Ernesto Dal Bó, Frederico Finan, Olle Folke, Torsten Persson, Johanna Rickne, “Political selection and the path to inclusive meritocracy“,(VOX, 26 April 2017)
古代アテネ人は公職に就任する者を決定するのに籤引を用いた。しかし、有能性 (competence) と公平な代表 (fair representation) の間にはトレードオフの関係があるとの主張が、寡頭主義者からなされたのもちょうどその頃 (そしてそれ以来ずっと) だった。本稿では、認知能力やリーダーシップ能力に関するスウェーデンの人口データの活用をとおし、スウェーデンの民主制が、有能であり、しかも、あらゆる生の在り方を代表するような人々による統治を実現している旨を論ずる。スウェーデンの包摂的能力主義は、選挙民主制が代表性と有能性の間の緊張を回避する手掛かりとなる可能性を示唆する。
BC411年の夏のこと、ある市民の一団がアテネの民主制に異を唱える寡頭制 クーデタ を敢行した (Kagan 1987)。政治的内乱と、シチリア人に敗北を喫した近時の経験とを背景に、これら蹶起人は、アテネに優れた統治を施しうるのは、大規模な民主的合議体ではなく、選り抜きの少数指導者集団であるとの意を固めていたのである。こうして誕生した寡頭制政権は短命に終わるが、それに続いたのは古典的なアテネ民主制の復活ではなく、「五千人の国制 (Constitution of the Five Thousand)」 と呼ばれる混合政体であり、これも引き続き最貧層の市民を権力から排斥するものだった。
民主制と寡頭制のこの緊張関係はすでにその頃までに、匿名の 「老寡頭主義者 (Old Oligarch)」 なる人物の手にかかる小冊子のなかで雄弁に論じられていた。それによると、民主制はあまりに多くの出自の低い者に権力への接近を許してしまい、才覚や徳の点で劣った統治を生み出しているのだという (Kagan 1969)。この老寡頭主義者の不満は選挙に向けられたものではなかった。それは当時籤引で行われていた、公職の割当に対するものであった。アテネの民主制ハードウェアとして最も特徴的なものは、投票箱ではなく、クレロテリオン (kleroterion) – すなわち名前を選出し、公職に割り当てる、粘土から作られた無作為選出装置だ。とはいえ老寡頭主義者は公平な批評家でもあった。つまり彼は、籤引による公職の割当が、下層階級の代表を確保するにあたって選挙よりも優れたものだと認めている。しかし彼の主張によると、籤引制度は重用され過ぎているし、またアテネの国制は有能性が極めて重要となる軍事的司令官などの役職については異なる手法を採用しているにもかかわらず、この選出制度は有能性を十分に考慮していないのである。
抽選 (籤引) による公務就任者の選出。そして有能性と公平代表の間にトレードオフの関係があるとの認識。これらはアテネ民主制が消滅した後にも残った。例えば、中世のフィレンツェ共和国は、権門勢家に対する明示的な公職制限と籤引を併用していた。Brucker (1962) は彼のフィレンツェ政治研究にこう書き記している。「籤引による公務就任者の選出手法は、政治能力や政治手腕をほとんど重視しておらず、むしろ凡庸性を奨励する傾向があった」 と。
ブレクジットレファレンダムと合衆国選挙は以上のような民主制の利点と限界に関する議論を再び呼び起こした。これら2つの投票は愚かな選択 (incompetent choices) を生んだと考える者は多い。他方、こうした投票結果は、自らが十分に代表されていないと感じている社会集団に後押しされた政治的ラディカリズムの一環だったのだと主張もある。一連の議論をとおし、抽選もまた再び日の目を見ることとなった。Van Reybrouck (2016) は最近の書籍のなかで、この手法ならばエリート層と投票権者のギャップを橋渡しできるのではないかと論じている。
広範な代表と有能な政治的リーダーシップの双方に価値を認めるのであれば、複数政党の並立する選挙民主制によって得られるものは何か、この点を問い直してみるのが有益と思われる。広範な代表 (これを確保するにあたっては抽選が助けになるだろう) と、有能な統治 (こちらについては抽選も役に立たないだろう)。この二者間の緊張関係を回避する手立てはないのだろうか? とはいえ、この問いに対する実証的な回答を見つけるのは難しい。一社会において政治家がどのように選出されているか、またこれら政治家が彼らの代表する人口とどの程度似通ったものなのか。これを見定めようと思うなら、我々にはまず、市民と政治家についての、有能性と代表性の尺度が必要となるだろう。しかしこうした情報を体系的に収集している国はほとんど存在しない。
我々の最近の研究では、1998年から2010年にかけての、スウェーデンの全体人口、およびスウェーデンで選挙に当選した全ての政治家を扱った行政データを分析している (Dal Bó et al., 近刊)。これらデータは、学歴や所得などといった – ミスリーディングの可能性は否めないとはいえ – 有能性を計るさいに一般的に用いられる様々な尺度を含んでいる。しかし我々の研究では3つの尺度にフォーカスすることにした。1つめは 「収入スコア」 で、これはBesley et al. (近刊) による方法論に基づき算出した。スウェーデン人の男性については、さらに 「認知スコア」(IQ) および 「リーダーシップスコア」(性格類型) も、兵役データに基づき測定した。
代表性の測定にあたっては、本データが持つもう1つの特筆すべき特徴に依拠している – すなわち家族内や世代にわたって個人を関連付けする機能だ。こうして政治家の両親の社会階級に関する情報が確保できた。この情報を活用することで、社会的な代表は政治階級の有能性の低下をともなうという老寡頭主義者の主張を検証できるようになった。
相対的に見て政治家は有能なのか?
まず初めに、これまでスウェーデンで政治家として選出された人物の有能性は、平均的にいって、籤引に基づき選出されたような場合と同じくらいなのか、それより優れている、あるいは劣るのか、この点を問うた。
「逆淘汰 (negative selection)」 によりむしろ無能性が導かれる可能性があるといっても、一部の経済学者は驚かないだろう。政界に進出しようとするさいに直面する機会費用は、能力のある個人ほど高くなる。そこで、能力の無い者が公的生活の大勢を占める事態も生じ得る (Caselli and Morelli 2004)。
さて前述の問いに答えよう。すなわち、市町村議会議員 (municipal council members) として歩み始め、市町村長 (mayors) や国会議員 (national legislators) へと進んで行く政治家は、強い正の淘汰をへて選出されているのである。図1には、リーダーシップ・認知・収入に関する有能性測定値、および学歴の分布を示した。太い中空の棒線はスウェーデン人口における分布である。最も薄い棒線は、市町村議会議員の候補者となったものの当選しなかった個人。続くグレーの棒線は当選した市町村議員候補者に対応する。最も右の2つの棒線はそれぞれ市町村長と国会議員である。
各政治家タイプについて特徴の分布をみると、スウェーデン人口における分布と比べ、右側にシフトしていることがわかる。したがって政治家は平均的な市民よりも適性があるといえる。また、同様のシフトは市町村議会議員候補者・市町村議会議員・市町村長・国会議員 の分布にも確認できる。我々の研究では、これらパターンをエリート層が就くような別の職種と比較しているが、市町村長は中規模企業 (被雇用者が25名から250名の企業) のCEOと同レベルの有能性を持っていることがわかった。
図1 スウェーデン人口と対比した政治家の有能性
出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成
しかし、有能性が政治権力とともに単調に増加する傾向は、次の3つの異なる体制により生じてきた可能性がある:
- エリート主義: エリート層の一員であること (富裕な権門勢家への所属) は権力へのアクセスを与える。政治家が有能そうに見えたとしても、それはエリート層の一員であることが能力と相関しているためであって、正の淘汰は寡頭制政治がもたらす偶然の結果にすぎない1。
- 排斥的能力主義: 政治は有能性の篩にかける。しかし、もし有能性が社会経済的地位の相対的な高さと相関しているなら、能力主義的人員募集体制には相対的に低位の社会集団を排斥する副次的効果がある。
- 包摂的能力主義: 政治は有能性に基づき選別をおこなう。しかしそれは、仮に平均的に見てエリート層が有能性に関する優位をもっていたとしても、広範な社会部門を代表しうる。
正の淘汰はエリート主義の反映か?
エリートの地位が政治的成功を牽引していたのだとすると、家族的な (したがって社会的な) 出自の如何によっては、個人の有能性 (能力) も本人が選出されるかどうかにさほど関わらなくなってしまうだろう。
しかし家族的出自如何によっては、個人の有能性に関する特徴は非常に大きく関わってくる。図2上段の行は、市町村議員とその兄弟姉妹の認知・リーダーシップ・収入スコア分布を示す。3つ全ての特徴について、政治家の分布は明らかに右側にシフトしている。家族内での選別は、3つ全ての特徴に関して政治家と平均的市民との間に見られる差異全体の70%から80%を説明する。図の中段および下段の行は、市町村長と国会議員についてその兄弟姉妹と比較したものだが、ここでも類似の分布がみられる。敢えていうならば、むしろ家族内選別のパターンはより大きな権力を持つ政治家ほど強くなっている。
図2 兄弟姉妹と対比した政治家の有能性
出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成
図2が示すように、選別は純粋なエリート主義に基づくものではない。しかしそれは依然として排斥的能力主義と両立するものかもしれない。つまりスウェーデンは政治家たるに値する有能な人物を選出しているかもしれないが、それでもこうした個人がエリート層の出身である可能性はある。能力というものには、恵まれた社会的出自と正の相関があるからだ (スウェーデンでさえ、これが実情となっている)。
スウェーデンは包摂的能力主義の国か?
もしスウェーデンが包摂的能力主義の国であるなら、スウェーデンは有能な人物を高い地位に就けながらも、広い代表性を維持していることになる。この問いに答えるべく、我々は政治家の社会的出自を調査した。そのさい着目したのが、1979年における彼らの父親達の所得分布だ。理屈からすれば、全体国民人口に対応するパーセンタイルの形で表した所得分布は、0.01水準で一様になるはずであることに注意されたい。
図3の左パネルは、2011年時点で活動していた政治家に関する所得分布を示す (これら政治家は2010年に当選した者で、図中の所得は彼らの政界進出に先立つもの)。明瞭に見て取れるように、この歪んだ分布は、政治家はその平均以上の能力を反映し、高い収入を得る傾向があることを示している。同図はさらに、政治家は平均的な人より大きな機会費用に直面するにもかかわらず、あえて政界に進出していることを示唆する。次に右パネルだが、これはかなり印象的だ。図は、2011年度の政治階級の父親達 – 1979年に測定したものなので、父子はちょうど同じくらいの年代にあたる – が、平均的にはけっして高給取りではなかったことを示している。実際のところ、彼らの所得パーセンタイル分布は、全人口における一様分布に非常に近い。換言すると、政治家の社会的出自に目を向けるならば、全体人口と同じ所得分布が確認できるのである。スウェーデンの政治家は有能なだけでなく、あらゆる生の在り方を代表してもいる。スウェーデンは包摂的能力主義の国だといってよさそうだ。
図3 政治家とその父親達の所得分布
出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成
民主制と徳
BC411年のクーデタの後、寡頭主義者が最初に実行したことの1つは、アテネにおける公務就任者の賃金撤廃だった。近代経済学者ならば、こうした政策は有能な人物に政界進出を敬遠させるものだと考えるだろう。これでは機会費用の補償がないわけだから。しかしアテネの寡頭主義者はそれとは異なる理論を持っていた。公の問題に時を惜しまず尽力する余裕があるのは富裕層のみであるから、賃金を撤廃すれば政治家の有能性を高めることができる、これが彼らの考えだった。どちらの理論が正しいのかは、アテネ人がスウェーデンのような包摂的能力主義を生み出す条件を満たしていたのかに掛かっている。
スウェーデンでは、有能な人物が市政に時を惜しまず尽力している。市政職は – クーデタ後のアテネと同様 – (大部分が) 無給なのにもかかわらず。しかも職務に邁進している人物に、エリート層がとびぬけて多いわけでもない。以上が示唆するのは、選挙民主制によっても、きわめて有能なリーダーを選出しつつ、しかも抽選を採用した場合に期待される人口代表的なリーダーシップを維持できることだ。
これは勿論、民主制なら常に望ましいアウトカムにつながるとの旨をいうものではない。しかし選挙民主制は、古代ギリシアこの方、社会の観察者を悩ませてきた代表性と有能性の緊張関係を回避する手立てにはなりそうだ。今回の研究結果は、社会の持つどういった性質が以上のようなアウトカムを生み出しているのかについてのさらなる調査を促すものとなった。
集者注: 本稿は研究の要旨であり、オックスフォード大学出版によるQuarterly Journal of Economicsに近日掲載される論文 “Who Becomes a Politician?” から図を引用している。本稿で使われた図の再利用許可については、journals.permissions@oup.comに連絡のうえ、元論文を参照されたい。
参考文献
Besley, T, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Gender Quotas and the Crisis of the Mediocre Man: Theory and Evidence from Sweden,” American Economic Review.
Brucker, G (1962), Florentine Politics and Society, 1343-1378, Princeton, NJ: Princeton University Press.
Caselli, F and M Morelli (2004), “Bad Politicians,” Journal of Public Economics 88: 759–782.
Dal Bó, E, F Finan, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Who Becomes a Politician?” Quarterly Journal of Economics.
Kagan, D (1969), The Outbreak of the Peloponnesian War, Ithaca, NY: Cornell University Press.
Kagan, D (1987), The Fall of the Athenian Empire, Ithaca, NY: Cornell University Press.
Van Reybrouck, D (2016), Against Elections: The Case for Democracy, London: Bodley Head.
原註
[1] 選挙民主制においても、エリート主義の可能性の考察は無駄ではない。あのアテネ人にしてすら、寡頭制の要素には世論を勝ち取り影響力を確保するうえで有利な点があろうと考えていた; ペリクレスもしばしば民衆扇動をしていると非難を受けたのである。共和制ローマにおいてもパトリキによる同様の戦術が繰り返し観察された。共和制ローマでは、金と名声によって支持を購うことができたのだった。