ブランコ・ミラノヴィッチ 「民主主義か、独裁か?」(2019年5月3日)

●Branko Milanovic, “Democracy or dictatorship: which works better?”(globalinequality, May 3, 2019)


昨晩のことだが、Twitter上での私のつぶやきに対して、友人の一人がオスカー・ワイルドの警句を引用して応じた。曰く、「社会主義が抱える問題は、終業後の集会に時間を取られすぎることにある」。ワイルドがこの言葉を口にしたのは、この世に社会主義国家が産声を上げるよりもずっと前のことであり、単なる思い付きで吐かれた気の利いたセリフというに過ぎないように見える。しかし、気が利いていると形容するだけで済ませるわけにはいかないようにも思える。慧眼(けいがん)を持った芸術家のご多分に漏れず、ワイルドは、まだ世に存在していない政治・経済システムに備わる本質(長所と短所)を鋭く見抜いていたのだ。

・・・っていうのは本当だろうか?

チトー大統領率いるユーゴスラビア社会主義連邦共和国で導入された「労働者管理企業」に慣れ親しんでいた私がアメリカにはじめて足を踏み入れた時に少々驚かされたことは、ビジネス組織がヒエラルキー型の独裁制っぽい形態で営まれていて、それが「当たり前」と受け止められていたことだ。アメリカでもユーゴスラビアと同じように、従業員(労働者)が自社の「経営陣」選びに口をはさむ権利を持っているはず。半ばそう予想してアメリカにやってきたのだが、そうじゃなかったのだ(告白すると、誰が「経営者」なのかがわかるまでにだいぶ時間がかかったものだ)。従業員が昇進するかどうかは、上層部ないしは上司によって決められていた。そして、経営陣は、(大株主たる)経営陣自身によって選ばれていた。つまり、アメリカのビジネス組織は、トップダウン型で運営されていたのだ。トップの人間のえり好みで構成員が選ばれていた――「上」が「下」を選んでいた――のだ。

アメリカのビジネス組織は、私の祖国(ユーゴスラビア)の政治システムとそっくりだった。当時のユーゴスラビアでは、党(共産党)の中央委員会が人事を牛耳っていた。中央委員会が、党組織のあらゆるレベルの人事権を握っていた。中央委員会の新しいメンバーにしても、メンバーの交代にしても、中央委員会自身が決めていた。形式的な面だけを取り上げると、アメリカの企業は、共産党と同じように組織されていたのだ。ベルトルト・ブレヒトの言葉をもじると、アメリカの企業でも、ユーゴスラビアの共産党でも、リーダーが構成員を選んでいたのだ。アメリカでは、ビジネスの世界(企業内部)で独裁制が敷かれており、ユーゴスラビアでは、政治の世界(公的領域)で独制裁が敷かれていたのだ。

アメリカの政治の世界(公的領域)はどうなっていたかというと、民主主義が採用されていて、政治の世界の「経営陣」は構成員(市民)によって選ばれていた――「下」が「上」を選んでいた――。「下」が「上」を選ぶという点では、ユーゴスラビアのビジネスの世界(企業内部)――「労働者管理企業」――も同じだった。従業員(労働者)が労働者評議会のメンバーを選び、労働者評議会が経営者委員会(経営陣)を選ぶという格好になっていたのだ(党から特に重要と見なされた企業に関しては話は別で、そのような企業ではトップダウンで――中央委員会による任命で――人事が決められていた)。

「ビジネスの世界では独裁制、政治の世界では民主主義」という特徴を持った国(アメリカ)が一方であり、「ビジネスの世界では民主主義、政治の世界では独裁制」という特徴を持った国(ユーゴスラビア)がもう一方であったわけだ。そして、そのうちの一方(アメリカ)が勝利を収め、残りの一方(ユーゴスラビア)が敗北を喫することになった。ユーゴスラビアがうまくいかなかったのは、ビジネスを民主主義の原理に則(のっと)って運営するのは効率的ではなかったからだ。ビジネスを民主主義の原理に則って運営しようとすると、就業上の細々(こまごま)としたこと――給与水準だったり、年間の休日数だったり、病欠での有給休暇を認めるかどうかだったり、家族の体調がすぐれない時の看護休暇を認めるかどうかだったり、残業代の支払いだったり、寮ないしは職場にあるバスルームの清掃の担当決めだったり、トイレットペーパーの補充だったり――について話し合う(交渉する)ために膨大な時間を取られることになってしまうのだ。かつてのユーゴスラビアで試みられた「労働者管理企業」と似通ったかたちで運営されているのがアメリカの大学機構だが、アメリカの大学が効率的に運営されていると語る人なんてほとんどいないだろう。アメリカの大学なりユーゴスラビアの「労働者管理企業」なり――民主主義の原理に則って運営されている組織――で出世する人物というのは、働くことには何の関心もない一方で、周りが飽きて白旗を上げるまで延々と議論を続けていられるような人物だ。永遠に続くかに思える議論や交渉も平気で乗り切れる強靭な忍耐力を備えた人物だ。彼らにかかると、どんな話題でも話し合うに値する議題となる。いくら議論しても、うんざりすることがない。ひたすら話し合いが続くばかりで、これといって何の進展もなくただただ時が過ぎるだけというオチが待っているのは言うまでもないだろう。

政治を民主主義の原理に則って運営する場合にも同じ危険が伴うんじゃなかろうか? ワイルドがいみじくも語っているように、イニシアティブ(住民発案)だの、レファレンダム(住民投票)だの、住民訴訟だのといった「集会」に時間が取られすぎる危険が伴うんじゃなかろうか? ごく普通の市民は、「集会」に参加する時間的な余裕もなければ、「集会」で取り上げられる話題に対して日頃から細かく注意を払っているわけでもない。となると、どんなに長い話し合いでも平気で乗り切れる強靭な忍耐力を備えていて、「集会」に参加するために生きているような人たちの意見が通ることになるんじゃなかろうか? 一刻も無駄にできない今のような時代――商業化がとことん進んだ時代――においては(ちょっとした時間があれば、ブログを書いて金儲けしたり、試験に備えて勉強したり、ウーバーイーツの配達員をしたり、隣人の犬を散歩に連れて行って散歩代をもらったりできる)、「集会」はプロのNGO(非政府組織)によって牛耳られざるを得ないだろう(ムガベ大統領やムバラク大統領と直接会ったのに、どこぞの国の首長とは違って、その座に居座り続けているNGOのトップはたくさんいる。どこぞの国の首長とは違って、下からの突き上げでその座から引きずり降ろされるおそれがないのだ)。

ところで、中国型ないしはシンガポール型とでも呼べる新しいタイプの政治・経済システム(テクノクラートへの依存度が高い政治的資本主義)が試みられている最中だ。携帯電話を製造するための効率的で独裁的なやり方を政治の世界にそっくり持ち込もうというのだ。ビジネスの世界と政治の世界との間には違いはない、というのがその信条だ。ビジネスの世界であれ、政治の世界であれ、構成員(従業員/市民)の合意をいちいち取り付けたりなんかせずに、明確な目標を掲げてそれをトップダウンで技術的に処理していきさえすれば、効率的に物事を進めることができるというのだ。

中国型ないしはシンガポール型のシステムがアメリカ型のシステム(政治を民主主義の原理に則って運営している社会)を上回るパフォーマンスを発揮し続けたとしたら、100年後にはアメリカ型のシステムは奇異の目で見られることになるかもしれない。「かつてのユーゴスラビアでは、会社が何を生産するかを現場で働く作業員の多数決で決めようって考えられていたらしいよ。変な話だね」っていう感想が今では広まっているように、「100年前のアメリカでは、政治にまつわる複雑な問題を民主主義的なやり方で解決しようって考えられていたらしいよ。変な話だね」っていう感想が100年後には広まっている可能性があるのだ。

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