Samuel Bowles, Wendy Carlin 07 September 2017, VoxEu.org
A new paradigm for the introductory course in economics
サミュエル・ボウルス、ウェンディ・カーリン 2017年9月7日 VoxEU
現在用いられている経済学初級課程の枠組みは、1948年にサミュエルソンによって書かれた教科書を基としている。しかしこの初級課程は経済学それ自体の劇的な発達を反映した内容とはなっていない。例を挙げるなら、不完全情報の理論と戦略的相互行動理論、これら二つは経済学において欠かすことのできない革命的発展となるが、初級課程で積極的に教えられることはない。更に経済学は、気候変動、発明と革新、経済の不安定性、格差の拡大など、その時々に直面する社会問題に絶え間なく取り組んできた。これら公共政策と経済学の関わりもまたそこで扱われることはない。これらをふまえ、私たちは経済学の発展に対応した無料の参加型オンラインテキストを作成するに至った。それは既に、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(以下、UCL)、パリ政治学院、トゥールーズ経済学院で初級経済学の標準教科書として使われている。
経済学者が学生に隠していることがある。実は、経済学の初級課程で教えている内容は、経済学者が実際に取り扱っているものとはかなり違っているのだ。ジョン・メイナード・ケインズ、フリードリヒ・ハイエク、ジョン・ナッシュ、これら二十世紀半ばの偉大な経済学者による三者三様の思想は徐々に経済学の世界に浸透し、経済学の理解を新たなものとした。しかし今日の初級課程に組み入れられているのは、このうちの一つだけだ。
「雇用、利子及び貨幣の一般理論」(Keynes, 1936)が出版されてから12年後、ポール・サミュエルソンは総需要という概念を中心とした教科書を記した。そしてこの教科書は、アルフレッド・マーシャルの「経済学原理」(Marshall, 1890)に替わり、英語圏における初級課程の教科書として圧倒的な地位を築いた。
サミュエルソンの「経済学」(Samuelson, 1948)はすぐにすべての経済学者が知るべき標準の知識となり、トーマス・クーンによるならそれは新しい枠組みを創り出した。これが意味するところは、研究者一般が世界を理解するための一連の基礎知識であり、そして初級教科書に取り入れられることによってその分野における共通の知識となる。経済学の世界においてマーシャルとサミュエルソンの著作以前でこれに当てはまるものを挙げるなら、ジョン・スチュワート・ミルの「経済学原理」(Mill, 1848)まで遡ることになる。
ハイエクの理念の中心にあるのは、情報の不完全性と非対称性、そして情報を効率的に処理し分配する場としての市場という概念である。その理念は、労働市場と金融市場における、競争による市場形成と不完全契約の理論の基礎となっていった。
ナッシュはゲーム理論の先駆者にして開拓者として知られる。彼はジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンの概念を基に、経済的もしくは政治的な状況における相互作用型の戦略行動をモデル化した。従来の経済学では当然の認識として、人は価格受容者として費用と便益が定まった選択肢の中から最適なものを選ぶ、とされてきた。しかしナッシュの見解ではそれがすべてではなく、人は互いに他人の反応を予測しながら自分の行動を決定していくものとした。それは、経済学の世界に新しい視点を与えた。
総需要、不完全情報下での経済の中心的役割、ゲーム理論による戦略的相互行動のモデル化、これらケインズ、ハイエク、ナッシュによる功績は多くの経済学者に引き継がれ、その後の経済思想の基礎となった。20世紀の終わりを待たずして、これら三つの経済学上の革新は大学院レベルで標準的に教えられるようになっている。それは、最もよく使われている経済学の教科書(Mas-Colell et al. 1995, Romer 1996)の目次を見ただけでもわかる。
経済学者は何を知り、そして学生は何を得るのか
しかし大学学部レベルでは事情は根本的に異なる。現在大学で使われている教科書の内容はサミュエルソンを基本としたものが圧倒的であり、その枠組みはマーシャルとケインズを足したものとなっている。情報の非対称性もしくは偏在性、ゲーム理論を基とした戦略的社会相互行動モデル、これらは初級コースの中では補足的に紹介されているに過ぎない。(フォン・ノイマンはサミュエルソンを辛辣にもこう評している。「30年を経てもなお彼はゲーム理論を習得していない」)
当然の結果として、その由来とは裏腹に、学生は不完全情報理論も戦略的相互行動理論も標準理論の一部修正版と捉えてしまう。完全情報を前提とした契約の完全性(さらにはそこから来る競争市場の均衡)も、競争市場への参加者を価格受容者とすることも、経済学では公理とされていたことであり、だからこそハイエクとナッシュの功績は標準理論への挑戦であった。
ここにおける課題は、不完全情報と戦略的社会相互行動の理論を取り入れた学部レベルの教科書となる。サミュエルソンが総需要の概念を教科書に取り入れたように。これが、私達COREチームが初級経済学の教科書として’The Economy’を作成するに至った第一の動機である。この教科書が新しい枠組みの構成の一助となり、そして経済学の革新的概念を効率的に初学者に教えるための道具となれば幸いである。’The Economy’は現在、オンラインテキストとしてすべての人に解放されている。また、従来型の紙の本としても入手可能である。(The CORE Team 2017)原註1
ハイエクとナッシュの革新を反映させることは’The Economy’を作成するにあたり心がけてきたことである。一方で、ハイエクの「政府の権限は所有権の保護など市場を機能させるためのルールの執行に制限されるべき」とする主張は、気候変動をはじめとする市場の失敗、そして経済の不安定性を考えるなら、疑わしくなる。
同様に、人間の行動と知覚能力を扱う研究という見地からすれば、ナッシュには実証性を伴った概念構成が求められる。人間の知覚能力の有限性、そして個々人の協力の持つ偉大な可能性、これら二つを統合することによって、土台となる概念としてはるかに適切なものを作ることができる。ケインズにも似たような調整が必要となる。ケインズは楽観的にも、政府の需要調整政策は長期では非自発的失業をなくすことができると考えている。私達はこの見解を検討すべく、モデルの作成と実証を試みた。
表1はサミュエルソンに代表される標準的枠組みと、COREによる枠組み、その基本理念の比較である。ベンチマーク・モデルとは基準として学生に示されるものであり、それと比較して例外を学ぶこととなる。例えば、競争市場は標準として示され、独占的競争がその延長で学ばれる。
表1:サミュエルソン型とCOREの枠組み比較
表1を見ればわかるように、新しい枠組みは従来のものとは随分と違う。競争行動を例にとって解説してみよう。ハイエク(Hayek, 1948)の指摘では、市場参加者を価格受容者とし市場を均衡状態にあるとする仮定は、競争市場の真摯な分析を見事にできなくする。ここにおける彼の競争の定義は、サミュエル・ジョンソンに倣い、「誰かが手に入れようとしているのと同時に他の人も同じものを手に入れようとしている状態」となる。
ハイエクの指摘はこう続く。
「では、その言うところの『完全競争』が行き渡っている市場では普段使われているどの販売手法が可能なのだろうか。広告、値下げ、更には商品及びサービスの改善(あるいは、差別化)、そのすべてが完全競争の定義からすれば除外される。そう、私が信じるところでは何一つとして使うことができない。『完全競争』とは、実のところ、すべての競争行為がなくなっている状態ということになる。」
‘The Economy’では、競争市場参加者は完全な均衡価格をただ受け入れる者ではなく、「完全なる競争者」(Makowski and Ostroy 2001) として次のように置き換えられる。市場は常に均衡状態にあるわけではなく、それはまたそこに附余利益が存在し得ることを意味する。そして、競争を阻む要因も存在する。その下で市場参加者は競争者として附余利益を得るために、入手可能な(しかし不完全な)情報を使って市場活動を行う。その市場活動の過程で市場はパレート有効な均衡へと向かう。
新しい枠組みでは競争市場が均衡に達するまでの道筋を納得できるものとして説明するだけでなく、その帰結を根本的に違った形とする。貸し手と借り手、雇用主と雇用者が非対称な情報下でのプリンシパルとエージェントとなり、その関係を規定する契約は不完全なものであるなら、金融市場も労働市場も競争市場における均衡点で落ち着くことはない(Stiglitz 1987)。
量的な制約があることを初期段階で学生に促しておくことによって、ケインズ乗数における資金的制約や長期失業などのマクロ経済学上の現象を説明するのにその場限りの仮定を用いる必要はなくなる。更には、評判、義理や愛着心、社会規範などが行動の決定要因として働く市場を学生が経験に基づいた感覚でとらえられるようになる(Brown et al. 2004)。
経済学の概念を現実の問題に即した形で教える
COREプロジェクトの第二の狙いは、学生が経済問題として懸念している事柄と授業で教えられている内容の間の乖離をなくすことにある。過去四年間、私達は多くの国の教室で次の質問を投げかけてきた。「経済学者が解くべき、最も差し迫った問題は何か」。図1はベルリンのハンボルト大学の学生たちが与えてくれた答をワードクラウドにしたものだ。それぞれの語句の大きさはそれを挙げた学生の数に比例している。
図1:「経済学者が解くべき最も差し迫った問題は何か」2016年のハンボルト大学の学生による答
シドニー、ロンドン、及びボゴタの学生によるワードクラウドもベルリンのものと非常に似通っている(それらのワードクラウドはwww.core-econ.orgのサイトから見ることができる)。更に特筆すべきは、2016年にイングランド銀行の新入社員(ほとんどは大学時に経済学専攻)、ニュージーランド財務省及び準備銀行の経済専門職員をはじめとする職員に同じ質問をしたときの答だ。そのどこでも同じように経済格差(原文ではinequality)に対する懸念があった。フランスでは失業への関心が目立っていた。気候変動と環境問題、自動化技術、財政の不安定はすべてのところで関心が高いものとして挙げられていた。
表2の左側の列には、上記の質問を通じて得た「経済学者が解くべき」問題のうち最も重要とされるもの、そのいくつかが挙げてある。右側はその問題の理解に必須となる経済学の概念である。表1と表2、両方の右側の列には類似が見て取れる。学生たちが挙げた問題の理解に必須とされる概念と、今までの初級課程では十分な関心が払われてこなかった経済学の新しい発展内容、これらは互いに補完し合うものなのだ。
表2:問題と経済概念
COREは現実の問題に即して概念とモデルを教えることによって、学生が学び取る経済学と経済学者の使う経済学の間の乖離を小さくしていく。経済学が経験実証型の学問となっていく(Angrist et al. 2017)にもかかわらず、標準的な教科書ではデータは主にモデルを公理として見せるために用いられる。対してCOREの教授法においては、データは現実の経済問題を理解するために用いられ、モデルはその理解を助けるものである。
表1の右側に挙げた枠組みには更なる発展が必要であり、またマーシャル、ワルラス、ケインズに見られるベンチマークのように単純な概念とはなっていない。しかしその単純化された概念を基としたモデルは、実際に観測される結果からかけ離れることが多くあることから、不適切と認識されるようになってきている。
ここで、また別の20世紀半ばの経済学者、アバ・ラーナーの臆説を挙げよう。ここでは情報は完全であり、それゆえ契約も完全だと仮定しよう。ラーナーの主張では、標準的な枠組みが成功した理由は次のようになる。
「経済活動とは、つまり既に解決されている政治問題だ。...経済学が社会科学の女王という称号を得ることができたのは、その領域を解決された政治問題に置いたことによる。」(Lerner 1972)
続けて、ラーナーの説明では経済取引上のすべての利害対立は裁判所によって強制可能な、契約によって解決される。そしてその強制は取引者が行うものではない。「解決策は、原則的に政治問題から経済活動への対立の転換だ。」
標準モデル、それは経済学を孤立させるもの
もし完全契約を基とした標準競争モデルのみを認めるなら、そこに政治の出る余地はない。労働者がその同意の通りに一生懸命に仕事をしないなら、賃金が支払われないだけだ。雇用主は雇用者に何の権力を振るう必要もない。首になる恐れを与えることさえも。企業活動の結果が会社に利益をもたらすことは契約によって保障されているのだから。次に挙げるサミュエルソンの所見は、標準的な枠組みの持つそういった特徴に誘発されたものだ。
「完全競争市場では誰が誰を雇うかは問題ではない。だから、たとえ労働が資本を雇うとしても。」(Samuelson, 1957)
完全契約を前提とするなら、人を雇うときに応募者の性格など気にする必要はない。十分な規律を持って仕事に当たってくれるか、とか更に例えば、就労時間中に友達にメールをしたりしないか、などといったことも。古いベンチマーク・モデルではこれら多くの前提を作りそれによって、経済学は「社会科学の女王」となることができた。しかしそれは、その前提に合致しない智見を無視し、孤独な統治者となることでもあったのだ。経済学者が無視してきた智見を列挙するなら次のようになる。
● 法学者による。現実社会における契約とその執行の難しさ。
● 心理学者と社会学者による。実際の人間の動機付けと思考処理過程。
● 哲学者と市井の人々による。経済上の正義、個人の自由と尊厳、これらに触発される憂慮と思索。
● 政治科学者による。会社における上意下達構造の理解に不可欠な、権力の研究。
● 歴史学者、人類学者、考古学者による。多様な統治制度の研究。統治制度は我々の経済生活と社会動向を形作り、それが将来の発展を継続させる。
● 生物学者、環境学者をはじめとした多くの人々による。経済を生物圏の一部と捉え、本質的に外部性は不可避であり、そして環境の持続可能性との関連を探る。
価格、賃金、利子率、更には不平等の度合いがどう決定されていくのか、そして経済全体がどう機能していくのか、それらの理解のためにCOREは上記の智見に教わりながら枠組みを構成することとした。
果たしてその結果は
COREの一年間の初級コ課程はそれ以降の標準教科を学習するにあたり、どう働いたのだろうか。
UCLではアントニオ・カブラレスとウェンディ・カーリンによって、パリ政治学院ではヤン・アルガンによって、トゥールーズ経済学院ではクリスチャン・ゴリアーによってCOREの初級コースは教えられている。UCLを例に取れば、COREのコースを受けた学生と受けなかった学生、その間に顕著な違いが現れた。COREのコースが始まった初年の学生と、まだ始まっていなかったその前年の学生、二年目以降の中級ミクロ及びマクロ経済学の試験結果を比較すると明らかにCOREのコースを受けた学生の成績が上回っていた。二年目以降の授業内容はその前年と何も変わっていない(二年目の成績でも、経済統計学では前年の学生との違いは見られなかった。このことからたまたま優秀な学生がその年に集中していたわけではないことがわかる)。COREの教課の優劣を判断するにはまだ早い。しかし、結果は好ましいものとなっている。その理由はCOREのコースを受けた学生が経済学に興味を持ちその後も研鑽を続けているためと、私たちは解釈している。
原註1:COREの著者は以下の通り。Yann Algan, Timothy Besley, Samuel Bowles, Antonio Cabrales, Juan Camilo Cardenas, Wendy Carlin, Diane Coyle, Marion Dumas, Georg von Graevenitz, Cameron Hepburn, Daniel Hojman, David Hope, Arjun Jayadev, Suresh Naidu, Robin Naylor, Kevin O’Rourke, Begüm Özkaynak, Malcolm Pemberton, Paul Segal, Nicholas Rau, Rajiv Sethi, Margaret Stevens, Alexander Teytelboym。ReferencesのCORE Team(2017)を参照。
訳註1:ここで「市場活動力」と約した語は、原文では”market power”。”market power”の定義を‘The Economy’のGlossaryから下に引用しておく。
market power : An attribute of a firm that can sell its product at a range of feasible prices, so that it can benefit by acting as a price-setter (rather than a price-taker).
訳註2:”economic rent”を「附余利益」と訳した。”rent”も同様(「附与」ではなく、「附余」と表記されていることに注意。「附余」という単語は現在のところ日本語にはない)。その意味は、選ばれた選択肢の効用から機会費用の効用を引いたもの。つまり、機会費用と比較した選ばれた選択肢の利益。‘The Economy’のGlossaryからeconomic rentの定義を下に引用する。
economic rent : A payment or other benefit received above and beyond what the individual would have received in his or her next best alternative.
References
Angrist, J, P Azoulay, G Ellison, R Hill and S Feng Lu (2017), “Economic Research Evolves: Fields and Styles”, American Economic Review: Papers and Proceedings 107(5): 293-97.
Brown, M, A Falk and E Fehr (2004), “Relational Contracts and the Nature of Market Interactions”, Econometrica 72(3): 747-80.
CORE Team (2017), The Economy, Oxford: Oxford University Press (free online at http://www.core-econ.org).
Hayek, F (1948), Individualism and Economic Order, Chicago: University of Chicago Press.
Keynes, John Maynard (1936), The General Theory of Employment, Interest and Money, London: Palgrave Macmillan.
Lerner, A (1972), “The Economics and Politics of Consumer Sovereignty,” American Economic Review 62(2): 258-66.
Makowski, L and J Ostroy (2001), “Perfect Competition and the Creativity of the Market,” Journal of Economic Literature XXXIX: 479-535.
Marshall, A (1890), Principles of Economics, London: MacMillan & Co.
Mas-Colell, A, M D Whinston and J R Green (1995), Microeconomic Theory, New York: Oxford University Press.
Mill, J S (1848), Principles of Political Economy with some of their Applications to Social Philosophy, London:
John W. Parker
Romer, D (1996), Advanced Macroeconomics, New York: McGraw-Hill.
Samuelson, P (1948), Economics, New York: McGraw-Hill.
Samuelson, P (1957), “Wages and Interest: A Modern Dissection of Marxian Economics,” American Economic Review, 47(6): 884-921.
Stiglitz, J (1987), “The Causes and Consequences of the Dependence of Quality on Price,” Journal of Economic Literature 25(1): 1-48.
翻訳者より、追加コメント。
この記事で紹介されている、”The Economy”のオンライン・テキストは以下から読むことができます。
http://www.core-econ.org/the-economy/book/text/0-3-contents.html
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翻訳ありがとうございます。
cognitive capabilities の訳語には「知覚能力」よりも「認知能力」の方がおすすめです。記憶とか推論とか、そういう能力のことをひとくくりにこう呼んでるので。
optical_flogさん、ご指摘ありがとうございます。今後、参考にさせていただきます。