Bill Mitchell, “Q&A Japan style – Part 1“, Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, November 4, 2019.
これは今週の4部構成シリーズの第1部であり、日本のさまざまな関係者が提起した現代通貨理論(MMT)についてのいくつかの重要な質問に関するガイダンスを提供する。日本でのMMTに関する公開討論は(他の地域と比べて)比較的進んでいる。MMTに関して日本国会(議会)で議会質問と答弁があり、また中央銀行と政府の経済担当高官がMMTについてのコメントを行なっている。そして、幅広い政治スペクトルの政治活動家たちが(日本の財政緊縮への反対を表明する主要な方法として)MMTを議論し、推進している。 MMTの基本は現在、日本では広く理解されているため、関連する議論はより詳細な疑問・質問に移行している(特に政策への適用に関して)。このため、今回の日本への訪問の一環として、さまざまな問題についていくつかのガイダンスを提供するよう求められた。私はプレゼンテーションの中でこれらの話題を取り扱っているが、しかしその上で、誰もがMMTの理解を進めることができるように、文面で分析を提供することは生産的だと考えた。これらの回答は最も完全で正確なものというわけではなく、より詳細な点については、リンク先のブログ投稿を参照いただきたい。
金融政策 VS 財政政策
質問:
- MMT派の経済学者は、以下の理由で中央銀行の政策金利をゼロに固定することを提案しているのでしょうか? (a)投資支出は、金利の変化に比較的鈍感である。 (b)大きく変動する金利は、たとえ投資に影響を与える可能性があるとしても、民間セクター内に不確実感(不透明感)を広げてしまう。
主流派経済学者は、中央銀行が物価の安定を達成することで実質経済成長を最大化できると考えている。この見方と一致するのは、中央銀行の目標金利が「中立金利」を下回ると、インフレが(最終的に)発生し、その逆も起こるという信念だ。
したがって、中立金利は均衡金利と呼ばれることもある。これは労働市場における自然失業率の概念の直接類似物で、主流派理論の中心的な焦点だ。
「中立金利」の概念は、クヌート・ヴィクセル(Knut Wicksell)から派生している。彼の古典的な本であるInterest and Pricesでは、彼は「自然利子率」を次のように定義した(102ページ):
融資にはある一定の利率があり、これは商品価格に関して中立で、商品価格を上げたり下げたりする傾向はない。これは必然的に、貨幣が使われず、全ての貸付が実物資本財の形で行われた場合に、需要と供給によって決定される金利と同じである。
「貸付資金市場が貯蓄者と投資家を結び付ける」という当時の見解に従うと、自然利子率は、投資資金に対する実質需要が実質貯蓄供給に等しくなる値に定まるということになる。
このことは、ニューケインジアンマクロ経済学においても依然として中心コンセプトとなっている。
この考え方においては、貨幣利子率が自然利子率を下回ると、投資は貯蓄を上回り、総需要は総供給を上回ることになる。銀行融資が新たな貨幣を創造し、資金供給の結果、投資ギャップとインフレーションが生ずる(逆の場合、つまり自然利子率よりも貨幣利子率が高い場合も同様)。
MMTは、マルクスのセイの法則批判(ワルラス法則批判)に準じている。(これらの法則では、貨幣は実体経済のベールであると見なされていた。)
また、カレツキとケインズによるヴィクセル概念批判にも準ずる。
ケインズは1936年の一般理論(第14章、189ページ)で次のように書いている。
- …従来の分析は、システムの独立変数を正しく分離できなかったため、誤っているのである。貯蓄と投資は、システムの決定要因ではなく、システムの結果である。これらはシステムの決定要因の双子の結果なのである…[総需要]…伝統的な分析は、貯蓄が収入に依存することは認識していたが、収入が投資に依存するという事実を見落としていた。このことを考慮すると、投資が変化するとき、投資の変化とちょうど同じ分だけ貯蓄が変化するよう、所得が変化する必要がある。。
言い換えれば、「金利が投資と貯蓄を何らかの形でバランスさせる」、「投資には貯蓄の事前プールが必要である」といった主流派の考え方は、どちらも間違っているということになる。
現実には、投資は所得調整を通じて自らの貯蓄をもたらす。
そして、金利の変化を経済活動の変化と結び付けようとする実証研究は、弱い関係しか見いだせていない。
2004年のカンザスシティ連銀の論文-Estimating equilibrium real interest rates in real time-は、「成長トレンドと均衡実質金利の関係は非常に弱いことが示されている」と結論付けた。
ポストケインジアンは、金利の変化と資本形成の間のリンクは弱く、金融政策は安定化のための効果的なツールではないと長い間考えてきた。
MMTはそうしたPKのビューを基礎としている。
ケインズの言葉を借りれば、投資の決定は「長期的な期待の状態」に依存する。というのは、投資は企業が将来の総需要の状態を推測する、未来に向けてのプロセス(forward-looking process)だからである。
これは必然的だ。なぜなら、新しい資本ストックを作成するプロセスには時間がかかり、多くの個別の決定 ー 生産する製品の種類、生産に必要な資本の性質、設計、調達決定と予算計上、量など ー が全て時系列的にバラバラに行われるからだ。
今日の投資支出は、ある程度前の期間において、今日の世界状況が将来にも続くと想定された上で行われた決定の結果である。投資支出は、現在の金利が変化したときにオンまたはオフになる蛇口ではないのだ。
企業は、製品の全体的な需要の状態、売上がこれらの期待に合致した場合に収益として受け取る可能性のあるもの、および当該需要を満たすのに必要な生産にかかる費用の観点から、将来について継続的に推測している。
企業には、どの製品を生産し、どのように生産するかについて、さまざまな選択肢(例えば、技術の選択など)がある。
企業は利潤追求の欲望に突き動かされるものであるので、考えられるさまざまな種類の生産設備の中から、さまざまな事項(その多くは主観的なもの) を考慮した上で、最も利益に貢献しそうと見込まれる設備を選択する。
たとえば、地域社会で良好な地位を維持したい企業はおそらく、地元環境に損害を与える機器は(たとえ合法であり、かつ他のオプションよりも多くの利益を生み出したとしても)使用を避けるであろう。
企業が将来の投資に資金を供給するにあたり、留保利益を使用するにせよ、市場から資金を求めるにせよ、新しい資本の購入にはコストがかかる。
会社は投資のために利益を留保している場合がある。新しいプラントや設備に投資するか、おそらくは正の収益率をもたらすであろう金融資産(債券など)を購入するかを選択できる。
会社は現在の事業に留まろうとするニーズによって突き動かされているため、市場シェアを守ろうとする。つまり(通常は)利用可能な資金を使用して、最も効率的(best practice)で生産的な基幹設備を購入する。状況が悪い場合は、生産資本のアップグレードを控えることもある。
したがって、投資の決定は、購入する生産資産がコストを上回るプラスの利益をもたらすかどうかに依存するのである。
事業投資は間違いなくコストに敏感だが、主流派経済学者がよく無視するのは、収益への期待が重要であり、同時に景気循環に対して非対称であるということだ。
通常、新しい資本ストックへの投資では、企業は大きな不可逆的な資本支出を行う必要があるため、投資支出の周期的な非対称性が生ずる。
資本は、(学生が大学で使用する主流派経済学の教科書に描かれているような)適切な構成(つまり、さまざまな種類の機械や設備)で再構成できるパテの一部ではないのである。
会社がひとたび新技術に大規模な投資を行えば、彼らはしばらくの間それを使い続けるだろう。
不確実性がつきまとう環境下では、悲観的な時期に企業は慎重になり、投資する額を決定する際に幅広い安全マージンを採用する。
したがって、現在の稼働率を通常時の稼働率と比較することにより、将来の収益性に対する期待を形成することになる。
企業は生産キャパシティの使用率が通常レベルを超えた場合にのみ投資するであろう。そのため、投資は生産キャパシティ使用率とその上限にしたがって変化することとなり、生産キャパシティは上からも下からも制約された割合で増加する。
このように投資行動が非対称的であることは、生産キャパシティ成長の非対称性をもたらす。なぜなら生産キャパシティが成長するのはキャパシティが不足しているときのみだからだ。。
こうした洞察は、経済が回復する方法、及び深刻な不況に直面した際の強力な財政的サポートの必要性に重大な含意を持つ。
上記のようなダイナミクスは、2008年に私とJoan Muyskenが書いた本 – Full Employment abandoned – で取り上げている。
市場金利の上昇が総投資の低下につながるという単純な投資モデルは、他のすべてが等しいという仮定にも基づいている。
しかし、成長経済では、市場金利の上昇時には総需要の状況が改善する可能性が高い。総需要の改善は、時間の経過とともに収益のキャッシュフローを改善し、各プロジェクトの収益性を向上させるからだ。
つまり、市場金利が上昇しても、各プロジェクトの内部収益率も上昇する可能性があるため、投資の減少を観測できないだろうということだ。
また、経済が不況にあるとき、企業家は悲観的になり、さまざまなプロジェクトの将来収益の評価が悪化する。
さらに、実在の余剰生産キャパシティを持つ企業は、中央銀行が総需要刺激のために利下げして、新しい投資プロジェクトが一層安くなっても、資本ストックを拡張しないであろう。
一般的なブームに伴う極端な楽観主義は、市場金利の変化に対する投資の感度を低下させることにもなる。期待収益率が高い場合、企業はより高い借入コストを支払う用意ができるからだ。
一般的に言えば、MMTは金融政策(金利を変動させる行為)について、総支出を管理するにあたって非効率的な手段であると考えている。
金融政策は間接的で、鈍く、不確実な分配行動に依拠している。
金融政策が効くにはラグがあり、物価圧力に寄与していない地域や人々にもペナルティを課すことになってしまう。
また、債務者と債権者とその支出パターンに対する影響についての強力な実証的研究はない。借り手は貸し手よりも消費傾向が高いと暗黙のうちに想定されているが、明確に確定しているわけではない。
MMTは財政政策が強力であると考えている。なぜなら財政政策は直接的で、確実に非政府部門の純金融資産を作成または破壊できるからである。また、いかなる分配の仮定にも依存しない。
MMTはまた、大抵の場合、財政赤字が非政府部門からの支出漏出(家計貯蓄、企業貯蓄および/または対外赤字)を相殺するための基準になると考えている。
また、財政赤字は銀行の準備預金を追加し、システム全体の準備預金の余剰を生み出すことも分かっている。
過剰準備は、中央銀行からのサポート金利が付与されない限り、より良いリターンを求める銀行の間で、銀行間市場での競争を刺激することになる。
銀行間競争では、システム全体の余剰を排除することは出来ない(すべての取引の総和はゼロになる)。そのため、超過準備に対するサポート金利がなければ、オーバーナイトレートはゼロまで低下する。
このように、完全雇用という望ましい政策目標を追求するにあたり、財政政策は、短期金利をゼロにするという副作用をもたらすことになる。その意味で、MMTはゼロ金利を標準的と見なしているわけだ。
中央銀行が何らかの理由でプラスの短期金利を望んでいる場合、過剰準備に対するリターンを提供するか、債券の販売を通じてそれらを除去する必要がある。
MMTの理解者は、そのどちらの戦略も推奨しない。
参考文献:
1. Investment and interest rates (August 10, 2012).
2. The natural rate of interest is zero! (August 30, 2009).[*邦訳はこちら]
3. Why investment expenditure is insensitive to monetary policy (June 22, 2015).
4. Monetary policy is largely ineffective (April 8, 2015).
質問:
- この固定金利は名目金利のことでしょうか?資本形成への過剰な支出によりインフレが加速している場合、金利を固定(ゼロまたは任意のレベル)に維持するのは賢明でしょうか?
中央銀行は名目金利を調整し、実質金利はインフレ率によって決定される。
MMTは、完全雇用と物価安定というマクロ経済状態を提唱している。つまりこの場合、実質金利は中央銀行がどのような政策金利を目指すかによってほぼ安定して決まる。
金融政策が効果的でないという見解に一貫して、MMTは、財政政策、雇用バッファーストック(ジョブ・ギャランティ:就業保証)、および他の政策ツール(規制、調達政策など)を用いて、価格の安定とインフレスパイラルの抑制を達成することを提案している。
MMTは、すべての支出要素(家計消費、事業投資、輸出需要、政府支出)がインフレリスクを伴うと考えている。
そのため、例えば、民間資本形成(投資)の成長が、それを吸収する経済の実物生産キャパシティ以上に名目需要を押し上げていると思われる速度で生じている場合、政府には当然ながら選択肢がある。
支出の他の要素を削減するか、より低い投資率をターゲティングするのである。投資の場合、多くのプロジェクトは大規模な基幹設備タイプであり、通常、投資を進めるにあたり、当局から計画義務(Planning Gain)やその他の認可を受けなくてはならない。
インフレ的な環境では、そのようなプロセスを”ずらす”必要がある。
重要なのは、MMT派の経済学者は、経済の名目需要を実物生産キャパシティの成長ペースに収めるにあたって、不確実性を伴う金利引き上げよりも、はるかに有効な方法があると考えていることである。
さらに、MMT派の経済学者は、金利の上昇が反インフレであるかどうかは明らかではないと指摘している。金利上昇がさまざまな資産保有者の収入を増やすことを考慮すると、支出能力の増加につながる。また、変化にさらされら企業のコストも増加し、価格の上昇をさらに促進する可能性がある。
参考文献:
1. Building bank reserves is not inflationary (December 14, 2009).[*邦訳はこちら]
2. Printing money does not cause inflation (March 17, 2011).
3. Modern monetary theory and inflation – Part 1 (July 7, 2010).
4. Modern monetary theory and inflation – Part 2 (January 6, 2011).
質問:
- 私が理解するところによると、政府が発行した通貨は政府のIOUであるとMMTは主張しており、それは非政府部門が税負債を消滅させるために使用できるという意味とのことです。これは、誰もが納税義務を負わなければならないと仮定しているのでしょうか? MMT派経済学者の間でこれについて意見の相違はないのでしょうか?
まず第一にはっきりさせておくべきなのは、MMT派経済学者が私たちの研究を一般に紹介するために使用する教育法には順番があるということだ。
場合によっては、単純な概念的手段(ヒューリスティクス:発見的手法)を使用して、MMTに興味があり、事前のバックグラウンドを持っていない人々との議論を開始するのである。
こうしたヒューリスティクスの典型例は以下のブログ記事だ。
1. A simple personal calling card economy (March 31, 2009).
2. Barnaby, better to walk before we run (February 8, 2010).
3. Some neighbours arrive (February 15, 2010).
よくご存知の通り、こうした「モデル」が現実を示しているというわけではない。現実ははるかに複雑で多層的だ。
しかし、こうしたヒューリスティクスにより、通貨システムの本質的な特性、通貨発行者の能力、および通貨発行者である政府が政策課題を推進するための手段を探ることができる。
一例として、非常に単純化された論理モデルでは、全ての人々にその通貨で税金を支払うことを要求することにより、新しい通貨がどのように地位を獲得するかが示され、またその際、政府が通貨を支出しこの世に出現させるまで、非政府部門には通貨を納税する能力が生じ得ないことが示される。
こうして、税金は政府支出への資金提供には本質的になり得ないという明確な因果関係を確証できる。このシンプルな世界では、むしろその逆のことが起きている。
政府支出は、非政府部門が納税可能となるための通貨を供給するのであり、その政府が発行した未払い債務は、(まだ課税されていない)過去の財政赤字を示すものに過ぎない。
このシンプルなモデルは、そのままで目的を果たしているのである
だが、これで話が終わりというわけではない。学術的なMMT派経済学者は、(たとえ他の人がそうするかもしれないとしても)この種の推論を決定的なMMTの主張とするわけではないのである。
重要なのは、この単純なヒューリスティクスを実世界の制度的洞察および現実に一旦重ね合わせてみると、すぐさま分析にあたって不十分なものになるということだ。
例えば、「MMTは『政府支出の前に税金を支払うことはできない』と主張している」という言明は、2つの点で明らかに誤った記述である。
まず第一に、MMTはそうした主張をシンプルなヒューリスティクスのモデルを超えた範囲では行なっていない。(いかに当該モデルが高度にデザインされたものであり、現実の平明かつ思慮深い抽象化が想定として用いられているとはいえ)
第二に、現実の世界では、銀行を訪れ、事前に金融資産を積み上げることなく、税金を支払うための資金を借りることが出来る。銀行融資にアクセスするためには、自身の財務諸表摘要書の提示が必要となる。
この場合、政府が最初に支出によって貨幣を生み出しておかなくても納税できるのは明らかである。これは、商業銀行のような、融資の際に預金を創造するという(シンプルなヒューリスティクス・モデルにはない)機関が現実には存在するためだ。
このことは、シンプルなモデルの洞察を無効にするものではない。より深い洞察で補強する必要がある複雑性の層を追加するだけである。
教育の面を鑑みると、”走る”前に”歩く”ことから始める必要がある。シンプルなヒューリスティック・モデルによって、MMTの概念(通貨発行、政府/非政府、フローとストック、収入と富など…)に基づいた考察を出来るようになれば、それによって次のステップに進み、より現実世界に近い複雑性を含んだ分析へと深化させていくことが出来るようになる。
しかし、シンプルなロジックに固執して現実世界の複雑性を否定することは危険な戦略であり、学術的なMMT派経済学者はそうした戦略を採用してはいない。
この納税の事例を使って、我々が理解の複雑性をどのように拡張するかを説明しよう。銀行が融資のたびに預金(および流動性)をいつでも創造できることは明らかなことだが、この時、その融資に関連する取引(この場合は私の納税)が「履行」される必要があることを考慮する。このための資金はどこかから調達されなければならない。
そしてこのことにより、我々は銀行の準備預金と中央銀行資金の役割についてのより深い分析へ向かうことになる。結局のところ、自分の銀行預金への請求(銀行預金による支払い)は、準備預金によって裏付けられなければならないということを留意しておく必要がある。ただしこれは、準備預金を事前に保有していないと融資が出来ないということを意味するわけではない。
明らかなことだが、私が政府に納税することを伝え、私の借入によって創出された銀行預金を納付する際、政府はその銀行の準備預金口座から自身の口座へ(納税分だけ)振り替えるよう中央銀行に指示することになる。
件の銀行の準備預金が不十分な場合、またはその時点で銀行システム全体の準備預金が不足している場合、準備預金の唯一の供給元は中央銀行である(MMTでは統合政府部門の一部と見なされる)。
その意味で、正しい言い方をすれば、「徴税に際して事前の支出が必要」というよりは、「非政府部門の金融システムのソルベンシー(支払能力)は、究極的には非政府部門に対する政府の(自身の発行通貨による)融資に依存する」といった具合になる。そうした政府による融資が、銀行の準備預金需要が常時満たされることを可能としている。
さて、これは明らかなことだが、(質問に書かれているような)全ての人が納税のために通貨を利用する(および通貨を需要する)ということは実際にはない。
むしろ、MMTの論法を支える通貨の税駆動の議論(tax-driven currency argument)では、全員が「納税者」である必要はないのである。通貨は一旦確立されれば、人々に広く受け入れられるようになる多くの理由がある。少なくとも、誰もが同じ通貨を使用すれば、取引コストが低くなるというのは事実だ。
MMTが課税を表現する際の方法もかなり単純化されたものだ。シンプルなヒューリスティクスでは、誰もが支払わなければならない一時払い(議論を単純化するために非政府部門の合計額としている)として表現される。
我々は税制度にきちんと複雑性を導入することができる。例えば、所得税構造における累進性や、非所得税の配置(GSTやVATなど)、およびその他の複雑性(死亡税、富裕税、支出税など)などだ。
政府が現実の世界で税制を運用しているとき、こうした複雑性に対処しなければならないことは認めるが、私の見解の中ではこれは必要不可欠なものでは決してない。
というのは、そのような複雑さを導入したとしても、大部分の人々が税負債を消滅させるために通貨(政府のみが発行する)を必要とする場合、政府のために働いて通貨を稼得するか、政府からの請負契約に従事して通貨を稼得するか、あるいは当該通貨建ての中央銀行準備預金を持つ商業銀行から「通貨」を借り入れるか、(最終的には準備預金口座を持つ銀行を介さなくてはならないが)銀行以外の金融機関から通貨を借り入れるか、このいずれの場合であっても、基本的な洞察は変わらず成立することになるからだ。
参考文献:
1. Deficit spending 101 – Part 1 (February 21, 2009). [*邦訳はこちら]
2. Deficit spending 101 – Part 2 (February 23, 2009). [*邦訳はこちら]
3. Deficit spending 101 – Part 3 (March 2, 2009). [*邦訳はこちら]
4. Will we really pay higher taxes? (April 7, 2009).
5. Taxpayers do not fund anything (April 19, 2010). [*邦訳はこちら]
結語
Part 2では引き続き質問への回答を行なっていく。
今日、私はこの1週間の講演ツアーの2番目のイベントのために、日本の京都に居る。本日、京都市国際交流会館で開催される薔薇マークキャンペーンのワークショップで講演する予定だ。
翌日は、東京で公演する。
今回は素晴らしい旅であり、経済政策における緊縮財政と新自由主義の持続を終わらせることに全力を尽くしている本当に素晴らしい人々に出会えた。
今日はここまで!
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