●Alex Tabarrok, “Punctuality”(Marginal Revolution, March 4, 2004)
アメリカでは、時間厳守がルール(当たり前)となっている。その一方で、ラテンアメリカをはじめとしたその他の地域では、時間通りに事が進むことは稀だ。このような違いがあるのはなぜなのだろうか? 社会心理学者の見解によると、文化的な特性や宗教、「国民性」の違いに原因があるとされる。あるいは、緯度が高い地域ほど、時間が厳守されやすいとの見解もある。緯度が高くなるほど、季節の変化も激しく、そのために、作物を収穫するタイミングが少しでも早かったり遅かったりする(収穫のタイミングを少しでも誤る)と、霧のせいで作物がだめになってしまう可能性も大きくなる、というわけだ。
ゲーム理論の専門家であるカウシック・バス(Kaushik Basu)&ヨルゲン・ウェイブル(Jorgen Weibull)の2人が「時間厳守:均衡(ナッシュ均衡)としての文化的な特性」(“Punctuality: A Cultural Trait as Equilibrium”)と題された論文で、シンプルだが重要な指摘を行っている。
私があなたと待ち合わせをしているとしよう。「あなたは約束の時刻に遅れるに違いない」と私が考えた場合、時間通りに待ち合わせの場所に向かっても損をする(手持無沙汰で待つ破目になる)だけなので、私は約束の時間に遅れること(「遅刻」)を選択するだろう。しかしながら、私が「遅刻」を選択する場合、あなたも同様に「遅刻」を選択することが理にかなっている(なぜなら、時間を守ると手持無沙汰で待つ破目になってしまうからだ)。もっと言うと、『「私が遅刻するに違いない」とあなたが考えている』・・・と私が考える場合も、やはり私は「遅刻」を選択することになるのだ! 言い換えると、2人がともに「遅刻」を選ぶというのは、ナッシュ均衡なのである。そして、2人がともに時間をきっちり守ることも同じくナッシュ均衡なのだ。あなたが時間通りに待ち合わせの場所に向かうとすれば、私も同様に時間を守ることが理にかなっているのだ(私が遅刻した場合にあなたが何らかの罰を科すことができるようであれば、とりわけそうだ)。どちらの均衡に落ち着くかは、車道がどちら側通行になるか(右側通行か、左側通行か)という問題と同様に、恣意的な面を多分に備えている。バス&ウェイブルの二人は、次のように述べている。
人々の行動に備わる戦略的な側面を見過ごしてしまうと、別々の社会の間で大きく異なる行動パターンが広まっている状況に出くわすや、「行動パターンに違いが見られる原因は、先天的とも言える違い――選好(好み)の違い、人生に対する宗教観の違い、遺伝子の違い――に求められるはずだ」との考えに安易に傾いてしまいかねない。しかしながら、本論文で詳しく論じてきたように、異なる社会の間で行動パターンに大きな違いが見られる理由を説明するために、選好の違いだとか、人生に対する宗教観の違いだとか、遺伝子の違いだとかに頼る必要はないのだ。まったく同じ特徴を備えた人々の間であっても、(ゲームの)異なる均衡に落ち着く可能性は大いにあるのであり、異なる社会の間で見られる「文化」的な特性の違いのいくつかは、異なる均衡の表れであるに過ぎない可能性があるのだ。
仮にバス&ウェイブルの説く通りであるとすれば、「時間にルーズな国民」を一夜にして「時間厳守な国民」へとガラリと変えることも可能なはずである。スウェーデンで車道が1967年9月3日(日曜日)の午前5時を境に「左側通行」から「右側通行」へと一挙に変更されたのと同じように。
バス&ウェイブルの説く理論の妥当性がエクアドルで試されようとしている。エクアドルでは、遅延(や遅刻)が常態化しており――ある推計によると、遅延が原因でGDPの4.3%(!)にも上るコストが発生しているという――、そのような「均衡」を変えようと、国を挙げてのキャンペーンが繰り広げられている最中なのだ。この件について、エコノミスト誌(The Economist)は次のように報じている。
エクアドル国内では、地方自治体だけでなく、航空会社も含めた数多くの機関が時間厳守キャンペーンに賛同する動きを見せている。会議に遅刻した者は、部屋の中に入れなくなっている。ホテルのドアサインに似たプレートがオフィスや学校のドアにかけられている光景を目にする機会も多くなっている。「お入りください:まだ定刻前です」と書かれたプレートを裏返すと、「入るべからず:会議は定刻通りに始まっています」との文言が刻まれている。とある地方紙では、イベントに遅刻した役人の名前が毎日公表されている。
ついでながら、物理学の世界では、時間はアト秒単位(1アト秒=10-18秒、100京分の1秒)で計測されているらしい。
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