Tyler Cowen “What is the real value of academic conferences today?” Marginal Revolution, March 8, 2018
読者の一人,RVから質問があった。
ワーキングペーパーやインターネットのおかげで今やっている研究について広めることが非常に簡単になった現在,学会の実際の価値についてどう考えてますか。キャリアの中盤に差し掛かっていて,どう見ても間違いなくスーパースター研究者ではない経済学者である自分の感覚としては,学会とは実際のところ,院生時代やキャリアの初期の頃の友人と一緒に時間を過ごす機会を買うというような大部分社会的なものだと思っています。
僕の答えとしては,学会にもいくつか種類があるというものだ。トップレベルである全米経済研究所(NBER)の行事に行ったとしてみよう。これまでにないほどとびきり最高のコメントをもらうことだろう。ロバート・ホールが誰かの論文をけちょんけちょんにけなしたと聞いたことはあるかい?もしくはその論文の1,2か所を褒めたこととかは? あるいはその場に行くことはその仲間内において自分が価値ある人間だと示すことにもなる。これには大きな価値がある。
あるいは,自分がテニュアのない若手講師で,アメリカ経済学会の年次会合に出席するものとしてみよう。自分の発表の番では,自分と同じ研究分野の先輩方と会うことになるかもしれず,彼らと少々知己を得ることができると分かっている。彼らに自分がポンコツではないということを見せ,自分のキャリアを通じて彼らと持ちつ持たれつの関係を築きたいと考えていることを彼らに示すことができる。そうすれば彼らが自分のテニュア評価について良いように書いてくれる可能性が上がる。
もう一つ別のシナリオとしては,自分がキャリア中盤の経済学者として,例えば上から60番目のランクの大学に勤めているとしよう。自分としては同じレベルの大学,けれどももっと立地が良かったり大嫌いな同僚たちがいないようなところに移りたいと思っている。ある人が空きポストの補充として自分のことを思い浮かべてくれる可能性は,その人と学会で既に会ったことがあって,その人に嫌われてもいなければより高まるだろう。
というわけではい,学会の主な目的の多くは「社会的」だ。でも社会的機能はキャリアに関わる機能とそんなにかけ離れている分けでもない。
と色々言ったものの,学会には大きな改善余地があると考えている。まず,回数を減らすこと。次にみんなを退屈にさせるような長々とした論文発表を禁止して,もっと短い発表にすること。多くのセッションでは,論文発表者よりも質問者の方が長い時間を与えられるべきだ。あるいは同じくらいの時間でもいいのかもしれないけど。3つ目としては発表の数を減らすことだ。今ある大きな学会の中には,でかすぎてどうしようもなくなっているものがあるけど,そういうものはもっと小さいグループにして互いに交流を行う機会を増やすよう再考してもいいだろう。
rip someone’s paper to bits は、文字通りの話をしているのではなく、だれかの論文をけちょんけちょんにけなす、という話だと思います。
あと、そのあとのalternatively は「そのかわり」ではなく、そうした会議に出る別の意義、という意味なので単に「あるいは」にしておけばいいと思います。
コメントありがとうございます!そのまんま修正しました。