●Tyler Cowen, “Sheila Bair’s new book”(Marginal Revolution, October 17, 2012)
シーラ・ベア(Sheila Bair)の回顧録に目を通したのだが、いくつかの理由から「(アゴが床につくほど)ビックリさせられた」作品群に加えたいところだ (シーラ・ベアは金融危機の最中に連邦預金保険公社(FDIC)の総裁を務めていた人物。回顧録のタイトルは『Bull by the Horns: Fighting to Save Main Street from Wall Street and Wall Street from Itself』(「牛の角をつかみて:メインストリートをウォールストリートから(加えてウォールストリートをウォールストリートそれ自身から)守り抜く」)だ)。
本書は情報がたっぷりと詰め込まれているストーリー仕立てのノンフィクションだ。これだけ大量の情報が一冊の中に凝縮されている例というのはそうそうないだろう。いや、これはいい意味だ。どのページを開いても必ず何かしら学ぶことがあったものだ。金融危機を扱った本をこれまでにたくさん読んできているにもかかわらずだ。
しかし、だ。公的資金を注入して金融機関を救済(ベイルアウト)することからは手を引いて、「大きすぎて潰せない」(“Too Big To Fail”)という理屈にしがみつくのはもうやめるというのが彼女なりの腹案だったということが本書の中で何度も繰り返し語られているのだが(こちらの面々の大半も同様の立場だが)、それには首をひねらざるを得ない。「金融機関が破綻した際には債権者にこれまでよりも多めに損失を負担させるようにした方がいい」くらいにもう少し穏やかな主張(現実の世界では彼女自身そう主張していたものだが)にとどめておくべきなのだ。本書の中での彼女の口ぶりにはあまりに行き過ぎなところがあるのだ。
批判をもう一点。公僕として金融危機への対応にあたったその他の面々は間違いを犯してばかりいる一方で、自分は何の間違いも犯していない。ベアはそう見なしているようだ。後知恵で泥を投げつける(他人を悪く言う)ことに対してもどうでもいい口論(読者が知りもしなければ気にも留めないような口論)の細部についてくどくどと紙幅を費やすことに対しても何の良心の呵責も感じていないようだ。本書に登場する一番の悪党はガイトナーだが、ガイトナーに限らずベアが備える美徳と良識には誰も敵(かな)わない。どのページを開いてもそのような印象が頭から消え去ることはないときているのだ。
「たぶん男の子たちはシーラ・ベアを砂場遊びの仲間に入れたくなかったんだろうね」。ベアについてはよくそんな感じのことが言われるものだ。「ベアは間違ってる」なんて言えるだろうか? そんなこと言えないってことは本書を読んでよくよくわかった次第だ。
本書は私がこれまでに読んだ中でも最も○○な一冊だ。○○の中にどんな言葉を入れるのが適切なのか探している最中なのだが、いずれにせよ素敵な一冊であることだけは確かだ。
ところで、ウィクラム・パンディットがシティグループのCEO(最高経営責任者)を辞任することが発表されたが、昨日(2012年10月16日)の報道によるとベアはそのニュースを歓迎しているようだ。何でも好きなことを語れる「言論の自由」は尊重したいとは思うし、政府の上層部の地位にあった人物が公けの場で政策提案を行うことにも何の問題もないと思う。しかし、政府の上層部の地位にあった人物――政府内部の人間にしか知りえない情報の山に自由にアクセスできた人物――が個別の事例に対して忌憚のない意見(それも特定の個人や特定の企業に対する批判的なニュアンスが込められた意見)を口にしているのを目にするとムカムカする気持ちを抑えられないものだ。ベアのような仕打ちに出られると、連邦預金保険公社とやり取り中のCEOの面々だったり規制監督官と正直に向き合っているCEOの面々だったりは規制当局との付き合い方についてどう思うだろうか? 政府の上層部の地位にあった人物は公衆の面前で個人的な恨みを晴らすような真似なんてすべきではないのだ。下野した高名な政府高官はたくさんいるが、ベアと同じような仕打ちに出た例って他にあるだろうか?
シーラ・ベアの『Bull by the Horns』は(いい意味でも悪い意味でも)恐怖劇のような作品だ。官僚機構や規制プロセスの政治力学についてこれほど多くを学べる(といっても、ベアの意図通りではないかたちで学べる)作品はそうそうないだろう。