マイルズ・キンボール 「均衡パラドックス ~『誰か』が『それ』をやらねばならない。その『誰か』とは『あなた』かもしれない~」(2016年2月28日)

●Miles Kimball, “The Equilibrium Paradox: Somebody Has to Do It”(Confessions of a Supply-Side Liberal, February 28, 2016)


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ケネス・ロゴフローレンス・サマーズが、「100ドル紙幣(高額紙幣)の発行をやめてしまうのも一考の価値ありだ」と提言している。あっぱれな提言だが、試してみる前にちょっと立ち止まって考えておくべきことがある。

道端に100ドル紙幣が落ちている。経済学者がその場に出くわしたら、道端に落ちている紙切れ(100ドル紙幣)なんかには目もくれずに、そのまま通り過ぎるだろう。経済学の世界に古くから伝わる言い伝えによると、「本物」の100ドル紙幣が道端に落ちているようなら、既に誰かが拾っているはずだからだ。

上記の例を具体的な事例の一つとして含む現象一般に、「均衡パラドックス」という名前を付けるとしよう。「均衡パラドックス」は、色んな場面で姿を現す。例えば、資産価格が(ファンダメンタルズを反映した)適正な水準に落ち着くためには、誰かしらが資産価格を正すような取引を試みることによって儲けが得られるようになっていなければならない。そうなっていなければ、資産価格はいつまでも適正な水準に落ち着かないし、資産市場は効率的ではあり得なくなる。生産物市場が「均衡」に落ち着くためには、超過利潤を手にできる機会が時に存在していなければならない。そうなっていなければ、誰も市場に参入しようとしないので、利潤がゼロにまで下がらずに「均衡」にいつまでも落ち着かない。テクノロジーが進歩するためには、「これまでのやり方を変えて、こうする方がいいです」と誰かが提案するだけでなく、「なんだって? 君以外の人間は愚か者ばかりで、これまでずっと馬鹿げたやり方に寄って集って(よってたかって)固執し続けてきたとでも言いたいのかね?」との反論に打ち勝たなければならない。公共政策についての提言が採用されるためには、「あなたの提言がそんなにうまくいくというなら、とっくの昔に試されていてもいいはずだとは思いませんか?」との反論を乗り越えなければならない。

マーティン・ワイツマン(Martin Weitzman)は、私がマクロ経済学者を志すきっかけとなった人物だ。『The Share Economy:Conquering Stagflation』(邦訳『シェア・エコノミー:スタグフレーションを克服する』)は、30年以上前に出版された彼の著作だが、今でも必読の一冊だ。ところで、45~46ページで「均衡パラドックス」の話が出てくる。個人的にお気に入りの箇所だ。

経済哲学の極端に原理主義的な一派によると、市場経済を支えている既存の経済制度なり慣習なりはそこにそうして存在しているだけの根深い根拠があるという。そして、現状に手を加えようとするなら、その根拠をすっかり理解してからじゃないといけないという(既存の経済制度なり慣習なりにどれだけの合理性があるかをとくと点検してみた暁には、「現状に手を加える必要は一切なし」という結論が導かれるというオチが待っているのが通例だ)。「ノーフリーランチ」学派とでも呼べるその一派にとっては、本書のメッセージは的外れに思われるに違いない。現状の給与体系がこのようになっているのは、何らかの意味で「最適」な報酬制度だからに違いない。そうでなければ、そもそもこんなに広まる(あちこちの企業で採用される)わけがない、というわけだ。「ノーフリーランチ」学派の世界観を的確に捉えた業界ジョークがある。「効率的な市場」を本気で信じている経済学者に、こう尋ねてみるのだ。「電球を取り替えるためには、何人の経済学者が必要でしょうか?」。その答えはというと、「一人も必要ない。なぜなら、市場が代わりにその仕事(電球の交換)を既に済ませているからだ」。

「ノーフリーランチ」学派の過激な一員は、「虫垂の存在意義が理解できるまでは、虫垂の切除手術はやりたくありません」と語る若い医者――頭は切れるが、偏執的な面のある若い医者――に似ている。しかしながら、生物の体内だけでなく、経済システムの内部にも(これといって有用な働きをしていない)痕跡器官が残存しているものなのだ。ダーウィン流の適者生存説を曖昧なかたちで皮相的に一般化して、そんなことはあり得ないと否定しようとしても、真実は揺るがない。マニュアル通りに手術をすれば、急性虫垂炎で苦しむ患者の命を救うことできる。有無を言わさぬその事実に比べたら、虫垂の存在意義を理解してからじゃないと云々という若い医師の言い分なんてどうでもいいのだ。

とは言え、「そんなにうまい話があるわけがない。そんなにうまい話があれば、もう既に誰かが試みているはずだからだ」という理屈には、だいぶ説得力がある。この話はうまくできすぎているんじゃないかと疑うのは、理に適っている。他の人がこのこと(自分としては傑作だと感じる思い付き/うまみがあるように思える機会)に気付かなかったのには何か理由があるんじゃないかと詮索するのは、大事だ。その一方で、このことに気付きはしても徹底的に突き詰めてその良し悪しを調べ尽くした人はそんなにいないんじゃないかと疑ってみるのも大事だ。

謙虚さは美徳である。大抵は。しかしながら、謙虚さがその人のなすべき義務から目を逸らさせる働きをするようなら、美徳とは言えない。「誰か」が「それ」をやらねばならないとして、「それ」をやるのに適任の「誰か」というのが「自分自身」(「あなた自身」)なのはどんな時なのかを見極めるのは、大事なことだ。

「それ」をやらねばならない「誰か」というのが「自分自身」なのはどんな時か? 自分の人生がかかっている時というのが最も明白なケースだ。教え子の中で誰が成功しそうかを的確に見分けることができて我ながらよく驚いてしまうのだが、その秘訣というのは、成功を掴むために懸命に努力するのを厭わない人間かどうかを知りさえすればいいのだ。「私が成功するのはわかりきっています。だから、そんなに努力する必要なんてないんです」とでも言いたげに傍観者のように構えている学生には、明るい未来はやってこない。「誰か」が「それ」をやらねばならない。さもなければ、人生は開けない。この場合の「誰か」というのは、「学生自身」なのだ。

均衡パラドックスとドナルド・トランプ

ダニエル・ドレズナー(Daniel Drezner)がワシントン・ポスト紙に寄稿している論説―― “My very peculiar and speculative theory of why the GOP has not stopped Donald Trump”(「共和党がドナルド・トランプを止めに入らなかったのはなぜなのか:私が考える風変わりな仮説」)――を読んでいた最中に私の脳裏に浮かんでいたのは、「均衡パラドックス」のことだった。一部を引用しよう。

政治学者や世論調査の専門家たちは、予備選挙(大統領候補に指名されるための争い)で結果を出す候補と出せない候補の違いを明らかにするための説明、指標、理論をあれこれ捻り出している。例えば、『The Party Decides』は、大統領選挙キャンペーンについて政治学の分野で最も定評のある理論がまとめられている一冊だ。この本の中で展開されている理論は、近年の予備選挙の顛末をかなりうまく説明できるようだ。

トランプが共和党から出馬する意向を表明した昨年の夏の時点で、頭の切れる人であれば誰もが、自信を持って次のように予想したものだった。「トランプが予備選挙で勝利する(共和党の大統領候補に指名される)確率は、ほぼゼロに等しい」。支持基盤も弱ければ世評も頗(すこぶ)る悪かったからである。

・・・(中略)・・・

予想が外れたのは、なぜなのだろうか? その理由は、「トランプが勝つなんてあり得ない」と断言する専門家の分析を共和党の上層部も読んでいて、「トランプを止めるために、わざわざ手を尽くす必要もなかろう」と結論付けたせいじゃなかろうか? それが私なりの仮説だ。

「均衡パラドックス」そのものだ。ドレズナーも指摘しているように、「『誰か』がトランプを止めに入るだろう」と(共和党の上層部も含めて)誰もが考えたのだ。しかしながら、「誰か」が「それ」をやらねばならない。さもなければ、「それ」はなされないのだ。この場合の「誰か」は、かなり大勢の「誰かたち」でなければならなかっただろう。

トランプの躍進を「均衡パラドックス」の例と見なしているということは、トランプは次期大統領として好ましくないという意見なんだなと読者はお思いになるかもしれない。共和党を支持しているわけでもなければ、民主党を支持しているわけでもないし、(個別の政策について賛成したり反対したりはしても)できるだけ政治的に中立な立場を貫こうと努めてはいるが、候補者(政治家)一人ひとりについて何らかの意見を持つのは、どうしても避けられない。例えば、前回の大統領選挙の時には、(私の従兄弟にあたる)ミット・ロムニーについて思うところをぶちまけたし――こちらのエントリーなんかは、自分でもお気に入りだし、今でも読む価値はあると思う――、ヒラリー・クリントンについても2014年のエントリー〔拙訳はこちら〕で私見を述べたことがある。

トランプを次期大統領に選ぶというのは、「暗闇への大跳躍」を試みるようなものだというのが私の考えだ。というのも、トランプがあれやこれやの政策課題の多くについてどう語っているかというと、結局のところは「私を信頼しろ」としか言っていないからだ。「暗闇への大跳躍」がめでたい結果を招くことも時にはある。しかし、滅多にない! ともあれ、トランプが次期大統領になったとしても、「最悪の中の最善」が実現するかもしれないと一縷の望みをかけるくらいには楽天的だ。しかしながら、トラブルが待ち構えているかもしれない。予想外の出来事に驚かされる可能性というのは、いつだってあるのだ。

トランプが次期大統領になったら、移民政策の面で私がこちらのエントリーで述べたのとは真逆の措置が講じられる可能性は大いにある。それに加えて、高齢者向けの一連の措置に何の手も加えられずに現状がそのまま持ち越されて、世代間衡平に反する結果が招かれる可能性もある。その一方で、「トランプ大統領」は、コメディアンにとって(お笑いの格好のネタを提供する)天の恵みとなるかもしれない。ただし、「トランプ大統領」が自分をネタにしたコメディアンを訴えることができるように合衆国憲法の(言論の自由を保障する)修正第一条を書き換えようとしても、最高裁がその試みを封じることができればという条件付きでだ。

トランプがまんまと掬(すく)い上げた不満――アメリカ国民の間で渦巻いている不満――には、目を瞑らずにきちんと向き合うことが大事だ。このブログでこれまでに論じてきたような類の経済政策は、不満を抱えている層の境遇を改善するために大いに役立つ可能性を秘めている。誰かの利益のために、他の誰かを犠牲にしなくてもいいような「パレート改善」の余地は十分にあると信じている。誰もひどく害することなく、誰かの不満を和らげられるような「パレート改善」の余地は十分にあると信じている。そのためにできることは、たくさんあると信じている。こちらのエントリーの最終節(“Strengthening the case for freedom”)でも似たようなことを述べたのをふと思い出す。

「均衡パラドックス」に陥らないためには、「それ」をやらねばならない「誰か」というのが誰なのかを――自分以外の誰かなのか、「自分自身」(「あなた自身」)なのかを――その時々で一人ひとりが見極める必要がある。その見極めがうまくいかないようだと、「それ」はいつまでもなされないままになってしまうかもしれないのだ。

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