ビル・ミッチェル「税金を払ったり国債を買ったりするためのお金はどこからやって来るのか?」(2018年3月15日)

Where do we get the funds from to pay our taxes and buy government debt?
Posted by Bill Mitchell on Thursday, March 15, 2018

先週あたりのやや長いTwitter上のやり取りで(不本意にも)私が引用されていた。そこでは「MMTを全て理解している」と自負する人(つまり、彼はMMTの基本原理や抽象性と洞察力のレベルを理解しているのだと思う)が、現代貨幣理論(MMT)提唱者が徴税や国債発行は通貨発行政府の支出を賄ってはいないと主張して嘲笑されている、と延々と主張している。彼は、税収があたかも中央銀行にある政府預金口座に入金されているように見え、政府はその口座残高がプラスでない限り支出ができないという米国の既存の制度的構造を指摘している。また、どうやら「債務上限」に関する現在進行中のごまかしにも言及しており、Twitter上にある主張によれば、それが財政赤字が国債発行から得た借金によって賄われているという「事実」を証明するものらしい。先週、私のブログの読者からこの問題に関する多くのメールを受け取った。彼らは(概して)この主張に対して「説得力がある」と感じたためか、その真偽について疑問に思っていた。初期からのMMT提唱者はこの点について本当に誇張しすぎていたのだろうか?また、こうした会計上の取り決めが、実際には政府が赤字支出のために税収と借金の両方によって資金を調達しなければならないという証拠になるのだろうか?困惑が広がっているようだ。政府の支出と徴税に関連する金銭的な流れの根本的性質を理解できれば、上記のような議論がせいぜい表面的なものに過ぎず、とある基本的な問いに対処できないことがすぐに分かるようになる。それは、税金を払ったり、国債を買ったりするためのお金はどこからやってくるのか、という問いだ。そこまで掘り下げれば、この問題はすぐに解決できる。

このTwitterでのやり取りで提起されたのは次のような疑惑だ。つまり、MMT提唱者が、通貨発行政府の支出が税金や国債発行によって賄われてはいないと主張する場合、それは現実を説明しておらず、専門家たちからの露骨な批判や拒絶反応を招いているというものだ。彼ら専門家は様々な銀行口座(財務省租税貸付(TT&L)口座や他国のそれに相当する口座等)の存在や債務上限を公共支出と結びつける会計上の取り決めの存在を指摘している。

実際、政府は税収や非政府部門からの借り入れなしには支出できないことを示唆するような様々な会計慣行がある。

どうやら、アメリカの債務上限や他国での同様の仕組みは、国債を発行して得た資金が政府の赤字支出に使われていることを明確に示しているらしい。

さらに、中央銀行は政府預金口座の当座貸越を認めていないため、TT&Lのような口座から中央銀行に存在する政府預金口座への振替は政府支出の資金調達と直接的に関係しているということになる。

ここが論点である。

彼ら批判者は、これらの制度的取り決めが本来は政治的な(つまり、立法や規制によって課される)ものであることを認めている。これは、政治的な意志があれば変更できるということを意味する。

ニューヨーク連邦準備銀行の高官ケネス・ガーベイド氏による2014年の記事 – Direct Purchases of U.S. Treasury Securities by Federal Reserve Banks(FRBによる米国債直接買い入れ)– は、連邦準備銀行(FRB)による国債直接買い入れの許可・ 取り消し権限に関する、米国における連邦準備法の改定の経緯を文書化したものである。

私はケネス・ガーベイド氏の文書が発表された直後にブログの中でこの問題について分析している。 – Direct central bank purchases of government debt(中央銀行による国債直接買い入れ )(October 2, 2014) –

つまり、これらの会計上の取り決めや制約は、全て政府の気まぐれによって変えられるものなのだ。

しかし、今週のTwitter上でなされた主張は、会計上の取り決めが実際に存在している限り、政府が税収を超えて赤字を計上するときに、税収と借金によって得た資金を使用しなければならないというものである。

他のTwitterユーザーが、通貨の独占的発行主体であるため収入による制約を受け得ない通貨主権政府にとって、このような会計上のカモフラージュはそうした政府の本質的な能力を隠すことに寄与していると返答した。それに対する返事は、もしそうであるならば、アメリカの場合、どうして債務上限についてあれほどの心配がなされているのか、というようなものだった。

この「分かりきった」論争の問題点は、法定不換通貨制度のもとで実際にどのようなことが起きているのかについて、会計上の取り決めを超えたレベルでの検討に至っていないことだ。

これらの「会計上の」取り決めが、徴税と借り入れが政府の支出を直接的に賄っていることを示しており、MMT提唱者は逆のことを言うのを止めるべきだ、というこの基本的な主張は間違っている。

全ては、抽象化のレベルと時間的因果関係に帰着する。

もちろん、ある特定の銀行のある特定の口座に1ドルがある場合にのみ政府が支出でき、任意の債務上限が破られた場合には1セントも借りられないというルールが存在している場合は、政府が法律の規則に従う限り、これらの規則は拘束力を持つだろう。

政府の支出を止めさせるための法律があれば、確かに支出を止めさせることはできる。しかし、それは政府が支出する「資金」がどこからやって来るのかを理解するのとは別の問題である。

このような自主的制約が通貨発行政府に政治的規律を課す役割について、私はこれまでに何度も書いてきた。

例えば、この点についてのより深い議論は、私のブログ記事 – On voluntary constraints that undermine public purpose(公共の目的を損なう自主的制約について)(December 25, 2009) – を読んで欲しい。

まず、「政府」を構成するのは何かを考えよう。

私のブログ記事 – The consolidated government – treasury and central bank(統合政府 – 政府と中央銀行) (August20th, 2010) – では、誰が中央銀行を所有しているのか、中央銀行は政治的干渉を受けることなく金利を設定しているか、などのよく見られる議論を超えて、これらマクロ経済政策上の両輪が政府の一部ではないというのはあり得ないことだと指摘している。

このブログ記事の中には、さらに詳しい説明のためにいくつかリンクを貼っている。

また、エリック・ティモワーニュによるこの論文 – Modern Money Theory and Interrelations between the Treasury and the Central Bank: The Case of the United States (MMT、政府と中央銀行の相互関係:アメリカの場合)– を読むことをお勧めする。この論文は、「通貨主権政府は、厳しい財政制約に囚われない、非常に柔軟な政策スペースを持っている」ことを示している。

またこれには、議論を理解し、先週のTwitter上のやり取りで遭遇した罠に引っ掛からないようにするための、さらなる資料の引用もいくつか含まれている。

統合政府部門という概念は、MMTの基本的な出発点であり、分析を過度に複雑化することなく、純金融資産が経済を出入りする政府部門と非政府部門の本質的な関係を示すことができる。

純金融資産は、中央銀行または政府との取引を通じてのみ、非政府部門において創造・破壊されることを理解するだけで、中央銀行が通貨発行政府の一部ではないという考えから脱却できる。

さらに、入門編である一連のブログ – Deficit spending 101 – Part 1(翻訳:赤字財政支出 101 – Part 1)– Deficit spending 101 – Part 2(翻訳:赤字財政支出 101 – Part 2)– Deficit spending 101 – Part 3(翻訳:赤字財政支出 101 – Part 3) – で詳しく説明したように、財政政策の決定が銀行の準備残高に影響を与え、それが中央銀行の金融政策の実施方法に直接影響を与えるということは、これらマクロ経済政策の両輪が本質的に繋がっており、独立したものではあり得ないことを意味している。

通貨発行「政府」が、中央銀行と政府の機能を統合して構成されているこの単純なレベルにおいて、徴税や借入が「政府」の支出を賄っていないのは明らかだ。

中央銀行は準備預金と政府通貨をいつでも発行できる(国によっては紙幣と硬貨の発行を部門ごとに分けているところもある)。

考えてみてほしいのだが、中央銀行は、金融政策の実施や非政府部門との資産スワップに加え、非政府部門から財・サービスを直接購入している。

彼らは、オフィス用品、IT機器、専門的なサービスやトレーニングを含むその他の機器、建物のメンテナンスサービスなどのように、オペのための設備や、従業員をトレーニングするためのものを購入している。

大きな買い物である場合には、通常、競争入札の過程が必要である。しかし、これは現実を抽象化したものではない。これらの購入は、政府が非政府部門から財・サービスを購入するのと同じである。

これらの購入を融通するための資金はどこからやって来るのだろうか?それは「政府」の通貨発行能力だ。中央銀行はこれらの注文に応じて銀行の準備預金口座にただ振り込むだけで、「無から」準備預金を創造するのである。

これは非政府部門に新たな金融資産を創造しない量的緩和とは異なるオペである。量的緩和は非政府部門が持つ金融資産のポートフォリオを変更するだけだ。例えば、国債を減らし、準備預金を増やす。

どちらの場合も、資金は「無から」生まれるが、非政府部門の純財務状態への影響は異なる。

中央銀行が財・サービスを直接購入する場合には、税収や国債発行は必要ない。そうすることで非政府部門に新たな純金融資産が創造される。我々はその「支出」が税収や借金によって可能になったとはちっとも思わないだろう。

これが政府の話になると、事態がより複雑になるようだ。それは、抽象的な概念を理解していない人にとっては、このような会計処理の積み重ねが、税収や国債発行が政府の支出を可能にする「お金」を提供しているかのような印象を与えるからだ。

しかし、現実には、これは中央銀行による購入と同様であり、会計上の取り決めは、偽の因果関係を信じさせるためのカモフラージュに過ぎない。

財政赤字(国庫運用)は、民間部門の金融資産の累積ストックを決定する。そして、たった一つの例外(外国為替取引)を除き、中央銀行による通常の政策決定が、紙幣と硬貨(現金)、準備預金(決済口座残高)、そして国債という、ストックの構成を決定する。

政府部門から非政府部門へと流れた資金のうち、租税債務の支払いに使われなかった分が、現金、準備預金、国債として非政府部門に残る。

ここでの因果関係に注意して欲しい。政府が税の資金を提供しているのである。

政府部門と非政府部門の関係の本質を捉えるための非常に簡単な例として、人口が2人しかいない経済を考えてみよう。一人は政府(通貨を発行する)、もう一人は非政府部門(相手方が発行した通貨を使用する)である。

もしも政府が均衡財政の状態にするならば(100ドル支出して100ドル徴税する)、その期間の非政府部門の不換通貨(貨幣)の蓄積はゼロであり、非政府部門の財政状況も均衡している。

そのため、非政府部門に通貨の貯蓄はない。

なお、この経済では、少なくとも政府である人が100ドルの支出を行わない限り、非政府の人が政府の人に100ドルの税金を支払うことはできないということにも注意してほしい。

これは先に述べた因果関係と同じである。政府支出が税の資金を提供しているのであって、税が政府支出の資金を提供しているわけではない。

政府が120ドルを支出し、徴税が100ドルのままだとすると、非政府部門の黒字は20ドルとなり、これは金融(貨幣的)資産として蓄積され、非政府部門の純資産や富の増加をもたらす。

非政府部門の20ドルの貯蓄は、最初は無利子の貨幣保有という形で存在する。

政府は、貯蓄を奨励するために利付債の発行を決定するかもしれないが、オペレーション上は、赤字をファイナンスするためにそうする必要は無い。

利付債とは、政府がある時期(満期日)に一定の金額(額面価格)を返済し、それに加えて金利プレミアム(利回りやクーポンレート)を支払うことを示した紙切れのことである。

非政府部門が流動資金を必要とせず、利息を得たいと考えた場合には、現金を債権と交換できる。これは民間銀行の預金として保有することができる。

政府の20ドルの赤字は、ちょうど非政府の20ドルの貯蓄である。

さて、政府がこのままの状態を続ければ、非政府の累積貯蓄は常に累積財政赤字と等しくなる。

しかし、仮に政府が黒字を出した場合(例えば80ドル支出して100ドル徴税した場合)、非政府部門は政府に対して20ドルの純納税債務を負うことになり、必要な資金を得るために、それまでの貯蓄を取り崩したり、実物資産を流動化したり、利付債を政府に売り戻したりする必要がある。

その結果、政府は一般的に、以前に売り出した債権の一部を買い戻すことになる。

いずれにしても、政府が黒字であるならば、非政府の累積貯蓄(金融資産)は同額だけ減少する。

そのため、政府の黒字は非政府部門に2つのマイナス効果をもたらす。(1)非政府部門が保有する金融資産(貨幣や債券)のストック、つまり富が減少し、(2)非政府部門の可処分所得も純税負担に応じて減少する。

政府の債券買い入れは非政府部門の資産保有者に現金を提供するものだと反論する者もいるかもしれない。確かにその通りだが、財政黒字は税需要が当期収入を上回ることで生じる現金不足を解消するために、非政府部門に富の流動化を強いるものである。

債券を売却して得た現金によって政府に対する純納税債務を支払うことができる。この例を拡大して、非政府部門の所得創出、民間企業と生産、銀行部門を考慮したとしても、結果は全く同じである。

ここで、この経済に新たな会計ルールを当てはめてみよう。政府の人は、口座残高が税収によって黒字になるまでは、経済に対してこれ以上の支出はできないことを決定したと言い出すかもしれない。

それによって何かが変わるだろうか?いや、そんなことはない。

それは、政府支出のタイミングを変えるだけで、本来の支出能力を変えるものではない。

あなたが考えなくてはならない質問はこうだ。政府の人の口座残高を税収によってプラスにするために非政府の人が政府の人に支払ったこの資金は、どこからやって来たのだろうか?

過去の財政赤字からやって来た、というのがその答えだ。

税収は政府の支出の制約になっているわけではなく、課税によって非政府の支出を制限し、政府が生産資源の利用を指揮できるように財政スペースを生み出すのである。

元ニューヨーク連邦準備銀行議長のビアズリー・ラムルは、1946年1月のAmerican Affairsの記事 – Taxes for Revenue Are Obsolete(歳入のための税金という考えは時代遅れ)– の中で、税金は「政府が支払いを行うために必要な収入を提供するものではない」と指摘している。

これは「政府の人の赤字には、非政府の人への同額の債券発行が必要になる」という別の会計ルールが導入された場合でも同じことが言える。

それによって何か変わるだろうか?いや、そんなことはない。

非政府の人が債券を購入し、現金ではなく債券の形で保有するためのこの資金はどこからやって来たのだろうか?

政府の人は、以前に自分で支出して生み出した純金融資産を借りているだけである。

プラマイゼロだ!

確かに、民間部門はこれらの金融資産を様々なポートフォリオに分散させたがるかもしれない。しかし、その場合、総需要に対する民間支出の割合が増加し、純公的支出の必要性が減少することになる。

そのため、会計上の証跡は以下のようになる。

  1. 政府は中央銀行に財務省一般口座(米国の用語ではTGA)(※訳語の統一のため以下「政府預金口座」と訳している)と呼ばれる金融口座を持っている。政府が支出をするときには、政府預金口座残高を用いた資金の流れとして計上される。
  2. また、政府は、税収や国債発行の入札で得た資金を集めるため、「財務省租税貸付口座(TT&Ls)」と呼ばれる口座を特定の商業銀行に持っていることもある。これらは財政政策の実施による準備預金残高への影響を平準化し、中央銀行の流動性管理オペに役立つ。
    あるいは、徴税と借り入れによる資金は、中央銀行の「税金と借金」という口座に保管される。これは統合された口座でも、別々の口座でも構わない。それは大した問題ではない。この場合、例えば納税があれば直ちに準備預金が流出する。一方、TT&L口座を用いた中間ステップを踏めば、納税の際に準備預金が流出することはない(次のポイントを参照)。
  3. 政府支出は中央銀行にある政府預金口座から計上されるが、会計記録では、TT&L口座から政府預金口座への数字の振替がなされる。後者の振替は、準備預金を流出させる役割を果たす。つまり、TT&L残高がプラスであったときに銀行システムに残っていた税収がシステム内から消えるのである。
  4. そのため、政府預金口座への送金は、TT&L口座の資金から、もしくは「税金と借金」口座から直接行われる。ここではどちらでも構わない。
  5. これは税収および(または)借り入れが、政府預金口座の負債項目に資金を提供しているということだろうか?答えはNoだ。
  6. (上記の単純な例に従い)ここで問われなければならない疑問は、TT&L口座や中央銀行の「税金と借金」口座にプラスの残高を表示させるための資金は、どこからやって来るのかということだ。

    この問いに答えること、つまり明確に見えることを1段階抽象化することが、現状を知る手がかりとなる。そして、既存のマクロ経済理論が解明できなかった、MMTによる極めて重要な貢献の一つを理解することができる。

会計処理上は、税収や借入による資金が政府の口座残高をプラスにしているように見えるが、根底にある金融の現実を見れば、その資金は過去の政府支出と中央銀行による関連の準備預金オペから生まれたものであることが分かる。

それ以外にはあり得ない。

エリック・ティモワーニュは(上記の引用論文で)次のように指摘している。

TT&Lsを無視すれば、徴税と国債発行は準備預金を流出させるため、FRBは資金を提供しなければならなかったはずだ。すると、論理的な結論としては、準備預金の注入は徴税や国債発行よりも先に行われなければならないということになる。より広げて言えば、MMTから導かれる理論的洞察は、政府の支出(政府または中央銀行による)は最初に行われなければならない、つまり徴税や国債発行よりも先になされなければならないということだ。政府の支出は、銀行が銀行口座への入金によって支出するのと同様に、無から貨幣を創造することによって行われる。そして徴税や国債発行は貨幣の破壊に繋がる。

 

以下に示すように、実際には、政府と関連する準備預金の注入にはいくつかの形態がある。政府による貨幣発行、中央銀行による政府への資金供給、中央銀行によるプライマリー・ディーラーへの資金供給、国債の満期償還などだ。準備預金の注入により、銀行は国債を購入したり、納税を完了したりすることができる。

また彼は、政府が財政赤字を出した場合(政府預金口座とTT&L口座の残高が純支出(injection)に見合う金額に達していない場合)に、米国の法律(ほとんどの国で同様の取り決めがある)では、赤字分だけ国債を発行するように義務付けられていることについても言及している。

しかし彼は、「この予算手続きを避けて通る方法が少なくとも4つはある」と述べている。詳細は割愛するが、少なくとも、これらの回避方法によって、「明日誰も国債を買ってくれなくなっても、政府は、FRBの助けがあろうとなかろうと、やろうと思えばその問題を回避する手段を持っている(それは経済的な問題ではなく、政治的問題になる)」ことが明らかになる。

簡単に言えば、明確な簿記的関係性を掘り下げれば、中央銀行が何らかの形で国庫運営に資金を提供しているというはっきりした因果関係が示される。

「債務上限」についてはどうだろうか?

債務上限や債務ブレーキの制度は自らに制約を課すもので、多くの国で採用されている。米国の場合、「債務上限」によって議会は任意の限度額を承認する必要があり、限度額に達すると、議会は許容される公的債務水準を引き上げる決議を行わなければならない。

米国では政治家が「債務上限」を巡って激しく怒り、他の国でも似たような取り決めがあるということは、政府の支出には財政的制約があるということだろうか?

例えば、支出と国債発行を一致させなければならないというルールがあり、現在合意されている「債務上限」が拘束力を持つならば、米国の債務上限によるいささか非効率な法的制約によって政府の支出を止めることは可能だ。

しかしそれは、国債発行によって得た資金が政府の支出を賄っていると立証することとは別問題だ。

それは、政府が1セントでも支出するならば、その前に国家指導者が毎朝3分間逆立ちをしなければならないと定めているのと同じである。政府はその身体的偉業を成し遂げなければ一切支出できない。

「債務上限」の歴史が教えてくれるのは、実際には拘束力が無く、単なる政治的演出になってしまっているという以外に、ある状況下では、各国の立法者が議会を使って政府の支出を止めさせるのが可能ということだ。

しかし、この法的効力によって借金が政府の赤字支出を賄っていることが分かる、という推論は成り立たない。

また、米国では、財務省がいつでも「ゼロ金利即時満期証券」と呼ばれるものを発行できることも知られている。これは政府預金口座に対する「振込」として中央銀行に預け入れることができるあらゆる価値の紙幣または硬貨である。

この場合、国債発行は起こらない。したがって、債務上限は公共支出を止めるための非効率な装置としてさえ無意味になる。

債務上限に関する詳細は、米国議会調査局が発表した論文(2015年11月2日)– The Debt Limit: History and Recent Increases(債務上限:歴史と最近の上昇)– を読んで欲しい。

終わりに

先週、この問題についてMMT支持者から困惑を示すメールが多数寄せられた。

この詳細な回答が、自主的な会計上の取り決めを因果関係と混同するという罠に引っかかってしまった人々の助けになることを願う。

政府は納税や国債購入を融通するために、支出して通貨を生み出さなければならないというのが正しい因果関係だ。

初級論理学によってその意味が理解できる。

今日はここまで!

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