貧困と衰退を称えてみたって環境や貧しい人たちの助けになんてならない
1年半まえ,「脱成長論はろくでもないってみんなも気づきつつある」ってタイトルの記事を書いた〔日本語版〕.あの頃,脱成長運動はアメリカでちょっとだけ注目を集めつつあった.気候変動に対抗する主要な行動をすすめようとする人々の後押しの一環としてだ.でも,エズラ・クライン,ブランコ・ミラノヴィッチ,ケルシー・パイパーといった著作家たちが意見を言葉にして,この考えを批判した.要点をかいつまんでいうと:
- クラインの指摘――〔脱成長で求められる〕生活水準の大幅な低下は,豊かな国々では政治的に受け入れられそうにない.
- ミラノヴィッチは次の点を論じた――世界規模で意味のある脱成長が実現されるには,豊かな国々をこえて運動が広まらないといけない.他方で,脱成長のためには,貧しい国々が貧困から抜け出すのを止めなくてはならない.これは,政治的に実現困難だし,道義的に間違っている
- パイパーの主張――世界規模で足並みを揃えて脱成長を進めるためには,〔政府による〕中央での計画経済が必要となる.その規模は,実際にできる範囲を超えている.
以上の3点は正確だし,論拠のたしかな論点だ.これら3つを合わせると,合衆国やアジア,さらには世界の他のほぼあらゆる地域で,脱成長がまともな支持を得る見込みは絶えそうに思える.
ところが,脱成長が知的な尊敬を受け,人気もそれなりに得ている地域がひとつだけある.それは,脱成長運動の故郷でもある欧州だ.ついこの前,欧州議会は,ブリュッセルで「成長を超えて」(Beyond Growth) 会議というイベントを主催した.その会議で,欧州委員会委員長の Ursula von der Leyen が演説をした.経済学者の Nathan Lane が会議の様子をライブでツイートしてたし,興味があれば YouTube でいろんなプレゼンの動画も視聴できる.
とはいえ,じゃあ意図的に経済成長を止めたり経済をわざと縮小させる中央計画を EU が採用するのをぼくが心配してるかっていえば,そんなことはない.というか,このあとすぐに説明するように,脱成長を唱えてる人たちは自分たちの思想をすっかり不定形にしてくれてるので,基本的に社会民主主義をいっそう強めたり環境保護への関心を強めたりする方向への動きならなんだって「脱成長」政策のブランドを名乗れてしまう.
ただ,脱成長思想は,もっと気づきにくいかたちで欧州経済をむしばむんじゃないかと思う.脱成長を唱える人たちは,「GDP を減らすことこそ自分たちの考えのかなめだ」ととらえることを選んでいる.そのため,経済が衰退すればむしろ彼らにとっては手柄になる.そのため,物理的にも社会的にも現状のまま停滞することを主な目標にしているアクターたちは,経済の下降によってそろって逆に力を得ることになる――脱成長を唱えてる人たち当人がズバリのぞむものが現状維持ではなくてもだ.
というわけで,脱成長っていう思想はやっつけておかないといけない.アメリカのためには必要ないとしても,欧州のためには,やっつけておく必要がある.前回の記事では,もっぱら他の人たちがすでに脱成長について述べていたことを紹介しただけだった.けれど,さっきの会議をきっかけに,脱成長の文献とその修辞にもうちょっと深く首を突っ込んでみようって気になった.案の定というかなんというか,そこに見つかったのは,まるっきり理屈になってない話だった.学術的なプロジェクトとしてもまるでダメだし,政策プランとしてもダメだ.ちょっとそのへんの話を掘り下げて,理由を解説しよう.
脱成長論は,左派的な修辞とニセ科学をいっぱい,あとは本物の科学のかけらを少々,これを全部混ぜてできあがってる
脱成長について知るのに好適のリソースは,Timothée Parrique のウェブサイトだ.このウェブサイトでは,脱成長の研究文献のまとめを2つおすすめしてる: Kallis et al. (2018) と Fitzpatrick et al. (2022) の2つだ.この2本の論文に目をとおすと,脱成長の論議でなにがおきてるのかほどほどにわかる.
まずは,Kallis et al. から見ていこう.アブストラクトを抜粋しよう:
そのイデオロギーや経済成長にもとづく発展の各種コストに批判的な知識を産み出すにあたって,研究者や活動家のあいだで,「脱成長」という言葉がますます使われるようになってきている.脱成長のためには,資源やエネルギー利用の減少につながる政治・経済の抜本的再編が課題となる.脱成長仮説では,そうした社会の変換が必要であり,望ましくもあり,可能だと想定している.その実現のための条件として,さらなる研究が必要とされている.(…)本研究では,経済成長がないなかでの経済の安定に関する研究と,経済成長なしでうまく運営されてきた社会の研究を検討する.(…)この変化のめざましい生産的な研究アジェンダでは,もはや科学で無視して済ませられなくなっている持続可能性をめぐる不都合な問いが問いかけられる.
こんな具合に,脱成長を唱えてる人たちは,かなりあけすけに,これが活動家のアジェンダなのだと認めてる.これは,真実の発見を目指すものじゃない.脱成長を唱える人たちは,すでに自分たちにとっての真実を見つけてる.彼らにとって,「脱成長はのぞましくてよいことだ」っていうのは,すでに真実なんだ.結論を下し終えた彼らは,その結論を支持する研究はないものかと探している(あるいは,少なくとも,結論を支持していそうに彼らには思えるものを探してる).これは折伏の実践であって,開いた態度で世界の仕組みを知ろうとする探求とはちがう.脱成長の人たちが研究を検討して,こんな結論を下す見込みはゼロだ――「ううん,ていうか,どうも経済成長ってやっぱりいいことみたいっぽいね.」 だから,脱成長の人たちが参照して引き合いに出す研究は,たんに都合がいいものだけ選り好みしてるだけじゃなく,すでに決まった筋書きを支持するように歪めてること請け合いだ.
この知的プロジェクトは,意図的に大言壮語をやっている.自分たちが取り込みたいと思ってる分野と主題を図解するために Kallis et al. が掲載してる図を見てもらおうか:
この図は,広大でもあるしぼんやりもしている.「経済におけるエネルギーと資源の役割」って主題は,すでに膨大な人数の研究者たちによる尽力をスポンジのように吸い込んでまだ足りないくらいなのに,この図では箱のなかの下位主題になってる.
それでいて,脱成長の人たちが引用してるのはどういう人たちなのかと調べてみると,こういう分野の定評ある研究者は一人も出てこない.論文の参照文献リストを眺めてみよう.こういう学術誌が並んでるのが見てとれる:
- 『環境価値』(Environmental Values)
- 『未来』(Futures)
- 『地域環境』(Local Environment)
- 『生態経済学』(Ecological Economics)
- 『テクノロジー予想と社会変化』(Technological Forecasting and Social Change)
- 『幸福研究ジャーナル』(Journal of Happiness Studies)
- 『よりクリーンな生産ジャーナル』(Journal of Cleaner Production)
- 『政治生態学ジャーナル』(Journal of Political Ecology)
- 『金融と環境政策のマクロ経済学』(Finance and the Macroeconomics of Environmental Policies)
……などなど.もう一方の Fitzpatrick et al. (2022) に目を向けても,同じようなリストが載っている.
いろいろ並んでる学術誌の名前を見ても心当たりがないなら,それには理由がある.こういう学術誌は,経済学・生態学・歴史学・社会学のトップ学術誌ではないばかりか,それぞれの分野の研究者たちがまともな学術誌と呼ぶものですらない.脱成長を唱える人たちや,総じてそれに連なる人たちによってつくりだされた名も知られない学術誌だ.
当たり前だけど,べつに,経済学や生態学や社会学の主流と同じ見解をもたなくちゃいけない,なんてことはない.でも,こういう学術分野を批判してひっくり返してやろうっていうなら,少なくとも,その分野と渡り合わなくちゃいけない.せめて,その主流の人たちがどんなことを言っているのかわかっておくべきだ.それではじめて,反駁だってできるんだから.脱成長を唱える人たちと接触すると,「この人は主流の研究がどんなこと言ってるのかぜんぜんわかってないな」って,たちどころにはっきりする――少なくとも,経済学に関してはそうだ.たとえば,イギリスの人類学者ジェイソン・ヒッケルは名の知れた脱成長研究者であり,脱成長運動のスポークスマンでもある.ブリュッセルで催されたとあるイベントでヒッケルが主張したことを,Nathan Lane が記録してる.ちょっと見てほしい:
経済学の批判: 「いまの経済学で優勢な想定にこういうものがある.どれほど有害であろうと関係なく,我々が本当に必要としてるかどうかに関係なく,あらゆる産業はその生産を毎年ごとに増やさなくてはいけない,という想定だ.
ぼくは経済学の博士課程をやりとげたし,経済学の論文もたくさん読んできた.それでいて,ぼくがこれまでに話したことのある経済学者たちのなかで,ヒッケルが言ったようなことを考えてる人なんて一人もいない.それに,彼が言うような結論を下してる経済学論文だってひとつも見たことがない.ヒッケルは,完全にこれをでっちあげてしまってる.
もしも経済学の初歩を知ってたら,ヒッケルは次の点を認識できるだろうにね――「環境の外部性が存在するってことからは,自分たちがやってることがどれほど破壊的だろうとおかまいなしに毎年毎年ずっと生産を増やし続けてはいけないってことが導き出される」 環境の外部性があるって,そういうことだよ.手早く Google 検索してみたら,環境の外部性をめぐる経済学のトップ学術誌でたくさん論文が掲載されてるのも見つけられるし,いろんなセミナーも催されてるのだってわかる.2分ほど Google 検索すればすむことを,ジェイソン・ヒッケルはやろうともしなかったわけだ.なぜって,経済学の研究文献を相手にしないっていう選択を意識的に下してしまってるからだ.こういう人は,ヒッケル一人にかぎらない.Kallis et al. (2018) の経済学のセクションをざっと眺めてみれば,たくさんの文献が引用されてるのが見てとれる.でも,そのどれひとつとして,現代の主流経済学者や学術誌の文献じゃない.
生態学や社会学について,ぼくは経済学ほどには文献を知らない.ただ,脱成長文献レビューに掲げられてる参照文献リストを見てみると,このパターンはいたるところにあるらしいことがうかがえる――脱成長を唱える人たちは,自分たちのマスタースキームに取り込もうと意図してるいろんな学術分野のどれであろうと,その既存文献にまともに取り組んでいない.そのかわりに,既存の経済学・生態学・歴史学・社会学をまるごとスルーしてすませようと試みている.そこで彼らがなにをやっているかと言えば,ほぼ全面的に自分たちの仲間内だけで完結した知識の代替宇宙をつくりだす試みだ.その代替宇宙のなかでは,研究者たちは――決め打ちされた脱成長の結論の共有にもとづくクラブに参加してる人たちは――お互いに論文を引用し合うことでお互いの評判を築き上げている.
そうやってお互いに引用しあってできあがるウェブは,参入障壁として機能する.この脱成長の迷宮に入り込もうとする冒険者は,あっちの論文からこっちの論文へとぐるぐるさまよいつづけることになる.いくらさまよってみたところで,論文を1つ読み終えるたびにあらたに得られる理解はほんのちっぽけなものでしかない.つまるところ,脱成長を唱える人たちが提示してる思想パッケージをすっかり理解できる人というのは,限られた人生から何時間も何時間も膨大な文献の山を読んで費やしてもかまわないという人たちしかいない――つまり,本人もまた脱成長を唱える人であるか,あるいは,視野を狭めてひたすらこれに没頭してしまうような人間か,どちらかだ.
(こういう風に成り立ってる知識の正典の山は,自己完結して批判や挑戦を妨げるはたらきをしている.これと同じはたらきは現代科学の営みにも少しばかり存在している.主流の研究でも,ときに同じことがなされてる――経済学にも,これと似たようなことをやってる下位分野がいくらかあって,言おうと思えば名指しもできる――でも,こういう自己完結はよろしくない.)
とはいえ,脱成長には実際の科学や歴史学や経済学となんのつながりもないっていうわけじゃない.たとえば,以前,脱成長を唱えてる人が,Science に掲載された Steffen et al. (2015) の論文を教示してくれたことがあった――声望のある科学者たちが,すごく評価の高い主流学術誌に載せた論文だ.その論文を読んでみたら,ようするにこういうことが論じられていた――人類はいま,あまりにもたくさんの窒素とリンを使ってしまっているし,生物多様性をあまりにも多く失わせてしまっている.この論文がいい論文だと仮定したとして――ちなみに,必ず批判があるはずなのに,これにどういう批判があるのか,脱成長を唱える人たちはひとつも紹介してくれない――これは脱成長論がおりなすタペストリーのほんの一端にすぎない.かりに,ぼくらが窒素とリンの使用を減らして,なおかつ経済成長を続けたとしたら,どうなんだろう? これまでにも,ぼくらは他のいろんな天然資源の使用量を減らしてきたよね.そう問いかけてみたところで,脱成長の人たちはただあしらうばかりだ.さっきのインフォグラフィックにも明言されてるとおり,「グリーンな経済成長の見込みは薄い」という結論も,すでに決め打ちされてるんだ.
ちなみに,その結論の根拠は薄弱だ.脱成長を唱える人たちの中心的な主張に,こういうのがある――「経済成長と環境への打撃や資源利用とを分離するのは不可能だ.」 Parrique が長大な文章を書いて,この考えが正しいと考える理由を説明してる.その内容は,これまでにぼくが読んできた脱成長論で言われてる分離批判〔「経済成長するなら環境への打撃や資源利用は避けられない」〕と似てる.どれも共通して,過去のトレンドにもとづいて将来のトレンドを予想してる――経済成長と環境汚染・資源利用との分離は一度も起きたことがない,だから将来にも起こらないんだと彼らは言う.
もちろん,これは完全な誤謬だ.たんに前例がないからといって,不可能だってことにはならない.それでいけば,こうも言えてしまうよね――「全世界規模での脱成長なんて,これまでに一度もなされたためしがない.はい議論終了.脱成長はムリでーす.おうちに帰りましょうね-.」 こんなの公平な議論じゃないよ.だったら,「これまで経済成長が資源利用と分離されたためしなんてないんだから今後もそんな分離は起こりっこない」って言うのもダメだよ.
でもまあ,分離されたためしなんて……あるんだけどね.炭素排出を例に挙げよう.おそらく,環境への打撃のなかでも,これがいちばんの脅威だろう.これまですごくたくさんの国々で,経済成長から炭素排出の増加が切り離されてきてる:
これは相対的な分離じゃない(相対的な分離では,環境への打撃が増加しつつも,GDP の増加よりはペースが遅くなってる).それに,たんに一人あたりで割った分離でもない.これは,絶対的な分離だ.つまり,GDP が伸びる一方で炭素排出量が減少してる.さらに,これは貿易調整されてる――つまり,排出量の国外移転による減少でもない――だから,これが全世界規模で起こりっこないと考えるべき理由はない(それどころか,全世界で GDP 成長は続いてる一方で,全世界での排出量はすでにピークを過ぎているかもしれない).
この現実に直面して脱成長を唱える人たちにできることはふたつほどある.一つ目,とにかくゴールポストをズラす.〔経済成長と環境問題や資源利用増加との〕相対的な分離が達成されたあと,彼らはこう主張した――絶対的な分離は不可能だ.その論拠は歴史的なトレンドだった.その絶対的な分離がいざ起こりはじめると,脱成長を唱える人たちはこう言いだした――「はいはい,なるほど,たしかに起きてますね.でも,地球を救えるほど急速に分離が進むことはありえませんよ.」
たしかに,まだ,分離は地球を救えるほど急速に進んではいない.ここで効いてくる単語が「まだ」だ.ちょっと考えてみればすぐにわかることだけれど,地球を救えるほど急速な分離が,歴史的なデータにありありと表れてくるのは,すでに地球が救われてからだ.つまり,脱成長を唱える人たちは,「グリーンな経済成長なんてかないっこないたわけた夢ですよ」とえんえんと主張し続けられる――いざ,長年たって,そのたわけた夢が成功を収めるまでは.
脱成長を唱える人たちがとれる二つ目の対応は,具体的にあの資源やこの資源の利用に見られる減少トレンドをごまかすために,いろんな種類の資源をひとくくりにしてしまうことだ.たとえば,ジェイソン・ヒッケルをはじめとして,脱成長を唱える人たちは,資源利用の総トン数で環境への影響を計る場合がよくある.またしても歴史的なトレンドが宇宙の法則であるかのように決めてかかってるのに加えて,このやり方には,少なくとも他に2つ,すぐにわかる問題点がある.第一に,科学的に整合していない.「資源利用の総トン数でどうやって気候変動を測るの?」 「排水を1トン再利用したとして,それって,資源を新たに1トン使ったことになる?」――などなど.第二に,総トン数を使うことで,グリーンな経済成長をもたらすとびきり重要な源泉のひとつが,意図的にぼやかされてしまう――その重要な源泉とは,どれかの資源が稀少になってきたときにもっと豊富な資源で代替することだ.
ようするに,脱成長の人たちによる二つ目の対応は,科学的にすごくおそまつなんだよ.それなのに,脱成長の世界観がまるごとそっくり,こういう不見識な断定に立脚している.「分離は不可能だ」みたいなつっかい棒をはずしてしまったら,脱成長論という伽藍は,環境への打撃に関するいろんな研究のごたまぜでしかなくなる.そっちの方が科学的にはまだしも地に足がついてるけれど,それじゃあ,欧州議会の会合をまるごとひとつ催すほどのシロモノではなくなるだろうね.
脱成長を支える最後のつっかい棒は,左派的・進歩的・社会民主主義的なレトリックの数々をごたまぜにしたブリザードだ.一例を見てもらおうか.下記は,Fitzpatrick et al. (2022) からの引用だ:
脱成長は多層的概念である(…).資本主義批判(…)植民地支配批判(…)愛国心批判(…)生産主義批判(…)功利主義批判が,そこにおいて結びついている.その一方で,脱成長論では,まさしく闊達にして幸福な(…)民主的社会が構想されている(…).脱成長の核心をとらえるのは難しい.なぜなら,少なくとも3つの意味があるからだ(…).環境への圧力減少としての脱成長(…)採掘主義・新自由主義・消費主義といった望ましからぬ特定イデオロギーからの解放としての脱成長,そして,自立と充足と気遣いに立脚する社会というユートピア的目的地としての脱成長である.
バズワードのつかみどり祭りかな? これでもまだ足りないという人は,この論文の後の方に出てくる「氷山モデル」を考えてみるといい:
さて,会合では若き活動家の Anuna De Wever Van Der Heyden が登壇した(いや,実在の人間の名前だよ.ベルギーの名前なんだ.軽く読み流してね).欧州議会の会議のトリを飾るその演説は,脱成長の一環として「脱植民地化」の必要について語る内容だった:
#脱植民地化なき #脱成長はありえない.欧州議会の「脱成長を超えて」カンファレンスの閉会スピーチを視聴してください.
これを見て頭を抱えて,「ちょっと待ってくれよ,脱植民地化なんて,1960年代にとっくに終わったことじゃないの?」と不思議がってる読者もきっといるよね.そうだよ,植民地支配なんてもう終わってる.でも,左派の界隈,それもとくに欧州の左派界隈にはこういうミームが流通してるんだ.このミームによると,資本主義は実のところ植民地支配なんで,実は植民地支配はいまだにそのへんにあることになってるんだよ.そうだね,たしかにアホくさい.でも,ここで大事なのは,脱成長を唱える人たちは,ありとあらゆる左翼的な大義を自分たちのレトリックにとにかく取り込もうとしてるって点だ.
こんな具合に,脱成長論の野心は大きくて,たんに経済学・生態学・社会学・歴史学 etc. をひっくり返すだけじゃなく,中道左派のユートピア的な夢想から左翼イデオロギーまで――共産主義が崩壊してその役割を30年も昔に失ってしまっていらい,西洋を席巻してるあれこれの左翼イデオロギーまで――そのなにもかもをぜんぶ集結させる中核になることをのぞんでいる.これは,たんに活動家のプロジェクトなだけじゃない.活動家たちのいろんなプロジェクトにとっての「すべてを統べるひとつの指輪」になろうとしてるんだ.
当然ながら,こんな夢はあまりにも大それていて,とうてい成功しそうにない.スライドプレゼンテーションにとどまったまま,いつまでたっても全世界的な革命になんてつながりっこない夢だ.脱成長に集結させられたがってる他のいろんな活動家プロジェクトにしてみれば,名前を挙げてもらったことに感謝こそしても,最上位の指導者として脱成長推進勢に彼らがうやうやしく膝を屈するなんてことは,ありそうにない.それに,脱成長というプロジェクトの知的な側面が薄っぺらいのを見て,たいていのまともな研究者は君子危うきに近寄らずで避けて通るだろうし,なかには,逆に批判をぶつける人だって出てくるだろう.そして,まともな研究者が寄りつかないために,脱成長の思想は今後も相変わらずキャッチフレーズとインフォグラフィックスと相互引用のそのまた相互引用でもっぱら成り立つ思想でありつづけるだろうね.欧州連合のお偉方,インフォグラフィックス大好きなあのユーロクラートの面々も,すでに緑の党あたりがさんざんわめいてきたのと同じことをいっそうどぎつくして言い直した話の他には大した中身が脱成長論にないってわかれば,そこに乗っかるのに躊躇しそうだ.
実践した場合の脱成長はどんなものになるか
脱成長運動によっていくらかでも実際に脱成長がもたらされることはないんじゃないかってぼくが強く疑ってる理由はいろいろある.そのひとつは,彼らの政策提言がユートピア左翼の案で,それをやるには経済成長を増やす必要が生じてしまう点にある.たとえば,勇敢なる Nathan Lane がジェイソン・ヒッケルの政策提言について伝えてるツイートをさらにいくらか見てみようか:
あらゆる人々に住宅・インターネット・公共の設備・教育の脱商品化を.
これらは EU 政策の中核的な部分をしめるべき.
(註記: これらは GDP に影響を及ぼす)
続き:
喫緊の公共プロジェクトに投資しなくてはいけない.たとえば,グリーンエネルギー生産などだ.
続き:
これは公共の雇用保障によってなされるべきだ.
職場の民主主義と生活賃金とともに.
(註記: 成長の会計と消費で賃金が果たす役割に言及)
こういう提言のなかにはいいアイディアもあるけれど,どれも経済成長を必要とする.住宅・グリーンエネルギー・公共の仕事・教育などなどは,どれをとってもなんらかの種類の経済活動で,どれも GDP に算入される.どれも,その産出を増やせば経済成長になる.賃金は誰かの所得だ.そして,所得は GDP に数え入れられる.だから,賃金を増やすには経済成長が必要になる.物質的にあれこれを潤沢に行き渡らせるこういう提案を長々と連ねたリストを読んでると,「脱成長」とは言うけれど,アーロン・バスターニのいう「完全オートメーション化が進んだ贅沢な共産主義」とどこがどうちがうのかいまいちわからなくなってくる.
ヒッケルをはじめ,脱成長を唱える人たちは,こうも主張している――こういう新たな物質的豊かさを人々に気前よく行き渡らせるには,金持ちの消費を制限することで賄えばいい.私用ジェット機や大邸宅などなどの贅沢な消費を制限すればいいんだと,彼らは言う.というか,国際的な状況についてもヒッケルは同じような主張をしている.単純に貧しい国々が豊かになるのは許容しつつ,豊かな国々の消費を制限してしまえば,全世界的な脱成長を達成できるんだと,ヒッケルは言う.さらに,ヒッケルはいっそう激しい主張すらしている――全世界の大半の人たちはいまよりずっと豊かになれるし,地球を救うのに十分なだけ経済成長を減らせられる(ということになっている).それにはとにかく豊かな国々の豊かな人たちの消費を制限してしまえばいいんだって.
さて,この主張に対しては,ブランコ・ミラノヴィッチがすでにいろんな国々の数字で反駁をすませてるから,ここであらためて立ち入りはしない.〔ヒッケルの言い分では〕豊かな国々の消費による環境への打撃は,ごく一握りのお金持ちによるものが大半だと推定されてるけれど……まあ,率直に言ってでっち上げだよね.でも,ヒッケルその他の脱成長論者たちは,実のところ脱成長なんて完全に政治的に支持できないと認識してる.そこで,かわりにこう主張する方を選んだわけだ――住宅やら教育やらエネルギーやら雇用やら賃上げやらをみんなに行き渡らせましょう,その手段は富の再分配の魔法です,って.
それはそれでいい.「脱成長」って言葉が実際に意味することを変えて,アメリカ人が「民主的社会主義」とか「グリーンニューディール」と呼ぶものに近いことを表すようにしてしまうことで,脱成長を唱える人たちは,みずからのプロジェクトが成功を収めたときのやばさをおおよそ中和したわけだ.トップダウンの指示によってみんなで足並みを揃えて物質的に貧しくなりましょうというプログラムはなくなる.なぜって,脱成長を唱える人たちもそれではにっちもさっちもいかないって認識していて,かわりにみんなにあれこれを行き渡らせることを要求することに決めてしまったからだ.おめでとう.
ただ,ひとつだけ問題がある.脱成長のレトリックと思想は,ヨーロッパのふつうの人たちの意識にまで染みこんでいってもおかしくない.そうなったら,「GDPを増やすのはどんなことでもよくないんだ」ってふつうの人たちが考えてしまう理由がまたひとつ増える.実際問題としては,脱成長と言われてるものは,住宅とかエネルギーとかの開発プロジェクトで,脱成長を唱える人たちがいま構想してる物質的に豊かなユートピアめいた時代をもたらすことを目指してるわけだ.言い換えると,「GDP を減らせばとにかくどういうわけか誰もが豊かな時代がやってくる」と,脱成長を唱える人たちがどれほど空想をめぐらせてみたところで,実際に存在する脱成長では,大規模なかたちで NIMBYism〔みんなが得することでも自分の地域ではやらないでくれという自分本位な言い分〕をやることにしかならない.
イギリスはダメな経済学をありがたがる習性があって,しかも知識人階級が脱成長に高い水準の興味を抱いている.そのため,とりわけこれに弱そうに思える.王立統計学協会の最高責任者であり長らくイギリスの政策顧問も務めている Stian Westlake が先日書いた論稿によれば,これがすでに起きつつあるそうだ.ちょっと抜粋しよう:
15年前,「社会イノベーション」分野で研究していた頃は(…)「経済成長は控えめにする必要がある」と誰もが同意しているように思えた.「GDP の追求が弱まれば,その分だけもっと高尚なことをする余地が生まれるだろう.たとえば,環境保護や自己実現のための余裕が生まれるはずだ」――誰もがそう考えているらしかった〔社会イノベーションの分野では〕.(…)さて,あれから15年ほど経って,あの構想はどのように展開してきたのだろうか?(…)
「経済成長の放棄」の部分は,驚くほどうまくいった.イギリスにお住まいの方であれば,おそらく,国家統計局 (ONS) の統計で,2000年代後半から生産性が――イギリスの1時間あたりの労働生産性が――どうなっているかに聞き覚えがあるだろう.経済学者にとっては,目をとおしていく間にみるみる顔が曇っていくような数字が,そこにはある.生産性の伸びはゼロに近く,2008年以前のトレンドをはるかに下回っている(…).だが,脱成長論の視点から見ると,これは成功譚に見えるのだ.
我々のエネルギーシステムの脱炭素化は,どうして困難なのだろうか? 風力タービンや太陽光発電ファームを阻むルールを設けるようにロビー活動を展開したのは,シルクハットの資本主義者たちではなく,自分たちこそイギリスの緑しげる風光明媚な土地を保護しているのだと思っている運動家たちだ.BP やシェル石油ではなく,CPRE や RSPB,数え切れないほどある地域の団体,そしてそうした人々を取り込もうと模索している政治家たちが,風力発電や太陽光発電の推進を阻むルールを推し進めたのだ.
同じ論理は,住宅事情でもはたらいている.「イギリスの住宅コストが高いのは,住宅需要に見合うだけの新規住宅建設ができずにいることと関係がある」という論証を受け入れるなら,次の点を認めないといけない――その新規建設に反対している人たちは,「地域コミュニティを守る」「田舎を守る」と主張したり「企業の強欲」に反対すると言っている人たちが大半を占めている.
これは,いまアメリカを苛んでいる NIMBYism とまるっきり同じように聞こえる.ただ,脱成長論のレトリックはアメリカにはほぼ見られないけれど,そのレトリックは NIMBYism にさらなる火力を与えかねない.「経済成長はわるいことなんです」と人々に語るのは,国の衰退や現状維持,さらには貧困を促進するやり方だ.Parrique やヒッケルみたいな人たちは,ああだこうだと言葉を連ねて,「脱成長は(どういうわけか)貧しい人たちを豊かにする」と主張するかもしれないけれど,実際には,「物質的な生活水準が高くなるのはわるいこと」って話は,こういう事態にしかつながらない:
「チーズサンドイッチを買うお金がないなら食べなければいい」と Ann Widdecombe 議員が発言.
空想の中の脱成長では,キミもキミの友達もバングラデシュのみんなものんびり豊かな生活を送れることになっている.なぜって,どういうわけかお金持ちの個人向けジェット機を没収すればそうなるからだと,脱成長論は語る.でも,実際に実現してる脱成長では,どこぞの年老いたイギリスの保守派のご婦人がキミに「チーズサンドイッチなんてあんたには贅沢よ」と言ってよこすわけだ.
いや,ぼくはそんなのごめんこうむるね.ヨーロッパのみんなも,脱成長のおさそいを断った方がいい.
[Noah Smith, “Degrowth: We can’t let it happen here!” Noahpinion, May 24, 2023.]