いや,ちがうよ.でも,みんながそう思うだけの理由はあるよ.
〔▲ 労働階級(右)が支配階級/億万長者(左)に銃をぶっ放そうとしてるところに経済学者ではなくウォールストリート・ジャーナルが身を挺してかばう,の図〕
統計学の博士課程学生 Kareem Carr が先日 Twitter で投げた問いかけが怒りを呼んでいる:
As far as I can tell, economics is succeeding quite well in its intended goal of providing supporting arguments for the inaction of the ruling classes. Not sure they have any other big plans besides that. 😅 https://t.co/gDKcwz2ffN
— 🔥 Kareem Carr 🔥 (@kareem_carr) July 4, 2021
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ぼくが知るかぎり,支配階級の無為を支持する論拠を提供するっていう所期の目標を,経済学はかなりうまく達成してる.それ以外に,経済学になにか大きな計画があるのかはよくわからない.😅
この問いかけが反発を買って,活発な反論と議論の応酬が続いている(Twitter でありがちな罵倒や露悪のウンコ議論祭りに陥るのを,この議論はめずらしく 回避できてる).ただ,そこそこ面白い話題なので,記事をひとつ書いてみようと思う.
経済学の目標って,支配階級がなにもしないでいることの論拠を提供することにあるんだろうか? この記事の冒頭に載せたミーム画像は正確だろうか?
いや,ちがうね.学術的な経済学をやってる人たちは,総じて,そんな目標をもっていない.現代の経済学を成り立たせてる理論と実証研究の総体は,総じて,そんな目標を念頭に置いて書かれてはいない.Carr の言ってることは,専門外の人たちにありがちな幻想で,政治的左派と政治的右派それぞれの一部界隈がこれを広めてる(左派の人たちは,経済学を叩けるように,この幻想がホントであってほしいと思っていて,右派の人たちは自分たちの目的のために経済学の名声を利用できるように,この幻想がホントであってほしいと思ってる).
でも,この一般人の幻想に出処をたどっていくと,いくらか現実の起源が見つかる.そこで,この誤解がこうも広まって長く続いている理由を論じておくのは悪くないだろうと思う.
経済学のいろんな源流こんな都市伝説みたいなのが広まっている――「市場の『見えない手』によって社会はよくなるというアダム・スミスの宣言から経済学は始まった.」 たしかに市場のいろんな要因と自己利益が重要だってことをアダム・スミスは認識していたけれど,実は,スミスが思い描いていたよい社会は,そこで終わりじゃなかった.アダム・スミスの文章からいくらか引用しよう:
「賃金を上げると値段が上がるし品物の売り上げは悪くなる悪影響があると商人たちや親方たちは大いに不平を言う.他方で,好収益がおよぼす悪影響については,彼らはなにも言わない.自分たちの利得がおよぼす害悪には,口をつぐんでいるのだ.」
「金持ちは公の出費に貢献すべきであり,その貢献は当人の収入に比例すべきであるばかりか,それを上回る貢献をすべきだという考えはさほどおかしなものではない.」
「人々の大多数が貧しく惨めな社会は,当然,幸福に繁栄しえない.」
「貧困がいちじるしいときには,決まって,格差もいちじるしい.富豪がひとりいれば,少なくとも五百人の貧者が必ずいる.そして,ごく一握りが富み栄える一方には多くの人々の極貧があるものだ.」
「同じ種類の商いをしている者どうしが顔を合わせることはそうそうない.娯楽や気晴らしのために会うことすらそうそうない.ところが,その彼らが会って話を交わせば,市民たちを向こうに回した共謀やなんらかの計略によって,「モノの値段を上げてやろう」というところに話題が落ち着く.」
――などなど.アダム・スミスは,格差と貧困が存在していることを厳しく批判し,その格差は財産権のせいだと非難し,解決策として累進課税を提唱し,利潤にはなにかよからぬところがあるのではないかと疑う気質の持ち主だった.アダム・スミスの言っていることは,ミルトン・フリードマンよりもトマ・ピケティが言いそうな話に聞こえる.
こういうスミスの利潤に向ける懐疑と再分配への熱意は,経済理論の核心に組み込まれている.スミスが言うゼロ利潤条件によれば,うまく機能している市場では,利潤率は資本のコストを上回らない――あちこちで企業が大きな利幅を得ているなら,その市場は正しく機能していないんじゃないかと疑った方がいい.これが反トラスト運動の基礎だ.いまアメリカでは,リナ・カーンが連邦取引委員会の委員長に就任して,反トラスト運動がふたたび力をつけてきている.反トラスト運動にはポピュリスト扇動家はほんの一握りしかいない.運動の多くは,経済学者たちが原動力になった知的運動だ.
一方,スミスによる再分配の訴えは,厚生経済学の第二定理に息づいている.この定理は,経済学の基本的な定理のひとつだと考えられている――概論講義でもれなく学生に教えられる項目だ.第二定理によれば,社会の富の初期分布を変えたら,基本的にお望みのどんな結果でももたらせられる.これにより,富の再分配をすべきでないと考える人たちの方が,挙証責任を負うことになる――つまり,課税で生じる害悪の方が高くつきすぎてしまうってことを,彼らが証明しなくちゃいけない.一部には再分配に反対した経済学者たちもこれまでにいたけれど,経済学業界ではこのアイディアに入れあげる傾向の方が伝統的にずっと優勢だ.自由放任を熱烈に支持したミルトン・フリードマンですら,負の所得税ってアイディアを支持していた.これは,貧しい人にほど逆にお金を渡そうっていう所得税制だ.
税率がすごく高くなるといくらかコストが生じると総じて経済学者たちは信じてるけれど,2013年の調査では,経済学者たちのうち,連邦増税を好ましいと答えた人たちは 97% にのぼるのに対して,一般市民でそう答えた人たちは 2/3 にすぎない.また,2020年の調査だと,最高限界税率を引き上げても経済成長に打撃は生じないと考える経済学者が大半を占めている.
この数十年のあいだに,経済に政府が介入すべき他の理由を一流の経済学者たちが見つけ出してきた.ほんの一握りの例を挙げよう:
いま挙げた例は,当然,すべてを網羅していない.とはいえ,この分野でも指折りの経済学者たちが――ノーベル賞受賞者だけでなくこの分野の伝説級の人たちも含めて――格差・貧困・市場の機能不全を緩和するための行動を支配階級がとるのを正当化する理由を見つけようと努めてきたのがわかる.
さて,こんな疑問がわいてる人たちもいるかもしれない――実際,左派の人たちでこう問いかける人たちは多いんだけど――「そもそも,なんでそんな正当化が必要なの? 政府による行動はいいもので必要なんだと,経済学者たちはただ仮定してすませなかったの? 基礎となる仮定に『自由市場はいいものだ』っておいて出発したのは,どうして? そんな仮定をおくから,市場が機能不全になる理由を見つける仕事をしなくちゃいけなくなるんでしょ?」
さて,その答えはこれだ:「そんな仮定おいてないよ.」 経済における市場の力が重要だってことをいま挙げた経済学者たちはみんな認識していたけれど,「自由放任はいいことだ」って仮定から出発した人は,彼らのなかにひとりもいない.でも,ある種の政府の行動が必要だからといって,政府がやるありとあらゆる行動がいいものだってことにはならない――というか,それはよくある論理的誤謬だ.なんらかの政府介入が必要だとわかっていても,じゃあどの種類の政府介入が必要なのかをつきとめる仕事は残ってる.
ものの喩えをひとつ出すと,公衆衛生の専門家たちのことを考えてみるといい.貧困や格差は市場経済の自然状態だとアダム・スミスが認識していたのと同じように,人は自然と病気になるのを公衆衛生の人たちも認識していて,みんなが病気になるのを予防する方法を探している.そして.手洗いや浄水といった対策が病気予防にすごく効果があるのがやがて発見される.公衆衛生の専門家たちも,公衆衛生の介入策が悪いって仮定から出発したわけじゃない――ただ,どの介入がいいのかを探り当てなくちゃいけなかっただけだ.
自由市場への転回さて,経済学業界がみんなそろって政府介入を歓迎しているわけではない.累進課税・財政刺激・福祉・政府による健康保険の提供などなどに反対論を唱える経済学者たちも,少なくともごく一部には昔からずっといる.そういう人たちが大勢いた時期もあったし,そういう人たちが経済学業界内ですごく力をもった時期もあった.20世紀序盤(金ぴか時代)がそういう時期だった.でも,大恐慌が起きると,「政府は受動的な傍観者でいるべきだ」という考えは一掃されてしまった.1970年代と80年代には,自由放任が盛り返して流行した.
70年代と80年代のリバタリアニズム経済学の根っこをたどると,20世紀中盤のモンペルラン協会とシカゴ大学経済学部にたどりつく.フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンやジョージ・スティグラーといった経済学者たちは自覚的にあけすけにイデオロギー色を出して「小さな政府」イデオロギーを推進した.この動きが最高潮を迎えたのは,1980年にフリードマンによる有名なテレビ特番『選択の自由』が放映されたときだ.この番組で,フリードマンはリバタリアンの各種原則と経済理論(単純すぎるところが多々あっていまや廃れてしまってる理論)を組み合わせて,幅広くいろんな政策で自由放任アプローチをとることを提唱した.もちろん,これは政界におけるレーガンとサッチャーの革命とかなり強く連動していた.
証拠はもちあわせてないけれど,年長の経済学者たちと話をするとこの自由市場への転回をきっかけに,大勢の政治的保守の人たちが経済学業界に引き寄せられてきたんだなって感じる.学術業界全般が強く左派に向かっていた時期に,野心ある一部の若者たちの目には経済学が「保守の科学」に見えていたらしい.経済学業界の各種の政治的なつながりに,この残滓が見てとれる――民主党支持と共和党支持の比率を見ると,経済学だけは 5.5対1 になっている.かたや,社会学では 43.8 対 1 だし,政治学では 8.1 対 1 という状況だ.(註記: 政治的つながりの出典を質問してくれた人たちがいた.Klein & Stern の 2006年論文では,経済学者たちの民主-共和比率が 2.5 対 1 になっていて,Langbert et al. の2016年論文だと 4.5 対 1 になってる一方,社会科学全般では 11.5 対 1 になってる.政治献金のデータから得られる同様の証拠はこちらを参照.)
ともあれ,自由市場への転回は,経済学業界にいろんな影響をいまなお残している.「法と経済学」という新しい研究分野はシカゴ学派が優勢で,もっと会社を大きくしたいと模索してる大企業に強力な支援を提供している.「今回の合併で経済の効率が向上するんです」と法廷で企業が論じるのを援護する専門家の証人に立つ副業で大金をもらっている経済学者も一部にいる(ちなみに,たいていの場合に,合併で効率は上がらない).これに対して,新しい反トラスト運動が反撃をちょうどはじめたところだ.
マクロ経済学は,いっときだけ,政府介入反対派が優勢を占めるようになった.ロバート・ルーカスやエド・プレスコットといった経済学者たちは,「景気後退は最適な経済的結果だ!」(なんですと!?)と主張していろんなモデルをつくり,景気後退に対処しようとしても,かえって事態を悪化させてしまうばかりだと論じた.そういうモデルが,マクロ経済学では数理的な標準になった.もっと新しいモデルは財政刺激をすべきまっとうな理由をあれこれもたらしているけれど,そのために彼らはものすごく苦心せざるをえなかった――「介入しないのが基本線」という左派の批判がほんとに当たってる稀な事例が,これだ.
一方,「自由市場にまかせとけ」派は,経済学教育で深い影響をおよぼしている.自由市場のいろんなアイディアを基本的に支持してるグレッグ・マンキューの教科書は,学部生向けの入門教科書の標準になっている.ここ最近になってようやく,クルーグマンの教科書や CORE プロジェクトみたいな教材にとってかわられはじめてるところだ.
経済学業界におけるこの自由市場への転回は,アメリカ国内の政治情勢の全般的な変化と密接に連動してる.そして,おそらく,〔冒頭に引用したツイートで〕 Carr が信じているのと同じように,「経済学ってのは,政府がなにもしないことをイデオロギー的に擁護するための分野なんでしょ」と多くの人がいま信じてる大きな理由は,そこにあるんだろう.でも,理由はそれだけではない.
ポップ経済論実は,たいていの人がふだん接している「経済学」は,主流の学術的な経済学ですらない.みんなが接しているのは,ポップ版の保守イデオロギーだ.資金潤沢な党派的シンクタンクの放送局が放映してる番組や,右派寄りの出版物や,テレビに出てるペテン師を通じて,みんなはこれに触れている.いわゆる「サプライサイド経済学者」たちは,訓練を受けた経済学者ですらなくって,Larry Kudlow や Jude Wanniski みたいな政治コラムニストや評論家だったりする場合が多い.
このプロセスをしっかり記述してる本に,James Kwak の好著『エコノミズム:ダメ経済学と格差の拡大』がある.ぜひ,一読してみてほしい.インチキ評論家たちがなにをやったかというと,実際の経済学研究から得られる論拠はたいして(全く?)提示しないまま,経済学の言葉を使って自分の政治的見解を語った.彼らの話がでたらめだと知ってる研究者たちは象牙の塔から出て声を上げなかった.こうして,世間の人たちが認識する「経済学」はますますメディアのおしゃべりマシンたちに支配されるようになっていった.
Carr が経済学業界の印象をどこで仕入れてきたのかに目を向けると,その出処は…やっぱりポップ経済論だったよね.
I’m not a consumer of econ academic literature. I got a bit of micro and macro a while back. I used to have a subscription to WSJ and the Economist about 10 years ago. I listen to Russ Robert’s pod to keep a toe in that world but I think he ended it this year.
— 🔥 Kareem Carr 🔥 (@kareem_carr) July 4, 2021
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ぼくは経済学の学術文献を普段から読んでるわけじゃないよ.ミクロとマクロをやったのはけっこう昔だ.10年くらい前は,『ウォールストリート・ジャーナル』と『エコノミスト』を購読してた.経済学界隈の話をかじりつづけるために Russ Roberts のポッドキャストを聞いてるけれど,たしか今年で終了したんじゃなかったかな.
さて,公正を期して言っておくと,Economist 誌はここ数年で政府介入支持の方向に大きく方針を変えているし,Russ Roberts もそっちの方向に移ってきてる.でも,『ウォールストリート・ジャーナル』の紙面をもとに経済学がどういうものかを理解していると,経済学が実際に言っていることを正確に把握するのは難しい.
で,そこが問題なんだよ.
情勢をひっくり返すここ数十年のあいだに,経済学業界でものすごく大きくて重要な変化が3つ起きた.そのどれもが,70年代と80年代の自由市場の波にさからい,世間に流布する資金潤沢な「経済論」にあらがうものとなっている.
第一に,経済学業界は,以前よりもずっと実証的になってきている.
▲変化する経済研究の性質: 経済学のトップ学術誌に掲載された論文のさまざまな手法が全体に占める割合.
水色: 理論研究 / 淡いグレー: シミュレーションと理論 / 濃いグレー: 実証(データを借用) / 青: 実証(独自データ)/ 緑: 実験
理論でうまくいくかいかないかは,実地にうまく機能するかどうかほど重視されなくなっている.論文にはいまも理論を論じるセクションがたいてい含まれているけれど,それだって以前よりも現象本位だ――観察される現象にさまざまな説明を提案しているのであって,数式をまぶした哲学とはちがう.一方,新しく登場した各種の研究手法は実験に近いやり方をとっていて,これらが急速に優勢になってきている.
実証への転回が起こったことで,経済学者たちは証拠に説得されるのを受け入れやすくなっている.これまでずっと,最低賃金〔の引き上げ〕によって雇用に悪影響が出る可能性を理論は支持してきた(少なくとも,ある程度以上の最低賃金引き上げによる悪影響がありうることを支持してきた).ところが,近年になって,いっそう信頼できる実証的な研究結果が洪水のように到来すると,これに説得されて,経済学者たちは最低賃金に好意的な方向へと大きく動いている:
2つ目の変化は,学術系の経済学者たちが世間の議論に参加する意欲を強めている点だ.トマ・ピケティ,ポール・クルーグマン,ガブリエル・ザックマンといった主導的なメディア言論人たちは,いまや左寄りになっている.それに,全体的に左寄りの経済学系 Twitter 界隈の影響は強まってきている.このどちらも,80年代自由市場メディアマシンの制度上の遺物に対してバランスをとる助けになっている.
他方で,3つ目の,とくに重要な変化は,経済学業界そのものの変化だ.自由市場への転回はおわった.経済学者たちのあいだで,格差の懸念は急速に高まってきてる.この点の証拠は,経済学者たちが論文で用いている言葉に見つかる.たった一例だけど,グラフを示そう:
〔▲ 「トップ1%」を意味するなんらかの事柄に言及する研究論文の割合〕
言葉だけじゃない.合衆国や世界を悩ませている経済問題を解決するために政府がとれる対策の発見を目標とした大規模な研究プログラムは,いまや多数にのぼっている.そうしたプログラムには,こんなのがある:
――などなど.
その一方で,経済学業界の各種制度・団体は,介入志向の強い学者たちがますます優勢になってきている.たとえば,すごく重要なアメリカ経済学会のここ7代の会長たちは,次の面々だ:
他方で,若手注目株の経済学者たちは,政府介入の熱心な推進者で格差を親の敵にしている.
経済学のアイディアがこうして左寄りへに移行しているのは,世間が全体的に左寄りに移行しているのと対応している――レーガンとサッチャーの時代は終わって,自由市場への転回のいろんな短所がこれ以上ないくらい露わになっている.経済学者たちは,別に世間の声に押されて左寄りに移ってるわけじゃないけれど,現実世界で起きてることにまるっきり目を向けていないわけでもない.
ともあれ,Carr が言ってるような経済学業界のステレオタイプが(さいわいにも)誤解である理由が,これではっきりわかってもらえればと思う.たしかに,とりわけ発言力の大きい指導者たちの多くや,ゆるく連携しあった政治評論家たちの一団がそろって政府の無為を熱心に推し進めていた時期が,経済学にはあった.その時期はとっくに終わってる.