マイケル・ブライアン「ヤップ島のお金」(2004年2月1日)

Michael Bryan “Island MoneyFederal Reserve Bank of Cleveland, February 1, 2004

南太平洋のちいさな群島では,非常に驚きの「お金が」使われており,しばしばそれについて教室内の議論で言及される。本稿では,ヤップ島の石のお金について詳しく検討し,そうしたお金の特異な形態が私たち自身のお金について何を教えてくれるかについて問う。


同じくらい目を引くのはヤップ島の(略)土着のお金で,見かけは大きな石英の結晶のような石だ。(略)我々が知ったところによると,ある石は(略)直径3メートル超,重さ4.5トンある。こうした尋常ならざる石は所有者の家の前に置かれ,その人の重要性と富はその人が設置できる「ドル」の数によって表される。

J. R. ルハント「エスピーグル号報告書」1883年10月10日 [1]原注1;Gilliland (1975)

経済学者は自身の経済モデルを説明するのに,特定の選好と性質をもった島民が住む想像上の島におけるおおむね孤立した単純な市場での取引についての物語を語るのを好む。こうした「島の経済」は,経済学業界ではほとんど定番となっている。

本稿では,南太平洋のちいさな群島であるヤップ島のユニークで興味深いお金について考えることで,この寓話を根底から覆えすことにする。これはとても有用な頭の体操だ。なぜなら,私たちは自分たちのお金の本質についてすごく慎重に考えてみることをほとんどしない。お金は私たちの求めるところを果たしてくれるし,たいていの場合私たちがお金について知りたいのはそれだけだ。しかしお金をより深く理解するためには,私たちはお金が果たす役割についてもっと知っておく必要がある。そしてもっとよく知るための良い方法は,私たちの個人的な経験から遠く離れたお金について検討することだ。これによって次のような核心的な問題が浮かび上がってくる。すなわち,このお金が解決している問題とは何か,そしてどうしてこの特定の物体がその問題に対する良い解決策なのか,というものだ。ひとつの経済の重要な性質を描き出すために経済学者が使う理論上の島と同じように,ヤップ島の石は何がお金をお金とするのかについて理解するのを助けてくれる可能性がある。

固い通貨 [2]訳注;原文は”Hard … Continue reading
少なくとも今日に至るまでの数世紀において,ヤップ島民は特定の取引を行うのにライと呼ばれる巨大な丸い石を用いてきた。この石はかすかにきらめく石灰岩でできているが,これはヤップ島原産ではなく,基本的にヤップ島の南西約400kmにあるパラオ諸島から採掘・船輸される [3] … Continue reading

石の大きさは様々だ。ある石は直径5~10cm,重さ1~2kg程度だが,大きなものは直径3.5m超,重さ数トンにもなることがある(図1参照)。石の真ん中には穴があけられており,運ぶときは小さな石であればまとめてココナッツのロープを通し,大きな石の場合は丸太を挿して多くの男手が必要となる。

図1:ヤップ島の石のお金
ⓒJack Fields/CORBIS

新たな石を獲得するための探索は長の許可事項で,長は獲得された石のうち大きな石のすべてと小さな石の5分の2をもらうが,これは生産物の分配方法としてはかなり一般的なものらしく,ヤップ島民に対する税として機能していた。実際のところ,ヤップ島の長たちは島の中央銀行家として行動していた。すなわち,長たちは流通している石の量をコントロールした。19世紀後半に西洋の船が到来したあとでさえも,ヤップ島の長たちは島へ持ち込まれた石の数と分配に依然として大きな影響力を持っていた [4] … Continue reading

ライの採掘と輸送はヤップ島経済の主要部分だった。1882年,イギリスの自然学者であるジャン・S・クバリーは,400人のヤップ島の男たちが島に持ち帰るための石をパラオの島で生産しているのを見たと報告している。当時の島の人口に基づけば,島の成人男性の10%以上がお金の切り出し事業に従事していたと推測される。

重さと計測
興味深いことに,ライは価値を表す以外には何の特定の用途もないとされている。この石には機能はなく,その所有者にとっての宗教的な重要性もなく,ほとんどの人によればヤップ島民にとってはっきりとした装飾的価値も全くない。

ヤップ島の石にお金以外の用途が全くないというのが本当なら,これは多くの「原始的な」お金の形態とは異なることになる。たいていの場合,あるものが取引媒体となるのは,ときに内在的価値とも呼ばれるそのもの自体の商品価値が広く確立した後だ。内在的価値を欠いたヤップ島の石は,米ドルの意義を理解したいと望んでいる学生にとってとくに有用な研究対象となりうる。米ドルも結局のところお金の単位として以外に何ら価値はなく,経済学者からは「不換」通貨と呼ばれている。

それぞれの石の価値が正確にどのように決定されるかは,ちょっと不透明なところがある。大きさはせいぜいが価値のおおよその推定にしかならず,石の価値はそれを島へ持ち帰るための費用ないし困難さによって様々であったということは分かっている。たとえば,大きな危険,おそらくは命を落とす者すらいた中で得られた石は最も高い価値が付けられる。同様に,貝殻を使って切り出されてカヌーで運ばれた石は,鉄製の道具を使って大きな西洋の船で運ばれた同じようなサイズの石よりも高い価値を持つ。非常に高い価値を持つ石は名前を与えられた。ある長のために採掘された石であればその長の名前だったり,それを運んだカヌーの名前などだ。石の名付けは,そのような識別によってその石を獲得するために要したすべての費用を物語ることで,石の価値を確かにしていた可能性がある。

ヤップ島とパラオ島にあるお金の供給源を隔てる広大な海は,ヤップ島民がお金を拡大するのを制限し,それにより石の購買力の維持につながったとよく言われる。しかし,石の価値がその限界生産費用によって決定されるのであれば,海ではなくそのことが新たなお金を生み出すことによる利益(経済学者が「シニョレッジ」と呼ぶもの)を制限していただろう。

ジョージア州サバンナ出身のアイルランド系アメリカ人,デイビット・オキーフェの事例を考えてみよう。彼は19世紀末に船が難破してヤップ島にたどり着き,その後帆船でヤップ島へと戻ると,ヤップ島のコプラ(ヤシの果肉)と引き換えにするために多数の石を輸入した。オキーフェ(とそのほかの西洋の貿易業者)は,島へと持ち帰られる石の数と大きさを上昇させ,ある報告によれば1840年に「とても希少」だったヤップ島の石は,1929年には13,000個を超えるほど大量に見つかることとなった。貝殻製の道具とカヌーに制約されることがなくなり,島へ持ち込まれる最も大きな石は,直径1.2メートル程度から今やお金の逸話の一部ともなった巨大な3.7メートルの石にまで成長した。とはいえ,大量の石の流入が石の価値をインフレで吹き飛ばしてしまうことにはならなかった。オキーフェ船長の石は明らかにずっと簡単に手に入れられたものであったので,それよりもはるかに多大な費用を払って得られた古い石と比べて適切に割り引かれた価値で取引された。端的にいえば,オキーフェやその他の西洋人は,ヤップ島民が簡単に識別できる「劣化した」石を大量に持ち込んでいたのだ [5] … Continue reading

棒と石
ヤップ島の石がヤップ島民にとって価値があることは明らかであるものの,この石は本当にお金と呼べるのだろうか。その答えは,もちろんながらお金どのように定義するかに依る。標準的な教科書の定義に従うなら,お金をその機能の面で説明することになる。例えば「取引媒体,会計単位,価値の貯蔵手段として使われているあらゆるもの」というように [6]原注5;Lawrence S. Ritter and William L. Silber. 1989. Money, Banking, and Financial Markets, 6th edition. New York: Basic Books

たしかに,ヤップ島の石はこれらの機能のうち少なくともひとつをとても良く果たしている。石は効果的な価値の貯蔵手段だった(富の形態)。しかし債券から住宅まですべての資産は価値を貯蔵するものの,必ずしもお金とされているわけではない。お金と呼ばれるためには,少なくとも教科書の定義によれば,その資産はこれ以外のほかの2つの機能を提供しなければならない。お金は取引媒体,つまりはそれで簡単に物を買えるか負債の返済ができるものなければならず,その上会計単位ないし価値の尺度として使える何かでなければならない。

ヤップ島の石は,島における会計単位ではなかった。石によって物やサービスの価格付けを行うのは,平均的な島民にとっておそらく難しいことだっただろう。「ヤップ島の石」の膨大なセンチ数(もしくはキログラム数)で単純に物に価値を付けることはできなかった。基本的に石はその相対的な大きさではなくそれを島に持ち帰るのに要した費用で価値づけられており,その価値はそれぞれの石に固有のものだった。ポール・アインジグによれば,島における価格は食用作物の入った籠,タロイモ,シロップの入ったカップ,一般的な島民であれば簡単に評価できる必需品によって決定されていた。

さらに,ヤップ島の石が取引媒体として一般的に用いられていたかについてもいくつか疑問がある。交換において用いられるためには,その物は特定の性質を保持していなければならない。すなわち,それは貯蔵,持ち運びができ,識別することができて分割できるものでなければならない。確かに,石は貯蔵できる。石は今もヤップ島で豊富に見つかるし,時を通じてその購買力をよく保っている(特にドルを含めたそのほかの不換紙幣と比べて)。

そしてヤップ島の石は持ち運びやすさを欠いているために取引媒体として劣っていると時折主張されるものの,これは完全に的を射たものとはいえないかもしれない。大きく,より簡単に識別できる石の場合,購買力を移転するのに物理的な所有は必要ない。取引に関与した人が購買力が移転されたことを伝達するだけでいいのだ。そんなやり方はありえないと思うのであれば,ふつうの営業日におけるドル送金のほとんどは一切の物理的な移転なしに起こるということを思い出してほしい。電子的な支払いは価値ベースで見れば全てのドル送金の圧倒的な割合を占めているが,銀行間のバランスシートの調整しか必要としない。言い換えれば,購買力が移転されたという伝達だけが必要であり,ドル紙幣やその他一部のドルを物理的に示すものの実際の移転は必要ないのだ。

しかし貯蔵性と運搬性が取引媒体としてのヤップ島の石の使用を制限しなかったのかもしれないとしても,それ以外の2つの性質,すなわち識別性と分割性による制限はおそらくあった。石は主にヤップ島民の間での取引に用いられた。会計単位としてと同様,取引媒体として選ばれた物の機能は購買力を示すことにあり,人々がその物の価値をよく知っているなければ,その物は価値を示す役割をうまく果たすことができない。たとえば米ドルであれば,国際的に認識されており,ほとんど世界的に流通されるに至っている。実際,少なくとも半分,おそらくは70%程度のアメリカの通貨は現在国外で流通している。しかし,ヤップ島は歴史的にどのような貿易相手とも密接な文化的つながりを有さず,島外の人との貿易はそんなに滅多にはなかったため,こうした場合には石が取引を円滑にすることはなかった。ほかの島々と取引をするとき,ヤップ島民は織った敷物(南太平洋全体で一般的な取引媒体)を使い,西洋人との貿易ではココナッツがよく取引された。

島内においてさえ,石が分割できないためにほとんどの取引において取引媒体としてはそれ以外の物の使用が必要だった。ほとんどのライは高い価値が与えられていた。ある報告によれば,20世紀初頭において「3スパン」(約64センチ)の石で食料50籠もしくは完全に育ち切った豚1頭と十分に交換できたし,人間サイズの石は「たくさんの村々とプランテーション」の価値があった。間違いなく,これらの石が頻繁に所有者を変えることはなかった。そのような大量の支出は滅多にないからだ。もっと一般的な取引においては,ヤップ島民は真珠貝を使うか物々交換を行った。

ヤップ島の石が教科書のお金の定義にぴったりとあてはまらないのは明らかだ。しかし,おそらく重要な問題はヤップ島の石を教科書の定義に用いて正しくお金と呼ぶことができるかではなく,この石がどのような役割を果たし,その役割がドルの果たしている役割にどのように似ているかだ。

岩の記録
私が読んだ様々な報告が示唆するところは,この石,特により大きなものは,「贈り物」の対価として所有者を変え,標識として機能している。石はしばしばその贈り物のお返しがあるまで単に所有され,お返しがあった際には本来の所有者に返還される。例えば,誰かの水域で漁業をしたい島民がその対価として石を置いていくというものだ。適切な数の魚がその水域の所有者に贈られたのち,石は単に返還される。ある部族がライバル部族への対抗や行事への協力のためにほかの部族の助けを求めてきた場合など,時には石が「取引」されることもあった。しかし石が新たな部族の下にあるのは,お返しとして同様の価値の助けがなされるまででしかない。そうした場合に石は,島民間の貢献の記憶として機能する。人類学者はここで「贈り物経済」に言及する。そうした経済では物は取引よりも後々の同等の助けを期待した贈り物として贈られることのほうが多いとされる。

したがってヤップ島の石は島におけるある人の貢献の記憶として機能している。私たち自身のお金をよりよく理解するにあたって,このことがどのような役に立つだろうか。次のように考えてみてほしい。「貢献の記憶」は,私たちの経済でお金が果たす役割の良い説明である,と。特化と貿易による社会への経済的便益は,経済学者たちにはよく知られている。各人は自身の相対的な能力と欲求に基づいて,市場広場に「贈り物」を提供する。人々は,異なる能力と欲求を持つ他人が提供した贈り物を享受することを期待しつつこれを行う。しかし,私の貢献への見返りとして,他人の贈り物をどれだけ受け取ることを期待できるだろうか。お金のない世界では,物々交換のプロセスにおいて自分の提供物を受け入れ可能なほど高い水準で評価してくれる誰かを探すことに貴重な資源が費やされてしまう。この「捜索」費用は,私たちがお金と呼べる何かを導入することで引き下げることができる。これは他人の一般的な生産物に対する請求権以上のものではない。お金が解決する問題というのは,この場合,「必要性の二重の一致」に関する費用の引き下げだ。つまり,お金のおかげで,自分が十分に高く評価する物を持っていない人であっても,その人に他人の一般的な生産物に対する十分な請求権を提供する意思があれば,その人と取引を行うことが可能になる。

お金は誰かの生産と消費に関する社会の記憶を提供する,単なる伝達の道具であるという主張は,少なくとも17世紀の哲学者ロックにまで遡る。この考えは過去25年間で,スタンフォード大学のナラヤナ・コチャラコタをはじめとするお金の理論家たちによってさらに発展させられてきた。コチャラコタは,お金は社会に対する私たちの贈り物の他人とのバランスの軌跡を維持することを可能とする,どちらかと言えば粗雑な技術であると主張している。「お金は記憶である」というコチャラコタたちが正しいとすれば,なぜお金は何ら内在的価値を持つ必要がないのかは簡単に理解できる。不換通貨は商品と同じくらい効果的に取引の軌跡を維持しつつも,生産と貯蔵のための費用を少なくすることができるからだ。実際,この見方からすれば,すべての取引が費用無しで瞬間的に誰もが見られるように記録され,お金という考えが,少なくとも物理的な概念としては時代遅れなものとなる未来が予見されうる。

しかし,ここで面白い疑問が沸き上がる。ヤップ島の石が単なる標識であってそれ以上のものではないのであれば,どうしてヤップ島民はそんな多大な資源を費やして,それをパラオの山々から削り出して遠路はるばる自分の島まで持ち帰ったんだろうか。同じように使える標識はなかったんだろうか。それは,ヤップ島の長たちが物の価値を簡単に決定するに足る「信頼」を持っていなかったからかもしれない。つまり,ヤップ島民は価値を割り当てられた物が,その発行者の単なる利益のために簡単に複製されないという保証を必要したのかもしれない。

不換通貨の価値を保つにあたっての信頼性の重要さは,世界中の中央銀行が痛い目を見て学ぶことを強いられた。多大なシニョレッジの望みに動機づけられ,一部の中央銀行はお金を過剰に拡大したために,多くの場合において購買力はインフレでほとんど吹き飛んだ。中央銀行の信頼性の維持は,議会が連邦準備制度を財務省から独立し,政治的影響力から大部分自由な機関として設立した理由のひとつだ。この場合,お金の発行者はその生産から利益を得るインセンティブを持たない。同様に,一部の国では中央銀行にインフレ目標を課しているし,ほかの国はドル化,つまり国外で生産されたお金を自身のものとして採用している。実際,1986年にヤップ島はミクロネシア連邦と呼ばれるほかの島国と協調の上でアメリカとの自由連盟協定に加盟し,それによりドルを自分たちの法定通貨とした。したがってヤップ島は今やドル化した経済だ。それでも,巨大な石は今もヤップでの一部の取引に使われている。

石とドル
お金とは何だろうか。標準的な教科書の定義による機能と質のリストは,この問いの非常に深い理解にはつながらない。残念ながら,経済学者は私たちの経済におけるお金の役割について,いまだ一般的な合意には至っていない。こうした私たちの知識のギャップは,中央銀行家をやや不快にさせているに違いない。彼らは最適な「お金の」政策 [7]訳注;通常monetary policy=金融政策と訳出しているが,ここではmoney=お金に合わせて訳出した。 を形作るものについて考えているのだから。しかしこの重要な問いに答えが得られる日まで,私たちはほかの人たちがお金と呼びつつも,それがどのような問題を解決しており,なぜその特定の物体が問題に対する良い解決策となるのかについて考えざるを得なくなるよう,私たちの個人的な経験から離れた物について考えることで,お金に対するより良い理解を得ることができるのではないだろうか。ヤップ島の特筆すべき石のように。

あわせて読みたい
●Paul Einzig, 1948, Primitive Money in its Ethnological, Historical and Economic Aspects, London: Eyre & Spottiswoode.
●Cora Lee C. Gillilland, 1975, “The Stone Money of Yap: A Numismatic Survey,” Smithsonian Studies in History and Technology, Number 23. Washington, D.C.: Smithsonian Institution Press.
●Narayana Kocherlakota, 1998, “The Technological Role of Fiat Money,” Federal Reserve Bank of Minneapolis, Quarterly Review 22:3, pp. 2–10.
●Charles J. Opitz, 2000, An Ethnographic Study of Traditional Money, Ocala, Fl., First Impressions Printing.


Copyright: Federal Reserve Bank of Cleveland

References

References
1 原注1;Gilliland (1975)
2 訳注;原文は”Hard Currency”で,いわゆる「強い通貨」といった意味や「硬貨」といった意味があるが,ここでは石の通貨にひっかけていると思われるため,固い通貨と訳出した。
3 原注2;パラオの人々はしかしながら,取引に石ではなくビーズを使う。ビーズは多くの文化において一般的な取引媒体だが,このパラオのビーズが物語における興味深い(そして驚くほど見過ごされている)部分となっているのは,このビーズがパラオでは産出せず,おそらくはヤップから来たものだと一部の人類学者が考えている点だ。これが本当なら,2島はそれぞれが相手の島の「お金」の原産地であるのに,自身のお金の原産地ではなく,特異な共生関係となっている。
4 原注3;しかし南太平洋の西洋人は,近隣の島々に一定の支配を及ぼしていたヤップ島から西洋人とより頻繁に取引していたパラオへとパワーバランスを動かした。この権力の変動により,ヤップ島の長たちが謳歌していた徴税力の一部もパラオの王へと移動した。ある報告によれば,「パラオのコロール島の幅広い石畳の道はコロール島民によって建設されたのではなく,お金を生産するための採掘許可のための支払いとしてヤップ島が建設した。」(Gilliland 1975に掲載されているSenfft 1903による)
5 原注4;西洋の帆船の導入がこのちいさな島の経済を大きく拡大させ,急速な成長は価格の安定を保つために大量の「新しいお金」の流入を必要とした可能性も高いと思われる。
6 原注5;Lawrence S. Ritter and William L. Silber. 1989. Money, Banking, and Financial Markets, 6th edition. New York: Basic Books
7 訳注;通常monetary policy=金融政策と訳出しているが,ここではmoney=お金に合わせて訳出した。
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