March 13, 2012
by peter turchin
1980年代初頭、私がデューク大の大学院に在学していた時、ミシガン州からやってきた若い教授が集団選択について話してくれたことを覚えている。むろんその教授は、デイヴィッド・スローン・ウィルソンに他ならない。当時、集団選択という火中の栗を拾おうとしていた唯一の人物だったからだ。彼の考えは非常に理に適っていると私は思ったのだが、私以外の院生は誰も賛成していないのには驚いた。集団選択は、当時の私の研究テーマと特に近いものではなかった(昆虫の個体群行動について研究していた)が、私は集団選択をフォローし続けることになった。1980年代から90年代に私が聞いていたのが、集団選択を批判する執拗なまでのタコ殴り音だった。ジョージ・クリストファー・ウィリアムズやリチャード・ドーキンスといった著名人による著作を受けて、当時の進化生物学は、集団選択のアイデアを徹底的に否定していたのだ。
その後、1990年代になって、私は科学的歴史研究に関心を持つようになり(最終的に、生物学から歴史的社会科学へと転向するまでになった)、集団選択理論(その時には「マルチレベル選択理論」になっていた)が、複雑な社会の進化を研究するのに、極めて生産的な概念フレームワークを提供してくれることを発見した。マルチレベル選択理論は、歴史データを使って実際に実証可能な予測が得られることも判明したのである。特にエキサイティングだったのが、理論的な予測が、次々と新しい洞察を生み出し、驚くほど満足な実証的裏付けがあることだった(歴史動態の研究を始めた時、様々な理論を研究可能としている多くのデータが存在していることを私は気づいていなかった)。
一方、社会進化、特に人間の社会進化〔の研究〕では、氷河期もあれば地殻変動期(比喩的表現を使って申し訳ない)もあった〔訳注:研究者が誰もいない氷河期から、研究が活性化し地殻変動期になったことを表す比喩〕。徐々に研究者の数が増えていき、文化・遺伝的集団選択が、人間の社会性の研究において非常に見込みのある理論的フレームワークを提供しているという知見に至ることになったのである。ピーター・リチャーソン、ロバート・ボイド、サミュエル・ボウルズ、ハーバート・ギンタス、エリオット・ソーバー、ジョセフ・ヘンリック、そしてその他多くの研究者は、マルチレベル選択のパラダイムの中において構築されたモデルと実証分析に真剣に取り組むようになった。
この集団選択への地殻変動において象徴的な出来事が、2007年のE.O.ウィルソンの集団選択体制への「離反」である。2人のウィルソンは、クォータリー・レビュー誌 [1]訳注:イギリスの有名な政治論談誌 に、「利己主義は集団内の利他主義を打ち負かす。利他主義集団は利己主義集団を打ち負かす。その他全ては注釈である」との宣言を行った。
一ヶ月前、我々はNIBioS(the National Institute for Mathematical and Biological Synthesis:数理・生物学統合国立研究所)でワークショップを開催した(今週末にはレポートを挙げる予定だ)。ワークショップには、真に学際的な40人を超える科学者が参加した。本当に驚かされたのが、「マルチレベル選択」のアイデアに、参加した全員が賛成したことだった。
クーン的なパラダイムシフトの渦中に我々は今いると私は考えており、以後5~10年の間には、「マルチレベル選択」が支配的パラダイムになるであろうことを確信している。しかしながら、痛み無しにパラダイムの移行は起こらないだろう。
このパラダイムシフトは、並外れた度合いでの反発を伴うことになる(もっとも、私は他のパラダイムシフトを直接経験していないので、その意味ではこのパラダイムシフトも似たようなものかもしれないが)。手近な事例だと、先週行われた、デイヴィッド・スローン・ウィルソンとジェリー・コインとの応酬である。ウィルソンが「リチャード・ドーキンスが進化論者でなくなる時」と投稿して応酬が始まった。コインは「デイヴィッド・スローン・ウィルソン、またもや敗北す」と反撃し、ウィルソンはPugilistic Science誌で激しい反論を行った。
この論争の渦中で、ウィルソンは「ドーキンスは実際には科学者でない」と仄めかし、一方コインは「ウィルソンは梯子が外された屋上にいる」と示唆している。コインは投稿の最後で、「私は最近”This View of Life”のサイトで進化論に関するポッドキャストインタビューを受けた。このサイトの生物学パートはウィルソンによって運営されており、宗教や集団選択に関する彼の独自見解を宣伝するのに主に使用されていることを知っていたら、こんなインタビューは受けなかった」と追記している。さて、私は、ジェリーをゴロツキとして描写したいわけではない。この論争の全ての当事者は、礼節を守った議論作法を逸脱しており、もし別の時代なら容易に武器を揃えての夜明けの決闘になっていただろう。
以上は置いておいて、本質的な問題(集団ないし、最適マルチレベル選択)に話を戻そう。具体的に言うなら、問題になっているのは、マルチレベル選択が動物の世界で流行しているかどうかではなく、人間の社会進化においてどう役割を果たしているかなのだ。もちろん、この論争において、私は党派的なのだが、マルチレベル選択のあらゆる役割を認めないリチャード・ドーキンスやジェリー・コインの極端な立場は私には理解できない。大規模で複雑な社会の進化について理解したいのなら、他に何かアイデアがあるのだろうか? 人間の超社会性(我々の遺伝的に無関係な個体集団の協力)はどのように進化するのだろうか? 『利己的な遺伝子』で論じられている2つの理論(互恵性と血縁淘汰)は、リチャーソンやボイドのような人によって概念的にも実証的にも完全に反証されているのだ。
この問題をさらに具体的に説明しよう。人は、無関係な他者によって構成された巨大集団の為に自らの命を犠牲にすることが知られている。一例として、南北戦争中に、南軍と北軍に義勇した、南部人と北部人について考えて欲しい。この件が最適に文書化されている事例だ。義勇兵達は識字率が高かったので、義勇動機を説明した何千通もの手紙が残されている。南北戦争では、何十万もの義勇兵が戦死している。集団選択主義のモデル以外で、このような並外れた人間の社会性の特性が説明できるだろうか?
これは修辞的な質問ではない――私は純粋にどのような理論的な代替案があるか知りたいのだ。もしあるなら、実証に足りる代替理論の検証方法の把握を始めることができる。なので、教えてほしい。
References
↑1 | 訳注:イギリスの有名な政治論談誌 |
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