マリ=アンヌ・ルキエ「フランシュ=コンテの白い黄金:塩の一歴史」

Marie-Anne Rouquier “L’or blanc de Franche-Comté : une histoire de sel” Bloc-notes-éco, Banque de France, le 11 avril 2019.

フランス銀行のブログであるBloc-notes-écoは,フランス銀行のネットワークを活用して地域に関する分析にも手を広げることにしました。そこで,Bloc-notes-écoは折に触れて産業,地域の経済機構,地元産品に関する分析をお届けします。今回の記事はその第一弾となります。


人間にとって不可欠な塩は,貴重な物資だ。歴史の中で取引用のお金や給料の媒体として用いられ,塩は19世紀まで経済の中心的な産品だった。その製塩場のおかげで,フランシュ=コンテ地域圏は地下に眠る「白い黄金」を採掘しつつ1000年以上も特筆すべき繁栄を享受したのだ。

アルケスナン製塩所 出典:Michel Pierre

貴重な物資でありお金でもある

新石器時代から,動物の家畜化,牧畜や農業の発展によって人間社会は定住を行うようになった。食糧事情が変わったことで,食料の保存を確保するための技術の発見が必要不可欠となった。水分を奪うことでバクテリアの増殖を防ぐ塩が貴重な物資となったのだ。

歴史において非常に早くから,塩は商取引用のお金となっている。塩(sel)は古代ローマでは兵士たちの報酬のための支払い手段であり,だからこそ「給料(salaire)」の基となるラテン語”salarium”の語源となった。統治者からも欲されたことで,塩は税という形で利益を徴収する手段ともなった。その採掘と流通は国家による独占の対象となり,重要な財政収入源となった。中世のフランスにおいて導入された塩税が廃止されたのは革命期のみであり,直後にナポレオンが復活させた塩税はなんと1947年まで続いた。

今日,ジュラ県のサラン=レ=バンと呼ばれているサランでは,巨大な製塩所がまさに街中の要塞を形成しており,周りを囲む壁,堡塁,塔,砦により,フランス銀行の金庫よりもしっかりと守られている。唯一の出入り口で出入りを管理し,職員が貴重な塩粒をちょろまかすのを防ぐために縫い付けのポケットが使用されていた。

フランシュ=コンテの塩:森と結びついた採掘

塩は常に海に由来するものだが,その形態は様々だ。海岸沿いでは,太陽と風の効果による蒸発で収穫する天日塩田がよく知られている。内陸部において海の塩が化石化したものや,岩塩(sels gemmes)が地下鉱脈に存在する(gemmeはラテン語で貴重な石を意味するgemmaに由来する)。これらの塩は内海の蒸発や,岩石の上を雨水が流れることで,数百万年の時を経てミネラルが地下へ運ばれたことに由来する。フランシュ=コンテの地下鉱脈の起源は今から2億年以上も前に遡る。そのため,形成された岩塩鉱脈は,サラン地方(ジュラ県)のそれのに見られるように,非常に深くて(最大で地下3,000mに及ぶ)100m以上の厚みを持つものもある。

地下鉱脈の採掘は天日塩田よりも困難で,したがってより高くつく。これには地下坑道のほか,鉱脈内に塩水を汲み出すための井戸を掘り,地上までポンプで引き上げる設備が必要となる。その後この塩水を薪を用いて蒸発させ,「煎熬塩(ignigène)」(燃焼による生産)と呼ばれる塩の結晶を得る。フランシュ=コンテの豊かな森は重要な長所だったのだ。18世紀において,サランの製塩場用に充てられた森林面積は約23,000ヘクタール,15km四方にも及んだ。

アルケスナン王立製塩所

1674年にルイ14世がフランシュ=コンテを征服したのち,サランは王立の製造所となった。その1世紀後,ルイ15世は新たな製塩所の建設場所としてサラン近郊のアルケスナンの地を選定した。スイスでのチーズ生産用に塩を増産する必要がある一方で,サランの製塩場には森林資源と敷地が足りなかったためだ。選定された地はルー川とショーの森に近いうえに,ドール運河を通じて地中海と,ライン川を通じて北海とも通じていた。

建築家クロード=ニコラ・ルドゥがロレーヌとフランシュ=コンテにおける製塩場の長官に任命され,ルイ15世が1774年に承認したアルケスナンの事業の責任者となった。アルケスナンは建築の観点からも意欲的で,きっちりと半円に沿って並ぶ10個の建物に囲われた半月状の広大な敷地に広がっており,これには月を模したというだけでなく移動距離を少なくし,職員(最大80名)の監視を容易にする意味もあった。

敷地全体が啓蒙時代の模範的工場の理想を反映しており,作業の合理的かつ階層的な組織を可能としている。敷地には採掘を行う建物,哨所,牢獄,オーブン,洗濯場,他の職員と同様に施設内に常駐する所長の家,職員用家屋,蹄鉄場,樽製造所,庭園が所在している。1779年に完成したこの施設は,一つの独立した都市だったのだ。

アルケスナン製塩所にサランから塩水を供給するために地下水路が設置された。この水路はモミ材を互い違いに組み合わせ,143m以上の高低差のある21kmの距離に渡って建設された。他の材料ではなく木材が用いられたのは,塩で腐食することがないからだ。この「塩水路」は日に135,000リットルの塩水を運び, 塩と塩税の徴収に責任を負う税官吏がこれを監視・保護する10か所の哨所によって「塩税吏の道」をなした。それでも漏水や盗水によって輸送途中で約30%の塩水が失われた。塩の年間生産量は40,000キンタル(4,000トン)を超えることはなく,これは当初設定された目標の3分の2,サランの生産量の半分だった(« De pierre et de sel, les salines de Salins-les-Bains » – Ivan Grassias et al., 2006)。

フランシュ=コンテにおける製塩業は1870年まで全体的に非常に活況を呈したが,19世紀末からは鉄道輸送による海の塩と競争となり斜陽となっていった。アルケスナン製塩所は1895年にその幕を閉じ,サラン=レ=バンにおける採掘は1939年に停止した。これらは現在UNESCOの世界遺産に登録されており,イベント(展示,コンサート,アルケスナンでの講習)を除いても年間200,000人が訪れている。訪問者数は著しく増えており,2016年から2017年にかけては25%増となった。そのためこれら製塩場はブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏でも人気の観光地となっており,産業遺産から経済・文化施設への転換の好例となっている。

塩の利用の変化

塩は長い間食料の保存のために必要不可欠とされて,中世及び16世紀におけるニシン(北海及びバルト海)やタラ(新大陸)の遠洋漁業発展の礎となった。その後,冷蔵保存の登場で塩は保存の用途としての独占的地位を失うこととなる。塩は今も人間の食料(減少傾向にある)や動物の食料,手工業(皮なめし),工業(石鹸,化粧品,ガラス,紙,冶金,電気メッキ),化学,温浴に用いられている(以下のグラフを参照)。議論の的となっているとはいえ,代替製品の開発がなされていないことから,毎年の気候条件で大きく変動するものの塩は濡れた路面の凍結を防ぎ(-8度まで)雪を解かすために広く用いられている。もちろんブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏においても。

フランスにおける精製塩の用途別販売量(輸入含む,2012年)
出典:フランス製塩所協会,塩生産者組合

ピンク:化学産業,灰色:消雪,青:その他産業,緑:食品,黄緑:農業


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