Gary Clyde Hufbauer, Cathleen Cimino,”“No Big Deal” says Krugman” (VOX, 17 March 2014)
ニューヨーク・タイムズ紙掲載の論説記事で、ポール・クルーグマンは環太平洋パートナーシップ(TPP)をして「大したものじゃない」と言っている。本稿では、クルーグマンによるTPP反対論の主要点を検討する。第一に、クルーグマンは政治資本をTPPに対してではなく国内政策へと振り向けるよう述べている。第二に、関税は既に低いためにTPPによる利益は僅かなものになると彼は主張する。そして本稿では、クルーグマンの論説のより広いメッセージ、すなわちグローバル化とと政治主導による自由化の時代は終わったという点について指摘を行う。
自由貿易主義者を自称するポール・クルーグマンは、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたその驚きの論説(2月27日付)のタイトルで、環太平洋パートナーシップをして「大したものじゃない(Not a big deal)」と宣言した。自由貿易主義者たちがこんな具合なら、保護主義者の出番などなくなってしまう。
そのタイトルと同じくらい物議を醸すのは、このプリンストン大学のノーベル受賞者殿による怪しげな理由づけだ。
- まず冒頭でクルーグマンは、TPPではなく国内政策へと政治資本を振り向けるようオバマ大統領に指示している。
しかしオバマの国内政策が共和党議員により妨害されている一方で、TPPは民主党議員によって迷走させられている。この二つの政策の間にはトレードオフなど全くない。
- 続けてクルーグマンは、関税は既に低いためにTPPによる利益はわずかなものでしかないが、「巨大製薬会社(Big Pharma)」に代表されるような知的財産所有者にとっては大きな便益をもたらすと主張する。
それでは、これらの論点を検討してみよう。
クルーグマンの言うように、アメリカの輸出業者はTPP参加国のうち6カ国への市場参入についてはほぼ無関税を享受している(それら国家からアメリカへという逆もまた然り)というのは正しい。また、最恵国待遇関税率 [1]訳注;WTO加盟国に対して一律に適用される税率。つまり基本的にはFTA,EPAなどによる特別な税率よりも高い、通常の税率と考えてもよい。 の平均はアメリカ(3.4%)と日本(4.6%)においては非常に低く、他のほとんどのTPP参加国においても低いというのも正しい (Tariff profiles 2012)。
TPP交渉で関税よりも遥かに重要なのは非関税障壁、特に企業向けサービスの国際取引の障害となったり、政府調達契約へのアクセスを阻む規制障壁だ。CEPII [2]訳注;予測研究・国際情報センター(le Centre d’études prospectives et d’informations internationales) の計量経済学研究では、TPP参加国の企業向けサービスにおける障壁は、関税に換算して一番低いもので2%(シンガポール)から44%(日本)、67%(オーストラリア)、最大となる134%(メキシコ)の範囲に渡ることが示されている。このような高さの障壁は、アメリカのサービス輸出業者だけでなく、国内の企業向けサービスに法外な費用を支払っている国々にとっても非常に有害なものだ。
GDPの15%を占める政府調達については、WTOの政府調達協定はほんのささやかな自由化しかもたらしていないし、TPP参加国12のうちこの協定に署名しているのは4カ国しかなく、つまりはTPP全参加国では中央政府、州政府、地方自治体といった広範囲にわたる政府調達において競争がわずか、あるいは全く存在していないのだ(“Parties and Observers to the GPA”, WTO)。TPP域内の納税者が負担する不必要な費用は巨額に上る。
TPPによる著作権保護強化の擁護論について反駁したのち、クルーグマンはしたり顔でこう続ける。「巨大製薬会社にとって良いことが、アメリカにとっても良いことであるとは限らないのだ」と。医薬品工業協会でさえ、自分の利益がアメリカの利益と常に一致しているとは言わないだろう。
しかし利益の一般的な一致とはなんだろうか。アメリカの競争力の強みはイノベーションにある。イノベーションには多額のお金がかかる。それを鑑みれば驚くことではないが、アメリカの株式の60%程度、つまり2013年においては14兆ドル程度が物的所有物ではなくアイデアの価値だった [3]原注1;”Ocean Tomo 300® Patent Index | Ocean … Continue reading 。この額からすれば、知的財産の保護は明らかにアメリカの国益だ。世界的な視点に立てば、ソフトウェア、エンタメ、電子機器、そしてもちろん医薬品といった優れたアイデアを外国に本拠を置くライバル企業はタダで手に入れることができてしまうのであれば、将来におけるイノベーションの費用はどうやって賄えばいいのかと問わなければならないところだ。
その要旨はさておき、クルーグマンの論説はより広いメッセージを送っている。アメリカ国際貿易委員会による不適切な計算を参照し(輸入制約はアメリカにとってGDPの0.01%の費用しか生じさせていない) [4] … Continue reading 、さらにはTPPを一蹴することでクルーグマンは、グローバル化の時代は終焉に向かっており、政治主導による自由化は終わったのだと実質的に言っているのだ。あれもこれももう終わったことだ、と。
しかしグローバル化の時代は終わっていない。強烈な政治的逆風にも関わらず、政治主導による自由化の必要性は、今もケネディー・ラウンドの頃と同じくらい大きい。自由化の新たな開拓地は製造業よりもサービスや投資だ。サービスの潜在的な国際貿易にはこれまでほとんど触れられてきていない。Brad Jensen (2011)が示すとおり、アメリカの製造業が20%を輸出しているのに対し、企業向けサービス企業はその売り上げの4%しか輸出していない。過去20年に渡って海外直接投資は投資よりも遥かに速いスピードで拡大を続け、国外におけるその残高は26兆ドル、つまりは世界のGDPの33%に上るものの、投資は本来可能なところまでは依然として至っていない [5]原注3;世界銀行の世界開発指数とUNCTADによる2012発表の数値に基づく。 。2012年におけるアメリカ株式の価値は17兆ドルで、これはアメリカのGDPの106%にあたる(Federal Reserve 2012)。この比較からは分かることはまたもや、グローバル化は未だ道半ばにあるということだ。
結論
2014年、ドーハ・ラウンドの元々の目標を遥かに越えたところを目指し、TPP交渉は政治による自由化の最先端にある。Peter Petri他 (2013)による計算によれば、TPPによってアメリカのGDPは0.4%、そしてそれ以外の参加国のGDPはそれよりも大きく上昇する可能性があるとしている。アメリカの政治的失敗のせいでこの交渉が頓挫すれば、地政学的な影響を考慮せずとも、とても大したもの(very big deal)となることだろう。
参考文献
●Federal Reserve 2012 data on equity shares at market value for households and non-profit organizations. http://www.federalreserve.gov/releases/z1/current/z1.pdf
●Fontagné, Lionel, Amélie Guillin and Cristina Mitaritonna (2011), “Estimations of Tariff Equivalents for the Services Sectors“, No 2011-24, CEPII.
●Jensen, J. Bradford (2011), Global Trade in Services: Fear, Facts and Offshoring, Washington: Peterson Institute for International Economics.
●World Trade Organization “Parties and Observers to the GPA”, World Trade Organization (2014年3月7日時点).
●Petri, Peter A., Michael G. Plummer and Fan Zhai, (2013) “Adding Japan and Korea to the TPP” 7 March (2014年3月7日時点).
●WTO (2012), “Tariff profiles”.
References
↑1 | 訳注;WTO加盟国に対して一律に適用される税率。つまり基本的にはFTA,EPAなどによる特別な税率よりも高い、通常の税率と考えてもよい。 |
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↑2 | 訳注;予測研究・国際情報センター(le Centre d’études prospectives et d’informations internationales) |
↑3 | 原注1;”Ocean Tomo 300® Patent Index | Ocean Tomo,”www.oceantomo.com/productsandservices/investments/indexes/ot300による。無形資産には、多くの場合M&Aを通じて獲得されるが大抵は知的財産とは見なされない「のれん」も含まれる。アメリカの株式の価値は、連邦準備制度による家計と非営利組織の株式市場における価値のデータに基づく。 |
↑4 | 原注2;ドーハラウンドやTPP、TTIP(訳注;環大西洋貿易投資パートナーシップ)のために計算された演算可能一般均衡モデルでは、国際貿易委員会の計算によるわずかな数字よりもかなり大きな費用(潜在的利益の打消し)が出ている。 |
↑5 | 原注3;世界銀行の世界開発指数とUNCTADによる2012発表の数値に基づく。 |