●Noah Smith, “National unity sure is helpful”(Noahpinion, July 24, 2014)
(今回のエントリーは、Bloomberg Viewに寄稿した記事を転載したものである)
パット・ブキャナン(Pat Buchanan)が口を開くたびに鼻であしらわれるのがお決まりのようになっている昨今だが、彼がWorldNetDailyに寄稿しているコラムでは侮りがたい重要なポイントが突かれている。アメリカは、少々のナショナリズムを必要としているというのだ。ただし、「ナショナリズム」が必要とされているといっても、排他的な愛国心や好戦的な軍国主義が求められているわけじゃない。求められているのは、国家としての一体感(national unity)だ。互いに何の関わりもない他人同士がたまたま同じ地理的な空間に寄り集まっているって考えるんじゃなくて、自分たちのことを一つのまとまった国民として考えるべきというのだ。ブキャナン自身の言葉を以下に引用しておこう。
アメリカは今後も一つの国家のままであり続けられるだろうか? それとも、バルカン化の途上にあって、民族ごとに別々の飛び地に住まう未来が待っているのだろうか?
・・・(中略)・・・
1789年当時のアメリカは、移民国家ではなかった。移民がこの地にやってきたのは、その後の話だ。アイルランド人が飢饉の苦しみから逃れるためにこの地にやってきたのは1845年から1849年にかけてのことであり、ドイツ人がこの地に足を踏み入れたのは1890年から1920年にかけてのことだ。その後に続いてやってきたのが、イタリア人であり、ポーランド人であり、ユダヤ人であり、その他の東欧諸国の人々だ。・・・(略)・・・1925年から1965年までの間に、移民の子供や孫たちは、この国に同化(アメリカ化)していった。移民の子供や孫たちは、厳格な公立学校で、この国の言語やこの国を代表する文学やこの国が辿ってきた歴史を教わるだけでなく、この国の休日やこの国の英雄を祝福したのだった。それに加えて、大恐慌をともに耐え抜き、第二次世界大戦と冷戦を命を賭けてともに戦い抜いたのだった。
1960年までの我々は、一つの国家であり、一つの国民だった。それは疑いない。・・・(略)・・・しかしながら、今の我々は、「固い絆で結ばれた兄弟」(“band of brethren”) [1] 訳注;『ザ・フェデラリスト』の第2編(No. 2)でジョン・ジェイ(John Jay)が用いている表現なんかじゃない。今の我々は、「同じ祖先の血筋を受け継ぎ、同じ言語を話し、同じ宗教を信仰する」 [2] 訳注;訳注1と同じく、『ザ・フェデラリスト』の第2編(No. 2)でジョン・ジェイが用いている表現一つのまとまった国民ではないのだ。
我々の出自は、ありとあらゆる大陸、ありとあらゆる国に及んでいる。アメリカ国民の約4割は、その起源を辿ると、アジア、アフリカ、ラテンアメリカに行き着く。無数の国家が民族の違いや宗教の違いや出自の違いが原因で四分五裂を繰り返している中、我々は多民族で多言語で多文化な社会であり続けているのだ。
今の我々は、同じ言語を話さないし、同じ神を崇拝してもいない。尊敬する英雄も違えば、休日も違う。クリスマスやイースターも「民営化」されてしまって、国を挙げての一大行事とは言えなくなった。コロンブスは悪罵を投げつけられる対象となり、ストーンウォール・ジャクソン将軍やロバート・リー将軍は、パンテオンの外に追い出される [3] 訳注;「パンテオンの外に追い出される」=国の英雄と見なされなくなる、という意味。始末。その代わりにパンテオン入りしたのが、セザール・チャベスときている。
・・・(中略)・・・
祖先、歴史、言語、信仰、文化、伝統を同じくする人々がともに暮らしていて、その周りが明確に線引きされた守りの堅い国境によって囲まれている土地を指して国家と呼ぶとするなら、今の我々は、果たして一つの国家(および、一つの国民)と言えるのだろうか?
ブキャナンは、アメリカ人の間で国家(あるいは、国民)としての一体感が失われつつあるのではないかと懸念しているわけだが、その懸念自体はもっともなものだと言えるだろう。ウィリアム・イースタリー(William Easterly)&レザ・バキアー(Reza Baqir)&アルベルト・アレシナ(Alberto Alesina)の三人が1999年に著した有名な共著論文(pdf)によると、多様な民族を抱えていて民族間の分裂が大きい(アメリカ内部の)地域ほど、当局による公共財の供給――インフラ整備や公衆衛生など、公共機関が最も得意とする類の公共財の供給――が乏しい(公共財の供給に投じられる金額が歳出全体に占める割合が低い)との結果が見出されている――ちなみに、その後の数多くの研究(pdf)でも同様の結果が得られている――。そうなる理由については学者の間で依然として意見が分かれているものの、同じ国に住む人々が自分たちのことを「一つの国民」と見なさないようだと、その国の政府の機能が低下することになるというのは確かなようだ。
アメリカは、その真っ只中にいるのかもしれない。1970年代以降から現在に至るまで、共和党の一派は、政府支出の削減に対する支持を取り付けるために、民族間の対立を利用してきている。特に、民族間の緊張の度合いが高い南部に狙いが定められている。共和党の一派によると、政府支出の恩恵は、黒人やヒスパニック系だけにしか行き渡っていないというのだ。この眉唾物の言い分に、中流層以下の多くの白人たちはコロッと騙されてしまっている。どうして「騙された」と言えるかというと、政府支出が削減される場合は、メディケアのような移転支出が削られることは滅多になく、その恩恵が数多くの国民に薄く広く及ぶ分野――インフラ整備や科学研究の助成など――の予算が削られるケースがほとんどだからだ。
移民の流入は、(国家としての一体感の低下という)問題の悪化に一役買っているんだろうか? 否定はできないものの、ブキャナンは話を盛っているように思える。ヒスパニック系移民の流入が続いて、南西部がスペイン語圏に様変わりしてしまうようなら――アメリカ版ケベック州が誕生するなんてことにでもなれば――、警戒する必要もあるかもしれない。しかし、今のところは、そんなことにはなっていない。というか、ヒスパニック系の移民たちは、ブキャナンが言及しているかつての移民たちよりもずっと速いペースで英語をマスターしている。それだけじゃない。学業成績も著しく向上していて、異なる民族との付き合いも急速な勢いで深まっている。ヒスパニック系とその他の民族の男女間での(民族の枠を超えた)結婚もかなり増えている。アメリカへの移民の数で言うと、ヒスパニック系を抜いてアジア系が最多に躍り出ることになったが、ヒスパニック系移民についてこれまでに指摘してきたことは、アジア系移民にももっと顕著なかたちで当てはまるのだ。
というわけで、言語、教育、結婚といった方面については何の心配もいらないだろう。文化や歴史(歴史教育)といった方面についてはどうだろうか? 政治的な右派の間では反移民感情が根強く残っているが、1800年代にドイツ系移民とアイルランド系移民の排斥を訴えた「ノウ・ナッシング」運動〔ウィキペディア日本語版のページはこちら〕が思い起こされるところだ。保守派にシンパシーを抱く下流層は、新来の移民を同胞として受け入れるのを拒み続けるつもりなんだろうか?
ブキャナンによると、アメリカに大挙してやってきた移民たちの同化が可能となったのは、公立学校での画一的な歴史教育のおかげであったと同時に、大恐慌や世界大戦のおかげでもあったらしい。大恐慌と言えば、(2007年に勃発したサブプライム住宅ローン危機をきっかけとして)あと少しで(幸いにも?)大恐慌の再来というところまでいったが、今はもう回復に向かっちゃってるようだね。歴史教育に関して言うと、カリキュラムの内容は昔に比べると変わったが、州ごとのカリキュラムの違いは昔に比べて大きくなっているようには見えない――APテストに代表される全米統一試験の影響もあって、州ごとのカリキュラムの違いは昔に比べてむしろ小さくなっているかもしれない――。ブキャナンによると、ストーンウォール・ジャクソン将軍もロバート・リー将軍もこの国の「パンテオン」から追い出されようとしているらしいが、だからといってどちらの将軍も特に気にしないだろうと思う。だって、彼らはこの国からの分離独立を勝ち取るために一生懸命戦ったんだからね。
世界大戦についてはだね・・・、国家としての一体感を高めるために、戦争なんかに頼らないで済むように祈ろうじゃないか。
まとめるとしよう。移民たちは、アメリカにうまく溶け込んでいるように見える。ブキャナンが理想とする「国家としての一体感」に対する主たる脅威となっているのは、政治的な右派の中にいる排外主義者たち――ヒスパニック系移民を同じアメリカ国民として受け入れたがらない排外主義者たちの頑(かたく)なな態度――のようだ。保守派陣営の中の移民推進派――ロナルド・レーガン、ジョージ・W・ブッシュ、マルコ・ルビオがその代表――が仲間の説得に成功することを祈るとしよう。