ノア・スミス「意識高い系の起源に関する考察・前編」(2022年9月10日)

2010年代のアメリカのイデオロギーとその起源

[Noah Smith, “Thoughts on the origins of wokeness,” Noahpinion, September 10, 2022]

2010年代のアメリカは政治文化や社会の大変動によって搔き乱された。今や多くの人が、その変動の結果として生じた社会運動や、人種や性に関する規範の変化や、歴史や国家に関する見解や、関連する社会的行動をまとめて「意識高い系1」と呼んでいる。この言葉を侮蔑語だと思っている人もいて、実際この変化に反対する人の多くは侮蔑語として使っている。…が、筆者は違う。筆者は求心力のあるムーブメントと考えるに値することに名前をつけるのは大事だと思うし、意識高い系が何であり何をしたかが完全に明らかになるまでには最低でもあと10年はかかるだろうが、ヒッピー運動やもっと前の時代の革新主義運動2と同じくらいの求心力があったことは明らかだ。

筆者は上の一文を過去形で書くことを躊躇った。意識高い系は今でも明らかにアメリカの極めて重要な勢力だ。と同時に、意識高い系を特徴付ける知的な活力の大部分は2010年代に失われた。今では意識高い系の戒律を実現するために戦っている主な人たちのうち、街頭活動家や若いネット自警団の割合は徐々に減り、確立した組織内の中年の人たちの割合が徐々に増えている。かつてはミームや思想のカンブリア爆発であったものが、今では正統派と見なされ、標準化され、制度化されている。一方、草の根の若者文化のレベルでは、すでに静かなバックラッシュが進行中であり、2010年代中頃の意識高い系の開花期に参加した人たちはもうノスタルジーを感じ始めている。浸透した多くの社会変革と同じく、意識高い系は草原の火事のように、周辺部ではまだ燃えていても、中心部では燃え尽きた。


そしてこれは、筆者がようやく意識高い系のことを、突き放して分析的観点から考えることができるようになったことを意味する。 筆者はむしろ、意識高い系がこの社会をどのように変え、どの変化が定着すべきよい変化で、どの変化は巻き戻す必要があるかについてもっと書きたい。だが筆者はまず、意識高い系がそもそもどこから来たかについての、自分の考察をまとめておこうと思う。


2021年前半の、このブログもまだ始まったばかりで、読者も今よりはるかに少なかった頃に、筆者は、意識高い系が、2010年代にあのような形で登場した理由についての記事を2点書いた。その記事は当時あまり注目を集めなかった(当時は有料記事でもあった)ので、この話題の続編として近日公開される記事の一種の前置きとして、その記事を再掲載しようと思う。


その最初の記事は、意識高い系が2010年代に爆発した理由に関する筆者の理論だ。その基本的な発想は、アメリカが非常に敬意に欠けた社会であるということ、そして、この敬意の不足が、その前の数十年で生じた多様性の増加や人種や性の平等に向けての進歩と衝突したということにある。つまり、意識高い系はかなりの程度、社会的敬意の均等化を目指す再配分運動であったと思う。


二番目の記事は、意識高い系がどこから来たか、そして、意識高い系がなぜあのような問題や思想に重点を置いたかに関する筆者の理論だ。アメリカには、不当に低く見られている集団の地位を向上させるための、半プロテスタントの社会改革運動の長い伝統があり、それは少なくとも奴隷廃止運動にまで遡る。この伝統は、アンチ意識高い系の一部が主張するような、ヨーロッパのマルクス主義の系統ではまったくなかった。むしろその思想的活力は、一部は黒人思想から、一部はプロテスタンティズムから来ていて、時にはこの両者から一度に来た。だから、意識高い系は、何か新しいものとしてではなく、アメリカ史上ときどき出現するまさにアメリカ的な何かとして見るべきだ。


とにかく、あなたが意識高い系の深い信者であるにせよ熱心な敵であるにせよ、これらの記事を先入観に囚われずに読むことをお勧めする。筆者の目的は、(現段階ではまだ)意識高い系に審判を下すことではなく、理解することだけだ。筆者はこの問題の専門家だとか権威だとか主張するわけではないが、この考察が、この社会を作り変えている力の一般の理解に貢献できることを願っている。

敬意の再分配としての意識高い系


筆者は約7年前に、筆者が「敬意の再分配」と名付けた思想に関するブログ記事を書いた。そこでの筆者の主張は、アメリカが社会階級を理由に他人を見下す非常に敬意に欠けた国であるということ、そして、社会的敬意を再配布することの方が富を再分配することより優先順位が高いということだった。以下はその記事の一部の抜粋だ:


この問題に関して、筆者の育ったアメリカは日本から学べることがいくつかあると筆者は感じる。「負け組」という言葉が、1980年代以前にも侮辱の言葉として一般的だったかどうか筆者は知らないが、ここ数十年の間にいたるところで聞かれるようになった。サービス産業で働いている人たちは、自分が何で生計を立てているかを語るとき、ほとんどいつも恥じているように見える。低熟練の労働者は横柄な態度で扱われ、そのことが彼らに絶えず「負け組」であることを思い出させる。アメリカ人は「2位は最初の負け組だ」「勝つことがすべてどころか、勝つしかないのだ」と書かれたTシャツを着る。…


筆者を含めたアメリカ人の多くは、お金に基づく狭い平等のビジョンを追求しているか、それとも、物質的不平等によって生じる「競争力」を臆面もなく賛美しているかにかかわらず、敬意の平等を忘れてしまったように見える…筆者は、良い親や親切な隣人であることが、ウォール街で1億ドル稼ぐことと同じくらいの敬意を得られる社会に戻りたい。

筆者は今ではこの記事を、自分の犯した失敗の中でもより興味深いものの1つと見なしているが、それにはいろんな理由がある。理由の1つは、物質的な不平等と社会的な不平等は、筆者が考えていたよりもはるかに絡み合っているということだ。だが、もっと大きい理由は、筆者の階級に対する関心の中では、マイノリティや女性が直面しているもっと大きな敬意の欠如が無視されていたということだ。確かにサービス産業労働者や低所得の人たちはより多くの敬意を受けるべきだが、アイデンティティに基づく敬意の欠如は、開いたまま化膿しているアメリカ社会の傷だ。

その例を1つだけ挙げると、筆者の友人ニキータ・ライ(Nikitha Rai)の最近の以下のようなツイートがある。

この逸話は別に特殊でもなければ珍しくもない。アジア系アメリカ人のほぼ全員がこのような経験を山ほどしているのだが、反アジア系感情による攻撃があまりに多発したため、今になってソーシャルメディアで告白し始めただけだ。実際、アジア系アメリカ人に対する露骨な侮辱は、アメリカではおそらく今の今まで、多かれ少なかれ文化的に許容されてきた。あのジェイ・レノ3が長年のアジア人をジョークのネタにしてきたことを、つい最近謝罪したことは注目に値する。クリス・ロック4がアカデミー賞授賞式でアジア系をジョークのネタにしたのも、つい5年前のことだ。そして、授賞式や深夜のお笑い番組での面白くもないユーモアに現れたのと同じ敬意の欠如が、マクロおよびミクロな実社会での容赦ない嘲笑や肉体的なイジメや根強い攻撃性の流れに結び付くことになるのは言うまでもない。実際に去年の世論調査によれば、中傷や人種差別的ジョークの対象になったと回答した人の割合が最も多かったのは、アジア系アメリカ人だった:


もちろん、アジア系だけが差別されていると言うつもりはない。アメリカでは黒人の多くも常に敬意の欠けた表現の対象になってきたし、ヒスパニックやイスラム教徒や女性やトランスジェンダーの人たちも同様だ…


…そして、お気づきだろうか。こうやって一連の差別の対象を書き出すと、不当に低く見られている集団に関する典型的な「意識高い系の」糾弾のように見えてくるのだ。それは偶然ではない。意識高い系の一部は、アメリカで根深い敬意の不平等に対する反乱である、と筆者は思うようになった。


(注:「意識高い系」や「意識高い系運動」といった言葉が侮蔑語だと思っている人がいることも知っているが、筆者はこの言葉をそういう意味で使っていない。筆者はこれ以外に、意識高い系の態度や思想や文化的実践の全体をまとめて記述する言葉を知らない、というだけのことだ。それを別にしても、あなたが自分の発明した用語を使うことを論敵が批判するように仕向けたとしたら、それはその論敵の弱さの現れであり、あなたに新しい用語を考えだす苦労を押し付けているのだと思う。)

ともあれ。筆者はイアン・モリス5の「どの世代も自分たちが必要とする思想を受け入れる」という原則をある種信じている。新しいイデオロギーの発展を目にしたときの、筆者の最初の疑問は常に、「このイデオロギーは、人類に差し迫ったどのような課題を解決するのだろうか?」ということだ。このような考え方に惑わされて、思想の歴史をもっともらしいお話の寄せ集めに仕立ててしまうこともあり得る。だが、2014~15年のいわゆる「意識高い系の大覚醒6」までの数年間の筆者は、アメリカは筆者が期待し予期していた通りに変化していない、という感覚に悩まされていた。2000年代および2010年代前半には、アメリカの国民とエリートの両方の多様性が増したので、「アメリカ人」が「白人および若干の黒人」から構成されるという一般的なイメージも、徐々にあっさり変わっていくだろうと筆者は予想していた。だが、そうはならなかった。アジア系やヒスパニック系の人たちが、有力なメディアに登場することはほとんどなく、政治家にもほとんど無視され、外国人であるという固定観念や思い込みによって一般に「よそ者扱い」された。筆者は当時予見していなければならなかったはずのことを、今まさに目の当たりにしている。こんな無視が続くはずがない。いつかは反動が来る、と。

「意識高い系の大覚醒」は、黒人たちにとってはむしろ、物質的な問題、特に警察の残虐行為7や所得/資産の根強い格差の問題だった。だが、黒人たちに対する敬意が欠如しているという感覚も根強くあり、それは歴史的経緯から来ている。アメリカ黒人の多くは、自分たちの先祖にこの国がしてきた悪行の歴史が、政治や大衆文化の中で十分に認識・注目されていないと感じている。そして意識高い系運動は部分的には、歴史に注目することにより、その空白を埋めようとする試みだ。

そして女性にとって、意識高い系時代の大部分は、職場における敬意が問題になった時代だった。90年代のセクハラに対する反発は一定の進歩をもたらしたが、男性の多くが女性同僚を性の対象として考えていることがわかるようなやり方で、女性同僚にセックスの話をする習慣は依然として残っていた。それはまさに聞いているだけで不快になるような敬意の欠如だった。

ゆえに筆者は、意識高い系運動の一部は、アメリカ社会における敬意の分配を再調整する試みだと思っている。意識高い系という言葉から連想される物事、つまり、 (性に中立的な)代名詞の文化8、固定観念を商売のネタにしている作家を「キャンセル9」すること、米国史を黒人中心に記述し直すこと、「不当に低く見られているあらゆる集団の声を重視する」という思想などは、明らかに敬意の問題だ。意識高い系運動には、リアルな物質的な目標(警察の予算を打ち切るなど)のある社会運動も含まれているが、その大部分は、アメリカ人同士がお互いについて話したり考えたりするやり方を変えることを目的とする文化的な運動だ。

だから筆者が敬意の再分配について書いたときの、発想自体は正しかった。筆者はその敬意を求める要求がどの方面から来るかを見落としただけだ。

だが実は、筆者の記事にはもう1つ大きな致命的な欠陥があったと思う。それは、敬意がまるでゼロサム量であるかのように、再分配の問題として定式化してしまったことだ。その定式化は間違っていた。敬意とは、総量をみんなで増やしたり減らしたりできるものなのだ。


敬意を社会的地位の同義語と考えるのは間違っている。地位とは階級で、そこで問題になるのは、誰が上で誰が下かという順位付けだ。だが敬意とはそういうものではない。CEOが威張る代わりに労働者の尊厳を尊重したりしたら、CEOの相対的な地位は低下してしまうと思う人もいるかもしれないが、世界の敬意の総量が単に増えるだけだ。本人の希望する代名詞で誰かを呼び始めたとしても、自分の地位が下がるわけではない。単に新たな敬意を生産して敬意の総供給を増やしただけだ。

同じように、 人種や男性女性を含むアメリカのあらゆるアイデンティティ集団がお互いに尊重し合うようになれば、アメリカ人はお互いをクズ呼ばわりするばかりではない文化を持つ、敬意に満ちた国を築くことができる。それはもちろん、言うは易し行うは難しだ。それはむしろ遠い先の目標であり、能天気な夢想かもしれない。現在のアメリカ人は、その夢想からこれ以上あり得ないぐらい遠いところにいる。

だが筆者が1つ心配しているのは、意識高い系運動が、筆者が2013年のブログ記事で犯したのと同じ間違いを犯して、敬意をゼロサム・ゲームと見なしてしまうということだ。アメリカの慢性的な敬意の不足が、単に白人や男性やシスジェンダー10のような伝統的に尊重されてきた集団を思い切り軽蔑すれば解消できると信じたい、という誘惑に負けることは簡単だ。
そう筆者が考えたのは、Twitter上の以下のようなやりとりを目撃したときだ:


このやりとりが筆者にサラ・ジェング11の有名なツイートを思い出させたのは言うまでもない:


白人たちに、お前たちは臭い犬と猿のキメラだとか卑屈なゴブリンだとか言うことが、この社会をよりよくするだろうか。つまり、白人たちに上から目線を止めさせ伝統的に軽蔑してきた集団に感情移入させるためには、白人たちは少し侮辱されたりイジメられたりする必要があり、それが結局はもっといたるところに敬意の満ちた社会をもたらす、という主張もありうるかもしれない。白人たちが自分たちのことを「臭い犬人間だ!」と思いながら首を垂れて歩き回り、10~20年ぐらい懺悔をした後なら、アメリカもあらゆる人に対する敬意を前提とした社会としてやり直すことができるかもしれない。

だが筆者は、そんなやり方がうまくいくとは思わない。そんなことをしたらむしろ、アメリカは敬意の総量の水準がさらに低い社会になるだけだと思う。その理由の一つは、なおさら気狂いじみたバックラッシュ運動にはまる白人が続出するだろうということだ。だが、もっと重要なことは、特定の集団を標的とした軽蔑を社会変革の実践として利用することに慣れてしまうと、その武器が誰に対しても使われるようになるということだ。そしてアメリカ社会はますます、大勢の軽蔑や軽視によって体現されるような、物質的資源や地位や他の希少な量をめぐって争う、万人の万人に対する闘争の社会になってしまうだろう。そのような闘争をするのは白人や男性に限らない

私たちはむしろ、敬意が有限の保存量12ではないと認識する必要がある。敬意は好きなだけ生産することができる。誰もがクズのように扱われる社会を作ることもできれば、誰もクズのように扱われない社会を作ることもできるのだ。

後者の社会を実現する方法を、私たちは一生懸命に考える必要がある。

(後編に続く)

訳注:

  1. woke, wokenessの訳。アメリカのwokeと日本で言う「意識高い系」がまったく同じものか、という反論は当然あり得るし、新しい訳語を当てる試みがあることも知っているが、この記事にもある通り、もともとwokeという言葉自体が、ある時代の若者の自然発生的な運動に慣用的につけられた呼び名にすぎず、厳密な定義があるわけではない。wokeと「意識高い系」は、登場した時代も年齢層も主張の傾向も大雑把には一致しているので対象をイメージしやすいし、何よりも、この記事に指摘されているような侮蔑語的な要素を併せ持つ言葉が他に見当たらないので、この訳を採用させていただいた。その違いがどうしても気になる方は、アメリカにいる意識高い系と似た人たち、と頭の中で読み換えていただければ幸いである。
  2. 1890~1920年頃のアメリカで流行った思想潮流の一つ。詳しくはこちらを参照。
  3. Jay Leno。アメリカの人気コメディアン。詳しくはこちらを参照。
  4. Chris Rock。アメリカの人気コメディアン。詳しくはこちらを参照。
  5. Ian Morris。アメリカの著名な歴史学者。詳しくはこちらを参照。
  6. Great Awokening。アメリカで歴史上何度か起こったプロテスタント信仰復興運動をGreat Awakening(大覚醒)と呼ぶが、おそらくそれにひっかけてつけられた名前(綴りが微妙に違うことに注意)で、この記事にある通り、2015年頃のwokeの大流行を指す。
  7. いわゆるBLM(Black Lives Matter)運動につながった黒人に対する警察官の一連の暴力を指すと思われる。
  8. ノンバイナリ―などの三人称に、いわゆる単数theyを使ったりする文化のこと。
  9. いわゆる「キャンセル・カルチャー」を指す。
  10. トランスジェンダーやノンバイナリ―ではない、誕生時に割り当てられた性別と性自認が一致する人のこと。詳しくはこちらを参照。
  11. Sarah Jeong。アメリカの著名ITジャーナリスト。詳しくはこちらの英語記事を参照。
  12. 物理学ではエネルギーや運動量のような、総量の決して変わらない量を保存量と呼ぶが、その概念を比喩的に使っていると思われる。

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