アイディアはたくさん,でもたしかな知見はそう多くない
先日,エド・プレスコットが81歳で死去した.彼は,いくつかの点で現代マクロ経済学の父にあたる人物だった.これを機に,科学としてのマクロ経済学の現状について書いてみるのもいいだろうと思う.このブログをはじめたときから何度もこの話題については書いてきたことだし,あらためてここで考えてみると面白いだろう.
マクロ経済学の評判はひどいものだ.ぼくが好ましく思ってる人たちや尊敬してる人たちが,経済学の分野についてこんなことを言うのを目にする機会がよくある:
物理学者たちは1億マイルも彼方の彗星に探査機を着地させようとしてるのに,かたや,経済学者ときたらすでに起きた景気後退の予測にすらいまだに手こずってる…
こういう発言をしてるとき,きっと,オークション理論のことなんかを語ってるわけではないはずだ.オークション理論ってのは,Google のほぼすべての収益を可能にしているモデルなんだけどね.それに,マッチング理論のことを語っているわけでもないだろう.マッチング理論のモデルは,腎臓の臓器提供のあり方を改善して数え切れないほどの人命を救ってきたんだけどね.「経済学者どもは,終わった景気後退を予測しようといまだにジタバタしてる」なんて世間の人たちが言うとき,話題になってるのはマクロ経済学者たちだ――景気後退とかインフレとか経済成長みたいな大きなネタに取り組んでる経済学の分野を,マクロ経済学と呼ぶ.
マクロ経済学の現状にゲンナリしてるのは,べつに評論家たちだけじゃない.マクロ以外の分野の経済学者たちも,この批判に相乗りしてることが多い.たとえば,2011年に Dan Hammermesh はこう書いてる:
経済学という専門分野の評判が悪いわけではない.評判が悪いのは,マクロ経済学だ.私も含めて経済学者の大半がやってきたミクロ経済学は,多大な貢献をしてきたし,今後もそれは変らない.私たちが考えてきた様々なことは,大きな影響を及ぼしている.ただ,第一に,マクロ経済学でなされていることはひどいものだし,第二に,大学のマクロ経済学について言えば,あの連中の大半はどうしようもなく使い物にならない.義理の兄にでも聞いてみるといい.私たちの9割と同じく,きっと彼もこう思ってるはずだ――「マクロの連中が大学でやっていることの大半は役立たずのクズだ.」
ぼくならここまで辛辣なことは言わないけれど,象牙の塔でどんなえげつない内部抗争があるのか,いくらかうかがい知れる発言だよね.それに,トップのマクロ経済学者も,自分の専門分野にずいぶん気まずい思いをしている場合が多い――たとえば,2015年にポール・ローマーが “Mathiness in the Theory of Economic Growth” で書いてる痛罵を読んでみるといい(すごく専門的でわかりにくいけど).
エド・プレスコットの世代のマクロ経済学者たちは,この状況を改善しようという思いを胸に,マクロの分野にやってきた.
プレスコットによる解決と DSGE 革命
1970年代のスタグフレーションをきっかけに,マクロ経済学の通念の多くに疑いを向けられ,学者たちは問題を診断し解決策を提示しようと意気込んだ.そうしたなかで,プレスコットの考えがもっとも革新的かつ影響力が大きかった.1982年にプレスコットとフィン・キドランドは,タイトルこそ「各種の変動を集計すべきとき」という控えめなものだったけれど,その実,経済に好況と不況がある理由の大理論を提唱するものだった.
その理論は,「リアルビジネスサイクル理論」の名で知られるようになり,キドランドとプレスコットは,これによって2004年にノーベル経済学賞を受賞している.その基本的な考えはこういうものだ――「好況や不況をもたらしているのは,生産性成長率の変化だ.」 この理論では,なにかがおきて生産性成長率が一時的に下がると不況になるのだと考える――たとえば,新しくイノベーションが登場するペースが落ちたり,貿易条件が悪化したり,不見識な税制政策がとられたりすると,生産性成長が下がって不況になる,というわけだ.景気が減速すると,労働力の需要は減る.すると賃金が下がり,これを見てしばらく働かないことにする人たちも一部にではじめる――こうして失業が生まれる〔と,この理論では考える〕.こうしたモデルによれば,〔中央銀行による〕金利引き下げや量的緩和や財政刺激といった需要喚起政策には,経済を成長させたり失業を減らしたりする見込みなんてない.なぜって,そういう政策は技術進歩の速度を上げないからだ.こうした政策が「繁栄をもたらす効果は,雨乞いで雨が降る効果と同程度だ」とプレスコットは言い放った.
プレスコットの話が――つまり,「景気後退が起きてるのは,今年エンジニアたちがあまり発明をしなかったからだ」「失業は自発的な休暇だ」といった話が――すごくありそうもなく聞こえるなら,それは,彼の話がすごくありそうもないことを言ってるからだ.リアルビジネスサイクル理論モデルが登場すると,すぐさま激しい反論が向けられた.なかでもいちばん有名な猛反撃は,他でもなくラリー・サマーズによるものだった.サマーズはこう指摘した――プレスコットのモデルにでてくるいろんなパラメタの多くは――宇宙の定数みたいに扱われてる数字は――大して意味をなさないじゃないか.
それだけじゃなく,リアルビジネスサイクル理論で数理的にあやしいところは,他にもいろいろある――たとえば,経済の「変動」を長期的な成長率の変化から区別するためにプレスコットが使った手法は,すごく信頼しにくいものだった.それに,リアルビジネスサイクル理論の理論家たちが自分のモデルをどう「立証」したかと言えば,経済の色んなシミュレーションをつくりだして,そのシミュレーションを眺めて,それから,「ここに現れた経済の変動の規模と頻度は,十分にに現実の経済に似ているぞ」と宣言するというやり方で,これはモデルが飛び越えるべきハードルとしては信じられないほど低かった.こうして,マクロ経済学の分野にちょっとした家内工業が立ち上がった.リアルビジネスサイクル理論モデルがデータに合致しないところをあれやこれやと洗いざらい示していくお仕事だ.いっそう細々と専門的な論文があれこれ登場しては,モデルにささやかでもっともらしい拡張をほどこしてやると,基本的な研究結果がひっくり返るのを示した.
こうしたすったもんだの末に,マクロ経済学者たちのあいだでリアルビジネスサイクル理論は廃れていった.プレスコットと一握りの仲間たちは,「リアルビジネスサイクル理論モデルはマクロ経済をうまく記述できている」と相変わらず主張していたし,他の経済現象にもモデルを拡張しようといっときだけ試みたりもしたけれど,この時点で,リアルビジネスサイクル理論を教育用の題材以外に使うマクロ経済学者はほんのわずかしかいなくなっていた.
ただ,こうした問題があれこれあったにも関わらず,リアルビジネスサイクル理論は勝利を収めた.「え,なんで?」 プレスコットが開拓したモデル構築の手法がすごく影響を及ぼして,マクロ経済学の分野全体をほぼ掌握したからだ.リアルビジネスサイクル理論が開拓した「動学的確率的一般均衡」(DSGE) というタイプのモデル構築は,マクロ理論での標準的なツールになった.
このへんのことにうとい人のために,少しだけ背景事情の話をしよう.経済全体をいっぺんに分析しようと試みたら,たちどころに問題にいきあたる.「あらゆるものが,他のあらゆるものに影響しちゃってるじゃないか.」 プレスコット以前には,これに取り組むいちばんよくある方法は,次のどちらかだった.(A) 経済の色んな部門どうしの相関をとる巨大なスプレッドシートをつくって,なんらかの政策変更がなされたときに,そうした相関関係が成り立ちますようにとお祈りする(じゃなくって,えー,「仮定する」かな).あるいは,(B) 基本的には方程式2つていどとか曲線2つ3つのグラフだけの単純なトイモデルをつくって,そいつを使ってぼんやりした定性的予測を立てる.どちらのアプローチも,ひどく不満足だった―― (A) 巨大スプレッドシートのいろんな相関関係が頑健だなんて本気で信じてる人なんていなかったし,(B) そういうぼんやりした小さな理論を本当に検証するのは無理だったからだ.それに,どちらも単純で,なんだか学部生くさかった.
そこで,プレスコットとその仲間たちは,一般均衡という理論に目を向けた.一般均衡理論は,ようするに,巨大な「需要と供給」モデルで,経済全体のあらゆる取り引きを同時にモデル化しようと試みるものだった.これを聞いて「それってすごく大変そう」と思ったなら,それは,すごく大変だからだ――というか,大変すぎて,一般均衡をほんとに使い物になるようにするには,びっくりするほど大量の単純化仮定をおかなくてはいけない.そうした仮定は,総じて非現実的すぎて,マクロ以外のたいていの分野では――たとえば課税と政府支出を扱う公共経済学などでは――しだいに経済学者たちは一般均衡から離れていった:
ところが,マクロでは,一般均衡が天下を取った.リアルビジネスサイクル理論は廃れたものの,それにとってかわるかたちで,「ニューケインジアン・モデル」という一群のモデルがあれこれと登場してきた.そこで使われているのは,プレスコットが開拓したのと同じ基本的な数理的フレームワークだ.ニューケインジアンのモデルでは,経済の仕組みについてそれまでとちがう仮定がおかれている――なかでも重要なのは,金融政策と財政政策に景気後退に対処する役割を残している点だ.でも,数理的には,ニューケインジアン・モデルの骨組みはリアルビジネスサイクル理論と大差ない.
プレスコットとキドランドがノーベル賞を受賞したほんとの理由は,そこにある.ノーベル経済学賞は,世界について具体的な発見をした業績よりも,新しい手法を発展させた業績におくられがちだ.これは,新しい科学ではそれなりに理にかなってる――あれこれの事実が発見できるようになる前に,まずは,事実発見のツールを発展させないといけない.だから,新しいツールを発展させた人たちに報いるのは理にかなってるわけだ.
このアプローチの問題は,次の点にある――新しくでてきたツールが影響を広げているわりに現実経済に応用してみると実際にはうまくいかないケースがときどきある,という点だ.そして,これまでに DSGE モデルに起きたことも,ようするにそれだった.
DSGE とその批判者たち
DSGE モデルは,巨大でややこしい経済を,ほんのわずかな要因に煮詰める――つまり,消費・生産・労働時間などだ.多くの経済学者にとって,ここまで物事を切り詰めるのは利点だ.ただ,これがうまく機能するには,ものすごく単純化する仮定をあれこれと立てないといけない.ニューケインジアンのモデルで立てる仮定は,かつてのリアルビジネルサイクルに比べればずっと現実味があるけれど,それもあくまで比較しての話だ.その昔,2013年の記事では,標準的で人気のある DSGE モデルを例にとって,その仮定の一部を列挙した.その大半は,現実とほとんど関係ない.たとえば:
企業は,無作為な時点でしか自社製品の価格を変更できない(…).これを「カルヴォ価格設定」(“Calvo pricing”) という〔日本語文献ではあまり言わないみたい〕.家計がもとめる賃金も,カルヴォ価格設定にしたがう(つまり,無作為な時点でしか変更されない).家計は,みずからの賃金に関する決定を最適化しなおせるかどうかにペイオフが左右される金融証券を購入する.こういう奇妙な金融資産を購入するので,あらゆる家計は同じ量の消費と資産保有をする.
いうまでもなく,これはファンタジーだ.今年の自分の賃金を交渉し直せるかどうかにペイオフが左右される金融資産なんて,聞いたことある? ないよね.だって,そんな資産なんて存在しないもの.他の仮定にしたって,ミクロの証拠と照らし合わせれば,現実には当てはまらない――これは,さっき述べたモデルをつくった人たちの一人がぼくに指摘してくれた事実だ.
明らかに現実に当てはまらなかったりファンタジーだったりすることにもとづいてマクロ経済学者たちがモデルをつくるのは,どういうわけだろう? ひとつには,そうしておけば数式が「手ごろ」になるからだ.マクロ経済学者たちは,社会学者どもよりはかしこく見える程度に自分のつくる数式を難しくしておきつつ,他方で,明快な解がありえないほど難しすぎないようにもしておきたいんだよ.DSGE は,まさにそのちょうどいい塩梅にハマってくれる.
こういうモデル構築をやってるマクロ経済学者たちは,ときに,自分たちがやってることを擁護するためにミルトン・フリードマンの有名な「ビリヤードボール競技者の喩え」を引き合いに出すことがある.ビリヤードボールをうまくやるのに,ボールを突き飛ばすときの物理学や生理学をすべては把握しておく必要なんてない.ボールを突く方法だけわかっていれば,あとは体がうまいことやってくれる――そういう喩えだ.経済学にこの原則を当てはめると,モデルがマクロのデータに合致できているかぎり――雇用や経済成長その他の変動全体に合致さえしていれば――モデルを組み立てる積み木ひとつひとつの部分は,べつにミクロのデータに合致していなくてかまわない,ということになる.
でも,これはかなり弱い擁護だ.理由はたくさんある.第一に,これは「ルーカス批判」ってやつに違反してる――もしもマクロ・モデルの「ミクロ的基礎」が実際に現実にもとづいていないなら,使おうとしたとたんに,そのモデルは瓦解して機能しなくなってしまいかねない.第二に,マクロ経済のデータなんて,そんなにたくさんありはしない.
これって,ずいぶんへんてこな主張じゃない? これまで,いろんな国々のマクロデータを毎月毎月,数十年にもわたって追跡してきたわけだよね.でも,そういうデータポイントの大半は,お互いにすごく依存している――ある月に失業率が高くなっているなら,その翌月も高くなる見込みが大きい.2008年にアメリカ経済がガタガタになったときには,ドイツ経済や日本経済も同じくガタガタになった.だから,正味のところ,情報量はずいぶんと少ない.
統計学者の Daniel J. McDonald と Cosma Shalizi はしばらく DSGE モデルを研究してきて,ずいぶんとえらい論文を出してる.彼らは,とりわけ人気の高いモデルをシミュレーションした――プレスコットの元祖 RBC や,現代のニューケインジアン・モデルでいちばん広く使われてるやつをシミュレーションした.で,彼らがどんなことを見出したかっていうと,モデルの仮定がぜんぶきっちり正しいときにすら,正しいパラメタの数値を学習するのに数千年もかかってしまうってことだ.
(追記: McDonald & Shalizi の最初の研究結果は再現されてないと主張する人が大勢いる.どうやら,ちょっと様子を見ておいた方がいいみたいだ.ただ,正直に言うと,この論文を引用したのは,これが新しくってわりと面白かったからだ.現代 DSGE モデルを推計する難しさは,とっくによく知られてる.)
それでおしまいじゃない.もっとマズイんだ.McDonal & Shalizi は,意味をなさない馬鹿げたデータに DSGE モデルを適合させようとも試みている.彼らは,消費と失業率を入れ換えたり,生産性と消費を入れ換えたりした――つまり,まるっきり意味をなさない経済をでっちあげた.で,なにがわかったか.DSGE モデルは,現実経済のときと比べて,このおばかデータにも同じくらいうまく合致したんだ――場合によっては,こっちの方がよりうまく合致することもあった.つまり,こういうマクロ経済モデルと実証データとが合致してるらしい場合も,おそらくは偶然の一致なんだよ.
案の定,DSGE モデルは経済の予測もへたくそだ――多くの場合には,単純化しすぎた空想のモデルにも劣る(そっちのモデルは,不変 AR(1) モデルと呼ばれてる).
「じゃあ,データにも合致しないし,経済の予測もできないってことなら,DSGE モデルが実際にやってることはなんなの?」 民間企業であれば,答えは「なにも」だ――DSGE モデルを使った金融や実践での応用の試みはすべて,虚無に帰してる.他方で,政策担当者たちの場合にはどうかっていうと,答えはやっぱり「なにも」に近づいてきてる.2008年金融危機とその後の景気後退の際には,各国の中央銀行で DSGE モデルを使ったけれど,モデルがあまりにもぎこちなくて直観的でなく,すぐに答えが出てこないことがわかった――むしろ,遠い昔に使ってた超単純で定性的なモデルに舞い戻るはめになった.アメリカの FRB も,いろんな相関をとった巨大スプレッドシートを相変わらず使ってる.
ようするに,DSGE は――過去40年のマクロ経済理論の大革新だったにもかかわらず――ここまでのところ,経済学論文の量産以外になんら有用な使いみちが証明されていない.
マクロ経済学者たちがこの残念な結果を擁護しようとして,たまにこんなことを言う――「あらゆるモデルは間違ってるんだよ」(統計学者のジョージ・ボックスからの引用句)とか,「モデルを打ち負かすのにもモデルが要るんだよ」.でも,利用できる単純なモデルはたくさんある.そういうモデルの方がずっと理解しやすくて使いやすいし,いかなる実証的な意味でも間違いなくその成績は DSGE モデルに劣らない.
こういう他の選択肢を採用するマクロ論文はほんのわずかしかなくって,相変わらず,大半の論文は DSGE を使ってる.「なんで?」 理由は人による.たとえば,とにかくマクロ経済学者どうしがしゃべるのに使う共通言語に DSGE がなっているから,という人たちもいるし,「こんなに数学ができるんですよ」って自分の力量を証明する方便にしてる人たちもいる.それに,「DSGE モデルに入れる仮定がそのうち改善されて,当初の目論見が果たされ,経済を研究する真に科学的なモデルができあがる」って,本心から信じてる人たちもいる.
個人的には,ぼくはそこまで楽観的じゃない.ただ,DSGE の問題点の根っこはマクロ経済に関するすごく深い事実にあることを考えると――つまり,単純化のための仮定が大量に必要で,良質のデータが欠けていることに問題の根っこがあることを考えると――あきらかに DSGE よりすぐれたパラダイムがいきなり登場するなんてことはなさそうに思う.マクロ経済学は,いまだに揺籃期にある分野なんだ.経済全体をモデル化するのは,とんでもなく難しい.Google オークションや肝臓の臓器提供なんかをモデル化するのよりもずっと難しいんだ.それに,経済全体を本当に理解するまでには,まだしばらく時間がかかると予想すべき理由には事欠かない.もしかすると,すごく時間がかかるかもね.
一方で,マクロ経済学者たちがやってる仕事は,経済のモデル化だけじゃない――経済のあっちの部分やこっちの部分がどんな仕組みになって機能してるのかをさらにつきとめていく作業にも取り組んでいる.そちらの方が,ずっと進歩の余地はありそうだ.
プロト科学者 vs. 口達者なセールスマン
総じて,この記事に書いてきたことなんて,若手のマクロ経済学者たちはとっくによくわかっていて,プレスコット流のマクロ・モデルかにはずいぶんといらだっている.若手マクロ経済学者たちの多くは,もっとつつましくて答えやすい問いへの回答に時間を費やすようになってきてる――「消費者たちはどんなときに散財してどんなときに節約するよう意思決定しているのか」「事業者が投資を決定する理由はなにか」「財政刺激策や中央銀行の金利引き上げに,いろんな企業・消費者たちはどう反応するのか」などなど.
マクロで実証研究をするのは難しい.なぜって,あらゆるものが,他のあらゆるものに影響するからだ.データは乏しく,それなりの議論にするために立てなきゃいけない仮定は多すぎる.でも,「難しい」からって「不可能」ってことにはならない.マクロ経済学の裁量の頭脳たちは,この混沌状況からどうやれば知識のお宝を掘り出せるかって課題に取り組んでいる.彼らが使ってる技法の一端でもあらましを知りたいなら,エミ・ナカムラとジョン・スタインソンの論文 “Identification in Macroeconomics” をおすすめする.(今年やったナカムラのインタビューはこちら.面白いよ.)
にかく勤勉に好奇心に導かれて知的に誠実にこの世をもっとよく知ろうと取り組む科学者としてのマクロ経済学者がやるのは,まさしくこういう仕事だ.だからって,マクロが「科学」だってことにはならないよ,いまのところはね――ぼくなら,いまのマクロ経済学をプロト科学とでも呼ぶ.17世紀の医学にちょっと似てるかもしれない.それでも,正しい方向に進んでる動きはあるようだ.
とはいえ,これで満足できない人も大勢いる――とくに,評論家界隈や金融業界・政界はそうだ.マクロ経済学者たちがどんなことをやろうとしてるかなんて,たいていの人たちは本当にわかっているわけじゃない.それに,そこにどんな技術的課題があるのかってこともしっかり把握してるわけでもない.そのために,彼らは「異端」の学者を名乗る人たちが歌うセイレーンの歌に魅惑されやすい.「かつてのガリレオみたいに画期的な考えを自分たちはもっているよ」「それなのに主流の連中に抑圧されて,自分たちは黙らされているんだ」なんて主張する人たちに,ついつい惹かれがちなんだ.
もちろん,いちばん有名でいちばんあからさまな例は,MMT だ.MMT の T は「理論」(theory) の T なんだけど,実は具体的な理論なんてない――かわりに何があるかっていうと,いろんなミームと,一握りのネット上の導師(グル)たちの託宣だ.理論が正確なところどういうものなのか,その詳細がいっこうに明かされないおかげで,彼らはなにかを言ってもけっして間違うことがない――だからこそ,MMT の人たちはしょっちゅう勝利宣言をしてるんだ.それに,少数のだまされやすいジャーナリストたちも,これを助けている.でも,そんな彼らも,ときにうっかり口を滑らせて,具体的な予測をしてしまうこともある.そういうときには,MMT という企て全体がどれほど雑なのかがわかる:
ケルトン:金利引き上げによってインフレ率がさらに上昇する可能性をこれまでに考慮したことは?
ファーマン:ないですね.
実のところ,「低金利はインフレを下げる」という説は,いままさにトルコで検証されつつある.トルコの大統領 Recep Tayyip Erdogan によって,上記のツイートでステファニー・ケルトンが言っているようなアイディアが採用されたおかげだ.「で,どうなってるの?」 えっとね…トルコはいま地球上で屈指の高インフレ率になってる:
金利切り下げののち,トルコのインフレ率は,過去24年で最高の 85.5% に達している
とはいえ,現代のガリレオを気取ってる「異端の経済学者」は他にもいろいろいて,MMT は単にそのなかでとりわけとんでもない例にすぎない.金融危機を予測できると主張しながら細部をしょっちゅう間違い続け,「今度こそ金融危機がくる」と10回予測してホントに起こるのは1回だけみたいな導師(グル)めいた人物には,こと欠かない.
あらゆる異端の経済学者たちをこれでひとくくりに片付けてしまいたいわけではない.なかには,異端を名乗っていて立派な仕事をしている人たちもいるし,提示したアイディアがのちのち主流で検討されるようになりやすい人たちもいる.でも,ハックもたくさんあって,いかにも経済学者めかしつつ,経済学者ならそうは考えないことを広めようとあの手この手でつとめている人たちもいる.その手の人間を見分ける大事な手がかりは,これだと思う.「マクロにこだわりつつ,ミクロを「くだらない」と見下しがち」.〔そういう人がミクロを見下すのは〕べつに,本当にミクロがマクロほど重要ではないからじゃない――ミクロこそ,主流経済学者たちがそこそこにうまく予測できるようになった分野だからであり,実証的な論拠によってあれこれの理論が実際に反証されうる分野だからだ.各種の代替理論を売り回る口達者なセールスマンは,真偽が実際に知りようのない深海に居座る方を好む.
あれこれと失敗を重ねてきたものの――それに,ときおりプレスコットみたいな過信を起こしながらも――主流マクロ経済学者たちは,それに取って代わろうという助言屋たちよりもマクロ経済のことをよく知ってる.延々と失望する機会に事欠かない分野で実際に科学をやりつつ,彼らはゆっくりとだけれど道を切り開きつつある.その過程で,ときに袋小路に迷い込んでは来た道を引き返したり手詰まりになってしまったりすることもある.でも,この世界を理解するのなんてかんたんなものだなんて請け合った手合いは,キミになにかを売りつけようとしていたんだよ.