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ミカエル・トルカノ「技術は教師に取って代わるのか?」

Micael Trucano”Will technology replace teachers? No, but …“(blogs.worldbank.org, 24 February, 2015)


framebreaking 未来では、機械は私に取って代わって私の代わりに別の機械を壊してくれるだろうか

これまで15年以上に渡って数十もの国における教育技術事業について、取組み、助言を行い、評価を行ってきた。情報コミュニケーション技術(ICT)に日常的に親しんでいる人ならば誰でも知っているように、技術分野で働いていると変化というものは常に起こっている。(それに対し、教育分野において変化は常に起こっているということは言えるにせよ、変化それ自体はよりゆっくりと訪れる・・・。)技術それ自身は頻繁に変化する場合がある一方で、そうした技術の導入や使用に関する非常にありふれた疑問の多くは大体が同じものだ。

いくつかの大都市の中の選ばれた学校にコンピュータとインターネットを導入するという実験的な取り組みの一環として、1990年代後半のガーナで教師たちと取組みを行ったことを覚えている。5日間のワークショップの3日目が終わりを迎えようとする頃、一人の教師が教室の入口に現われ、遅刻を詫びるとともにセミナーへ参加できないかと尋ねてきた。彼の説明によれば、彼はアクラの外にある遠隔授業が行われている小さな学校へ行くために、何度もトラックをヒッチハイクし長距離バスを乗り継ぐという数日間の旅をしてきた。というのも、彼はこのインターネットと呼ばれるものが「完全に教育を変えてしまう」と聞き及び、それを自身の目で見なければならなかったからだという。その時のセミナーには大勢の受講希望者がいたため、私たちは遅れてきた者のワークショップへの参加は許さないという厳格なルールを決めていたけれども、この紳士についてはそれを適用しないことにした。彼の話と彼がここに来るために耐え忍んだ苦労にすっかり感動してしまったのだ。

私たちがルールを適用しないことにしたのにはもう一つの理由があった。こう言うのは明らかに適切なことではない(not politically correct)なのだが、私たちがこの教師が教室に加わるのを許したのは彼が・・・老いていたからだ。彼は70歳以上であると主張していたが、正確な誕生日はそれが金曜日1 だったことをだけしかはっきりとしていないという。私のガーナ人の同僚たちは、この教師が主張するほどに歳がいっていることについて懐疑的な見方を述べていたけれども、彼が室内にいる私たちの誰よりも数十歳年上であることは疑いがなかった。自分は英語の教師であると彼は言いつつ、インターネットではシェイクスピアの作品すべてにアクセスすることが可能であると伝え聞いており、どのようにしてそんなことが出来るのかということを知りたがっていた。コンピュータが一台空いたので(そのコンピュータを使っていた教師たちは、貧弱な回線のせいでCU-SeeMeの接続が切れるのに苛立っていたために、夕食の前に宿舎へと戻ることにしたのだった)、私たちは席に着き、Alta Vistaを立ち上げ、「シェイクスピアの作品」と打ち込んだ。

検索結果に目を通した後、若い教師たちのうちの一人がマウスを握り、クリック、スクロールして作品を次から次へと表示していった。老いた教師は完全にぶったまげていた。彼は「ようやく全て分かった。シェイクスピアの作品全てを読むことが出来るようになるというのは一人の英語教師としての私の夢だった。いまやすべての教師がそれを出来るようになる。教育は完全に変わる。」というようなことを言った。全ての作品が実際にあるのだという事を彼が確かめられるように、私たちはコンピュータ・ルームをしばらくの間開けたままにした(「ハムレットだ!テンペスト、コリオラヌスもある!」。私たちが翌日朝にコンピュータ・ルームのドアを開けるときには自分が一番乗りになると彼は誓った。コンピュータをシャットダウンしていると、私がその後何年も形を変えて何百回も聞くこととなる懸念を彼は口にした。

インターネットが普及しつつある今日において若い教師であったならばと思うと非常にワクワクするけれど、自分が若い教師でなくて良かった。こうしたコンピュータがしまいには私たち教師に取って替わってしまうことが怖いからだ。

技術は教師に取って代わるのだろうか。

この短い問いに対しては次のような短い答えがある。

新技術の導入によって教師が取って代わられることはない。

世界中からの経験によれば、新技術の導入によって時とともに教師の役割は縁辺的ではなくより中心的になっていることがわかる。

新技術の導入はしかしながら、教師が行う一部の物事を代替し、教師が新たな、そして多くの場合より知的な役目と責任を持つことを要求する。 とはいうものの、技術を利用しない教師はそれを利用する教師に取って代わられるだろう。

さらに、今現在「一切の」教師がいない場所においては、技術はいくつかの非常に有用な方法によって、ある程度はそうした教師の不在を打開するのに役立つ。

私の経験では、教育制度へのコンピュータとインターネットの初めての導入は、教師たちの一部から(そしてしばしば教職員組合からも)常に、そして時には非常に大きな抵抗に合う。 こうした抵抗は理解できるものであるし、おそらくはある程度不可避ですらある。変化は恐ろしい、あるいは少なくとも相当不便なものとなりうる。

ここで私が言っている類の抵抗は非常に基本的で初期のほぼ本能的な性質のものであることに注意してほしい。例えばすでにコンピュータが導入されているところで、それが大したことがなかったり、あるいはマイナスの効果すらあったために教育技術の取り組みについて非常に懐疑的で偏見を持っているような教師による抵抗ではない。さらなる技術の導入はさらなる(さらにより一層の!)標準化された試験を嘆かわしくも押し付けるようなものだと考える教師による抵抗でもない。賃金(この新たな”コンピュータ技能”を学ぶことを期待されるようになった場合、より多くの給料をもらえるのだろうか)や関連する期待や職責の変化(より多くのこと、あるいはこれまで自分たちが訓練されてこなかった何かをすることが期待されるから、今やこうした新たな道具を与えられているのだろうか)に関する懸念について話しているのでもない。 そうではなく、私はここでより基本的な恐れ、すなわち教室内や生徒に相対する場合における教師の優越や伝統的な役割に対する(潜在的な)挑戦について話しているのだ。

自分の生徒はコンピュータについて私よりもずっと多くのことを知ることになるだろう。

そんな彼らの前で授業のためにコンピュータを使おうとする際、バカを晒さないなんてことができるだろうか。 そしてもっと不吉なことに、

自分は(やがて)機械に取って代わられないだろうか。

robots 生徒の皆さん、こんにちは。使用可能な電源口を探してください。授業は間もなく始まります。

そうした心配をするのは単に変化を恐れたり、「分かってない」人たちだといって、こうした懸念をバッサリと退けてしまう人には、ちょっとした仄暗い秘密を教えてあげよう。こうしたことが起こることを密かに望んでいる人々はたくさんいるのだ。実際私は何年にもわたって、コンピュータによって教師を代替する道が開けることを望んでいる少なくない数の政策決定者(とビジネスマン)と会話をした。コンピュータは組合を持たない、とある政策決定者は私に述べた。民間部門はしばしば新技術の導入に対する自分たちの望みを隠さない。MOOCsにはとても注目しているのだ、ととある企業家は私に言った。現在は数十人の生徒を教えるのに一人の教師を雇わなければならないが、MOOCでは数千もの学生に対し一人の教師だけでいい。制度の中にある非効率性についてだけ考えよう!ということだった。

つまり、教師と技術について言う場合、多くの新技術を学校に導入しようとする努力の裏にある一部の人々の意図は常に褒められたものであるとは限らない。

技術が教師に取って代わることはないといっても、今現在教師がいなかったり満足な人数の能力ある教師がいないところでは、技術はそれがなければ教育を受けることのできない学生たちに教育資源へのアクセスと機会を与えるにあたって不可欠の役割を果たすことができるということを指摘しておくのも大事なことだ。これは学生が単に「コンピュータを与えられただけで放置された場合」、能力ある教師が学生を導き支援した場合と同程度に学習することになる、ということを意味するわけではない。全くそんなことはない!とはいうものの、ユネスコは現在「93の国で教師の深刻な不足が発生している」と推定しており、「これらの国のうち28カ国(すなわち30%)では2030年においても依然として十分な教師はいないだろう」と予想している。教育システムが教師不足を減らそうと取り組んでいるようなそうした国々において、教育における問題の*一部*の解決に役立てようとコンピュータを使う試みは追求すべき賢明な策なように思える。

とは言うものの、

私が取り組んできた世界中の教育システムの中で、新技術の導入によって授業と学習のプロセスの中での教師の役割の重要性が薄れたり中心的なものでなくなったことは一度もない。むしろその逆だ。新しい装置が学校に届いた後のざわめきも薄れ(そして最終的に装置が多かれ少なかれ動き出して)、急速な「根本的な変化(transformational change)」の可能性にまつわる当初の過剰な喧伝も下火になると、教師の役割はほぼ常に、技術の導入前よりも中心的でまさに根本的なものとなっているのだ。

多くの政策決定者、教育当局員、親たち(そして多くの教師たち自身すら)は「デジタル生まれ仮説」という信条を口にすることがある。すなわち、若者たちはどのようにかして本能的に技術を理解し、年配者には分からないやり方でその使い方を知るという考えだ。しかし、例えばスクリーン上のメニュー画面を素早く理解して操作することや、たくさんのエイリアンをやっつけたり、短い動画を撮ってYouTubeに上げるといったことと、学生が必要とするものや目的のために手元で扱う技術が何であれ、それを上手く使いこなすことができるようになるということには大きな違いがある。そのためには学生には教師の助けと導きが必要だ。

これはしかしながら、教師が果たすことを期待されている役割が新技術の導入によって変化することはないということではない。

一般的に、新技術の導入が教師という職を学習プロセスにとって色々な意味でより重要で中心的なものにする一方で、そうした技術の導入はまた、現在世界の多くの場所で教師であることと関連付けられている多くの活動にとって、教師を中心的あるいは重要(あるいは必要ですら)ではなくしてしまう。

本は過去数世紀において教育の方法に変革を促した技術的なイノベーションだったけれども、教師に取って代わりはしなかった。しかし本は自己学習という新たな形態を可能とし、従来教師が担ってきた一部の物事の本質を置き換え、変化させた。

新技術は、出席をとったり通知表に成績を記載したりといった典型的には教師によって行われてきた行政的なルーチンワークの多くを代わりに担うことが出来るし、やがてそうなることは疑いようがない。(とは言うものの、技術の使用が増大することによって、実際上は短期的に教師にかかる行政的な負担はしばしば増大する。私はかつて、新技術の導入によって無駄な官僚的非効率が発生してしまった端的な例に見える、ロシアのとある学校を訪ねた。そこでは苛立った教師たちは生徒たちに「この新システムの不具合が治るまで」試験の点数を手書きの紙と電子フォームの両方で入力させていた。)教室の前にある黒板のところに立ち、覚えなければならない年号や学ばなければならない新しい単語を入念に書き出す。こういったマニュアル的な作業は、多くの場合プロジェクターと基本的なプレゼンテーション用ソフトを使うことで遥かに素早く(必ずしもより効果的とは限らないかもしれないが)行うことができる。機械(おそらく「教育マシーン」すら)は、現在は教師が行っている一部の簡単な認識作業(選択式問題を出して試験結果をつける等)も扱うことができるかもしれない。teachingmachine

とは言うものの、教師にかかるルーチン的な行政負担が(やがては)軽減され、一部のルーチン的で簡単な認識作業が段々とソフトウェアによって行われるようになる可能性がある一方で、時間とともに新技術が導入されるということは多くの場合、教師に対して「より多く」が求められることを意味する。「より少なく」ではないのだ。

問題解決、批判的思考、異文化コミュニケーション等の「21世紀の技能」と呼ばれる類のものや、いくつもの非認知的技能(根性物の見方)の育成は、学術分野だけでなく人生の成功にとって重要であるとますます考えられるようになっている。かなりの部分、学生に対して機械ではなく教師だけが育成を手伝うことのできる種類の技能がある。しかしこれを行うのは容易ではない上、現在の教育システムにいる教師よりも高度な能力を持つ教師をしばしば必要とする。授業の助けとするために新技術を使えるようになり、技術の変化についていくことは、教師たちに自ら学び続けることを強いる。新技術の使用によって生徒の能力について利用可能なデータが増大し、「評価」というものが時々の鉛筆と紙による試験を意味していた時には全く不可能であった方法で生徒の活動の記録を追うことが新技術によって可能となることは、そうしたデータを吸収し、自分の生徒たち全体及び生徒個々人双方にとって一番ためになるような方法に教え方を変えることを教師たちに強いる。

最終的には、技術が教師に取って代わることはないものの、技術を使う教師が使わない教師に取って代わることになる。

新技術の拡散によって世界中の教育システムでより多くの試験を導入しようとする試みに道が開かれているが、技術の使用によって最も容易に試験することができる類のものは、ほぼ当然のことながら、最も容易に機械が取って代わることのできるものだという事は頭に入れておく価値があるかもしれない。機械を使うことで自動的に何か(ある事実や、ある活動)を評価できるという場合、機械によって自動的に(そして大抵の場合間違いを起こさず)そうした事実を反復したり、そうした活動を実施するために誰かがやがてアルゴリズムを書くだろう。

最近行った全米人文科学基金のジェファーソン・レクチャーの中で、ジャーナリストのウォルター・アイザックソンは次のような可能性について話した。「人類と機械の間のパートナーシップとは、両者が互いに一番得意とすることをなす共生関係。機械は人類知性を複製し取って代わるのではなく、それを増大させる。私たちヒューマニストは人類ー機械パートナーシップ戦略の勝利を基礎とすべきだ。なぜなら、それはヒューマニティと科学の間のつながりの重要性を保つことになるからだ。」

これに教師と生徒の間の人間的つながりの重要性も加えていいかもしれない。

注記:この記事の一番冒頭に使った、機織機を壊しているラッダイトと呼ばれる画像(「未来では、機械は私に取って代わって私の代わりに別の機械を壊してくれるだろうか」)はWikimedia Commonsのものであり、パブリックドメインのものである。二番目にある二台のロボットの画像(「生徒の皆さん、こんにちは。使用可能な電源口を探してください。授業は間もなく始まります。」)は、Wikimedia Commonsを通じたウィキペディアンのJosepPAL の厚意によるものであり、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植の規則に従って使用している。最後の画像であるB.F. Skinnerの「教育マシーン」は、Wikimedia Commonsを通じたウィキペディアンのSilly rabbitの厚意によるものである。これもまたクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植に従って使用している。本記事におけるこれら画像の挿入は近日発売のこの本に影響を受けた。


(本エントリは世界銀行のウェブサイト使用条件に従って掲載しています。The World Bank: The World Bank authorizes the use of this material subject to the terms and conditions on its website,http://www.worldbank.org/terms.)

  1. 訳注;リンク先のWikipedia記事によれば、ガーナ人は名前に生まれた曜日を付けるという。例えばコフィ・アナンのコフィは金曜日を意味しているとのことなので、この教師もコフィという名であったと思われる。 []

Comments

  1. >ジャーナリストのウォルター・イサクソン

    スティーブ・ジョブズの伝記を書いた、アイザックソンです。

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