ジョセフ・ヒース「保守主義者へのアファーマティブ・アクション?」(2017年 11月9日)

 

Joseph Heath, “Affirmative action for conservative academics?,  In Due Course, November 9, 2017.

 

2016年のエモリー大学にて、キャンパス内の諸々の歩道にチョークで書かれたトランプ支持派のスローガンを目にした一部の学生たちはとてもひどくトラウマを抱いてしまったために、それらのスローガンを「ヘイトスピーチ」の一種だとして調査するよう大学当局に要求した。大学全体がセーフ・スペースであるべきだという発想は、米国の2大政党の両方に対するいかなる支持の表明からも学生たちが隔離されるという事態を招く可能性を含んでおり、意見を自由に交換する場所としての大学という理念に対立するものであると多くの人から見なされた。同時に、自分たちの中にトランプ支持者が存在しているという事実がエモリー大学の学生たちをあれ程までに警戒させたということは、アメリカの一部の大学において政治的な意見の不一致がいかに珍しくなっているかを示している。アメリカの大学を広範囲に調べてみてもたった一人のトランプ支持者やたった一人の政治的保守派ですら見つからないことがある、というのが事実なのだ。

トランプが大統領になった現在、アメリカの学者たちは奇妙な状況に置かれてしまっている。トランプに対して非難を浴びさせたいが、その話をする相手がいないのだ…トランプを擁護しようとする人が周りにいないので、ただ単純に、諸々の問題について議論する相手がいないのである(そして多くの場合には共和党を擁護しようとする人もいないし、より一般的な保守派の運動を擁護しようとする人もいない)。特に小さな大学ほど、左翼的な意見のエコーチェンバーとなるリスクに晒されている。人々が机を囲んで新自由主義の文句を言い合い、皆が頷いて同意し合っているか、あるいは左翼同士が一枚上手なことを言おうと競い合うというお馴染みのゲームが始まるか、という場所であるからだ。このような議論は馬鹿らしいだけでなく、すぐに退屈なものになってしまうし、ひどい無益感を生み出してしまう 。

また、エモリー大学の事件は、大学が何故こんな場所になってしまったかということについての若干の反省を引き起こした。そこがアメリカであるということをふまえれば当然のことだが、このような事態は保守派に対する差別の結果である、という発想がまず真っ先に人々の頭に浮かんできた。そしてもちろん、なにしろそこはアメリカなのだから、その発想はアファーマティブ・アクションを求める声へとつながった。アメリカの大学において政治的保守派が代表される機会を増やすことを目的としたアファーマティブ・アクションである。この意見を主張している中でも最も有名な人物が、心理学者のジョナサン・ハイトだ。

私自身の意見によれば、「左翼のエコー・チェンバー」問題は実際に存在している。この問題は特にアメリカにおいて深刻であるが、度合いは少ないとはいえカナダでも起こっているし、何らかの対処がなされるべきだ。しかし、アファーマティブ・アクションはこの問題に対処する方法として不適切である。トランプが登場するはるか以前から存在していた、(しばしば「常識的」保守主義と喧伝される)保守派の反合理主義こそが問題の核心である、と私は考えている。リバタリアニズムなどの合理的な保守イデオロギーは大学で代表される機会が過小である訳ではない…むしろ、人々が実際にそれらのイデオロギーを支持している割合と比較すれば、合理的な保守イデオロギーは過剰に代表されている可能性の方が高いのだ。(もっともな理由のために)大学にて代表される機会が少ない保守主義とは、あらゆる種類の専門知を蔑み、経験的証拠と合理的な議論の両方を軽視しなければ支持できないような政治的立場を取るタイプの保守主義である。

まず、ハイトの提案についてコメントしよう。保守派へのアファーマティブ・アクションがハイトから提案されたということを聞いても私は驚かなかった。どんな提案について評価する際にも、その提案がどこから発祥したかということについて常に考慮することが重要だ。ハイトの問題は、1:彼は道徳について非認知主義者であり、2:彼は政治について道徳主義的であるということだ。ハイトによると、道徳に関して私たちが抱く信念は究極的には全て非合理的であり、それぞれの人々に備わる感情の傾向の結果に過ぎない。進化はケア・公正・自由・忠誠・権威・神聖という6種類の基本的な感情的反応の傾向(あるいは、社会的な関係についての素朴な「直感」)を私たちに身に付けさせた、とハイトは主張する。彼はそれらの傾向を私たちが食べ物から経験する6種類の異なる味覚と比較している。しかし、6種類の道徳的な味覚には幅があり、それぞれ異なる人々が6種類の味覚をそれぞれ異なった強度で経験するという性質が各々の人間に生まれつき備わっているのであって、また、社会環境によって特定の味覚が強化されてその代わりに特定の味覚が弱まったりもする。ある人がある政治的な信念を持つこととは、その人に備わっている道徳的な味覚の特有な配分の結果なのだ、とハイトは主張する。ハイトが特に主張しているのは、「リベラリズム」は6種の味覚のうちケアと公平のみが偏って強調された賜物である一方で、「保守主義」では6種全ての味覚がより平等に配慮されているということだ。

上述した主張の結末を想像してみれば、ハイトが保守主義へのアファーマティブ・アクションを求めている理由を理解するのは簡単だ。彼にとっては、「保守主義者であること」とは人種と全く変わらない個人的な特徴に過ぎない…それは、生まれつき備わった生物学的な傾向であるのだ。そのため、保守主義者たちはレディ・ガガが歌うところの「私は正しい道を歩んでいるわ、ベイビー。私はこうなる運命のもとに生まれてきたの」という保証を得られて安心することができる。さらに、ハイトの見方によれば、学術的な研究や合理的な調査と各人がそれぞれに採用する政治的立場の間には、本質的には何の関係性もない。彼によれば、規範的な言説は本質的には作話であるのだ。この主張は、より多く教育を受けることはその人をよりリベラルにするかもしれないという可能性を排除する。反対に、「リベラル」な理論や、(たとえば)ジョン・ロールズが主張するような政治哲学は、ただの作られたお話に過ぎない。自分たちが元から持っている道徳的な信念を正当化するためにリベラルが自分たちに言い聞かせるお話なのであって、結局のところ、理性よりも以前に存在する一連の感情(あるいは「直感」)に基づいたものであるのだ。その結果として、教育システムには保守主義者に対する構造的な差別があるからだということでしか、より多く教育を受けた人はよりリベラルになる傾向があるという事実に対して説明が付かなくなるのである。

さて、大学における保守主義者に関するハイトの見解は、彼が採用している二つの非常にラディカルな立場からかなり直接的に導き出されている、ということを理解するのは重要だ。その一つ目の立場は極端な道徳的非認知主義であり(ある人の道徳的コミットメントには合理的な根拠は全く存在しない、という主張)、二つ目の立場は政治に関する強い道徳主義である(ある人がリベラル-保守という政治的立場のスペクトラムのどこに位置しているかは、本人が選んだわけではない道徳的コミットメントの結果である、という主張)。どちらの主張に対しても、私は同意していない。ハイトの意見に相反する私の意見を説明するためにかなり長い本を書いたこともあるが、その概要は以下のようなものである。心理学の二重課程理論の観点から問題を考えてみよう(ダニエル・カーネマンによって近年に知名度を得た理論であり、ハイトも二重課程理論の観点にある程度は同感している理論だ)。「常識」運動の影響のおかげで、現代の保守主義は「直感」(または「システム1」)を「理性」(または「システム2」)よりも熱心に推奨するようになっている。そして、教育とはそもそも「システム2」を発達させる活動であるのだから、自然と、教育は保守主義を締め出す傾向を持つことになる。ポストモダニズムが大学を席捲しているという話題が頻繫に語られているのにも関わらず、理性を行使することを促進するという啓蒙主義の目標に対して、大学は(ただ主義としてその目標を掲げるだけでなく、大学という制度構造の全ての側面において)深くコミットし続けているのだ。そのために、反合理主義にコミットしている人を排除するだけでなく、反合理主義に含まれる間違いや反合理主義があまりにも頻繁に招く悲惨な結果を指摘することで学生たちを反合理主義から「治療する」ことによって、大学は様々な形態の反合理主義を締め出す性質を持つことになる。

(上記した保守主義の非合理主義にはいくつかの重要な例外がある、という点を記しておこう。・・・保守主義者が非直感的な「システム2」の観点を用い、それよりも直感的な「システム1」を左翼たちが奉ずる、という場合だ。このような事例を観察することは重要であるが、しかし、この場合においては保守主義者たちの見解は大学において代表される機会が過小である、ということがない傾向にある。この点については、後の段落で少し触れてみよう)

保守主義による「常識」へのコミットがもたらす影響について、一例を示させてもらおう。かなり「リベラル」な方向へと傾きやすい分野である、犯罪学における事例だ。わたしが犯罪学を例にとったのは、刑罰に対する我々のコミットメントの多くは進化による適応の結果として身に付いたものである可能性が非常に高い報復的な衝動の結果であり、つまり非合理的で直感的な反応であるということだから、ハイトの分析にとって不利ではないという点で適切な事例であるからだ。また、報復的な衝動をどの程度強く感じるかということには人によって違いがあるように思われるから、この衝動は[訳注:上述した6つの道徳的味覚と同じように]人によって変数があるものだと思われる。そして、報復的な感情の強さは、保守的な政治傾向と関連しているのだ。

だがしかし、一般的に、ある人がより多くの教育を受けるほど、その人が報復的な刑事司法政策にコミットする度合いはより少なくなる。なぜだろうか?刑事司法制度とはただ単に報復的なものであるのみならず、犯罪の抑止や再犯の予防などを含む様々な政策問題に対処しなければならない制度である、というのがその理由だ。私たちの本能的な復讐の欲望を満たすだけでなく、犯罪をコントロールすることができる刑罰システムこそが私たちの求めるものなのである。そして、犯罪をコントロールするための政策案の効果を比較する際には、私たちの「直感」はかなり有名かつ重大なバグの影響を受けてしまう。私たちの直感は、報酬が人々を動機付ける力に比べて、懲罰の力を過大評価してしまうのだ。したがって、「エビデンスに基づいた」刑事司法政策を立案するためにデータを集めたとすれば、「鞭」よりも「アメ」を重視した政策へと転換することになりがちだ。直感の観点からすれば犯罪者を「甘やかす」ものであるように思えてしまうような刑事司法政策の多くが、犯罪をコントロールするための政策という観点からすれば実は最も有効なものであったりする。そのため、より懲罰的ではない政策、言わば「リベラル」な刑事司法制度を支持するという結論にたどり着くことになる。つまり、多くの場合、「リベラル」な刑事司法政策は(ハイトが主張するであろうに)ある単一の道徳的「味覚」を偏って強調したために導かれているのではなく、犯罪抑止に関するエビデンスを理性的に評価した結果として導かれているのである。そのため、教育はよりリベラルな刑事司法政策を支持するように人々を転換させる可能性が高い。犯罪と刑罰について保守主義的な見解を持っている人々が教育システムにおいて差別される必要はないとはいえ、そのような人々の保守主義は教育の効果によって弱まるであろう。

(刑事司法政策に関する問題についてリベラルな見解を持っている人々の全員が、エビデンスを公平に評価した結果としてリベラルな見解を持つことになった訳ではない、ということには注意してほしい。・・・一部の人々は、信念を伝播させる社会的メカニズムを主に通じた非合理的な仕方で、それらの見解を持つことになる。しかしながら、そのような人々の非合理性は気付かれないことが多い。多くの場合には、彼らが支持する結論は、エビデンスを公正に評価した結果としてその人が支持するであろう結論と少なくとも一致しているのだ。反対に、保守主義的な見解を持っている人々の見解の非合理性は暴露されることが多いし、彼らの見解に対してエビデンスが集中砲火されることになる)

この問題は左翼VS右翼という枠組みには収まらない、ということは言及しておくべきだろう。たとえば、右翼が自由貿易を支持することは、どちらかといえば反直感的で合理的な議論の結果である(ポール・クルーグマンが「リカードの難解なアイデア」[訳中:比較優位の理論]と呼ぶものだ)。この問題においては、左派の方が直感的に最も安直な主張を行っているのだ(そのために、左翼的な反グローバリズムは人気があるのである)。しかし、自由貿易という点においては、右翼の主張が大学で代表される機会は過少ではないことに注意してほしい・・・大多数の経済学者たちは、何らかの形で自由貿易を支持しているのだ。問題となるのは、右翼の主張の中でも、証拠もなく合理的にも支持できないものだ。例えば、保守主義者たちの多くが行っている「伝統的な家庭の価値」の重要性に関する主張の大半は、いかなる種類の経験的証拠によっても支持されていない。むしろ、社会の安定性や順法精神やセルフマネジメントやキャリア的な成功などなどの物事に家庭環境はほぼ貢献しておらず、そのような主張は妥当性の最小閾値に属するものであるように思われる。

最後に、「ポピュリズム的」保守主義の隆盛は、大学にて保守主義者が代表される機会が過少である問題を必然的に悪化させる、という点について記しておこう。(少なくともトランプ主義的な種類の)ポピュリズムの中心的な特徴は、現代の保守主義にまだ残っている合理的な要素をすべて放棄することにあるからだ。最も明白なことに、トランプのポピュリズムは自由貿易や移民を否定しており、法の支配に対してすら否定的である。また、トランプのポピュリズムは教育を受けていない層を主な支持層としている。結果として、ポピュリズム的保守主義の支持者に対して大学システムが中立であることを期待するのは馬鹿げたことになるだろう。

以上では、「左翼のエコーチェンバー」について考えるうえでアファーマティブ・アクションのモデルは適切ではない、と私が考える理由を説明してきた。同時に、「左翼のエコーチェンバー」自体は実際に問題となっているということを認識するのも重要である。カナダではこの問題はアメリカほど深刻ではないが、その理由の一部は、単にカナダではどの大学も非常に大きいのでどの大学でも必然的に多様になる、ということだ・・・例外もあるとはいえ(トレント大学が頭に浮かぶだろう)。また、カナダの大学ではかなり多くのアメリカ人を採用しており、そしてアメリカ人はカナダ人に比べると多くの問題について右翼的な見解を抱いていることも一因である(バラク・オバマですらカナダに来れば中道よりも僅かに右派寄りになる、ということを覚えておこう)。同時に、保守主義者たちが代表される機会は実際に過少である。ざっと思い出してみても、私は自分が右翼であると自称している同僚を3人しか数えられない(そのために、学術的なセミナールや研究に関する議論などであるはずだが実際には左翼たちのお茶会である場において、私自身がその部屋にいる中で最も右翼的な人間である、という事態が数えられない程に起こる。このような状況は、話し合う前から実のところ既に基本的な政治的な意見を共有している訳ではない他人とどのように議論すればよいのか全くわからない、という事態を左派たちにもたらしてしまうため、知的に不健全である)。

では、解決法は何であるのか?私が考えるに、左翼のエコーチェンバー化現象に対抗することができる一般的な傾向と政策案が一つずつ存在する。まず、人は年を取るほど保守的になるという単純な事実がある。そのため、左翼の教授ですらも、若いころの彼ら自身に比べれば左翼的ではない。結果として、過激な左翼の学生たちをドグマ的な見解から解放することについては、実は左翼の教授の方が上手いことが多いのである。ハイトのアプローチでは、保守的な教授に触れることは左翼の学生たちを中和する効果があると前提されているようだ。しかし、その前提は疑わしいと私は思う。露骨に保守的な教授たちは、しばしば学生たちに反感の気持ちを引き起こし、議論を分裂させてしまうことが多い。対照的に、以前は極端な左派であったが現在は穏当な左派となっている教授たちは、左翼の学生から信頼される可能性が高く、そのため学生たちの見識を広めさせられる可能性も高い(以下のように考えてみよう。マルクス主義に対して抱く青臭いロマンスから学生を目覚めさせられる可能性が高いのは、自称オーストリア学派の教授たちだろうか、それとも昔はマルクス主義者であったが現在は社会民主主義者である教授たちだろうか?その答えは明白であるように思える。元マルクス主義者なら、マルクス主義の何が間違っているかについて、共感的な仕方かつ無用な反感を引き起こさないような仕方で学生たちに説明することができるからだ)。

第二の提案は、より具体的な政策に関するものだ。思想史を教えることには、(良い意味での!)保守主義的な傾向が本質的に存在するように思える。私の考えによると、最近の極端な左翼主義に対して最も有効な処方箋は、その理念の源にあるものを教えることだ。つまり、現代の左翼主義は理論(theories)に基づいていることを…人々が常に信じてきた訳でもなく、実は間違っていたことがやがて判明するかもしれない理論に基づいているということを教えるのである。さらに、現代にある考え方の歴史的な起源を教えることは、常にそれらの考え方を競争の場に置くこととなる…Twitterで拡散された道徳的な確信ではなく理論としてそれらの考え方を読解するなら、その考え方が挑戦に晒されているということに気付かないことはできない。それらの考え方は何らかの議論に基づいているのであり、そして物事について考える方法は他にも存在する。アメリカの小さな大学における(私が気付いた)問題の一つは、それらの大学では充分に歴史を教えることがなく、最近流行っている理論ばかりを教えることなのだ。

手短に私の主張をまとめよう。 保守主義が大学で代表される機会が過小であることの解決策とは、ごく単純に伝統的な人文学的教育へのコミットメントを倍増させることである。真の保守主義者であるならいかなる人でも私の提案に満足するはずだ、ということは記しておくべきであろう。

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