Paul Krugman, “The Antisocial Network“, The New York Times Op-ed, April 13, 2013
ビットコインの荒馬を乗りこなすのは、ここ数週間の経済界最大の話題だったけど、確かに面白かったね。二週間足らずの間に、この「デジタル通貨」の価格は3倍以上になった。かと思えば、数時間で50%以上も下がった。まるで突然ドットコム・ブームの時代に戻ったみたいな感じ。
このジェットコースターの経済的な意義は、基本的に皆無だった。でもビットコイン騒動は、人々がいかにお金を誤解しているか、特に、お金を社会から切り離したいという欲望にいかに惑わされるか、についての有益な教訓になった。
ビットコインって何だろう?オンライン取引の方法として説明されることもあるが、それ自体は、オンラインのクレジットカードやPayPal取引の時代には、なんら新しいものではない。実際、2010年にはアメリカの総売上の16パーセントは、すでに電子商取引の形で行われていた、と商務省は推計している。
じゃあ、ビットコインの何が違うんだろう。デジタル・トレールを残すクレジット・カード取引と違い、ビットコイン取引は匿名かつ追跡不可能に設計されている。ビットコインを誰かに振り込むと、路地の暗がりで100ドル札で一杯になった紙袋を渡したのと同じことになるんだ。で案の定、知られている限り、ビットコインの投機以外の主な利用法は、このような路地の暗がりの取引のオンライン・バージョンで、ビットコインは麻薬その他の違法なブツと取引されてる。
だけどエヴァンジェリストたちは、ビットコインにはこのような違法取引をスムーズにする以上のものがあると言い張ってる。ビットコインへの投資を公言している最大の投資家は、ウィンクルボス兄弟。フェイスブック株の裁判で成功し、映画「ソーシャル・ネットワーク」で有名になった富豪兄弟だ。彼らはこのデジタル製品に関して、金本位制論者が彼らお気に入りの金属にしているのと同じような主張をしている。「私たちは選ばれたのです。」とタイラー・ウィンクルボスは先日断言した。「この政治やヒューマン・エラーに縁のない数学的フレームワークへの信仰に投資する者として。」
金本位制論者とのレトリックの類似は偶然じゃない。なぜなら、金本位制論者と、「ビット本位制論者」とでも呼ぶべきビットコインの熱狂者は、リバタリアン的な政治思想と、政府はお金を刷る能力をひどく濫用しているという信仰との、両方を共有する傾向があるからだ。同時に、これは非常に奇妙なことでもある。なぜなら、ビットコインはある意味、究極の不換紙幣であって、その価値は無からひねり出されるからだ。金の価値の一部は、歯に詰めるとか宝石を作るといった、貨幣的以外の価値から来る。紙幣に価値があるのは、国家権力がバックにあって、法定貨幣として指定したり、税金の支払として受け取ったりするからだ。でもビットコインは、仮に価値があるとしても、その価値は、他の人も支払いとして受け取ってくれるという信仰、つまり純粋に自己成就的な予言から来る。
でも、こういうおかしさや、ビットコインのストックを増やすために使われる複雑な計算処理である、奇妙な「採掘」処理については脇に置いておこう。代わりに、金本位制論とビット本位制論の根底にある、二つの大きな勘違いに注目しよう。一つは実際的な勘違い、一つは哲学的な勘違いだ。
ここにある実際的な、そして大きな勘違いは、私たちが生きている時代が、今にも制御不能なインフレが来るような極めて無責任な貨幣印刷の時代である、という認識だ。確かにFRBその他の中央銀行がバランスシートを大幅に拡大してきたのは事実だ。でもそれは明らかに、経済危機に対応する一時的な手段としてやっただけである。政府の官僚が信用できないとかなんとか、そういう話も知ってる。でも実際には、ベン・バーナンキの対応がインフレを引き起こさないという約束の正しさは、年々明らかになってきているし、金本位制論者の悲惨なインフレの警告はいまだに当たっていない。
でも、哲学的な勘違いの方が、もっと大きいように見える。金本位制論者とビット本位制論者はどちらも、人間的な弱さに汚されていない、純粋な貨幣本位制を熱望しているようだ。だが、それは不可能な夢だ。かつてポール・サミュエルソンが名言したように、お金は「社会的な仕掛け」であって、社会の外にあるものじゃない。金貨や銀貨に頼っていたときだって、そういう硬貨を役に立つものにしていたのは、その中に含まれる貴金属じゃなくて、他の人が支払いとして受け取ってくれるだろうという期待だった。
実際、あらゆる人間の中でもウィンクルボスこそが、これを理解しているはずなのだ。というのも、お金はある意味でソーシャル・ネットワークのようなもので、他の人が利用してくれる限りにおいて役立つものだからだ。でも、お金が人間的であることを許せない人がいて、「ソーシャル」な部分のない貨幣ネットワークの恩恵を受けたいと考えるのだろうね。悪いけど、そんなことありえないよ。
じゃあ、何か新しい形のお金が必要か?
私たちが実際使っているお金が、何か悪さをしてたならそうかもね。でも、そうじゃない。大きな経済問題はあるけど、緑の紙切れはそれなりにうまくやってる。だからそのままにしておこうよ。
翻訳ありがとう。
ビットコイン信仰と金本位制信仰の類似を指摘したおもしろい論考ですね。
(タイプミスは「いか惑わされるか」)
ありがとうございます。ご指摘のタイポ修正しました。
翻訳お疲れ様です。5番目のパラグラフの「彼らは、この金本位制論者がお気に入りの金属で作ったのと同じようなデジタル製品の権利を主張している。」というところは、「金本位論者が彼らのお気に入りの金属(=金)を(擁護するために行った)主張と同じような主張を彼らは(bitcoinに)行っている。」といった意味じゃないかなと思います。
あ、その通りですね! 確かにそう解釈しないといろいろ不整合がある。直しました。ありがとうございます。
クルーグマン博士のビット・コイン論はこの2年間変わっていませんね。
安部さんの経済政策は、日本にbit coinソーシャルネットワーク(1%を作る早道)を作ろうとしていると考えるとすべてが符合するのですが・・・。
この続編をbit coinを考えながら、近々書きたいと思います。
http://stratpreneur.chalaza.net/?eid=939