MMT(訳注:現代金融理論)と関わり合うとやっかいなのは、この理論が実際に何を言ってるのかをはっきりさせるのが難しいからだ。それをやろうとすると、曖昧で大仰な論法をひたすら繰り返す似たようなMMT論文の果てしない山の中を彷徨うか、もしくは、公式見解がときとして互いに矛盾する(でも、あなたが軽蔑すべき愚か者であるという基本的事実に関する見解は常に一致しているように見える)怒りっぽいMMT教祖たちと問答する羽目になりがちだ。MMT論者がたまに実際に定量的モデルを書くと、その結果は…ちょっと問題だ(リンク先の和訳)。
だから、実際に「Macroeconomics」(マクロ経済学)というMMTの教科書がウィリアム・ミッチェル、ランダル・レイ、マーティン・ワッツによって出版されたことは僥倖だ。筆者はまだ読んでいないが、スコット・サムナー(マーケイトス・センターおよびベントレー大学所属)はこの教科書を精査中で、MMTやマクロ経済学の議論一般に光を当てるような論点もすでにいくつか浮かび上がってきている。
サムナーは、MMTでは風変わりな貯蓄の定義をしていると指摘している。
(6.4) (GNP – C – T) – I ≡ (G – T) + (X – M + FNI)
恒等式(6.4)の項は比較的わかりやすい。(GNP – C – T)という項は、総所得から家計の消費した額と家計から政府に支払われた税の純移転額を引いたものだ。よってこれは家計の貯蓄を表す。
したがって、恒等式(6.4)の左辺(GNP – C – T) – Iは、国内民間部門の純貯蓄全体を表し、(GNP – C – T)という項で表される家計の総貯蓄(S)とは区別される。
サムナーが指摘しているように、これは経済学者が通常民間消費と考えるものとは異なる。経済学者は通常、投資は貯蓄の一形態を表すと考える。民間企業が工場を建てれば、それは貯蓄だ。その企業は翌年その工場を使って、役に立つ価値あるモノを作ることができ、作ったモノは売ることができる。ゆえに工場を建てるために金を使うことは貯蓄として計上される。後で金が手に入るからだ。
少なくとも、典型的な経済屋の定義ではそうだ。MMTでは、投資は純貯蓄の一部としては計上されず、差し引かれる。残るのは、民間部門が他の部門、つまり政府や外国に貸した額だけだ。
これは変だ。というのは、他の部門に金を貸すことが、民間部門の唯一の貯蓄の方法ではないからだ。たとえば、世界に国が一つしかない(つまり外国がない)と考えてみよう。そして、その国の政府はまったく貸し借りをしない(つまり政府赤字がない)と考えてみよう。MMTによれば、民間部門はまったく貯蓄できないことになってしまう。だが、通常の経済学によれば、民間部門は将来に向けて投資することにより貯蓄できるのだ。
よろしい。MMTが従来の経済学の考え方とどこで別れたのかはわかってきた。
だが、その違いは意味論的なものであることに注意して欲しい。それは定義の問題であって、実質的なものではないのだ。MMT論者たちは、経済学者が通常「民間貯蓄」と呼んでいるものから投資を差し引いて、その差に「純民間貯蓄」という別の名前をつけているのだ。でもそれがなんだというのか。「貯蓄」が何から構成されるかを議論するよりも、新たな対象には新たな用語を使えばいいだけでは? 実際、ウェイン・ゴドリーたちによって開発された部門バランス論では、MMTの教科書が「純民間貯蓄」を定義するのとまったく同じ方法で「民間部門剰余」を定義している。「貯蓄」と「剰余」の違いなんて誰が気にするのか。
筆者が思うに、その答えは、MMTが従来の経済分析とはまったく違う活動に携わっているところにある。従来の経済学では、経済をモデル化して理解しようとしている。だが、MMTがやっているのは政策提言であり、その目標は、政府により積極的に財政赤字を受け入れさせることにある。
このような目標追求のためには、数学的モデルはあまり役に立たない。数学っぽいマクロモデルを理解する人は、わずかなエリート層だけだ。そして、(とりわけリーマン・ショックで大失敗した後で)そんなエリート層の話を誰が聞くと言うのか。今の世の中の人々は、政策的なアイデアを、TwitchのストリームやTwitterのフィードやポッドキャストやRedditの板から得ている。政治家が財政赤字を気にする度合いは、権威ある政策アドバイザーが 吹き込む怪しげな思想にも左右されるけれど、ポピュリズムの時代には、大衆の熱意だって大いに問題になるかもしれない。
そしてこの土俵において、MMT論者たちは、ある強く凝り固まった強力なミームと対決している。それは政府を家計と同じように考える考え方だ。家計が貯蓄しないでクレジットカードに頼りすぎれば、その家計はどんどん貧乏になる。だから人々は、アメリカ政府が国家負債を重ねれば、アメリカはどんどん貧乏になると考えがちだ。これを緊縮ミームと呼ぼう。
実は、緊縮ミームは間違っている。政府は国家そのものではないからだ。アメリカ政府が借りた金の多くは、 民間の市民や企業が貸した金だ。「国家負債」は(外国から借りた部分を除けば)実際には国を貧乏にはしない。国民貯蓄ですら、おそらく私たちが本当に懸念すべき、物質的な生活水準には対応していない。
だからこそMMT論者たちは、独自の対抗ミームを作ろうとしているのだ。MMT論者たちは、民間部門の貯蓄は政府赤字に等しいと言うことにより、政府が金を借りれば国は豊かになるという一般の認識が生まれることを期待している。結局、家計は貯蓄すれば金持ちになるではないか。民間部門が「貯蓄」する唯一の方法が、政府が借金することだとしたら、政府赤字は必ず一般市民を金持ちにすることになる、でしょ?
もちろん、このMMTミームが緊縮ミームよりも現実を正確に記述しているわけではない。だが、MMTミームにもいいところが一つある。それは、ケインズ政策が実際にうまくいくことだ。政府が不景気のときに金を払えば、GDPは実際に増加する。だから、政府が借り入れを行うと同時に財政支出を増やせば、生活水準は向上することが多い。そのおかげで、政府赤字がなぜか国を金持ちにしたように見えて、MMTミームがある種正しいっぽく見えたりする。それが実はMMT論者たちが弄んでいる定義とは何の関係もないとしても。
だが、そんなことはポピュリズムの時代にはどうでもいいのかもしれない。現在のマクロ政策が、ネット上の論争に首を突っ込みたがる情弱の有象無象に左右されているとしたら、「政府赤字は民間部門の貯蓄(でも剰余でもなんでもいいが)に等しい」という呪文を唱え続けることが、必要な財政刺激策を実現する一助になるかもしれない。
問題は言うまでもないが、そうすることにより、MMTミームが租税の重要性をも忘れさせるのではないか、そして、その結果どのような事態がもたらされるかということだ。実際、MMTの誕生に力を貸した人物の一人は、サプライサイド経済学の教祖(後のトランプの経済顧問でもある)アーサー・ラッファーである。…が、この話はまたの機会に。