地図を見ると、エチオピアが現在最もホットなスポットであることが分かる。

こちらの地図に表れているように、中国がアメリカの主流派プログラムで教育を受けた経済学博士を雇い続ければ、今後絶望的な状況に陥るのではないかと私は予想している。

MMTの人気の高まりを受け、これまで我々の研究を無視してきたものの、どういうわけか、この論争に参加しなくてはならないと感じている人やMMTをバカにする人がぞろぞろと出てきている。

そして彼らの批判は質が低いので、ほとんどの場合、愚かに見えてしまう。

私は決して、自分たちが作り上げた数々の理論こそが全ての理論であると言っているわけではない。特に、政治には(実物またはその他の)制約が無いとは言っていない

政策立案というのは全くそんなものではないのである

大規模な経済介入を実施するためには、ハイレベルの芸術的手腕が要求される。こうした政策介入における脆さというのはMMTに限った話ではない。

そのため、「政治的プロセスが複雑、あるいは茨の道だろうという理由でMMTを批判したところで、全くMMTの批判になっていない。

それは、既得権益者同士が、自分たちの願望をMMT批判の行列において先行させようと頭を突き合わせたときに生じる困難を反映したものである。

EEA討論会

トーマス・パリーが客席にいて、まるで歯止めが効かなくなったレコードのようになっていたという話を聞いた。-インフレ、インフレ、インフレ、カチッ、カチッ、カチッ。

MMTの欠点を突き、決定的な終止符を打つ者としてパリーがMMT批判者の中から駆り出されたというのは驚いた話である。

彼の主な主張は、MMTが「フィリップス曲線による分析が提起するジレンマ」を無視しており、秩序だったモデルが無いというものである。

そして彼は、MMTにはなんら新しいものはなく、新しい部分は間違っていたと主張するコーラスの一員に加わった。頑張って欲しい。

私はこのブログ記事– I wonder what the hell I have been writing all these years (February 12, 2013)の中で彼の虚偽陳述について論じている。

彼は古くからのMMT批判者である。

私は(中でも)下のブログ記事において形式的手続きの問題について議論している。

1. GIGO (October 7, 2009)。

2. OECD – GIGO Part 2 (July 27, 2010)。

ここでみなさんには1972年にアメリカの(マルクス主義)経済学者ポール・スウィージーによって書かれた所見を見てもらいたい。正統(主流)派の「経済学の批判に向けて」と題した記事(Monthly Review Press)である。

… 19世紀の自由市場主義経済学者たちは同一の根本的な制約の中にとどまったため、彼らは収穫逓減を前提にする傾向があり、それはその問題の重要性がより小さく矮小化されていったことに関係していた。… 彼らはこの矮小化を補うために、分析の手法を複雑にし、洗練させることに注意を払ってきた。その結果、今日、我々はしばしば、提起された問題とそれに答えるために採用された手法との間に、本当に唖然とするようなギャップを見つけることがある。

偉大な経済思想家たち(マルクス、ケインズ、その他大勢)は、新古典派アプローチやパリーの水力学的ケインジアンフレームワーク1 に見られるこうした矮小化手続きを採用することはなかった。

そして、我々が新しく出したテキスト『Macroeconomics』を読めば、数学的手続きを踏んでいるのは、議論を単純化して理解を深めるのに役立つときだけであることが分かるだろう。

それ以外のときには、文字だけで全く十分である。

この会議に出席したもう一人のMMT批判者がJ. W. メイソンであり、MMTは未完の理論である主張したらしい。私は彼の虚偽陳述について全3パートのシリーズで論じている。

1. The divide between mainstream macro and MMT is irreconcilable – Part 1 (September 10, 2018)。

2. The divide between mainstream macro and MMT is irreconcilable – Part 2 (September 11, 2018)。

3. The divide between mainstream macro and MMT is irreconcilable – Part 3 (September 12, 2018)。

ここには私の反論が十二分に揃っている。

明らかにメイソンはMMTの主張を何も理解しておらず、自己満足なやり方を変えることなく、これまでと同様のひどく問題のある虚偽陳述を続けている

これについてはもういいだろう。

また、私はジェラルド・エプシュタイン氏の論文を送ってもらった。彼はマサチューセッツ大学アマースト校に所属しており、間違いなく主流派ニュー・ケインジアンの人物ではない。むしろ彼は同大学のPolitical Economy Research Institute(社会経済学研究所)に所属しており、異端派である。

聞くところによると、彼はEEA討論会の最中、MMTはグリーン・ニューディールを「支払う(pay for)」ために増税しなければならないことを無視していると主張し、非常に活発な様子だった(叫んでいた)らしい。

かなり活発だったのではないかと思う。

まあ、彼の公の場でのパフォーマンスがコメントに値するかどうかは問題ではない。

彼の論文– The Institutional, Empirical and Policy Limits of ‘Modern Money Theory’(「現代貨幣理論」の制度的、経験的、政策的限界)–はひどく粗末である。

これはイデオロギー区分の両側にいる人たち、つまり異端派と主流右派から我々が受ける反論の代表的なクオリティのものである。

私は電子メールでコピーを受け取ったのだが、彼の論文はリンクを埋め込むことができない。

彼の全体的な結論はこうだ。

… MMTは理論的にも学説的にも貴重な貢献をしたかもしれないが、その主要な政策提言は今日ではほとんど実用的ではない。

これはMMTに惹かれ、それを主流派経済学の失敗からの脱却として見ている人々を侮辱する論文である(異端派経済学の中でも中核的なマクロ経済的問題への関心が薄い論文であるということも付け加えておくべきであろう)。

どうやら、人々は「MMT『ブランド』」の一部として「単純化された政策的解決法」に誘惑されているということらしい。これは、我々が「カルト」を作り、答えを得ようと必死になっている間抜けをまやかしによって誘い込んだと攻撃してくる行列に並んだMMT批判者と同じ主張だ。

これは侮辱だと思う。それは私に対するものではなく(私は少しも構わない)、我々の研究に魅力を感じている経済学者ではない人々に対するものである。

エプシュタインは「主流派マクロ経済学の大失敗を考えると、最近のMMTの人気は理解できる」と書いているが、次のようにも述べている。

MMT論者は新自由主義的な緊縮経済学を批判した最初の経済学者でもなければ、唯一の経済学者でもない。

彼は、自身の多くの論文を含め、緊縮経済学批判を提示しているとされる一連の論文をリストアップしている。

そしてある疑問を投げかけている。なぜ、このような他の「ケインズ派や異端派の経済学者」は公的な議論の場において突破口を開けずにいるのだろうか?

主流派のマクロ経済学の失敗があまりにもひどく、これらの経済学者が現実的な批判を行ってきたとすれば、どうしてMMTのアイデアだけが人々が求めるもっともらしい答えを提供しているのだろうか?

我々MMT論者のアプローチが「単純化」されたものであり、人々がバカだからである、というのがここでエプシュタインが読者に信じこませたい答えである。

どうやらバカな人々は、MMTから「政府の支出は”決して”支払われる(paid for)必要はなく、単なるペンの一筆だけで実行できる」と聞いているらしい。

彼が引用している他の分析にはほとんど説得力がないというのが現実である。それらは、一貫性をもった内部整合性のあるマクロ経済思想の体系の一部ではなく、多くの場合(例えばパリー)、結局主流派のマクロ経済フレームワークというデフォルトに戻っているだけである。

エプシュタインのMMTの説明に問題があるのは、彼が半面のみの真実を扱っているからである。これは、文脈を無視したり、単語から2つの意味を見出すなどのことである。

実はこれは古典的な策略である。

彼の参考文献リストを調べてみると、合計97本の論文のうち、MMT論者の論文はたった7本しか引用されていないことが分かる。

引用されたMMT論者は全員米国を拠点としており、主に米国中心の問題について論文を書いている。

彼は、小規模の開放経済、開発経済、資本の移動と制約、為替レートと貿易に関するほとんどのMMTの文献(私が個人的にかなりの量を寄稿している)を無視している。そしてそうすることが彼の目的にとって都合が良いのである。

なぜなら、彼はこれら7本の論文をMMT全ての説明として定義し、それらは重要な問題を見逃していると主張できるからである。彼がやっているのはまさにそれである。

しかし、この策略によってMMTを批判することはできない。それは公表されている十分な量のMMTの文献を彼が読んでいないという明白な事実を反映するだけである。「ストローマン」手法(藁人形論法)を想起させる。

彼はまた、どういうわけかMMTに対して不利な証言を提示しているとされるジェフリー・フランケル、ポール・クルーグマン、IMFのような権威や、その他多くの主流派の情報源を引用している。

他の場所であれば、異端派の経済学者がこうしたことに時間を費やすことはないだろう。しかしMMTを叩くことになると、彼ら主流派が信頼のある「権威」として仕立て上げられるのである。

間違いなく、MMTは通貨を発行できる政府の能力を明らかにした。

事実、支出によって通貨を生み出す政府には、事前に決められた金銭的制約はない。そうした制約のように見えるものは全て政府自身が作り出したものである。

そしてそれは「paid for(支払う)」の意味に帰着する。

もしもエプシュタインが全てをきちんと一字ずつ読んだならば、言葉を弄って自分でも分からないような指摘をしてしまっていることに気づくだろう。

彼は、読者に「paid for」という言葉の金銭的側面に集中させ、経済サイクルの状況によって変化する政府支出の実物資源コストの方を無視させたいのだ

正しい記述はこうだ。政府の支出にはあらかじめ決められた金銭的制約はないが、実物資源制約は存在し、それが社会経済的使命を追求する能力に影響を与えるかもしれない。

その意味では、「paid for」というのは政府支出によって利用される実物資源(「真のコスト」)と結びついている。

彼の論文はフィナーレに向けて構成されており、次のように焦点を絞っている。

… 修辞的な主張の有効性がプログレッシブ左派の多くの支持者を魅了してきた。「我々がプログレッシブプログラムを提案するときに、MMTは、我々がそれをどうやって支払う(pay for)のかついて議論をしたり、心配したりする必要はないと説明している。」

私はこの点だけに論点を絞る。

論文の残りの部分は説得力が無く、現在MMTに対して提起されている多くの標準的な反論を繰り返している。例えば、基軸通貨発行国であるアメリカにしか適用できない、投機家の利益に反する政策を実行しようとする政府を外国為替市場が十字架にかけるだろう、生活に必要な輸入品の購入のために必要となる十分な外貨を獲得するだけの輸出ができない開発途上国の窮状を無視している、MMTは「ナショナリズム志向の政策」、つまり「アメリカ第一主義」である、というようなものである。

これらのポイントのいくつかは、彼がわざわざ引用した7本のMMT論文ではカバーされていない。もし彼がもう少し幅広くMMTの論文を読んでいればこれら全ての問題は過去25年間の著作によって何らかの形でカバーされていただろう。

最後のセクションにおいて、エプシュタインは次のように書いている。

… MMT提唱者によるいくつかの政治的・政策的主張の考察によって、それらが内部矛盾を引き起こしており、危険である可能性さえあるということが分かる。特に、プログレッシブはどうやって「支払う(pay for)」のかについて議論する必要はないというMMT提唱者の主張はミスリードである。というのも、厳格なMMT理論の枠組みにおいてすら、プログレッシブな政策提案者や政治家はトレードオフを避けられず、政策の優先順位を見極めなければならないからである。つまり、自分たちが提案するプロジェクトの機会費用についての議論は避けられないということであり、もちろんどうやって「それを支払う(pay for them)」のかという議論も避けられない。

簡潔に答えよう。Noだ。我々は機会費用について議論しなければならないし、一旦経済がフル稼働に達したならばトレードオフになるという事実についても議論しなければならない。

これはMMTの中心的な命題である。

我々はその問題から逃げたり、回避したり、無視したりしたことは決して無い。

しかし、それらの機会費用というのは金銭的なものではなく、実物コストである。

エプシュタインはこの2つのコストの概念を読者に混同させたいのだ。

彼の虚偽陳述は論文全体に蔓延しているが、最後のセクションⅥにおいて新たな領域に達している。

その中で、彼はMMTが主張していることについてこのように書いている。

  1. 「我々は財政赤字を心配する必要はない。さらに良いことに、自分たちが提案した政策についてどうやって支払う(pay for)のかを心配する必要もない。実際、増税をする必要もない。」

この説明には文章が入り組んでおり、文脈を欠いた部分的事実も存在している。

非政府部門の支出や貯蓄意欲に対して、財政赤字が相対的に大きすぎたり小さすぎたりすると、財政赤字を心配する必要が生じる。これが正しい記述である。

我々は提案された政策に対して確かに支払う(pay for)必要がある。それが支出によって発生するであろう実物資源コストを意味するのであればということだが。

しかし、それは金銭的制約を意味する「pay for」という単語の通常の英語の意味とは異なる。

我々は時に増税が必要になるかもしれないが、それは景気サイクルの状況や、どのような政策ツールを用いるかによって決まる。

エプシュタインがどのようにして文脈的差異を無視しているかを見て欲しい。実際、彼はここでMMTの話をしているのではなく、彼が修辞的な策略として作り上げた、ある種のでっち上げMMTの話をしているのである。最近の全ての批判はこの手法が標準的になりつつある。

そして彼は次のようなでっち上げに基づいて事を進める。

政府支出を「支払う(pay for)」必要性というのは、経済がどのように機能しているかについての危険な誤解に基づいた、人々の気をそらす有害なものである。

つまり今では、MMTは、危険な暴動から(バカな人々を誘惑するという)真の政治的活動へと変わり、我々が望むあらゆる物質的欲求をいつも問題なく満たすことができると信じるようになったというわけだ。

このでっち上げ話においては、MMTはただ人々に心配せず欲しいものを叫べと伝えるだけで、あとは「印刷機」が全てやってくれる。

しかし、こうしてでっち上げた後、彼はそこにいるバカな人々に警告する。

… これが解放をもたらし力を与えてくれるように見えるのは幻想である。さらに悪いことに、それは危険な幻想である。

危険であるというのが繰り返しのテーマになっている。誰かが実際にコンピュータの前でこの種の修辞ゲームをして時間を過ごしているというのが私には信じられない。

エプシュタイン教授は、MMTの中心的開発者の誰かがこの描写に少しでも似たようなことを書いたとされる公表された(査読付きの)MMT文献を実際に指し示すことはできるのだろうか?

MMTは政府支出について、利己的な政治家やロビイストによって継続的に流布され、世界中の経済学の授業で教わるような偽りの制約ではなく、本当制約に注意を向けるように、これまでずっと読者に促してきた。

政府支出にあらかじめ決められた金銭的制約が無いと示すことによって、MMTが政府の自由裁量を提唱しているということには決してならない。

現在生産的に利用されている全ての資源は、他のどこかで利用することはできないというのは明らかである。

現在利用されていない全ての資源は、多くの利用可能性があるというのも明らかである。

完全雇用に達した場合、「トレードオフ」になる可能性が高く、「支出計画の優先順位付けの必要性は避けられない」ということを我々は完全に理解している。

この点をMMT論者が無視していると言い出すのは馬鹿げている。

しかし、エプシュタインがここで本当にやりたいのはMMTを「pay for」の罠に陥らせることである。

彼はグリーン・ニューディールを例に挙げている。

彼が主張している点については、過去のブログで書いている。

1. The erroneous ‘lets have a little, some or no MMT’ narrative (February 20, 2019)。

2. The Job Guarantee is more than a Green New Deal job creation policy (December 17, 2018)。

基本的に、GNDは新たな資源の活用法を取り入れ、古い活用法を退場させるという社会の大規模な変革が必要となる。

これは得をする人もいれば、損をする人もいることになる。

そしてこれは政治を意味する。

MMTは、政治理論や政治的実践に関するものではない。

しかしエプシュタインは、GNDに必要となるであろう大規模な変革という文脈の中で次のように主張している。

MMTがもたらすエンパワーメントの幻想においては、これらの計画を推進する勢力の人々が、プログラムのために誰が支払う(pay for)ことになるのかを議論する必要がない。

ここで我々は、彼の「pay for」についてのトリックプレーに回帰する。

エプシュタインは(金銭的)「pay for」という一方の意味を利用して、(実物資源の)「pay for」という別の意味の方に言及しようとしている。彼は論文の冒頭で、これらが異なることを認めているにも関わらず、MMTが後者を無視しているかのように主張するのである。

要するに、ここでMMTが提供しているのは、実物資源への需要を巡る複雑な政治的問題は、本質的には「金銭的」なものではないという認識である。

これが重要な貢献なのは、主流派マクロ経済学が公の議論に持ち込んでいるイデオロギーのベールを剥がしてくれるからである。

もしも全ての人々がMMTのレンズを通して世界を見たならば、お金が足りないから地球を救うことはできないと主張しようとした政治家を即座に排除するだろう。

あるいは、政府は新たな仕事を生み出す余裕がないので、大量失業も我慢しなければならないと主張しようとした政治家も同様だろう。

「お金が足りない」というのは主流派の「pay for」の解釈の仕方である。MMTはこれを明確に否定している。

しかし、もう片方の意味である実物資源の「pay for」を否定するMMTerはいないだろう。ただし、上述したように、これは「pay for」という言葉の通常の英語的意味合いではない。

MMTで重要なのは、これら2つの意味を区別し、公の場での議論が実物資源の方のみに焦点を当てるように強く主張している点である。

エプシュタインはそのことを知っているにも関わらず、MMT批判者の行列に並ぶことで「賛同(currency)」を得られると思っているために、「利口ぶった嫌な人物」を演じようとしているのである。一つには、彼が、未だ問題の核心に到達していない自分の研究を擁護しようとしているというのもある。

MMTが提供しているのは幻想ではない。

我々は、社会がいつも全てを満たすことができるとは決して約束していない。

グリーン・ニューディールの実施はものすごく複雑なプロセスであり、その道へと歩み始める政府に幸運を祈りたい。

大規模な損失を被る人々がいるだろうし、政治的に強力なセクターがそうした損失を被ることもあるだろう。

地球を守るためにすべきことを実行させないため、政府に対するロビー活動に大金が投じられることになるだろう。脅迫や恐喝から、標準的な政治運動までの全てが実行されるだろう。

しかし、エプシュタインはそうではないと主張しているが、これはMMTの妥当性について何も語っていない。

終わりに

一方その間、ニュー・ケインジアンの重鎮たちの大勢が自ら恥をかいてきた。クルーグマン、「ミスター・スプレッドシート」ことロゴフ2 、サマーズ、その他大勢がMMT批判者の大行列に加わろうと駆け込んだのである。

彼らは全て、基本的に同じようなパターンを辿っている。ほんの僅かな引用、誤った解釈、馬鹿げた推論、である。

我々は、退行パラダイム(ラカトシュ・イムレが与えた意味での)が忘却に向かって衰退していく様子を(期待して)目の当たりにしている。

彼らは、おそらく自分たちが我々の研究をより多くの聴衆に広めることに貢献しているとは気づいていないようだ。

これについては感謝しなければならない。

今日はここまで!

  1. 訳註:アラン・コディントンがケインズ経済学を3つの類型(①ファンダメンタリスト、②水力学的ケインジアン、③再構築された還元主義)に分けたことに由来している。コディントンによれば、「水力学的ケインジアン」という呼称は「基礎的な教科書的ケインズ主義を考える上での自然で明白な方法は、実体のない均質的フローの観点から、集合体レベルでの経済を考えることであるという見解を反映している。」 []
  2. 訳註:ケネス・ロゴフとカーメン・ラインハートが発表した2010年の学術論文に、エクセルのスプレッドシートの誤用による重大な誤りが含まれていた。この論文は緊縮財政を後押しするために大物政治家たちが頼りにしていたものであった。 []

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