Bill Mitchell, “The natural rate of interest is zero!“, Bill Mitchell – billy blog, August 30, 2009.
メディアでは、オーストラリア準備銀行(RBA)が2009年末に利上げするだろうということがやかましく報じられている。失業と不完全雇用がまだ増加しており、雇用成長率が利上げ時点でゼロを超えるかどうか不透明な中では、利上げはナンセンスだと思われる。理論的な観点から言って、こうした全ての推論の道筋は(ジャーナリストたちが本当に理解しているかどうかはともかく)、”中立利子率”と呼ばれるコンセプトであり、これは新自由主義的偽装の一つだ。今回のブログ記事では、これについて論じていこう。
メルボルンの日刊紙「The Age」で、Why rates are on the way back upというタイトルの記事が掲載された。The Ageの経済担当記者であるPeter Martinは、銀行エコノミストの報告の後に同じ内容を自身のブログでも発表しており、この記事は読む意味がある。
(Ageの記事によれば)いわゆる”市場心理”は、以下のようなものなのだという。
ほとんどんの実務エコノミストによると:
…2010年の終わりまでにオーストラリア準備銀行が金利を4.25%まで引き上げるだろうと予想されている。それは今よりも1.25%高い値だ。
エコノミストらが皆このように考える根拠は、オーストラリア準備銀行総裁であるGlen Stevensの最近の発言だ。2009年8月14日金曜日のシドニーの経済常設委員会における代議員議長からの質問に対し、Stevensは以下のように答えた(全文はこちら)
尤も、我々は今すぐ金融政策を引き締めようとしているわけではありません。金利をいつ底から浮上させるかという議論において多少は考慮に入れていいただきたい観点があるのですが、我々は緊急時の設定のままでいるのです。ここ40年で最も低い金利設定になっていますが、これは、経済は深刻なまでに弱いままだろう、とか、我々が経験したことのないような世界情勢による経済低迷のリスクがまだある、という予想に基づいたものです。。… 直面していると思われるリスクが変化しはじめたなら、それに対応して緊急時体制を脱さなくてはなりません。… もはや現在の経済情勢には何の不安もありません。緊急的状況が十分過ぎ去ったとおおよそ考えられる時期になっているなら、我々はもはや緊急時体制を維持しなくてよいのです。我々が緊急時体制を解除するのは、世界のどこかに問題があるという確たる証拠がない限り、緊急時体制をあまりに長く維持してはいけないと考えるからです…
The Ageは、ある実務エコノミストの以下の発言を引用しながら、この主題に同意を示している:
…現在の3%という金利は、今世代で最も低い――1960年代後半以来、このような低金利は見たことがない
実際、我々オーストラリア国民もここまで低い金利を1960年代後半以降見たことはないが、同時に、1960年代後半以降完全雇用に近づいたことも見たことがない。この二つの事実は無関係ではない。
とにかく、こうした憶測の背景には、主流派経済学者がたびたび言及する”中立利子率”という名前の欺瞞に満ちた概念がある。
The Ageの記者はこう書いている。
オーストラリア経済においては現在、5%の金利が中立的であろうと一般的に考えられている―中立的というのは、経済を刺激もせず、減速もさせないということだ … したがって、3%の金利は過剰に経済刺激的だということになる。中央銀行が加速器を床に置くような真似をしたら、オーストラリア経済は世界金融危機の泥でスリップして転倒してしまう。
こうした実証的根拠に欠くコンセプトを夢見ている主流派経済学とは異なり、現代金融理論(MMT)は事物を(あなた方読者は驚かないだろうが)違った方法で考察する。
しかし、最初は議論の背景について説明しよう。
中立利子率という考えは重要だ。というのは、それが景気安定化装置の優先的選択肢は金融政策であるという信仰を反映したものだからだ。そうした信仰に基づき、今日のほとんどすべての経済学者(私は違う!)は、中央銀行が物価安定の達成によって実質経済成長率を最大化できると信じている。こうした見方に対応して、中央銀行の目標金利が”中立利子率”を下回るとやがてインフレに帰結し、その逆もまた然りである、と信じられている。
このため、中立利子率は時に均衡利子率とも呼ばれる。これは労働市場における自然失業率概念とそっくりな概念である。自然失業率もまた新自由主義的な偽装の一つだ。
こうした考えの構造はどこからやってきたのだろう? 我々はこのアイデアをイギリスの古典派経済学者ヘンリー・ソーントン(1760-1815)の著作の中に最初に見出すことが出来る。しかし、最もよく知られている解説は、スウェーデンの金融理論家クヌート・ヴィクセル(1851-1926)の1898年の本に書かれており、ヴィクセリアンの考えは中央銀行家たちに大きな影響を与えている。
彼の古典的著作―Interest and Prices(1936年版がMacmillanとその共著者により出版されている)―において、ヴィクセルは”自然利子率”を以下のように定義している(102ページ)
商品価格を上げもせず、下げもしない特定の中立な貸出金利が存在する。この中立な貸出金利は、もし仮にあらゆる貸出が貨幣(money)ではなく実物的資本財によってなされるのであれば、需給によって決まる金利と必然的に同じものになる。つまり、当該中立金利は、資本の自然金利の現在価値と同一になるということだ。
こうした考えに基づき、当時は、貯蓄者と投資家を接続する貸付資金市場において、実物的投資資金と実物的貯蓄供給が一致する金利が自然金利であると考えられていた。
ヴィクセルはまた、金融市場において貨幣(money)の需給で決定する金利と、貨幣のない世界で”実物的異時点間取引”を介して決定する金利を区別した。つまり、”貨幣”は”自然金利”に何の影響も持たず、”自然金利”は実物的(非名目的)因子のみによって決まるとされたのである。
彼はこう書いている(104ページ)
今もし貨幣が同じ金利で貸し出されるなら、形式的に見れば、貨幣なしで行われたであろうプロセスに、ただ外套を着せただけのものになるだろう。経済の均衡状態は完全に同様に満たされることになる。
こうした論理は、貨幣が”現実経済に対するヴェール”であり、物価水準にしか影響しないとする古典派的な考えに合致する。ヴィクセリアンの考えでは、金融市場の利子率と自然利子率の間の差が、物価水準に影響を及ぼすことになる。
したがって、金利が自然利子率より低いとき、(貯蓄に比して)投資超過となり、(総供給に比して)総需要超過となる。銀行融資は投資ギャップを埋めるために新しい通貨を発行し、インフレをもたらすことになる(金利が自然利子率より高いときは、その逆が起こる)。
こうした考えが現代金融経済にいかに不適合的かを長々と説明することも出来るが、それはこのブログ記事の目的ではない。
自然金利は観察不能な想像上の構造物なのだが、ヴィクセルは物価水準変動と2つの利子率のギャップの間のリンクが政策決定者に手がかりを与えると主張した。
彼は以下のように書いている(189ページ)。
このことは、銀行が自然利子率を本当に確認してから自身の金利の決定するべきだということを意味しているわけではない。そんなことはもちろん非現実的だし、全く必要ではない。商品価格の現在の水準は2つの利子率の差を示す信頼性の高いテストになる。そのプロセスは以下に示すようなシンプルなものだ: 物価が変化しない限り、銀行は金利を変化させずにとどめる。もし物価が上昇したら、金利は引き上げられる; もし物価が下落したら、金利は引き下げられる; 金利はその後、さらなる物価変動が金利の何かしらの変更を必要とするまで、新しい水準で維持されることになる。
以上より、原初の形の自然利子率概念を中央銀行家たちが未だに保持していることがわかるだろう―しかし、今ではどちらかというと ”中立利子率” と呼ばれている。
この文脈で重要なスピーチとして、前FRB議長のアラン・グリーンスパンの1993年のスピーチがある。そのスピーチによって、この自然利子率コンセプトが主流の政策検討の場に復活することになったからである。
1980年代の中央銀行家たちは、物価安定の維持のためにはマネーストックをコントロールする必要があるというミルトン・フリードマンの考えに毒されてしまっていた。マネタリーターゲット政策が追求され、それは結果的にすぐさま完全なる失敗へと陥った。
マネーストックは信用需要によって内生的に決まるのだから、中央銀行がマネーストックをコントロールすることが出来ないことは明らかであった。現代金融理論(MMT)は貨幣が外生的に決まるなどとは全く考えないが――貨幣外生説は主流派マクロ経済学の教科書の主要な前提となっている。
とにかく、中央銀行家たちはギャップを埋めるための考え方を変えた。1993年7月20日、グリーンスパンのStatement to the Congress(1993年に出版されたFederal Reserve Bulletinの849-855ページ)にて、彼は以下のように論じた:
実質利子率を考えるにあたっての中心的な問題は、それと均衡利子率との関係である。均衡利子率とは、維持されることによって長期的に経済を潜在産出水準に維持する実質利子率のことだ。実質利子率が均衡利子率より高い状態が続けば…ディスインフレーション…に直結するし、低い状態であれば、やがて資源のボトルネックに到達し、インフレーションが加速し、最終的には景気後退を生み出す。
このスピーチは、マネタリーターゲットの時代からの離脱として重要であり、インフレ目標の始まりを意味した。インフレ目標とは、中央銀行が目標インフレ率をアナウンスないし暗示し、総需要の操作(中央銀行家たちはそれが可能だと思っていた)を通じて物価を操作するために、金利を上下に調節するという枠組みである。このアプローチでは、インフレーションを抑える政治的手段として、明示的に失業を用いた――かの時代を通じて、”インフレ・ファースト”のマクロ経済学的戦略の一部として、総需要を抑制するために、失業率は高い水準に維持された。
グリーンスパンの”均衡利子率”は、大恐慌以前まで支配的であったヴィクセルの”自然利子率”理論の焼き直しだということがわかるだろう。しかしながら、ヴィクセルの理論を提唱するなら、その理論構造をすべて包摂しなくてはいけない――その空虚さと矛盾についてもだ。
当該理論によれば、物価調節を通じた市場均衡を想定しなければならず、経済は完全雇用に向かう傾向を持っているということになる(総需要の欠乏が起き得ないという意味だ)。したがって、もし(貯蓄の増加によって)消費が下落すれば、(貸付資金市場における)金利が(貸出供給の過剰によって)下落し、投資が増加することによって、消費減少による需給ギャップが満たされることになる。これはセーの法則であり、複数市場を導入する際はワルラスの法則と呼ばれる。
したがって金利は、完全雇用水準を満たす貯蓄と投資の一致があり、すべてがうまくいく自然金利へと調節されることになる。投資プロジェクトが不足することはなく、投資の是非は資金調達コストで判断される。そこには全く失業は存在しないのだ!
マルクスはすでに資本論においてこうした考えのナンセンスさを分解していたのであり、彼の議論を辿ってみることを勧めたい。そしてある意味、その追従者(ケインズとカレツキ)の発生は、マルクスによって予想されていたわけである。
さて、まさにこうした問題に対して、ケインズは一般理論で批判している。チャプター14で、ケインズはこう言っている(189ページ):
ここで言ってるのは、古典派の話だ; というのも、新古典派の橋渡しの試みは、最悪の混迷に陥ったからである … このことから、”自然”、”中立” … ないし ”均衡” 利子率が存在するという考えが導かれる。こうした利子率はつまり、”強制貯蓄”による一切の追加なしで古典的な貯蓄と投資を一致させる利子率だ … しかしこの点で我々はすでに深みにはまってしまっている。 “野生のアヒルは水底に――アヒルが潜れる限りの深さへ――潜り、そこにある雑草や海藻、ないしゴミに、しっかりと噛みついた。そしてそれの後を追って潜り、アヒルを再び引き上げるには、並外れて賢い犬が必要になる”
このように、伝統的な分析は失敗に終わっている。なぜならそうした分析は、システムの中の独立変数を正確に特定できていないからだ。貯蓄と投資はシステム内で決まる結果であり、決定要因ではない。それらはシステム内の決定要因(引用者註:総需要)で決まってくる双子の結果なのである。 … 伝統的な分析は、貯蓄が所得に依存することには気づいていたが、所得が投資に依存するという事実は見過ごしていた。それを考慮すると、投資が変わると、所得はちょうど貯蓄の変化と投資の変化を等しくする度合いだけ変わらなければならないのである。
言い換えれば、金利が何らかの形で投資と貯蓄をバランスさせるとか、投資が事前の貯蓄を必要とするとか、そういった正統派の考えはどちらも間違いだということだ。我々がきっちりと理解したのは、投資が所得の調節を通じて自ずと貯蓄を生み出すということである。こうした働きのすべては、有効需要に基づく――有効需要とは、現金に裏付けられた支出のことだ(マルクスは剰余価値理論の中でこのことについてはっきりと書いている)。1930年代は、ヴィクセリアンの、経済の動態に関するの考え方、金利調節を経済安定化政策の主役に据えるという考え方が完全に信用を失った時代だったのである。
しかし、こうした失墜したパラダイムが1970年代に復活し、1990年代まで再び支配的となった。こうした中立利子率的考えは、その重荷も完全に過去から受け継いでいる。
政策における中立利子率の有用性とは何か? これは然程馬鹿げた質問ではない。中立(自然)利子率が存在すると延々と主張する人々は、それをはっきりと計測する術を持っていないのだ。
このため彼らはヴィクセリアンの方法を採用し、物価が上昇しているなら金利が中立利子率より低いのであり、逆も然りだと主張する。言い換えれば、彼ら自身の価格調整理論に基づいた概念を作り出しただけなのだ。彼らは、金利変動とインフレーションの関係は疑う余地のないものとした上で、その理論が正しいのだから、自然利子率は測定すらできなくても、この概念に照らして我々がいまどのような状態にあるかを判定することができると言っているだけなのだ。
これまで、我々は皆、こうした(新自由主義的)コンセプトがあまりに抽象的で、かつメディアが延々とそれらを推奨するがゆえに、完全に欺かれてきた――そのため、中立利子率や自然失業率といった(両者は本質的に関係している)が、完全なるたわごと(total crock of sh.t)であるかどうかを疑うことすらできなかった。
さて、その疑問を今解き明かそう。
そうするにあたって、カンザス連銀の2004年のワーキング・ペーパー Estimating equilibrium real interest rates in real timeを読むのが良いだろう。この論文はとりわけ以下のように結論付けている:
我々の結果は、定式化の不確実性が大きいこと、一方的フィルタリング処理の問題が大きいこと、データの不確実性による不正確さがあることを明らかにした。さらに、成長率トレンドと均衡利子率の間の関係は極めて弱いということも明らかにした。全体の分析を通じて我々は、均衡利子率の統計的算出を実際の政策適用で信頼して用いることは難しいだろうということを結論付けた。
中立利子率を計算するために用いられたテクニックについての精密な議論に入ろう。そうしたテクニックはうまくいかず、ある程度長期の実際の金利の平均を用いるのと大差なかった。1991年の不況によりインフレ期待がまさしくパージされてしまっていた1994年3月に、オーストラリア準備銀行は公式にインフレ目標を採用した。この1994年3月以降について考察すれば、中立利子率という概念がいかに馬鹿げているかが目に見てわかるグラフを書き上げることが出来る。
その時期(2008年12月にかけて)を通じた平均短期金利(政策金利)は5.67%だった(いわゆる中立利子率とそこまで乖離はない)。
最初のグラフは、「政策(目標)金利と”中立”利子率(1994年からの平均で、5.67%)との間の差」についてのもので、左のパネルでは「単年のインフレ率」と比較しており、、右のパネルでは「単年インフレ率の変化」と比較している。Hodrick-Prescottフィルターを用いても、Kalmanフィルターを用いても、Marlboroフィルターを用いても、得られる結果は同じになる! 最初の二つは、実証研究において中立(均衡)利子率を算出するのによく用いられる手法だ。
利子率差がゼロ以上であるとき、その時期の(政策)金利が、自然利子率を上回っているため、デフレ促進的であり、利子率差ゼロを下回る場合は、その時期の金利が自然利子率を下回りインフレ促進的であることを意味している。自然利子率の理論では、物価水準の一次導関数(インフレ率)に対応しているのか、物価水準の二次導関数(インフレ率の変化、あるいはインフレ加速度変化)に対応しているのかは明らかではない。したがって、グラフでは両方の情報を掲載している。
ヴィクセルの予見に合致するような関係は全く何も描出されていないことがわかるはずだ。
二つ目のグラフは散布図だ。左のパネルは利子率差とインフレ率の散布図で、右のパネルは利子率差とインフレ率変動の散布図である。(訳注:もし自然利子率理論が正しければ)我々は左上と右下の象限への集中を観測できるはずだ。しかしそうなっていない。このことは、現代金融理論(MMT)の研究者からすれば全く驚くべきものではない。そのことについては次に詳説していく。自然利子率理論は、間違った理論によって政府に劣悪な金融政策を取らせた例の一つなのである。
なせ”自然”利子率はゼロなのか
現代金融理論(MMT)の研究者は、金融政策を景気安定化手段として貧弱な代物だと考えている。それは間接的で、効果が鈍く、不確実な分配行動に依拠している。それは機能するとしてもラグがあるし、物価圧力と無関係な地域や集団にペナルティを課すことになってしまう(例えば、シドニーの不動産価格が急上昇する一方でオーストラリア全域がそうでもないというときでも、金利引き上げを強いられることになる)。債務者、債権者、及び彼らの支出パターンにどういう影響を与えるかについての強力な実証研究もまた存在しない。借り手は貸し手より消費性向が高いと暗に想定されているが、定かではない。
現代金融理論(MMT)の研究者にとっては、財政政策は直接的で、非政府部門の金融純資産を確実に創造or破壊できるという点で強力な政策である。そうした政策は、分配に関する仮定にも依存しない。
その上、現代金融理論(MMT)の研究者にとっての経済の自然状態というのは、完全雇用、つまり、2%以下の失業率および潜在失業と不完全雇用がゼロであることだ。完全雇用からの乖離こそが財政政策設定の失敗を反映する――巨大財政赤字ではなく(他の条件が同じなら)。
財政赤字のサイズは、非政府部門の発行通貨貯蓄需要に基づいて決定されなくてはならない。したがって、もし財政赤字が不十分で失業が発生するなら、政府純支出が支出ギャップを埋めるのに不十分だということがわかるのである。
我々は、財政赤字が準備預金を追加し、システム全体の準備預金の余剰を創造するという事も知っている。
超過準備はインターバンク市場において、中央銀行の提示するサポート金利よりも高い利子を求める銀行同士の競争を刺激する。つい最近まで、日本やアメリカといった国々のサポート金利はゼロだった。オーストラリアでは、政策金利から25ベーシスポイント低いサポート金利が設定されているが、こうした設定には何の理論的裏付けもない。
サポート金利を全く提供しない方がはるかに好ましいだろう。この場合、政府純支出はオーバーナイト金利をゼロに引き下げる。なぜなら、銀行間競争は、システム全体の余剰を取り除くことができないからだ(銀行間取引は全体ではプラスマイナスゼロになり、金融純資産は一切破壊されない)。
したがって、完全雇用という”自然”な政策目標を追求するなら、財政政策は短期金利をゼロに引き下げる随伴効果を持つだろう。この意味で、現代金融理論(MMT)の研究者は、ゼロ金利が自然だと結論付けるのである。この観点については、Warren MoslerとMathew Forstaterのこの記事が有用だろう。
もし中央銀行が何らかの理由でプラスの短期金利を望むなら(我々はそれに断固反対するが)――中央銀行は超過準備付利を提供するか、債券売却を通じて超過準備を除去するしかない。我々が望ましいと考える政策ポジションは、自然金利であるゼロ金利を保ち、債券売却を行わないことだ。そして財政政策にあらゆる調節を担わせる。そうした方がはるかに明瞭な方法である。
そして、中央銀行に居る全ての秀才たちは、転向させて(再教育して)、ガン治療の研究やその他の有用な何かに従事させることができるだろう。
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