ビル・ミッチェル『日本はMMTの実証にならないという嘘話 — Part 1』(2022年1月3日) 

Bill Mitchell, The Japanese denial story – Part 1”, Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, January 3, 2022

さて、もう2022年となり、このブログも18年目に突入した。私がこれまでのキャリアを通じて、日本経済をかなり詳細に研究してきたことは、いつもブログを読んでくれている読者ならご存じだろう。1992年初めに日本が史上最大の資産価格バブルの崩壊を経験したとき、私が追求していた問題と注目していたデータは、それ以来自身のマクロ経済学の研究方法を形作る上で重要なものとなった。

私の考えでは、日本は新自由主義の狂気(信用膨張、無謀な不動産投機、そして暴落)に早くも取り憑かれていた国家の一つであり、またより責任ある財政政策(当時の状況ではGDP比10%を超える財政赤字を維持しなければならなかった)のために、その狂気を放棄した最初の国家である。その政策アプローチ(比較的大きい財政赤字、日銀のゼロ金利政策と大規模な国債買入プログラムなど)は、(クルーグマンを含む)様々なニューケインジアンのマクロ経済学者たちが破滅を予言する標的になった。

彼らの教科書モデルは、金利上昇、インフレの加速、債券利回りの上昇、そして債券市場が救済され通貨が急落することによる政府の財政破綻という最悪の事態を予測した。しかし、そのようなシナリオは起きなかった。日本は1990年代以降の主流派経済学のコンセンサスに反する政策をとっている。そして結果として生じた現象の因果を理解することで、私は非常に多くのことを学んだ。

今回は、2部構成のパート1として、日本がMMTの主要な原理を実証している理由、そして、その現実を否定したい人たちが自分たちの主張をするために「パラレルワールドのMMT」をでっちあげる経緯について考察する。

「日本はMMTの実験場である(すべての国と同様に)」

日本の資産価格バブルについては、こちらでその原因と結果を知ることができる。

私は現在、(ブレトンウッズ以後の歴史と政策の誤りという広い視野で)これらの出来事について本を書いている。

私の考えでは、日本政府の政策アプローチは、多くの重要な教訓を提供しており、それらの教訓はすべて現代貨幣理論(MMT)の理解を裏付けるものである。

さらに、パンデミック時に見られた(そしてGFC〔2007年世界金融危機〕でも再演された)政策転換は、主流派のマクロ経済学者が数十年にわたって主張してきた政策と正反対である。彼らは、多額の財政赤字と公的債務水準、そして中央銀行による大規模な国債買入が大惨事を招くと繰り返し警告してきた。

しかし、彼らの予測は大きく外れており、利用可能な財政スペースについても、こうした大胆な政策が金利やインフレに及ぼす影響についても、全く有意義な示唆を与えられていない。
それは日本の経験を見れば明らかだ。

日本は1980年代に新自由主義的な民間信用の過剰を受け入れ、それが1991年〜1992年の不動産暴落を引き起こした。

政府の対応は、従来の限界を超えた経済政策、すなわち常に多額の財政赤字と公的債務を維持し、その多くを日銀が買い取るというものであった。

主流派の経済学者たちは、金利と国債の利回りが上昇し、インフレが加速し、財政破綻は避けられないと予測した。

しかし、これらの予測は悉く現実にならなかった。

日本は低失業、低インフレ、ゼロ金利、そして国債への強い需要を維持している。

GFCの時に多くの政府が日本の例に倣った際にも、上記と同様の予測がなされた。

その予測もまた失敗に終わったが、それは背景にある経済理論が間違っているからである。

緊縮財政に固執する各国の政府は、その欠陥のある理論を適用し、生産高と生産性の成長の鈍化、失業と不完全雇用の悪化と慢性化、賃金上昇の横ばい、不平等の拡大に耐えることを自国に強いたのである。

次のグラフは、1980年代以降の主要な政策変数と政策目標のスナップショットである。

自分が学生に教え、論説や発表された研究で書き、有給コンサルタントとして政府の政策立案者に助言している内容との一貫性を崩さずに、これらのグラフを説明できる主流派の経済学者は一人もいない。

(左上:日本の財政収支対GDP比、右上:日本の総公的債務対GDP比、純公的債務対GDP比、中央左:日本のマネタリーベースとインフレ、中央右:日銀ー総資産と日本国債保有、左下:日本の10年物国債利回り、右下:日銀翌日物金利(%))

MMTは一貫して財政優位への回帰を主張し、「財政赤字は避けるべき」という人々の誤った考えを正している。
MMTは、政府の支払能力という的外れの問題に焦点を当てるのではなく、利用可能な実物生産資源との関係で、「財政スペース」を機能的に定義しているのである。

私の考えでは、日本は主流派の経済学者が必ず大惨事になると主張する領域にまでマクロ経済政策を押し進めた結果を示している。
そして、その結果は主流派が予測したものとは異なる。
なので、日本は重要なケーススタディの対象であり、だからこそ私は日本の研究者と親交を深めている。コロナの状況が許せば、2022年以内に京都大学で研究に入る予定だ。

ところが、私たちの現代貨幣理論(MMT)の研究への認知度が高まるにつれ、主流派の経済学者たちは、「政府の政策の進め方について日本から教わることは何もない」と口を揃えて否定するようになった。
こうしたアプローチで行われた最新の批判は、アメリカを拠点とする日本の経済学者伊藤隆敏による記事「Does Japan Vindicate Modern Monetary Theory?(日本は現代貨幣理論の正しさを証明しているのか?)」(2021年12月22日)である。

「フリーランチはない」

まず伊藤によれば、「日本政府が積み上げた」高額の公的債務は、「借入コストやインフレの上昇」を引き起こしていないが、それには以下の理由があるという。  

…フリーランチ(タダ飯)などというものは存在しない…そのツケを払わされるのは将来の世代だからだ。

彼は、「国債利回りが長い間非常に低かったため」、(GFC、そしてパンデミックにおける)非常に積極的な財政政策への移行が金融危機を全く誘発しなかったことは認めている。

また、中央銀行が様々な国債買入プログラムを通じて、好きな時に国債の利回りをコントロールすることができていることも知っている。
なるほど、これは進歩だ。

空想のMMT

次に伊藤は、MMTあるいは彼がMMTとして主張するものについての推測を述べる。

MMTの提唱者は、国債が自国通貨建てである限り、デフォルトは起こり得ないので、財政危機を恐れる必要はないと主張する。したがって、財政刺激策を撤回する場合は段階的に行うべきである。そしてその間、インフレ率が中央銀行の目標値(通常2%程度)以下であれば、新規発行の公債をインフラ投資や所得支援策など進歩的な政策を賄うのに使うことができる。

これはMMTの経済学者が言っていることを正確に表しているだろうか。

部分的にはイエスだ。

通貨発行者は自国通貨建ての負債をすべて償還することができるため、財政危機を恐れる理由はないーーこれは定義上自明の話だ。
通貨を発行する側は自由に通貨の供給を拡大することができる。
つまり、財政危機の定義を政府が資金不足に陥ったときとするならば、通貨発行国が財政危機に陥ることはあり得ない。

重要なのは、国債発行が支出を賄っていないことだ。
政府が設立した様々な国債管理当局による入札の仕組みによって、支出に一致する額の国債が発行されているのである。
しかし、額が一致することは因果関係を意味しない。

MMTは、当初から一貫して、そのような政府は支出に「一致」する額の国債を発行する必要はなく、また発行するのをやめるべきだと主張している。

MMT支持者を自称しながらそうではないと主張する者は、我々の研究に忠実ではない。

つまり、伊藤の記事から引用した二つ目の部分、新規発行の公債を、望ましい/望ましくない様々な政策を「賄うために使う」というのは、伊藤がMMTの言っていることを捏造しているわけだ。

私たちはそのような立場を主張しないし、これまでに主張したこともない。

よって、インフレ率と中央銀行のインフレ目標の関係を(国債発行を含む)財政措置の引き金となる数値としてMMTが提示しているというのも、同様にでっちあげだ。

したがって、この記事は、MMT批判の口火を切るには不出来な内容だ。

多くの似たような批判と同様、書き手がでっちあげた空想のMMTを見つけては叩いているのだ。

こうして、本当のMMTは精査されない。ーー何故か?そんなことをしたら、その書き手は自分の主張をすることができないからだ。

「日本は違う」

伊藤の次の発言は正しい。

MMTの推進派(boosters)は、MMTの概念を証明する例として日本を引き合いに出す。

しかし、「boosters」という言葉遣いには、貶める意図がある。
「booster(s)」には、カーニバルの客引きや、タチの悪い自動車販売員のような人々というイメージがある。
私ならニューケインジアンの「boosters」という言い方はしない。
ニューケインジアンの「economists(経済学者)」と言うだろう。

もっとも、読者のような人々が、従来の限界を超えて政策を推し進めたときに起きること/起きないことを実証しているのが日本であると本当に考えているという点では、伊藤の主張は正しい。

また、どんなケーススタディの分析でも、考慮すべき経済構造などに微妙な違いがあることに留意することで、私は上記の主張に留保を与えている。

つまり、先進工業国である日本には当てはまることが、輸出の潜在力が極めて小さいアフリカの国には同じように当てはまらない可能性があるということだ。

共通で当てはまるのは、金融と財政の制度はほぼ同じように機能するという点だ。

伊藤は、なぜ日本を例に挙げるべきでないと考えているのだろうか。

総「債務残高対GDP比(中央政府、地方政府を含む)が250%を超えており」、長期債利回りが「コロナ禍の間、ゼロ近辺で推移し、平均インフレ率は20年間ほとんどゼロを上回っておらず」、「毎年の新規国債発行と債務残高の急増は、借入コストに対して顕著な影響を全く与えていない」。伊藤はこれらの事実を認めた上で、この経験からは一般化できない日本特有の事情があると考える。

彼が挙げるのは以下の点だ。

– 日本国債は円建てで発行され、そのほとんどを日本の居住者が金融機関や中央銀行を通じて直接的にも間接的にも保有している。
– “この点で日本は、国債を世界中の投資家が保有している米国の状況とは大きく異なる。”

いずれの点も、主流派の経済学者の考え方を如実に表現している。

この2つの点について考えてみよう。

まず、米国政府も日本政府も外貨建ての国債を発行していない。

だから、両者の違いが重要であるかのように主張しても意味がない。

次に、自国通貨建国債を誰が保有しているかは重要なのだろうか。

まあ、場合によってはそうかもしれないが、まず、外国人が米国債を保有することの意味を(例として)理解する必要がある。

「中国は米国の政府支出を賄っており、彼らがカネを取り立てれば、地政学的な変化によって米国は酷い目に遭う」という、よく言われる議論を考えてみよう。

中国には、貿易相手の米国や他の国々の人たちが許容する以上のことはできない。

もし米国市民が中国の製品を買わなかったら、中国は生産物を一銭たりとも米ドルで売ることはできず、したがって米国債を買うのに使うドルを貯めることもできない。

ひょっとすれば、米国の人々は中国で生産された輸入品を購入することが自分たちの最善の利益だと考えて、(より高価な)自国産の商品よりも、中国産の輸入品を選ぶかもしれない。

自由市場論者には、しばしば不思議な矛盾がある。

彼らは政府による経済への介入を嫌うにもかかわらず、複雑な規制構造(例えば関税)を提案する。そうした規制は、資源配分に対する政府の支配力を強めるだろうし、また言うまでもないが、市民が(価格やその他のあらゆる特徴を)自由に比較した上で買うことを拒んだ商品やサービスを(その意思に反して)無理矢理買わせることになる。

多くの経済学者は、不換貨幣システムにおける国際収支をどのように解釈すればよいのか、十分に理解していない。

例えば、大抵の経済学者は経常収支の赤字(輸出額<輸入額+貿易外収支の純額)を資本の流出と結びつけて考えるだろう。

そして、(米国を例にとると)米国が経常収支赤字に対抗するには、米国の金融機関が海外から借り入れを行うしかないと主張する。

さらには、このように経常収支赤字を外国からの借金で賄うことは、(彼らの主張によれば)米国が「身の丈(収入)以上の生活をしている」ことを意味するので、問題だというのである。

確かに、米国の対外債務が増加すればするほど、米国経済は国際金融市場の状況の変化に左右されやすくなる。

しかし、こうした状況設定のやり方には疑わしいものがある。

第一に、輸出は費用(cost)である。輸出は、国が国内で使用できる実物の商品を外国人に提供することを意味するので、輸出には機会費用がかかる。

第二に、輸入は便益(benefit)である。輸入は、外国人が自分たちでも使えるが貿易相手国の経済にも便益を与えるような実物の商品を提供することを意味する。

輸入の機会費用を負担しているのは、すべて外国人の側なのだ!

したがって、もしある国が外国人を説得して、お返しに送るべきものよりも多くのものを積んだ船を送ってもらうことができれば(純輸出の赤字)、それは自国の経済にとって(国際収支上は)純便益となる。

ここでは、厚生を物質的に測定することはできないとするすべての(ほとんどは有効な!)議論をあえて捨象している。

私はその立場を支持するすべての議論を知っているし、概ね賛成だ。

では、(マクロ経済的な意味で)外国人が、自国の経済から得る実物よりも多くの実物を手放している状況〔輸入<輸出〕は、どうすれば生じるのだろうか。

その答えは、自国の経常収支赤字〔輸入>輸出〕が、外国人が自国通貨建ての純金融債権を蓄積したいという欲求を「賄っている」という事実にある。

よく考えてみてほしい。

一般的な考え方は正反対で、「外国人が自国経済の放漫な支払いを賄っている」というものである。

実際には、自国の貿易赤字によって外国人は金融資産(自国経済での債権)を蓄積することができるのである。

自国経済は実物ベースでの便益を得(出港する船の数<入港する船の数)、外国人は希望する金融ポートフォリオを手に入れることができる。

一般的には、これは誰にとっても良い結果のように見られる。

しかし問題は、外国人が自国通貨建てで金融資産を蓄積したいという欲望を変えた場合、「実物の交易条件」(実物を積んだ船が行き来すること)が自国に有利なままであることを許容しなくなることである。

そうなると、自国経済はそれに応じて輸出入の行動を調整しなければならない。この移行が突然であれば、何らかの混乱が生じる可能性がある。

もっとも、一般的にはこのような調整は急激には起こらない。

結語

Part 2では、外債購入の実態を明らかにする取引の流れを辿っていく。

そして、インフレの話、子供が騙されている話などについて議論する。

それではまた明日。

ハッピーニューイヤー、そして、映画『ドント・ルック・アップ』を必ず見てほしい。

今日はここまで!

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  1. 前提外来間違っていると思う。経済学者は、貨幣の危うさを表現しようと試みているが、実体経済は、貨幣に妄想に似た信頼を置いている点です。経済学者の指摘するのは危険性であって、実際に来る危険では無い事は確かにそうかもしれない。しかし、危機は存在している。実体に移行しない事を市井の民の鈍感力とでも表現したらどうか。

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